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June 29, 2004

ヒトクローン胚作製容認について

先週の事件になるが、6月23日、総合科学技術会議の生命倫理専門調査会において、ヒトクローン胚作製を基礎的な研究に限り容認する方針を「強行採決」した。この事件について少し思うところをメモの形で書いておきたいと思う。

実は、この調査会には、僕の指導教官である島薗進先生が参加なさっているので、僕としても注目してきた(今回の採決に関して、島薗先生は反対の立場を取られている)。また、僕の大学時代のサークルの先輩も、医療社会学の立場から、この問題に関して深くコミットしており、僕は彼女からの「耳学問」で、色々な問題があることを教えてもらっている。島薗先生とその先輩が関わっているサイトからも色々教えてもらってもいるところだ。

ついでにいえば、人工生殖技術や脳死臓器移植問題、そしてこのクローン胚問題などの先端医療問題は全て、「人間はどこまでのことが(医療や幸福の名の下で)許されるか」という問題を突きつけているので、勢い「宗教的」な問題にスライドする傾向があると思う。これは宗教学者の僕の贔屓目ではなく、いくつかの教団は、それぞれの問題に対して教団としての声明を発表していたりする(大体がこのような先端医療に対しては「反対」「部分的に賛成」というような消極的な態度が多い。例外は「クローン技術」を積極的に教義に入れているラエリアンぐらいだ)。

まず、「強行採決」というまるで国会みたいな拙速さは誰の目にも「瑕疵」であるので、この点は問わない。問題はその内容である。
まずクローン胚のことから説明すると、これは卵子から核を取り除き、体細胞の核を埋め込むというもので、これはそのまま子宮に戻せば、体細胞提供者の「クローン」となるものである。それが細胞分裂を起こして、しばらくした段階が「万能細胞」即ち「ES細胞(embryonic stem cell)」と呼ばれるもので、様々な臓器に分化する直前の細胞である。つまり、この細胞を巧い具合に操作できれば、足りない臓器や損傷した臓器を補充できるということで、再生医療という分野で非常に期待がかかっているのだが(しかも遺伝的に拒絶反応の無い臓器が作れるわけだから夢のような話だ)、問題はその倫理性である。放っておけば「人」に育つ可能性がある細胞をある段階で「壊して」利用するというのが、ES細胞利用の根幹問題であり、これだけを聞くと「そんなことはやっちゃいけない」と感じる人も多いだろうが、問題はそれほど単純ではない。例えば、「それならば人工妊娠中絶はどうなのか」、という問題がすぐに立ち現れてくる。中絶は大丈夫で、ES細胞はダメという風には、なかなか言えまい。そこに一貫した「理由」を見出すのは困難であろう。逆に、「利用できるものは何でも利用してやれ」という考え方からは、中絶した胎児を使った実験やら、人工授精で余った受精卵(いわゆる余剰胚)の利用さえも冗談抜きで検討されたりもする(「どうせ捨ててしまうくらいなら、医学の進歩のために提供してくれ」という声に、どこまで抗えるだろう)。「人をどこまで利用して良いのか」という問題は、人間の尊厳とも関わって、我々の頭上に重くのしかかる問題だ。「ヒトがヒトを手段化するのに歯止めがきかなくなる。危険な一石だ」と島薗先生はおっしゃったらしいが、僕も同感。

今回の採決案では色々と条件や規制が織り込まれており、無秩序な生殖細胞の利用には繋がらない、とも言われているが、こういう問題は「最初の第一歩」が問題なのであって(まるでイラクへの自衛隊派遣のように)、その後は色々と理由付けがされて、結局なし崩しになる恐れがあると思う。

僕が思うに、この手の「先端医療」の一番の問題は、「金持ち」の欲望充足の医療となる可能性が大であるという点だと思う。実も蓋もないが、事実なのだから仕方がない。非常に不公平な医療だと思う。伝染病のワクチンが足りない、といっているような地域では、このような問題は起こりようがない。先進国だけの「贅沢」な悩みなのだ。
それと表裏一体の問題だが、経済力のない人が、自分の臓器や卵子を売る社会が出現してしまう恐れがある(もう一部は既にそのような社会は「実現」してしまっているのだが)。

そしてもう一つのやっかいな問題は、「幸福の追求」を他人が規制できるかどうか、という問題である。金をある程度持っている人が「俺の金を俺のために使って何が悪い」と開き直られては、こちらとしても何も言えなくなるだろう。臓器移植やES細胞利用はまだ問題が見えやすいが、様々な手段で「自分の子供(遺伝子的な意味での)」を持つことに一生懸命な人に「不自然だから止めなさいよ」と果たして言えるかどうか。そして遺伝子が操作できる時代には「デザインされた赤ちゃん」ということすら想定される(これは障害者問題と直結している)。

もう一つ、あまり男は考慮していないかも知れないが、卵子を取るための女性の負担という問題もある。ES細胞を作るのは簡単なことではなく、たくさん試してみて一つうまくいけば御の字、という技術レヴェルなのだそうだ(韓国における実験では、核移植のできるES細胞を一株つくるため に、242個の卵子が必要であったことが明らかになっているそうだ)。

こんな難しい問題には、判りやすい答えは出せないし、それを望んでもいけないだろう。ただ、自分に降りかかる可能性のある問題として考えざるを得ない時代に突入しているのだ、ということは自覚すべきであろう(妊娠中の健診で、羊水検査や血液検査などをさりげなく医者が勧める時代なのだ)。

(参考サイト)
中絶胎児組織の研究利用―アメリカでのモラトリアム時代(死亡胎児の利用をアメリカの事例を元に考察。信州大学玉井真理子氏)

「未受精卵」と「非受精卵」(上記同様、玉井真理子氏の解説)

生命倫理専門調査会(これまでの調査会での議事録などがpdfファイルで保存されている)

あすなひろしの単行本

僕がホームページ本体でもお薦め(というか賞賛)しているあすなひろしさんの短編集が、エンターブレインより発売になっています。端正な絵柄と、何かもの哀しいトーンのこの不世出の「天才(敢えて言い切ります)」の作品は、一人でも多くの方に見ていただきたいと思い、こうして推薦する次第です。

出版されたのは昔『週刊少年チャンピオン』に連載されていた『青い空を、白い雲がかけてった』と、今まで未収録だった短編を含めた『いつも春のよう』です。

aoisora.jpg  itsumoharu.jpg
(発売された2冊の表紙)

特に「大人」の方には、『いつも春のよう』の方をお薦めします。70年代後期の『ビッグコミックオリジナル』誌に掲載された叙情的な短編がたくさん収録されているからです。この本の帯に推薦文を寄せた糸井重里の「真っ昼間の悲しさ」というキャッチコピーがまさにぴったりです(さすが糸井さん、コピーの名手である事を再確認)。

June 24, 2004

カウンター設置と韓国人人質殺害事件

まずはお知らせから。
「このブログにも訪問者カウンターを付けたいなあ」と思い、その方法を色々探っていたのですが、結局無料のカウンターを一つお借りすることにしました。ニフティから借りられないかな、と思ったのですが、二つは取れないようなので(既にホームページ本体に使用していますから)、外部のある会社の一番シンプルなものを借りることにしました。まだカウンターは全然回っていませんが、本日付けたばかりですので、ご了承ください。

で、今日のお題は、やはりイラクで誘拐された韓国人が殺害されたというニュース。韓国では今この話題で持ちきりだそうだ(そりゃそうだろう)。僕も朝のワイドショーで、号泣して暴れまくるご家族の映像を見た。
何でも、この殺害された金鮮一さんは(僕とほぼ同い年だ!)、アラビア語を専攻していて、その能力を買われて向こうで働いていたとのこと。恐らく人質になってからも、犯人グループにアラビア語で話しかけたりしただろうが、そういうのも通じなかった、ということだ。アラビア語を喋れようが、犯人グループからは「アメリカの手先」と見なされて殺されてしまったわけだ。金さん自身がアラビアに対しどういう感情を持っていたかは知らないが、少なくとも中近東に好意はあっただろう。そういうことは一切顧慮されなかったというのは、かなり悲惨だ。日本や韓国でアラビア語を勉強する、という人間はまだまだ少数だ。そういう「架け橋」の最有力候補者ともいうべき人を殺してしまって・・・と僕などは思ってしまうが、これなどは典型的な「甘え」である事も判っている。向こう側に、極東の事情や個人的な事情を考慮してもらおうという発想自体が、「戦場」では考えられないことだろう。韓国の世論は、この事件を受けて「撤退派」と「強攻派」に二分されているのだそうだ。しかし、「甘い」といわれようが、僕は後者ではダメだと思う。まさにそれは悲惨な「連鎖」の第一歩になるだけだ。
あと気になる報道として、韓国政府は、金さんが拉致されたことなどを黙殺・隠蔽して(彼は大分前から拉致されていたらしい)、イラク追加派兵を決定したという疑惑があるそうな。もし本当なら、年金法案時の出生率後出し疑惑より酷いなあ(あの年金法案は、「一つ隠すのも二つ隠すのも同じだ」というようなモラルハザードは見え隠れしていた気がするが、それはともかく)。

日本の人質は幸い無事に解放されたが、本当に「他人事」ではない事件だと思う。
ともかく、金鮮一さんのご冥福をお祈りします。

June 23, 2004

CKB新譜

今日、クレイジーケンバンドのニューアルバム『Brown Metallic』がリリースされたので、早速自転車をとばして買いに行く。

うん、ある意味「安定」してきたのかな、というのが第一印象。突出して印象に残る曲というのがちょっとなかったのだが(ちと残念)、どの曲も「クレイジーケンワールド」しているなあ、という意味で「安定している」と思ったのだ。これから聞き込むと、また印象が変わってくるかも。

で、今回「おおっ」と思ったのは二つあって、一つはバッキング・ヴォーカルの菅原愛子ちゃんの成長ぶり。「成長ぶり」だなんて生意気いいますが、「あれ、この艶っぽい声は誰だ?」と思ったら、愛子ちゃんでした。彼女、たしか元ブティック店員で、今までもゲストで参加していたような記憶があるのだが・・・。
もう一つは、特典でもらったポスター。こんなのをくれるとは知らずびっくり。部屋に帰って広げてみると、脱力。こりゃ、剣さん、悪いけど部屋には貼れません(笑)。皆さんにお見せできないのが残念。思わず両手で拝んで「いいねッ!!」といいたくなる代物です。

June 22, 2004

Morrissey is back!!

今日は、久々の(何と7年ぶり!)ニューアルバムを出したモリッシーのことについて。

モリッシーといえば、僕の愛するセレッソ大阪の・・・ではなくて(彼は「モリシ」です)、The Smithsというイギリスのバンドの元ボーカリストです。僕は中学生から高校生の時期に掛けて(80年代後半ですね)、熱狂的にこのバンドを愛聴していました。ギターのジョニー・マーが奏でるメロディも好きでしたし、何よりも「思春期」真っ盛りの僕には、多少難解且つ皮肉で孤独で弱々しいけど、ある部分ふてぶてしく、そして美しいきらめきを持ったモリッシーの歌詞に惹かれたのです(『モリッシー詩集』という本があるくらい、曲から独立できる強さを持った詩なのです)。

その彼が、年齢にも負けず(笑)、メッセージ色の強い新アルバム「You are the Quarry(標的は君だ、という意味でしょうか。モリッシーもマシンガンを構えているし)」を出したというので、早速買って聞いてみました。

youarethequarry.jpg
(白人にしては、年を取らない方だよな、モリッシーって)

まず1曲目が「America is not the world」という、タイトルからして、皆さんも想像が付くようなアメリカ批判ソング。モリッシーはこの数年ロスに住んでいるんですがね・・・。このアルバムについているライナーノートを書いている人によれば、この曲は今流行のブッシュ批判とかではなく、もっと昔から、ずっと変わらないアメリカの現状についての怒りだ、なんて事を指摘しているんですが、僕も同感です。でもこの曲のラストでモリッシーは「僕は君(アメリカ)を愛している」と連呼します。その愛憎の混じり具合に、僕はモリッシーのある種の「誠実さ」を感じます。アンビヴァレンツを隠さない、という誠実さです。単なる批判で終わらせないところはさすがです。単なる「批判」や「悪口」は簡単です。それに否応なく巻き込まれたり、それに抗いがたい魅力を感じるからこそ、僕たちは「アメリカ」に対してのスタンスを決めかねているのですから。

2曲目が、「Irish Blood, English Heart」という、このアルバムを代表する曲です(シングルカットもされています)。モリッシーはアイルランドの血を引いているらしく(モリッシー家は、ダブリンの出自だとか)、この曲名にある通り、彼は「アイルランド人の血、イギリス人の心」という二つのもので構成された自分を見つめ、相変わらず(ザ・スミスの時と同様に)王室批判とかをやってくれています。The Smithsには『The Queen is dead』という名盤があるのですが(当然このタイトルは物議を醸しました)、この「Irish Blood, English Heart」を聞いた時、あのアルバムから20年経っても変わらないモリッシーのパンク魂に、マジに感動してしまいました。

「青臭さ」をそのまま維持するのは、よほどの努力と本人の「業」のようなものが必要だと僕は思うのですが、モリッシーはその両方を兼ね備えている人のようです(彼がゲイという性的マイノリティに属する、というのが大きな要素となっている気もしますが。彼は自らを「ゲイ」と公言したことはないのですが、公然の事実として認識されています)。

いやあ、モリッシー、年を重ねてもこういう事を言い続けているあなたを尊敬します!!
ホント、「軟弱男子(僕のような)」の輝ける星です。
他の曲も佳曲揃いです(僕はこのアルバムを貫く一種の「攻撃性」「批判性」に、久々にしびれました)。

June 21, 2004

台風直撃

今日、本州も台風6号で暴風雨圏に。

実は、今日の午前中はたまたま所用で京都に来ていた大学時代の旧友S君と京都駅で待ち合わせをして、コーヒーなどを飲みながら、数年ぶりの再開を祝し、色々紆余曲折のあった彼の人生を聴き、元同級生達の消息について語り合い、余り励ましにもならなかったと思うが、僕なりの「はなむけの言葉」を送った(つもり)。

昼ご飯まで一緒に語り、S君がいざ東京へ帰ろうとした時、台風の直撃で新幹線が止まっていたからさあ大変。
京都はちょうど昼過ぎから風雨が激しくなったのだが、山陽新幹線のことを失念していたのだ。もうすでにその辺りでストップがかかったのだろう。

ということで、途方に暮れていたら、改札口あたりでぶち切れているおっさんを発見。ひたすら「責任を取れ」「駅長を出せ」「なんとかしろ」だとか、色々言って駅員さんを困らせて、胴間声で周りを威圧しようとしていた。要するにやーさんっぽい感じのおっさんだった(少なくとも「●●銀行支店長」という感じのサラリーマンっぽい人ではなかった)。でも、天候のことなんだから、駅員さんの個人的努力ではどうしようもないこと。余りにも耳障りで見苦しかったので、「おじさん、そういっても仕方ないじゃないですか」と仲介に入ったら「なんじゃお前、関係あるのか、くらすぞこら」と博多弁(多分)で凄まれてしまいました。方言で凄まれたのは、久しぶりのような気が・・・(年がら年中、関西弁の環境にいるので、このあたりの感覚は普通麻痺しているんですが)。すぐに再び怒鳴られていた人の良さそうな駅員さんが仲に入ってくれて、それ以上のことはなかったけど、本当に大人げない人だったなあ。さすがに人目がありすぎるので(僕もそれを計算して仲介に入りましたが)おっさんも持っていたペットボトルを僕の眼前に突きつけるだけで止めましたが、数年ぶりに「殴られるかも知れない」という恐怖を味わいました。

でも、僕も反省をしました。
昔、内田樹先生のエッセイで読んだのですが(確か武道家の甲野先生のエピソードだったと思う)、変なやつにからまれた時のかわし方として「あなたのお母さんはお元気ですか?」とにこやかに切り出すと、相手は感情の持って行き場がなくなって呆然としてしまい、トラブルは避けられるとのこと。僕もこれを試せば良かった(笑)。フレンドリーに振る舞うことの重要さ、ですよね(ちと強引だけど)。こういう振る舞いがすっと出てこないんですから、まだまだ僕も「修行」が足りません(そんな「修行」なかなかできないけど)。
S君とちょうどコーヒーを飲みながら学者という人種が外の人間に対して「開いている人」か「閉じている人」かという、まるでキムタクのコマーシャルみたいな話題をしていたこともあり(研究と教育ということの両立についての話題でした)、あとでS君と、プリプリ怒りながらその場を立ち去る例のおっさんを指さして「ああいうのが、本当に閉じたやつだよね(あれに比べれば、僕たちは「開いた人間」だよね)」と言うことを話し合いました。一つ、強引に人生勉強をしたことにして、今日の不快なことは忘れようと思います。

でも、今日一番ショックだったのは、彼を見送ったあと苦労してびしょ濡れになって大学に来たら、午後の講義は台風で休講になったことです(規定だと、午前11時までに警報が解除されなければ休講なのです。すっかり失念していました)。折角来たのに・・・。今、びしょ濡れのズボンでこの日記を書いています。とほほ。

June 20, 2004

山中千尋は良い!

今日は久々にJUEGIA三条本店に行って、ジャズCDを物色。ここは京都の中でも一番ジャズやクラッシックに関して試聴コーナーが充実していて、お気に入りなのだ。

で、いつものように僕が好きなレーベル「澤野工房」の試聴をして、「ビンゴ!!」と思って買ったのが、山中千尋さん(p)の新作「Madrigal」だ。最初の2曲を聴いただけで叩きつけられるような衝撃を受けて、即購入決定。かっこいいです。これはトリオの作品。

yamanaka_m.jpg

もう一枚、同じく澤野工房の輸入したSophia Domancichの「pentacle」というのも購入。これはフランスの人らしいのだが、かっこいい。こっちは5人組。しぶーいおばさまソフィア・ドマンシッチさんが「いい顔」しています。

僕はジャズを系統立って集めるようなマニアではないが、何故かこの澤野工房がセレクトしたやつは琴線に触れることが多いんですよね。泣かせるメロウ気味のものが多いからかな。

June 18, 2004

「シルミド(実尾島)」感想

昨日、同僚のI先生に誘われて、今公開中の韓国映画「シルミド」を見に行きました。簡単にその感想を(ちょっとネタばれあり)。
見に行ったのは、郊外型シネコンの一つである「イオンシネマ久御山(くみやま)」。ここは大手スーパージャスコ(イオン)の上に映画館があるという形式のシネコンです。I先生の車で、レイトショーを見に行きました。

簡単にストーリーを説明すると、1960年代後半、南北朝鮮の対立が一番加熱していたころ、韓国においてある特殊部隊が組織され、過酷な訓練を施されます。その特殊部隊の名前は「684部隊(68年4月に結成されたから)」、そして命を落とさんばかりの訓練が行われたのが、インチョン沖に浮かぶ無人島の「シルミド」という島です。映画はここを舞台にしてストーリーが進んでいきます。
この特殊部隊の目的は、北朝鮮に潜入して、金日成の首を取ること、その一点に集中されます。というのも、1968年1月に、北朝鮮の特別工作隊が韓国の大統領官邸近くまで潜入するという衝撃的な事件が起きたので、その復讐戦を行うべく、684部隊が結成されます。そして隊員は、死刑囚などを中心としたいわば「ならず者」や(主人公達は死刑免除と引き替えにこの部隊に参加させられます)、一旗揚げようという民間人で構成されます。
作戦が成功すれば娑婆に戻れて、名誉も地位も金も手に入る、というのをモチベーションにして、過酷な訓練を3年ほど続けた隊員達は、韓国軍屈指の「殺人部隊」となります。
しかし、ここから事態は暗転します。政府は復讐戦を仕掛けるよりも、南北対話路線に政策を変更することを決定し、このような「殺人部隊」を訓練していたこと自体、非常に外聞が悪いと、この部隊を忌避し始めます。軍隊(シルミド)にも娑婆にも「戻る場所すらない」隊員達は自分たちを「育てた」国家に対して・・・。

と、ここまででストーリー紹介はストップしますが、まず映画自体、二時間ほどの長さの間、ほとんど間延びせず緊迫した作りになっていて良かったです。
主人公のソル・ギョングや、毎度韓国映画ではおなじみのアン・ソンギなど、上手い役者を揃えています。特にアン・ソンギは何をやっても様になるから凄いなあ、と毎回思います。
南北対立を中心にすえた軍事アクションは、まさに当事者たる韓国の独壇場なわけですが、この「シルミド」が一番リアルで男臭かったです。これまで見た映画では、「シュリ」は恋愛と「液体爆弾」というドラマチックすぎる小道具がありましたし、「JSA」は、我が愛しのイ・ヨンエ様が美しすぎる将校をやっていて(それは勿論この映画の清涼剤なのですが(笑))、リアリティという点では、この「シルミド」が一番だと思った次第です。

そしてこういう映画を単純に「面白い」ということにも、やはり躊躇いがあります。南北朝鮮の対立というのは、今現在も続いているわけですし、政府の都合でいいように扱われる軍隊(国民)というテーマは、それこそ普遍性を持ったテーマだと思います。
でも、感想を一言、といわれればやはり「面白かった。見て損はなかった」と答えます。韓国の恋愛ドラマばかりでなく、こういうハードなものも是非ご覧ください。

June 17, 2004

「愛国心」を盛り込むとは

タイトルでお判りのように、今日は教育基本法についてのメモ書き。

昨日の朝日新聞の夕刊によると、与党(自民・公明)は、今まで改正(改悪、といいたいところだが)案に「愛国心」という言葉を盛り込むか盛り込まないかで色々と揉めていたようだが、結局両党の意見を併記する事でけりを付けた、との中間報告が作成されたそうだ。
結局対立をうやむやにしてしまったとの印象は否めない。個人的には、「信教の自由」とか「思想・信条の自由」とかも絡めて、公明党にもうちょっと粘って欲しかったところだが、仕方がない。

結論から言うが、僕はこの改正(改悪)には反対。というのも、愛国心なんてものを測る尺度はそもそもないのだから。過剰な愛国心が何も生み出さず破壊的であった、というのは第二次世界大戦が教えてくれた教訓で、一番判りやすいものではなかったのか?それに、「尺度がないなら作ってしまえ」とばかりに、例えば「君が代をどれくらいの声量で歌っているか」を測るような、たわけた「尺度」が次々と「発明」されて、教育現場が無茶苦茶になると思うからでもある。一体、「愛国心」を基本法に盛り込んで何をしたいというのか、それが僕にはよく判らない。
それは、内田樹先生が東京都教育委員会の「日の丸・君が代」をめぐる大量処分事件について「あなたがたはこのような処分を敢行してまで、「何を」実現しようとされているのか?」と問うてらっしゃるが、ほぼ、その気持ちに近い。このような法律改正や処分は決して「愛国者」を産み出しはするまい。

でも、僕がこの改正に反対する最大の理由は、「愛国心」と「統治機構」を愛することを、自民党側はどうも意図的に混同している、という点である。例えば、僕は今の小泉首相は嫌いだが、日本という国を愛している自信がある。ナショナリズムと言うより、パトリオティズム(愛郷)が自分の中に存在することを、否定出来はしないというのが僕の実感である。でも、もしも僕が小学生や中学生だったとして、「愛国の見地からして、今の小泉首相は良くないと思います」と作文したら、恐らく10段階で5以下は免れないだろう。自分の子供がそういう悔し涙にくれることすら想像できる。

別に僕は教育の成果でも何でもなく、日本という国を愛していると思う。僕みたいなのを「愛国者」だと向こうさんが認めてくれないだけなのだが(笑)。まあ、20年以上前から、例えばジャーナリストの本多勝一氏などは「俺の方が愛国者」とか言っていたと思うが、その心情に近いかも知れない(こういう考え方を今一番露骨に出しているのは宮台真司さんだろうか?本多勝一の直系なんて言うと、宮台さんは嫌がるかも知れないけど)。

あと、改憲論者や、この教育基本法改正論者に共通しているのは、法律の文言を変えただけで社会ががらっと変わる(変えられる)という、根拠のない期待である(ついでに言うと、こういう彼等の多くが、歴史教科書を変えさえすれば、生徒の心根が変わる、と期待している単純さがあることも指摘しておこう)。
確かに、憲法も教育基本法も、その政体(政策)の根拠・骨格をなす法なのだから、それが変えられるとがらっと社会制度が変わることはあるだろう。それはそれで怖い。例えば憲法9条が変えられて(もう変えられつつあるが)、ばんばん外国に戦争しに行くような国になったり、基本法に「愛国心」が盛り込まれ、それにまつわる「授業」が新たに設置されるなどの事態は想定されるだろう。僕は法律の文言を変えることに因る「即効性」(改正論者が想定しているような)には、全く否定的だが、長い間(教育とは時間がかかるものだ)じわりじわりと効いて、取り返しがつかなくなる、というのが一番いやなので、「予防」として、今の改正には反対する。

それに愛国心を云々するよりも、教育にお金をある程度掛けて、30人学級を実現する方がどれだけ様々な問題に対して「現実的」か、と僕なら思う(憲法調査会で、小熊英二先生もそういっていたと記憶している)。

まとめるなら、イデオロギー的にも賛同しかねるし、現実問題としても実効性が薄そう(時間を掛ければ、そりゃ嫌でも効果は出てくるだろうが)な今回の改正案には、断固反対である。国を愛することなどは簡単なのだ。その国が誇るに足る国ならば。
ちょっと尻切れとんぼだが今日はここまで。

追記:夕刊を読むと、アメリカ大使館前でイラク戦争反対の「非暴力的」なデモをしていた人が、難癖を付けられて(としか僕には思えない)、警察にでも活動を阻まれているとのこと。「思いやり予算」ならぬ「思いやり警備」ですね。立川での反戦ビラまき逮捕事件の時も「日本はここまで来たか」と思いましたが、最早末期症状かも。こういう事件を見るに付け、与党(特に自民党)が語る「愛国心」の正体が透けて見えるような気がして、本当に気が滅入る。

June 14, 2004

「自宅出産」ブーム?

今日は午前中の講義がない日なので、遅くまで昨日の学会の疲れを癒すべく寝て、良い天気なので、この一週間ほどで貯まった洗濯物を処理する。

で、家事をしながらテレビを付けていたら、ワイドショーで面白い特集をしていた。それは、タイトルのように「自宅出産」の特集だった。この頃、病院でどんどん機械的に処理されるような出産を避けて、自宅で助産婦さんの力を借りて、夫や上の子供に見守られたりしつつ産みたい、という傾向が増加しているらしい。
実際、僕の友人で最近、自宅で夫と上の息子さんに見守られながら次男を産んだ研究者仲間(Kさん)もいて、彼女が「こんなに良いものなら、一人目も自宅で産むんだった」というメールをくれた。まあ、このワイドショーの特集も、その「成功例」ばかりを集めて放映しているので(当たり前だが)、ついつい「自宅出産って、自然で良いよなあ」というような気持ちにさせられる。でも、他の人の話によれば、やはり「難産だ」と判断され救急車送り、という事態も当然あるので、油断はできないとのこと(これまた当たり前だが)。
僕の高校時代からの友人のA君も、長男の出産に立ち会って(分娩室に入った、ということ)、ずっと付きっきりで、結構な難産で、最後は見守る彼の方が貧血を起こしてぶっ倒れてしまったらしいが(笑)、「めちゃめちゃ感動するで。お前等も子供が生まれる時は、付き添い出産しろ」とまだ子供のいない僕などにも「布教」してきたくらいだから、確かに感動的な場面ではあるのだろう。 

自然が一番、という思想は食や健康においてはある意味「メジャー」な価値観(一種のイデオロギー?)といっても良いかもしれない。さて、昨日まで僕は「宗教と社会」学会、という学会に出席していたが、そこでの発表でも、現代人の「緩やかな宗教性」といえば判りやすいと思うが、「スピリチュアリティ」という問題が盛んに論じられていた。「スピリチュアリティ」は簡単に定義できるようなものではないが、何となくその言葉を聞けば納得してしまいそうになる不思議な言葉だと思う。僕などは、今朝このワイドショーを見ていた時も「これも一種のスピリチュアリティかも知れないなあ」などと思ってしまうわけだ。玄米食にも、自宅出産にも、僕みたいな学者は、その当事者達がどう思っているかは知らないが、ついつい「スピリチュアリティ」なるものを、そこに見出してしまう。「分類・分析したがるのが学者の悪い癖であり、またそのようなカテゴリー化が一種の権力なのだ」なんて言われると実も蓋もなくなってしまい、それ以上議論できなくなるのだが、ちょっと考えさせられた。

June 13, 2004

「宗教と社会」学会終了!

昨日と今日の両日に渡って、万博公園横の大阪大学吹田キャンパスで、「宗教と社会」学会の第12回学術大会がおこなわれ、なんとか無事終了した。

昨日は昼から個人発表(1人一時間程度の発表が5連チャン)、今日はグループによるテーマセッションと盛りだくさんで、全く休む暇が無くて非常に疲弊した。僕の所属している学会で、最もタフな学術大会だと思う。はっきりいってボロボロです(今日は帰りの電車では爆睡してしまった。各停に乗っていて良かった)。

僕のゼミ生も数名来たが、恐らくボロボロだろう。よく耐えたね。偉い偉い。褒めてあげたい気分です。明日のゼミはちょっと手加減してあげよう(笑)。僕がその学生達を連れていると、昔からお世話になっている井上順孝先生(國學院大學)や他の仲間から「川瀬センセイ(言葉のニュアンスからして、カタカナ表記が相応しい)も偉くなったもんだねえ」とからかわれてしまった。学会では、昔の僕の情けない時代を知っている人と否応なく会うことになるので(そもそも学会はsociety、つまりは「社交」が第一義なのだ)、「川瀬センセイはちゃんと授業してるの?」とか聞かれて、学生も僕の顔色をうかがってホントのことが言えない、ということになる(ホントのことをいうとあとが怖いからね)。

さて、僕自身は(さぼって)発表はしなかったのだが、研究者仲間と立ち上げた研究会で、テーマセッションを一つ組み(「近代日本の<仏教>概念の生成と変容」というテーマセッション)、その司会者を仰せつかった。我々スタッフの思った以上にオーディエンスが来場してくださり、なんとか成功といった感じで終われて一安心。発表者・コメンテーターの皆さん(大谷さん、岡田さん、福島さん、土居さん、林先生、藤井先生)、お疲れさまでした。不行き届きな司会で申し訳なかったです(疲れ果てていて、ちょっとしどろもどろになったときがあったので・・・)。

一つ学会とは関係ないけど驚いたことを。僕は昨日某ホテルチェーンを利用していたのだが、そのホテルチェーンの社長さんは、内観(吉本伊信という人が始めた、ちょっと宗教的な心理療法、自己修養の運動)の信奉者らしく、ホテルによく備え付けられている聖書の横に「内観」の本が置いてあったのでビックリした。恐らく社員研究とかでも使っていそうだなあ・・・。内観については、インターネット上でも様々な情報があります(試しにgoogleで引いてみてください)。僕は昔、恩師の島薗先生の授業で習って以来気にしているのですが、ちゃんとは調べていません。そういうところにすぐ目がいっちゃうところが、宗教学者の悲しい性です。

今日はこれから泥のように寝る予定。お休みなさい。

June 11, 2004

『のだめカンタービレ』第9巻発売!

今、一番心待ちにしているマンガの一つ、二ノ宮知子先生の『のだめカンタービレ』の最新刊が発売になりました。早速人の少ない午前中の書店に行って購入。

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(今回はトランペットだ。)

既に読んでいる方はお判りのように、爆笑必至の音大コメディです。
読んで損はさせません。お奨めです。ストーリー紹介は、すると野暮になるので、敢えて省略させてもらいます。特にギャグの説明は不可能ですし・・・。

あっという間に読了してしまった・・・。
さあ、明日と明後日は、「宗教と社会」学会という学会が大阪大学であります。僕も参加します。今から、その下準備をする予定です。『のだめ』で少し元気をもらったし。

June 10, 2004

それなりの国民からそれなりの議員

何でも、小泉首相は、憲法や、弥縫策として作った(はずの)イラク特措法まで無視して(敢えて「無視して」という言葉を使う)、多国籍軍に協力する旨を高らかに述べて、ブッシュさんのご機嫌を買ったようだ。ここまで来ると、怒りを通り越して、情けなさに涙がこぼれる。

最近の宮台真司さん的な言葉遣いで言えば、まさに全て言いなりの国辱外交だと思う。アメリカのなす事全てを肯定さえしていればいいというのであれば、そりゃ考えなくても良いから、楽だろうと思う。でも、例えばアメリカの大統領選で政権交代が起き(僕自身はAnyone But Bush ブッシュ以外なら誰でも、と思っている一人であるが)、アメリカの政策が急反転したら、その時の日本はどうするのか。哀しいけど、結果は分かり切っている。なんだかんだ理由を付けて、アメリカが撤退すればそれに従って撤退を決定するだけだろう。本当に「国際貢献」だとか、偉そうなことを言うなら、「アメリカが撤退したとしたら」、という想像力を働かせることも、たまには必要なのではないか?

さて、年金法案も、あんな「未納騒ぎ」という茶番を演じた与党を野党が追いつめることができず(責める側にミスがあればそれが命取りになる、というのは辻元清美さんの時、嫌ほど味わったではないか)、恐らく年金制度を真剣に考えもしなかった議員が賛成票を入れて法案は成立してしまった。
イラク特措法の時と同じような虚しさを感じる。
僕は、敢えて恥ずかしいほどまっすぐな言葉を用いたいと思う。こんな「不誠実」は許したくない、と。
北海道大学の山口二郎教授が言うように、僕は国会議員の年金未納は、脱税に等しい行為だと思う。制度の欠陥とか何かで、例えば大臣になっていた数ヶ月間は未納というのはまだしも、長年にわたって払わなかった人物が「給付がもらえなくなるだけなんですから」と開き直ったり、首相に至っては「人生色々、会社も色々」と島倉千代子みたいな、まさに人をおちょくったとしか思えない言辞を弄する。僕はこの言葉を聞いて、本当に小泉さんという人は「不誠実な人だ」という印象を持った。

でも、一番僕が情けなくなるのは、この程度の議員、この程度の首相を選んだのは、紛れもなく今の日本人だという冷厳たる事実である。強制されたわけでもなく、民主主義な選挙で彼等を選んでいるのだ(ヒトラーも選挙で選ばれている、という歴史の一コマをここで思い出すのも無意味ではないだろう)。それなりの国民にそれなりの議員が選ばれるのは、理の必然。自分を棚に上げるつもりは毛頭ないが、今、世界から見た日本というのがどれだけ情けなく映っているか、というのを想像すると、いたたまれなくなる。特に、韓国を多少なりとも研究して、韓国人の知り合いも少なくない僕は、ここ数年、いつも小泉さんにいたたまれない気持ちにさせられている。

今日は腹立ち日記でした。

June 09, 2004

冷房について

本格的に夏めいてきた今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

梅雨に入ったのか、天気もぐずついたりしています。でも、最近は、特に都会ではまるで熱帯のスコールのような夕立が多く見られるので、地球温暖化の心配をまずしてしまいます。

さて、お店にも冷房が入る季節になりましたが、僕の勤め先、つまり大学はまだです。少なからぬ学生はもう文句をぶーぶー言っています。うちの大学は冷暖房とも「何月何日から何月何日まで」というのがきっちりと決まっており(しかもある時間になるとかっちり切れるので、消し忘れがありません)、冷房が入るのはもうちょっと先のことです。中央でコントロールしているので、各教室のスイッチを入れても無効なんですよね。
僕は比較的暑さには強い方なので、まだ大丈夫ですが、学生の中には、暑い講義室、寒い喫茶店、不安定な天気などにやられて、風邪を引いたり寝込んだりするのが目立ちます。

で、ここからは、ちょっとした自慢なのですが、僕の自宅にはエアコンがありません。ですから、夏に京都の僕の自宅には遊びに来ないことをお奨めします(笑)。
「地獄のようだ」と形容される京都の夏を二回、クーラー無しで乗り切ったのです。これはちょっとした自慢になるでしょう。さすがに扇風機はありますが。
僕の実感だと、そのせいかいわゆる「夏風邪」は引かなくなりましたし、汗をかきまくって代謝が良くなったのか、夏ばてもそうひどくはありません(そりゃ、暑さで食欲がなくなるというのはありますが、倒れるほどではない、ということです)。
これからどんどん暑くなりますが、今年もどれだけ頑張れるか、試してみるつもりです。
でも、僕が思うに、基本的に企業も社会の色んな現場の冷房は効きすぎ。クーラー病防止の為にカーディガンなんて、やはりばかげていると思います。僕のやっている「なんちゃってエコロジー運動」って、結局のこの「反冷房」くらいなんですけどね・・・。

June 07, 2004

愛される理由

6月3日付の日記で、森薫さんの『エマ』というメイドさんマンガにはまっていることをカミングアウト(笑)しましたが、それに引きつけて、ちょっと思いついたことをメモしておこうと思います。

書店のコミックコーナーや、ゲームソフト売り場に行くと目立つのが、いわゆる「メイドさん」やら「」という設定の作品群です。コスプレのネタとしてメイドは既にメジャーなものですし(東急ハンズのパーティーグッズコーナーとかにもあるでしょう)、「妹」という設定は、マンガでもいわゆるギャルゲー(エロ含む)でも山のように利用されています。

オタクの世界では、そういう設定に萌えることを「属性」と呼ぶようですが、「メイドさん」と「妹」という設定には、必ず、その相手たる「ご主人様」と「お兄ちゃん」がいるわけです。当たり前ですが。そして消費者は当然その「ご主人様」や「お兄ちゃん」に感情移入してそのマンガなりゲームなりを愉しんでいるのだと思います(メイドや妹にシンクロする人もいるでしょうが、それはとりあえず措きます。調教するご主人様と調教されるメイドに同時に感情移入する、というような離れ業だって、その筋の人は出来るでしょうけど)。

で、このことをつらつら考えるに、「ご主人様」とか「お兄ちゃん」というのは、言い方は悪いですが、本人の努力や素質とは余り関係なく最初から優位に立てる、言い換えれば「愛される」可能性がとりあえずはある、という美味しいポジションです。このように「最初から優位に立つ」設定が好まれる、というのは、非常にオタクのメンタリティを徴候的に現しているのではないか、と思ったわけです。
「努力せずに愛される」という体験は、精神分析っぽくいえば母親との第一次的なアタッチメントにその起源が求められるでしょう。でも、単にマザコンに回帰するのではなく、優位な立場のご主人様やお兄ちゃんへと自分自身を変換する、ということが行われているということになるのかな・・・などととりとめもなく考えてしまいました。

さて、少年マンガにありがちですが、「黒一点」というか、女の子に囲まれ、彼女たちがみんな主人公の少年のことが好き、という設定は手を換え品を換え今までにいくらでも描かれてきました(少女マンガにおいても、主人公の女の子が周りの美形全員から好意を寄せられる、という設定が山ほどあるのはご存じの通りですが)。
複数の「メイド」に囲まれるだとか、山ほど色んなバリエーションの「妹」に囲まれるとか、そういうオタク好みの設定も、これの一つのバリエーションと見なせるのかも知れませんが、東浩紀君が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)で言うように、その設定の微細な差異こそが大事なんだ(「萌え」のポイントこそが大事で、物語は二の次)、ということになると、やはりちょっと違ってくると思います。「俺はメイドや妹との緩い関係よりも、猫耳が良いのだ」とかいわれると僕の想定外ですが(笑)、僕が勝手にオタクの萌え属性の最大勢力の一つと見なしている(笑)「メイド」や「妹」は、どうしてもその陰に弱々しいもの(逆に言えば強くあらねばならない、という脅迫的な「男の子」のあり方)を感じてしまいます。まあ、ポルノグラフィそのものが、男の不安から生じているのだ、という言い方もできるでしょうけど。

こんな風に分析すると気を悪くするオタク諸兄がいるであろう事は予想できますが、イデオロギー分析をついついしてしまうのは学者の性(さが)です。お許しを。こんなことを言っている僕も、その濃さはともかくとして、オタク文化とは無縁な人間では勿論ありません。
中途半端ですが、とりあえずこうしてメモしておきます。

June 05, 2004

「プロミス」感想

今日も先週に引き続き、学生数名とイスラエル問題の映画上映会に行ってきました。たまたまそういう映画の上演が続いただけなのですが。

今日見た映画は「プロミス(原題はPromises)」というもので、上映場所は、メトロというクラブです(京阪丸太町駅に隣接している)。こういうイヴェントをする文化は、京都の学生街にまだ残っているんですね。意を強くしました。

この映画は、簡単に言えば、イスラエルとパレスティナの少年少女が「対話」するまでを追ったドキュメンタリーです。似たような試みを、NHKスペシャルで見たことがありますが、NHKスペシャルは、もうちょっと年齢層が高かったです(テロの遺族が中心でした)。
今回の映画は、下は8歳から上もローティーンまでで、「子供」は「嘘」をつけない人を指すのであれば、まさに「子供」の本音が満載の映画でした。彼等は言葉を余り飾らずに「話し合ったってしょうがないよ」とか「イスラエルは神に与えられた土地なのだから、一人残らずアラブ人は追い出してやる」だとか「積極的に友人になろうだなんて思えない」など、直截的な言葉が目白押しでした。映画はそんな子供達を数年に渡って追いかけ、彼等が少しずつ大人になって行くに連れての微妙な変化も余さず記録していました。ここがこの映画の大きなポイントの一つだと思います。

この映画で強調されているのは、イスラエル側、もしくはパレスティナ側の「多様性」です。「追い出せ」「殺せ」という人から「話し合わなければならない」という意見まで様々です。特に、「追い出せ」「殺せ」なんて思っているのはごく一部なのです。
イスラエル側でも、「超正統派」と呼ばれる一派(ひげやもみあげを伸ばし、黒い帽子をかぶって「嘆きの壁」で祈りを捧げるようなグループ)は、他のイスラエル人からも、一種特別扱いされていることなどを僕はこの映画で知りました(例えば超正統派の子供は徴兵の代わりに神学校に行くだとか。世俗的な家庭で育ったユダヤ人の子供は彼等の様子を見て「アラブ人より怖いかも」なんて言うのですから、内部の多様性、下手をすれば乖離は結構深刻です)。

この映画で印象的な箇所はいくつもあるのですが、思い出すままに羅列すると、

1)入植地のかたくなな子供
ヨルダン川西岸の入植地(ベイト・エル)に移住したイスラエル人の子供がいるのですが、彼は非常に保守的な信仰の家庭で育てられており(ほとんど超正統派。安息日の過ごし方など、日本人からすればびっくりさせられます)、インタビューの際にはトーラー(律法)の巻物まで引き出して、「この土地は神がアブラハムにくださったものだから、僕たちユダヤ人のものだ」などというのです。彼は「軍の司令官になりたい」「アラブ人は全員ここから追い出す」「流れ弾が外に出ても、そこにいるのはアラブ人だから関係ないさ」などといっていたのですが、数年後の彼は、エピローグで、ほんの少しですが「アラブ人達と向き合わないことには平和は来ない。まあ、それは大人のやる仕事で、今の僕にはできないけど」というようなことを言っていました。この、ほんの僅かな歩み寄りが大事なのだろうと、印象に残りました(まあ、それでも彼は典型的な右派ユダヤの考えかたは保持したままなんですが。友人をテロでなくしていることも、彼のかたくなさに手を貸している、という個人的事情もありますが)。

2)孫に「神様はいるって本当に信じているの?」と聞かれて困る祖父
この映画の中心人物である双子の兄弟ダニエルとヤルコの祖父が、上記の質問をされて、非常に困った顔をしていたのが印象的でした。この祖父は、ポーランドからホロコーストを逃れてイスラエルに移住してきた人らしく、まさに「神も仏もない」地獄からの生還者なわけで、そんな人が素直に「神の存在」を信じたりする事は困難でしょう。お祖父さんは「でもこうしてわしが生き残れた、というのも神様のご意志かも知れんよ」などと言って孫の追及をかわそうとしていました。この家庭はイスラエルの中でも比較的世俗的な家庭らしく(嘆きの壁の光景をこの兄弟は怖がっていました)、イスラエルの多様性をこのシーンで知りました。

3)パレスティナ少年の涙
この映画のクライマックスなので、ちょっとネタばれ気味ですが、この映画の中心人物の一人に、ファラジというパレスティナの少年がいます。彼は親友をイスラエル兵に撃ち殺されたり、自身もキャンプ生まれのキャンプ育ちという、典型的な反イスラエル感情を持つ少年です。この映画の監督で、ユダヤ系アメリカ人であるB.Z.ゴールドバーグの仲介によって、この少年達と、上記の双子の兄弟の対面が叶うのですが、一日一緒に遊んだ後彼は泣きます。「(アメリカ人である)B.Z.が帰っちゃったら、僕たちの間を取り持つ人間はいなくなり、友達になったこともすぐに忘れてしまうんだ」と。ファラジの涙は当然感動的なわけですが、それ以上に考えさせられたのは、「仲介者」という存在です。双方の事情に通じ、双方に意見を言える存在(監督のゴールドバーグは、ヘブライ語もアラビア語もできる人物です。この点は大きい)。「仲介者」という役目を、果たしてどんな人が担えるのか、と思うと考えさせられてしまいます。

4)パレスティナの少女
サナベルという少女がでているのですが、彼女の父親は、裁判もなしでイスラエルの刑務所に拘留されており(パレスティナ解放人民戦線(PFLP)のメンバーだから)、母や姉と共にいつも手紙を送ったり、面会に行ったりしています(映画撮影終了後、彼女の父親は釈放されたそうですが)。
彼女はパレスティナの伝統の舞踊を学ぶグループに所属したりして「民族意識」を常にいわば「身につけるような環境」にいるのですが、そんな彼女が「イスラエル人の男の子とお話ししましょう」と柔軟な姿勢を見せるのです。そこにも感動してしまいました。


車で20分足らずの距離なのに、「検問所」のせいで、絶望的なまでに隔てられている二つのグループ。通学のバスに乗るたびに、テロを恐れなければならない現実。しかし、双方とも、そんな事態にはうんざりしています。そのうんざり感を良い方向に持っていけないものでしょうか。

この映画のタイトル「約束」は何の約束かはよく判りませんが、この映画に出てきた少年少女が「将来再び対話する約束」なら良いな、と思いました。本当の「Promised Land」は、その「約束」が果たされた後にやってくるものなのでしょうから。

追記:先程アマゾンでこの映画のDVDを購入してしまいました。

June 04, 2004

「言説」という言葉の難しさ

このところ、柔らかい話題ばかりだったので、今日は少し学問的なことを。

今日、立命館大学のほうで研究会があり、そのお知らせをもらっていたので出席させていただいた。
その研究会は「井上哲次郎研究会」というもので、文学部の桂島宣弘先生が主催なさっているもの(桂島先生とは旧知の仲)。井上といえば、明治期を代表する哲学者且つ国家主義のイデオローグ、というイメージが支配的だが、今日の発表者は最近井上に関する研究をされている磯前順一先生(日本女子大)。実は磯前先生にも、僕は昔からお世話になっている。というのも、僕が東大の宗教学研究室に入ったとき、磯前先生は研究室の助手をなさっていたのだ。今からもう12年も前!指折り数えてクラクラ来てしまった。あの時、磯前先生の薫陶を受ける事が出来るところに居ながら、それが果たせなかった自分を恥じつつ、研究会に参加した。

磯前先生は、井上を含む明治・大正期の学者の「言説」がどのようにして形成され、それがその後いかに学知を形成し、再生産されていったかを追った労作『近代日本の宗教言説とその系譜』(岩波書店、2003)を書かれた方で、当然僕はこの書を読んで非常に感銘を受けた。
今日の発表もこの本の延長だったわけだが、去年イギリスに滞在されていた磯前先生が、その時の体験から、一層その思索を深め、どんな学問分野(主に人文系だが)にも通じる問題意識を提起されていた。僕の乏しい頭でそれを要約するのはほぼ不可能だが、フーコー、サイード以降の「言説」をめぐる学問のいわば「隘路」を意識した問題提起であったとまとめる事が出来ると思う。今日の研究会に即して言えば、単なる「イデオロギー批判」に終わらない井上批判というのはどのような形で可能かという問題と、とりあえずは言い換えることが出来るかと思う。

僕も、例えば戦前の宗教人や学者の「言説」を分析して、「この時代、あの人たちはこんな事をいっていましたよ。いかにもイデオロギーやら人種差別感まるだしですねえ」といった類の、いわば「イデオロギー暴露」を良くやっているわけだが、実は、その先には何があるのか、というのは僕なども良くわかっていなかったりする。暗に、「歴史の外部」に立って(立ったつもりになって)、鳥瞰的な視座を手に入れた、と半ば錯覚して物を言っているに過ぎないのではないか、という疑念は、ずっと付きまとう。その辺りの微妙な問題が今日の発表の主題だと僕は理解した(間違っていたらすみません)。そして、「言われなかった事」「言われている事からはみ出るもの」、すなわち「残余」だとか「余白」と呼びうる領域が存在するのは論をまたないだろう。そしてその「残余」の扱いも要注意なのだ。例えば「西洋的」な学知では捉えきれない何かを持ってきて「これこそが日本の魂なのだ」というように、「残余」をauthenticなものにしてしまった、という苦い経験(今現在もあるのだが)をわれわれは知っている。

「伝統の発明(創造)」やら「想像の共同体」という決まり文句が人口に膾炙すればするほど、そこで議論は終わり、という例が最近とみに目立たないだろうか?(一時期、『●●の発明(発見)』といったタイトルの本が良く出版されていた。今もされているけど)磯前先生は、「その先」に行くにはどうすればいいのか、ということを、比喩的どころか本当に「足元を切り崩すようなやり方で」考えているのだ、という印象を受けた。そこに、一応「言説分析」の末席を汚している僕などは感銘を受けたのだ。

「言説」という言葉を僕などは本当に安易に使っているが、そのことも含めて反省させられた今日のご発表だった。

June 03, 2004

「萌え」なのか?

昨日、いつもお世話になっている大○書店で、あるマンガを一気に全部「大人買い」(よく考えれば、「大人買い」ほど大人げない行為も少ないなあ、などと思いつつ)。その際、大学まで良く注文を取りに来てくれる外回りの方にその姿を見られ、恥ずかしさ倍増(笑)。

そのマンガは、僕の友人が「凄くお奨め」とプッシュしてくれた森薫さんの「エマ」というメイドさんマンガです(現在4巻まで)。

僕はいわゆる「萌え」要素として、「メイドさん」属性やら「眼鏡っ子」属性はないと思うのですが(笑)、前々から何となく気になっていたので買ってしまったのでした。
ストーリーは、ある意味非常に古典的。舞台はヴィクトリア朝のイギリス。メイドのエマと、上流階級のウィリアムの身分を越えた恋愛劇です。森さんの上品な絵がその古典的な物語にマッチしており、ぐいぐい読んでしまいました。こんな古典的な話に夢中になってしまったとは、「冬のソナタ」に夢中になっている人をバカにできなくなりました(笑)。

僕は東浩紀君(大学の同期生だから、ついつい君付けで呼んじゃう。会ったのは一回だけだが)の言うような、キャラクターのある属性に対して「動物的」に萌える、というオタクのあり方とはちょっと違うと自分では思っていますし(「お前はそういう奴だよ」と断定されれば、仕方ないかも知れませんが)、このマンガ以外のメイドやら眼鏡っ子に反射的に心が動く、ということはこれからも恐らくないでしょうけど、作者の森さんは自ら「そういう趣味」であると大っぴらにカミングアウトしているわけで、そういう物語に反応してしまうレセプター(受け皿)が、僕の内部にあったというのは単純な驚きでした。その驚きをこうして書き留めておきたいと思います。

June 02, 2004

問題作だ、こりゃ

一昨日買って、なかなか読む時間がなかった吉野朔実先生の新作『period 1』(小学館)ですが、こりゃ問題作ですわ。昨晩お風呂上がりに読んで、背筋がぞっとしました。今までで読んだ吉野作品でも一二を争う「痛さ」です。そのあと「ぷっすま」を見て、精神の均衡を保とうとしたほどです(笑)。まあ、昔からの「ぷっすま」ファンなんですけどね(深夜番組ならではのぐだぐだ感が堪らないです)。それはさておき。

簡単に言うと幼児虐待の話です(これだけで気持ちも血の気も引く人がいると思いますが)。父親から虐待されている兄と弟の二人兄弟。そこに乗り込んでくる叔父夫婦、担任の教師など、誰もがどこかで歪んでいて、その歪みによって「世界」との軋轢を回避している様が非常に印象的です。
名作になる予感。繰り返し読むにはつらい作品ですが。要注目。

June 01, 2004

膝を打った言葉達

今日は、僕が毎月買っている関西に関する情報誌『Meets Regional』の発売日だった。
関西生まれとは言え、青春時代(笑)をほとんど東京で過ごした僕は、関西の盛り場などにはとんと疎い。そこで、多少は「勉強」せねばと、この情報誌を京都に来て以来毎月購入している。連載陣に、僕が日頃そのブログを読んで尊敬している内田樹先生などがいることも購入の理由だが。
連載の一つに、放送作家の町山広美氏と、マンガ家の松田洋子氏の対談(「花のサンキュー組」という対談)があり(この「意地悪」な二人の対談だから、その毒の程度は想像が付くだろう)、その中で膝を打つ言葉がいくつかあった。今回のお題は「判定(ジャッジ)」なのだが、二人は、イラク人質事件での世論や、某若手芸人の「間違いない!」とか「私だけ?」というネタをもとに、この頃世にはびこる「何でもかんでもジャッジしたがる傾向」を鋭く衝き、「ネットは内弁慶が気楽にジャッジできる世界」だとか「嫉妬しているとジャッジに力が入る」とか「自分でジャッジしているつもりになって安全圏にいて、「世論はこうです」そして「世論に荷担します」ってのが一番ラクチンで鬱憤が晴れて気持ちいい娯楽になるんだよ」とか、思わず赤ペンで○を付けたくなるような鋭い見解があって読み応えばっちりでした。

さて、昨日から、このブログのサイドに、僕自身、よく見に行くお気に入りのブログの一覧を貼り付けているのだが、今日たまたま見つけた「先見日記」というサイトでは(早速一覧に付け加えました)、作家の片岡義男氏が連載を持っていて、非常にクリアカットな論評を書いており、特に憲法問題についての日記には非常に頷くところがあった。引用すると、

 

日本政府がやろうとしている憲法の改正は、あっさりと実現するだろう。そして新しい憲法は、その字面だけをぼんやりと読んでいるかぎりでは、たいそう立派なものとなる可能性は高い。

 改正の理由として、一般的に言ってもっとも説得力があるのは、現行憲法はいまそしてこれからの日本を取り巻く現実に合致しなくなったから、というものだ。この憲法では現実に対応出来ないから改正する。というわけだ。現実に合わなくなったものの典型として、掲げやすいものの代表が、第9条だろう。

 日本は憲法を改正して現実のあとを追う国になる。新たな現実は次々に立ちあらわれる。だから日本は次々に現実を追う国になる。次々に現実を追えば、現実に引きずられる国になるにきまっている。憲法を改正した日本は、現実に引きずりまわされる国となる。

 いまの憲法は占領軍としてのアメリカに押しつけられたものだ、という言いかたがひと頃はかなりの力を持っていた。いまその力は少し弱くなっているようだが、このとらえかたはじつは多くの人の胸の底に、いまも横たわっているのではないか。そしてそれは、いま日本人のみずからの手で憲法を作ってなにがいけないのか、という言いかたに賛成するかたちで呼応する。

 戦後の日本の展開に沿って言うなら、新憲法は世界に向けて日本を解放した、という言いかたがもっとも正しい。憲法としては理想主義に過ぎるのではないか、という言いかたはいまもある。当時のアメリカで頂点に達した感のあるリベラリズムが、自国ですら出来なかったほどに理想的な実験を日本で試みようとしたから、新憲法は理想主義的なのだ。

 崇高な実験、という言いかたをよく目にする。そのとおりだ。そしてそれにふさわしい効果を上げた。戦後の日本を戦前・戦中のそれとくらべてみれば、この両者のあいだにもたらされた落差は、崇高と形容するに値する。現実に合致しなくなったから改正するとは、崇高とすら言われた理想を捨て去ることにほかならない。

全くその通りだと思う。以前から片岡氏の時事評には共感するところが多かったが(『日本語の外へ』など。これは名著だと僕は思う)、今回たまたまこの論評を見て、その思いをますます強くした。昨年に書かれた「物価とは何か」というエッセイも秀逸。

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