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June 04, 2004

「言説」という言葉の難しさ

このところ、柔らかい話題ばかりだったので、今日は少し学問的なことを。

今日、立命館大学のほうで研究会があり、そのお知らせをもらっていたので出席させていただいた。
その研究会は「井上哲次郎研究会」というもので、文学部の桂島宣弘先生が主催なさっているもの(桂島先生とは旧知の仲)。井上といえば、明治期を代表する哲学者且つ国家主義のイデオローグ、というイメージが支配的だが、今日の発表者は最近井上に関する研究をされている磯前順一先生(日本女子大)。実は磯前先生にも、僕は昔からお世話になっている。というのも、僕が東大の宗教学研究室に入ったとき、磯前先生は研究室の助手をなさっていたのだ。今からもう12年も前!指折り数えてクラクラ来てしまった。あの時、磯前先生の薫陶を受ける事が出来るところに居ながら、それが果たせなかった自分を恥じつつ、研究会に参加した。

磯前先生は、井上を含む明治・大正期の学者の「言説」がどのようにして形成され、それがその後いかに学知を形成し、再生産されていったかを追った労作『近代日本の宗教言説とその系譜』(岩波書店、2003)を書かれた方で、当然僕はこの書を読んで非常に感銘を受けた。
今日の発表もこの本の延長だったわけだが、去年イギリスに滞在されていた磯前先生が、その時の体験から、一層その思索を深め、どんな学問分野(主に人文系だが)にも通じる問題意識を提起されていた。僕の乏しい頭でそれを要約するのはほぼ不可能だが、フーコー、サイード以降の「言説」をめぐる学問のいわば「隘路」を意識した問題提起であったとまとめる事が出来ると思う。今日の研究会に即して言えば、単なる「イデオロギー批判」に終わらない井上批判というのはどのような形で可能かという問題と、とりあえずは言い換えることが出来るかと思う。

僕も、例えば戦前の宗教人や学者の「言説」を分析して、「この時代、あの人たちはこんな事をいっていましたよ。いかにもイデオロギーやら人種差別感まるだしですねえ」といった類の、いわば「イデオロギー暴露」を良くやっているわけだが、実は、その先には何があるのか、というのは僕なども良くわかっていなかったりする。暗に、「歴史の外部」に立って(立ったつもりになって)、鳥瞰的な視座を手に入れた、と半ば錯覚して物を言っているに過ぎないのではないか、という疑念は、ずっと付きまとう。その辺りの微妙な問題が今日の発表の主題だと僕は理解した(間違っていたらすみません)。そして、「言われなかった事」「言われている事からはみ出るもの」、すなわち「残余」だとか「余白」と呼びうる領域が存在するのは論をまたないだろう。そしてその「残余」の扱いも要注意なのだ。例えば「西洋的」な学知では捉えきれない何かを持ってきて「これこそが日本の魂なのだ」というように、「残余」をauthenticなものにしてしまった、という苦い経験(今現在もあるのだが)をわれわれは知っている。

「伝統の発明(創造)」やら「想像の共同体」という決まり文句が人口に膾炙すればするほど、そこで議論は終わり、という例が最近とみに目立たないだろうか?(一時期、『●●の発明(発見)』といったタイトルの本が良く出版されていた。今もされているけど)磯前先生は、「その先」に行くにはどうすればいいのか、ということを、比喩的どころか本当に「足元を切り崩すようなやり方で」考えているのだ、という印象を受けた。そこに、一応「言説分析」の末席を汚している僕などは感銘を受けたのだ。

「言説」という言葉を僕などは本当に安易に使っているが、そのことも含めて反省させられた今日のご発表だった。

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Comments

DEMO, SORETTE ARU TEIDO WA, NINGEN NO KOTOBA GA FUKAHI TEKI NI MOTSU SEISHITSU DEMO ARUNO KANA?

Posted by: KOIKE | June 06, 2004 at 07:30 PM

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