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July 29, 2004

「国際試合」ということ

インドア派の僕ですが、結構スポーツを見るのは好きで、昨日も早めに帰宅し、アジアカップ予選日本対イランを見てしまいました。場所は中国の重慶スタジアム。で、ちょっと試合とは別の部分についてになりますが、画面を見ていて思ったことを書きます。

この前の対タイ戦の時も思ったのですが、本当に日本チームは嫌われているなあ、と思いました。嫌われる、というのはある意味仕方ないと思います。前回のチャンピオンである日本は他の国々から結構厳しい視線にさらされる、ということもあるでしょう。相撲だって、横綱は圧倒的な強さが必要、なんていう割に、余りに強すぎると憎まれ役になったりしますもんね。でも、ちょっと重慶の中国人サポーターの態度は度を超しているような気がしました。最初見ているとき、「昔、日本は重慶を爆撃しちゃったもんなあ」くらいに思っていたのですが(戦争中に何度か日本軍は重慶を空爆しています)、日本チームがボールを持つだけでブーイング、ラフプレイで日本選手が倒されてタンカで運ばれると喜んでいるかのような拍手、というのはいくら何でも行きすぎだと思いました。

一応これは「国際試合」なんですから、余りに一方に対する露骨な態度はホスト国としては取るべきではないでしょう(もちろん、ブーイングを行っているのは一般の人で、行政側としては機動隊を用意するなど大変だったようですが)。
もちろん贔屓のチームがあっても良いと思いますが、例えば今度の北京オリンピックで同様なことが起きれば、世界中に中国の民度が疑われることになりかねません。それは余りにも哀しいし愚かしいことだと思います。また、中国サポーターのこのような態度は、日本のナショナリズムにある種の「正当性」を与えてしまいかねません(次号の『SAPIO』あたりが喜んで取り上げそうだ・・・)。
今朝、αstation(fm-kyoto)の佐藤弘樹さんの番組を聞いていると、佐藤さんが上記のことをニュースとして読み上げたあと、大体今僕が述べたような感想を言っていて、非常に頷くところがありました。

普段ナショナリズムに対して批判的な研究をしている僕のような者が、実は一番ナショナリズムに囚われている(理想の日本なるものを求めてしまうから)、ということも実感させられた夜でした(昨晩の僕は、まさしくナショナリストでした)。

July 28, 2004

「ナベツネ」なるもの

皆さん、「マツケンサンバ」な暑い日々が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。僕はちょっと夏風邪気味です。極端に暑い屋外と、冷房の効いた室内を往復しているうちに、おかしくなってしまいました。熱はなさそうなのですが・・・。そこでまたしつこく上様のサンバのDVDを鑑賞したのですが、あれは体力が失われているときは却って体力を削るようなビデオだということが判明しましたので、あまりお薦め致しません(笑)。これからご覧になる方は、体力があるときに、友人や家族と一緒にご覧になるように。というのも、あまりの衝撃に、横に誰かがいないと、言葉がどんどんあふれて来ちゃって、一人で悶々として携帯メールとかで友人に布教したくなること必至ですから(実話)。

さて、意味なく長い前振りはここまで。
今日のネタは、またしてもナベツネこと渡辺恒雄巨人軍オーナーの奇妙な失言。巨人軍の選手も1リーグ制反対の署名運動をしたことに対して「大衆迎合的なことはやめておいた方が良い」と一蹴した、というもの。やれやれ、またかよ、というレベルを通り越していますね、この発言。人気商売のプロ野球が大衆迎合的でなくてどうする、という根本的な問題はさておき、「俺も若いときは共産党員だったが、(選手会長の)高橋の年齢の時には辞めていたよ」とか、もう、このじいさんは自分がどのように世間から見られているか、というバランス感覚さえ持っていないようだ。「自分は間違っているかも知れない」という可能性を考えられない人のことを、我々はとりあえず「バカ」と呼んで良いことになっているが、そうなると、このじいさんは言わずもがなだろう。こんな独裁的なスターリニストなじいさんは本当に度し難い。
いま、小泉首相や石原都知事やこの渡辺オーナーのように「威勢の良い言葉」があふれて、一定以上の人気を得ているが(ナベツネは除く)、「強引」であることと「指導力がある」ということは全然違うんだということに、そろそろみんな気付いてもいい頃だと思う。

とりあえず、1リーグ制反対運動に関心ある方は以下のページにアクセス!!

プロ野球選手会(反対署名をウェブ上でやっています)

近鉄・オリックス球団合併と1リーグ制に反対するHP

July 26, 2004

今年の夏はマツケンでGO!!

さあ、お待たせしました(誰も待ってませんかそうですか)。
とうとう、僕も「禁断の扉」に手を触れて、それを開いてしまいました。というわけで、今日は暴れん坊将軍こと松平健様の「マツケンサンバⅡ」のレビューを。今、京都はスコールのような大雨です。天まで僕を諫めているような気がするのですが、多分気のせいでしょう。

結論から言うと、時代は益々「マツケンサンバ!!」ということです。少なくとも、記録的な暑さのこの夏は、このアイテムなくしては乗り切ることは不可能だと断言します(逆に熱中症を起こす人も出そうですが)。

matsukensamba2.jpg
(眩しすぎる衣裳に身を固める上様)

まずはこのジャケットからして反則だ。こんなのを見て、衝撃を覚えない人がこの世にいるだろうか?まさに「上様、ご乱心」と呼ぶにふさわしい。そして、何よりも恐ろしいのは、その「ご乱心ぶり」がエスカレートすればするほど、こちらの「快感」になっていく、ということなのである。
徳川時代、民衆は支配者の「仁政」を要求することしかできなかったが、その民衆の子孫たる我々は、今度は上様の「暴れん坊ぶり」に驚喜するような体たらくだ。一体、我々は江戸時代のご先祖様と比べて進歩したと言って良いのか、と反省するほどの作品です。

元々僕は、ラテン系のノリの音楽が結構好きだ。ボサノヴァはおしゃれで涼しげだし、マンボもサンバも「腰に来る」ところが好きなのだが、今回の上様のサンバもマンボも腰に来すぎる。腰骨がずれるような衝撃だ。「夏は気怠くサウダーデでボサノヴァ」などと言っていた昨日までの軟弱な僕よ、さようなら。夏は踊って汗をかいてナンボ、ということを上様から思い知らされました。

このCDには特典としてプロモーションビデオが収録されたDVDがついているのだが、こちらも恐ろしい破壊力だ。その衝撃は、とにかく一度見ていただくしかない。僕の筆力では、到底描写は不可能なり。言葉の限界をこれほど思い知らされたのは久しぶりだ。ただ、最後の花火の映像が、「やっちゃった感」をしみじみ感じさせて、このビデオを作製した人間の奥深さを垣間見せている、とだけお伝えしておきたい。

僕のこんな貧弱なレビューで満足できない方は、僕に「布教」してくれた方の「松平健特別公演‘観戦’記」をご覧になってください。今回は素材に完全に負けました・・・。

追記:最初の文章を書いて数時間後の今、頭の中でエンドレスに回る「マツケンサンバ」と「マツケンでGO!」。ちっとも勉強になりません。少なくとも、BGMには著しく不向きです。これほど恐ろしい麻薬のようなCDだったとは・・・。これは最早「合法ドラッグ」です。

July 25, 2004

「賢者」の言葉

前にDVDで買っておいた『チョムスキー9.11-Power and Terror Noam Chomsky in Our Times』をようやく今日見てみた。これは2002年に行われたチョムスキーの講演とインタビューからなるフィルム(これを見ているとき、近くの街道に右翼の街宣車が通りかかった。これも広い意味でのシンクロニシティ?)。

チョムスキーは「生成文法」論で知られる言語学の大家で、筋金入りの平和主義者として知られるアメリカの貴重な「知性」だ(「最後の砦の一つ」と言った方が正確かも知れない)。「9.11」直後の過度に愛国的な雰囲気の中で彼は「非国民」扱いされたこともあったようだが(フィルムでは新聞各紙からのチョムスキーバッシングのようなコピーがテロップとして流れる)、アフガニスタン、イラクとアメリカが「しでかした戦争(チョムスキーはこれらの行為を明確に「テロ」と呼ぶ)」により、混迷の度合いを深める昨今において、彼の言葉と洞察の正しさが証明されつつある。
このフィルムが作られた直後にこれを見ずに、今の時点で見たのはある意味正解だったかも知れない。それは、このフィルムの完成から約二年間経って現時点までの時間が、時の流れに左右されないチョムスキーの言葉の「正しさ」を確認するのに相応しいインターヴァルだと思うからだ。充分すぎる長さにはまだならないだろう。それは、アフガンもイラクもまだ「終わってはいない」のだから、彼の通時代的な言葉はこれから先、何度でも確認して参照すべきものとなるだろう。

フィルムは淡々と講演とインタビューを繰り返して行くだけだが、僕が聞いたのは、まさに「賢者」の言葉と呼ぶべきものだったと思う。チョムスキーが卓越した知識人だなんていうのは、僕ごときが論評するまでもなく、当たり前のことだろうが、何故「賢者」という言葉を使ってまで彼を賞賛したくなるのか。それは、彼が決してペシミスティックにならず、常に笑顔を絶やさず前向きな提言をしているからだ。僕はその様子を見て、非常に感銘を受けた。大袈裟に言うと、知識人かくあるべし、というモデルを彼に見たような気がした。恐らく、エドワード・サイードもチョムスキーのこのような「明るさ」に救われたのではなかったかと想像してしまう。
絶望し、皮肉を言ったりすることは簡単なことだ。それはまさに「凡百」の反応だった(僕も含めて)。しかし彼は違う。彼は一見逆説的に聞こえるようなことを言う。例えば「アメリカは、この2、30年で非常に文明化した」と。これはどういうことか。チョムスキーはヴェトナム戦争から反戦活動をしているが、その時はもっと絶望的な状況だったと回顧する。反戦集会を開こうとすれば妨害される、脅迫される、主催者より少ない観衆、平和なデモ行進にトマトや缶が投げられる・・・etc。ヴェトナム戦争の時、どれだけ非人道的な平気が使われようともアメリカ人は全く無関心だったが、現在アメリカ軍がそんなことをすれば、市民団体が黙ってはいないだろう。そして私(チョムスキー)をテレビの討論番組に呼んだり、こうした講演会を開く自由がこのアメリカには存在する。この事は明らかに30年前よりはアメリカが「良くなっている」証拠なのだ、と。あまりに内向きだったアメリカ人のメンタリティがようやく外へも関心を持つようになってきたのだと。
まだ「絶望するには早すぎる」とチョムスキーは観衆に訴える。二つの道がある、どちらを選ぶかはあなた方次第なのだと。
彼の言葉は、アメリカ政府への「他人事のような」非難では決してなく、アメリカ人へ向けたもの、要するに自分を含めたアメリカ人へと向けたものであって、それ故にその重さが際立つ(「アメリカはアフガンに援助ではなく賠償すべきなのだ」というような発言)。
そして、僕が印象深かったのは、彼の「健全な相対主義」とでも言うべき姿勢だった。彼はアメリカ政府のやり方を「テロ」と非難するわけだが、返す刀でフセインを初めとする(アメリカがテコ入れしていた)無能で有害な指導者への非難も忘れない。アメリカだけの問題ではなく、その時代の一番強い権力を持った国が必ず陥りがちな陥穽を正しく指摘する。サイードも『文化と帝国主義』で、帝国主義を批判しながら、同時に返す刀で、抵抗する側の「原理主義」的な動きを批判していたと記憶している。あと、「対テロ戦争」という言葉は眉唾であるといったり、「戦争犯罪」というのはドイツ(や日本)がやっていて我々がやっていないことの別称にすぎないなど、考えさせられる言葉がインタビューには散りばめられている。

さて、もうすぐマイケル・ムーアの「華氏911」が日本でも公開されるが(僕は当然見に行くつもり)、この映画には既に毀誉褒貶が付きまとっている。大喝采で迎える人がいる一方、単なる反ブッシュキャンペーンのフィルムにすぎないという非難など、色々言われているが、日本人の我々が考えるべきは、チョムスキーやムーアのような存在がしっかり許されているアメリカの「健全さ」であることは言をまたないだろう。それに引き替え我が国は・・・とついつい卑屈になってしまう。

ちょっとだけ本筋とは離れるが、このフィルムを見てインスパイアされたことをメモしておきたい。内田樹先生などは「フェミニズムは歴史的な役割を終えた」「同じような語法にみんなが飽きてきた」というようなことを言っているが、僕はこれに関しては半分賛成、半分反対な立場だ。僕は内田先生が評価するほど、フェミニズムの使命が終わったとは考えていないのがその理由だが、後半部分の「同じ語法に飽きてきた」という部分は同感だ。「正論」故に、同じような言い回しばかりを言い続けてきたために、飽きられたというのは、「憲法9条」とかも同類だろう。
フェミニズムの主張も、9条の理念も反対できないくらい「正しい」と僕は思うが、それ故に「言い方」を少しひねる必要があると思う。例えば2ちゃんねるでの朝日新聞やフェミニズムなどいわゆる「正論」に対する無意味且つ無価値な罵詈雑言の数々は、その無意味・無価値ゆえにある「メンタリティ」をストレートに表していると見なすべきものだろう。彼らは「正論に飽き飽きしている」のだ。僕などは『正論』にうんざりしているのだが、それは別の話(笑)。前述のムーアに対する批判も彼の言うことがある意味、あまりにも「正しい」ことから来る非難なのかも知れない(「華氏911」には「Bowling for Columbine」に見られる諧謔がない、という批判もあるそうだし)。
今回のチョムスキーの講演フィルムは、「正論」の「ちょっと違う言い方」のヒントを僕に与えてくれたような気がする。ということで、おすすめです、このフィルム。今度学生にも見せてあげたいくらいだ。

July 22, 2004

「科学的知識」を得るって?

今日の夕方、立命館大学のある研究会にお邪魔した。
立命館大学大学院先端総合学術研究科(この研究科は、学部から独立した研究科で、なかなか面白い試みをしているところだ)が主催した、「争点としての生命」プロジェクト研究会、というもの。
今回の研究会の共通テーマは「リテラシー」。リテラシーという言葉は、昨今では「メディア・リテラシー」という言葉が一番メジャーだろう。これはメディアが発する情報の取捨選択は消費者(市民)側が行わねばならない、つまり「もっと見る目を養わないとコロッと騙されるかもよ」という警鐘を鳴らす言葉だが、情報といっても、様々ある。この研究会では特にその中でも「科学的情報(知識)」に焦点を定め、我々一般市民が「正しく」科学情報を理解するとはどういうことか、もしくは理解せねばならないとされる社会はどういう社会か、ということを問題として考えようという試みであった(と思う)。

発表者は二人で、お一人目は、柄本三代子先生。柄本先生は『健康の語られ方』(青弓社、2002)という著作のある研究者で、この本のタイトルからも判るように、健康をめぐる言説を研究している方だ。もう一人は武藤香織先生(信州大学講師)。実は、僕と武藤さんは大学時代のサークルの先輩後輩の仲で、今回の研究会も、武藤さんに誘っていただいたのだが、共に面白いご発表で大変勉強になった。そのことに関するメモを今から書く。

柄本先生のご発表のタイトルは「リスク社会における『リテラシー』というものの活況」。このタイトルだけだと判りづらいが、テーマは、ズバリ「食品」をめぐるリテラシーについてだった。「リスクマネージメント」という言葉が人口に膾炙し、それとセットに「自己責任(論)」が語られる昨今だが、例えば食品について、我々はどこから情報を得て、どのように判断しているのだろうか?そしてその判断は適正なのだろうか?そのようないわゆる「ヘルスリテラシー」を中心にしたご発表で、大変面白く拝聴した。
健康に関する情報、といえば皆さん真っ先に思いつくのが、みのもんた教、別名「おもいっきりテレビ」とかでの情報とかではないか?「はなまるマーケット」でも「ためしてガッテン」でも「発掘!あるある大事典」でも何でも良いが、とにかくこのような番組の情報によってある食品の一過性のブームが嵐のように世の中を席捲するのを何度も我々は見てきた(スーパーも、夕方には昼までになされた番組に基づいたポップを立てて宣伝するくらいだ)。最近だと、例えば「へルシア緑茶」のような「特定保健用食品(特保)」と呼ばれる製品が大ヒットした(厚生労働省の規定では、この特保は「食品」と「医薬品」の間の存在とされているそうだ)。
では、果たしてこのような動きは「リテラシー」があるといえるのだろうか?実は、ここが難問だと思う。「リテラシー」は一種の「能力ability」だから、「話を聞いて自分で判断して行動する(そして結果としてブームを作ってしまう)」皆さんは、ある意味「リテラシー」を持っていると言えるかも知れない。しかし昔からの常套句「マスコミに踊らされているだけ」という批判も簡単だろう。専門用語では、食物や栄養が健康に与える影響を課題に信じたり評価することをFood Faddism(FF)というそうだ。FF批判は当然であり必要だと思うが、では、ブームを作り出す人が単に「騙されて」「踊らされているだけ」だとすると、真に正しい情報とはどのような情報なのか、それを判断する術は果たして我々にあるのか、という問題が立ち上がってくるだろう。例えばいわゆる学者や専門家の書いた栄養学の本が正しいかといえば、中には「トンデモ本」といいたくなるようなものもあったりする(例としては「キレない子供」を育てるにはこのような栄養を与えるべきだとか、そういう類の本)。
情報は増えて複雑になるばかり・・・だと、求められるのはいわゆる「専門家」のアドヴァイスであろう(厚生労働省自身がこのようなアドヴァイザリースタッフの必要性を述べている)。要するに錯綜する情報を「誤読」するしかない状況の中で、このような専門家の需要というものが「作られていく」のだ。ここにもプロフェッショナリズム(専門家にお任せ、という風潮)の問題が生じている。素人も色んな分野に口を出せる範囲が広がったのが現代社会だが(大衆社会、というのは基本的に「素人」の社会だ)、高度に複雑化していくと、やはり「専門家」にお任せの風潮が生まれる(税金とか法律とかも、素人には難しすぎるから税理士やら公認会計士やら弁護士という職業が成り立つのである)。そのような流れはある程度仕方ないのかも知れないが、恐らく今度はそのようなアドヴァイスに接することが出来る人と出来ない人との間にいわゆる「情報格差」が生じることになるだろう。
もう一つ、柄本先生の話で興味深いと思った話題が、「食育」という言葉である。これは要するに「健全な精神は健全な家庭(一緒に食事をするような家庭)から」という考えである。厚生労働省でもこれに関する検討会が開かれたり、自民党議員たちが議員立法を目指したりと、なかなか侮れないテーマなのだ。この動きには「最近のガキはなっていない→なっていないのは家庭が悪い→家庭を良くするには、昔のような温かい家庭に戻すことが必要」という単純すぎる考えが透けて見えるし、それを批判するのは容易だが、一番の問題は、このような検討会が組まれるのは「最近の家庭は全て機能不全」という斎藤学もびっくりの(笑)ペシミスティックな思いこみからスタートしているこということだ。こういう(根拠のない)思いこみを我々は「イデオロギー」と呼ぶのだ。


さて、次は武藤先生のご発表。武藤さんは医療社会学を中心に研究されている方で、特に難病の患者会の社会的動向や、生体肝移植を巡る問題や、胚の実験を巡る生命倫理的問題など、多岐にわたって研究されていて、いつも僕は耳学問させてもらっている。
今回の発表タイトルは「ヒトゲノム・遺伝子解析研究の普遍化-大衆化とリテラシー」というもの。「ヒトゲノム」という言葉は新聞にも解読されただとか特許競争だとかの文字が躍ったので、何となく判った感じになっている言葉ですが、実は良く僕も判っていません。僕の判る範囲で今回のご発表の内容をまとめると、ヒトゲノム(遺伝子)解析によって、個々人のかかりやすい疾病などが判る時代になりつつある(中には遺伝病に罹患するリスクなどさえ判ってしまう)、であるから一生懸命ヒトゲノムを解析しまくってデータを貯めて、最終的には「こういう遺伝子パターンの人にはこの薬」というような「オーダーメイド医療」を長期的には定着させよう(医療費の軽減にも繋がるし)、という国家プロジェクトが現在密かに進行中なのだが、情報提供者であり、時には自分や家族の遺伝子情報を授けられる我々のリテラシー問題はどのようなものか、という問題提起であったと思う。
最近の病院では「インフォームド・コンセント」という言葉がよく使われる。これは患者には充分な情報を医師は与えるべきだ、という考えに基づいているが、裏を返せば「判断するのはそちらですよ」と医者から下駄を預けられるということでもあるだろうし、そもそも情報を与えられたからといって、患者及び家族が本当に「自主的」な判断や行動を起こせるか、というのは大いに疑問な所だろう(情報が与えられたところで「よろしくお願いします」としか普通は言えないだろう)。遺伝子解析のプロジェクトにしたって、「医学の進歩のためなんですよ、ちょこっと血液取らせてくれませんか?」という医師の言葉に逆らえる人は少ない。そして解析した結果「あなたは将来糖尿病になる可能性が極めて高いので云々」とか、時には致命的な遺伝病の存在のような「知りたくもなかった情報」すら教えられかねない時代に突入しつつあるのだ。まとめるなら遺伝子解析による「知見」は

(1)病気に「なる」という情報(遺伝病など。この場合は「子供を作る」、という選択に圧力がかかることが予想される)
(2)治療法の選択に直結する情報(オーダーメイド医療への期待。現状はまだここまでは行っていないが)
(3)病気の「なりやすさ」に関する情報(予防行動のアドヴァイスが与えられ、「あらかじめアドヴァイス与えたのに、病気になったのは自業自得」というような自己責任論へ繋がっていく)

という三種類に分けられ、ここまで来たら、「一体(情報を聞く側の自由を却って奪うような)インフォームド・コンセントって何?」という根源的な疑問へと行き着く。武藤さんも強調していたのは、例えば後発性の遺伝子疾患などの「情報」を「知らないでいる権利」というのもありなのではないか、という問題提起であった(この問題提起に関しては「何を知らなければ自分の有利か、というようなことは、最初からその情報を知らなければ言えないのではないか」という疑義が出された。確かにそうかも知れない)。

あと、武藤さんが問題提起されていたのは一つは「コーディネーター」という「仲介者」の存在が病院では大きくなっているということ。例えば脳死臓器移植や前述の遺伝子解析プロジェクトでは「コーディネーター」と呼ばれる人たちが、医師のような「高圧的な物言い」ではなく、あくまでもソフトに「協力してくださいませんか?」という形で医療現場に介在することがここ近年とみに増えているそうだ。でも、これは武藤さんに言わせると「ソフト・ランディングを狙っているだけじゃないのか」ということになる。事実、患者や遺族の「説得」に失敗したコーディネーターが医師から怒鳴られるなど、そういう事例に事欠かないそうだ(これなどは、医師が本来受けるはずだったストレスを代わりに受けているのがコーディネーターだ、という構造だ)。
もう一つは、ジェンダー的な問題。これは最近問題になっている「余剰胚の実験利用」などに顕著だが、要するに女性を「卵という実験資源」を持つ存在と見なしたり、例えば夫や子供が肝臓や腎臓の移植が必要だ、ということになると「働いているお父さんのために、専業主婦である妻のあなたが提供すべきだ」というような有形無形の圧力がかかってきたり(事実、生体肝移植や腎移植は女性の提供者の方が多い)、代理母という「子宮の有効利用」やら(「不妊の娘の代わりに、母親の子宮が使えるんなら、使えばいいじゃないか」という放言をした生命倫理学者がいたそうだ)、もっと行くと中絶胎児や死産児の実験利用など、ヒト由来の「モノ」を利用する視点、つまり「女性の資源化」が進行しているのではないか、という問題提起だった。これは大いに頷かせる問題提起で、考えざるを得ない(育児や介護現場の女性の資源化については言わずもがなであろう)。

お二人の発表は共に、簡単に結論が出るような代物ではない(そんなに簡単に解決する問題は少ない。そんなに世の中が単純だったら、学者のおまんまの食い上げだ)。でも、誰もがこれから直面せざるを得ない問題なのだ。誰もが直面せざるを得ない問題に限って、解決策はないものなのだが。
とにかく、非常に啓発的な発表を聞けて、満足して帰った僕なのでした。

(上記の2名の先生のご発表の内容に関しては、勝手にまとめた僕に全ての文責があります)

July 21, 2004

小泉内閣支持率

先程ネットでニュースをダラダラ見ていたら、「小泉内閣支持率が危険水域に」というような内容の記事を発見。4つほどの世論調査が並べてあり、平均としては支持率40%ほどのようだ。発足当初の半分になったという訳か。全然小泉さんには同情しませんが、人の心は移ろいやすいものだと感じる。「あの森首相と同レベルの支持率」、というのはさすがに小泉の神通力が失われつつあるのだなあ、と実感させてくれる解説だ。

たびたびこのブログでいっているが、僕は何よりも小泉首相の言葉の「軽さ」が以前から気に入らなかった。彼は言葉を遣うことにかけては、歴代首相の中ではたけていた方だったが、今、その自分の発した言葉によって復讐されている。

彼の言葉として覚えている「腹の立った言葉」を列挙すれば、

「同じ質問なのだから、同じような答弁になる」
「どこからが非戦闘地域なんて、分かるわけがないでしょう」
「イラクから大量破壊兵器が見つからないからといって、ないとはまだ言えない。それと同様に、イラクにフセインがいなかったということにはならないでしょう」
「憲法前文の精神に則り、自衛隊をイラクに派遣する」
「涙は女の武器っていうからね」
「人生色々、会社も色々」
等々

うろ覚えのものもあるが、おおよそこのような言葉が彼の口から発せられたと記憶している。
ちょっと列挙しただけでも、よくもまあ今まで無事で済んできたものだ、と思う。

確かなのは、我々がいただいている首相は、国内に向かってはウソや詭弁の類を力強く言い、幼児が親の「お返事は?」という言葉に「はい」と元気よく答えるようにアメリカにだけ「はい」と言うことが出来る人だ、ということ。
今思いついたが、僕は後年小泉さんのことをどういうニックネームで呼ぶべきか、と聞かれたら、「アメリカにだけイエスマン首相」と答えたい。

July 20, 2004

修論中間発表&CD注文

今日は、夏休み前の修士論文中間発表会という行事があって、3名の修士2年生の構想発表を聞く。
残念ながら、まだ皆さん道筋がはっきりとは見えていない感じ。
皆さん、今日我々が言ったアドヴァイスを活かして、夏休み頑張ってください。ただそれだけ。

で、話は急に変わるが、前々から気になっていたCDをついついアマゾンで注文。
ある人からの強烈布教もとい推薦があったためです。
あとで恐らくレビューを書くと思います(というか、書かざるを得ないと思います、強烈すぎて)。

July 19, 2004

ゴのつく虫

といえば、皆さん何を連想しますか?
当然ゴキブリですね(そういえば、しりとりで「ゴ」が回ってきてゴキブリ、ということは少ないような気がします。90%はゴリラといってしまうなあ。何故だろう)。

ブログに何度のこの生物名がでてくるのはあまりよろしくないと思いますので、「ゴのつく虫」と呼ぶことにします。勝手な日本語をお許しください。

実は、この数日間、大学の研究室及びトイレなどで、この「ゴのつく虫」と遭遇することが多く、何度も透明な叫び声を上げそうになりました。僕の研究室は、奴らのエサになりそうなものがもしかしたらあるかも知れないので仕方ないかも知れませんが(僕が本を読みながら食べたお菓子のクズとか)、それにしても嫌なものです。
トイレに行ったら、このところ大変高い確率で遭うので、さすがに業を煮やして、先日薬局で安売りしていた「ホウ酸団子」のようなものを買ってきて、自分の研究室とトイレの洗面台の下に数個設置しておきました。すると・・・。

効果覿面というべきなのでしょう、今日トイレに行ったら、早速「ゴのつく虫」の死骸2匹とご対面です。危うく踏みそうになりました。まあ、こういう結果を期待していたのですが、今度は死骸の処理という難題に直面。泣く泣くトイレットペーパーで包んで捨てました。

象の墓場みたいに、「ゴのつく虫」が勝手に死んでくれるような場所はないでしょうか?これから、数日に渡って同じ処理を繰り返さざるを得ないでしょう。自分で仕掛けたこととは言え、鬱だ。

July 18, 2004

夏休みだ、さあ読書だ

先日の日記を見た知人・友人何人かから「マンガ三昧で羨ましい」とか「本当に学者か、お前は」というような声を頂戴しましたので、今日は(多少)真面目な本をまとめ買い。それを羅列すると・・・、

・片岡義男『影の外に出る』NHK出版、2004(僕も時々読んでいる「先見日記」での連載の良いものを中心に編まれた時事評。今日の朝日の書評欄にでていたので購入。僕は以前から片岡氏の評論のファンなのだ)

・E.A.コーエン(清水幾太郎他訳)『強制収容所における人間行動』岩波書店、1957(「書物復権」フェアの一つとして重版された名著。強制収容所のサヴァイヴァーによる書。大学の講義でフロムの『自由からの逃走』を学生と一緒に再読して以来、やはりナチズムについてちゃんと知らないとなあ、と思い購入。今度学生にはフランクル『夜と霧』でも読ませようかな、とも思案中)

・内田樹『街場の現代思想』NTT出版、2004(ご存じ内田先生のエッセイ集。ブログと『Meets regional』連載を合わせたもので、全部既読。だけど買っちゃう。)

・波平恵美子『日本人の死のかたち』朝日選書、2004(文化人類学者波平先生の死生論。「死」は、現代社会での「宗教」を考える上の最後の「土俵際」のような気がする)

・滝川一廣『「こころ」の本質とは何か』ちくま新書、2004(以前滝川先生の『「こころ」はだれが壊すのか』を読んでファンになったので、これも購入)

・小松美彦『自己決定権は幻想である』洋泉社新書、2004(脳死臓器移植問題などで奮闘中の小松先生の新刊。イラクの「自己責任論」にも言及しているようなので、参考にと購入)

・金賛汀『在日、激動の百年』朝日選書、2004
・金賛汀『朝鮮総連』新潮新書、2004(『異邦人は君が代丸に乗って-朝鮮人街猪飼野の形成史』岩波新書、の著者の最新作を知りたくて)

なんとか、バランスが取れたかな。まあ、これらの本の前に、著者などからいただいた本を先に読んでおかねば・・・。

July 16, 2004

夏休みだ、さあマンガだ

「さあ夏休みだ」というのはちょっと気が早いのですが、今日ですっかり「夏休みモード」に入ってしまい、帰り道の本屋で、マンガをまとめ買いしてしまいました。今日買ったマンガの一覧は以下の通り。

・野中英次『魁!!クロマティ高校-四面楚歌編』10巻、講談社(この巻では林田を主人公にした大作が一番のメイン。巻末の「ミスチル」マンガも驚愕!!)。

・永久保貴一『新 カルラ舞う!』15巻、秋田書店(今度の舞台は出雲ということで楽しみ。よく考えれば、特命を帯びた人間が調査のために事件の渦中となっている場所に入っていくというパターンは、王道だよね。「遠山の金さん」とかの時代劇もそうだし、マンガの世界では『スケバン刑事』がこのパターンの極北かな)。

・島本和彦『吼えろペン』11・12巻、小学館(2冊同時とは、どうした島本先生!)。

・倉田真由美『だめんずうぉ~か~』7巻、扶桑社(とうとう7巻目か・・・。世にだめんずのネタは尽きまじ、ってところですな)。
・倉田真由美『くらたま切り捨て御免!』講談社(以前何でもかんでも切り捨てる芸人文化の台頭をちょっとこのブログで書いたこともあるがくらたまの「そういう本」を買っちまったよ。僕はそういう文化がダメといいたいわけではない。昔からナンシー関は大好きだったし。その切り方が問題なのだ、やはり)。

今晩は忙しいなあ(笑)。

最終講義

今日で僕の勤務校の正規の授業はとりあえず終了で、明日から夏休みだ。偶然だが、今日は京都では祇園祭のクライマックス「宵山」。授業から解放された学生は、そそくさと四条方面に向かったことだろう。京都出身の同僚の先生によると、京都の大学生にとっては「宵山」の日に誰といるか、というのはクリスマス以上に大きな問題なのだそうだ(笑)。さすがは京都。
もちろん、我々教員も夏休みにはいるわけだが、夏休みは普段出来ないこと(論文書いたり書評を書いたり本を読んだりすること)をまとめてやる期間、という趣が強い。

まあ、それはともかく、今日は特別の「最終講義」があった。
それは、僕の勤務校の学長、井口和起先生(日本近代史専攻)の最終講義だ。井口先生は、もうすぐ学長を退任されるのと同時に、大学も退職なさる。その最後の謦咳に触れるべく、200人以上が大教室に詰めかけた(そのまま祇園祭に行くのだろう、浴衣姿の女子学生もちらほらいた)。特に僕などは、研究する時代や対象が近いので(井口先生は日露戦争研究の権威)、名残惜しさもひとしおだ。

最終講義のタイトルは「満州義兵-もうひとつの『敵中横断三百里』」というもの。これは日露戦争時にロシア軍の実情を探る斥候活動をしたり、「馬賊」を名乗ってゲリラ活動をしたと思しき部隊の虚実を考察しようというテーマのご発表だった(司馬遼太郎の『坂の上の雲』にもエピソードとして入っているそうだ。彼等の活動の詳細は正史には入れられていないとのこと)。
井口先生は歴史家らしく、丹念に資料を博捜してこれは事実かそうではないか、というのを実証していくわけだが、もう一つの切り口として、そういう軍人達の活動がいわば「物語」として一般に浸透していくという次元についても問題提起をされていた(と思う)。満州(大陸)を舞台に、日本男児が八面六臂の大活躍、というのは昭和初期の少年小説で良く取り上げられたモチーフであろう。事実、当時の人気少年小説家山中峯太郎は『敵中横断三百里』という冒険活劇で、日露戦争時の「裏で活躍した」軍人達(今回の発表で井口先生が検討した対象)を英雄として描き、これが大ヒットした。そして同時期には黒龍会(玄洋社)系の人間が集まって書いた『東亜先覚志士記伝』など、どちらかというと「裏で活動した」というか、ダークサイドの「日本の英雄」を顕彰する書籍も発刊されていることにも注目しなければならないだろう(余談だが、『東亜先覚志士記伝』は僕の修論でよく利用した)。これはその時代、日本人はどのような「物語」を必要としていたのだろうか、という問題でもあるだろう(こういう僕の意見は、ちょっとカルチュラル・スタディーズ寄りの感覚かな)。

今回のご発表(最終講義)はあくまでも「中間報告」で、これからもっと事実関係などを詰めていくと井口先生はおっしゃっていた。これは6年ほど学長という激職で、心ならずも学問の世界から遠ざかるを得なかった先生の「復帰宣言」であろう(10月の朝鮮史研究会の年次大会でも講演をなさるみたいだし)。これからも益々お元気で、後進の我々をお導きくださいますよう。

July 14, 2004

悪趣味を極める

悪趣味を極める、といっても、僕じゃありませんよ。僕はそれほど「ディープ」な人間ではありません。
でも、「悪趣味の極地」を覗くことは比較的大好きだと思います。というわけで、そのような書籍の紹介をしたいと思います。

僕がこの数日、「うわあ、これは凄い」と読みふけっているのが、都築響一さんの凄すぎる紀行写真集です。

・『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行 東日本編』ちくま文庫、2000
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・『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行 西日本編』ちくま文庫、2000
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・『珍世界紀行 ヨーロッパ編』筑摩書房、2004
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の三冊です。

この写真集は、例えば「秘宝館」を代表とするような悪趣味な観光珍名所をくまなく歩いたもので(日本の名所は『spa!』に連載されていたそうです。正確には観光地でも何でもないような場所も多数収録されています)、今年そのヨーロッパ編がでたことで、洋の東西を問わない人間の悪趣味さが知れて、大変興味深かったです。

何で観光地にはこういうトホホなものがあるのかは謎ですが(「旅の恥はかきすて」ということわざは、意外と普遍性を持つのでしょうか?)、冗談抜きで「人間の深遠さ」を思い知らされる展示の圧倒されます。

最新作の『珍世界紀行』は値段も高く、買うのを躊躇いますが、もし公立図書館にあればパラパラ見てください。結構えぐいネタも多く、気の弱い方にはお薦めできませんが(蝋細工の病気の標本とか)。
僕が一番感動し、またいずれ行ってみたいと思うのは、骸骨で装飾された教会です。カタコンベ(地下墓地)にミイラ化した白骨がたくさん、というのもこの本には掲載されていますが、出色はデコラティヴな「骸骨のシャンデリア」などを飾る教会です。写真は必見!!

あと、今日は浅羽通明『ナショナリズム』(ちくま新書、2004)を読了。何か筑摩ばかりだなあ。
予想以上の出来。失礼な物言いながら、浅羽さん、よく勉強なさっている。ある意味当たり前なのだが、ナショナリズムに対して批判的なスタンスを取る昨今のカルチュラル・スタディーズ系の研究も博捜して、ブックガイドも有益。入門書としては、姜尚中先生の『ナショナリズム』(岩波書店)より学生にはお勧めかも。まあ、一部に物言いを付けたくなる言い回しももちろんあるのだが・・・。

July 13, 2004

参院選雑感

日曜日に参院選が行われ、大方の予想通り(といって良いだろう)になった。今日はこれについての雑感を書きたいと思う。

まず、僕としては今回の結果はやはり「食い足りない」ものだった。正直言ってもう少し自民党が負けて欲しかった(というより、もう少し負けるのでは、と予想していた)。やはり公明党の応援は強いなあ。

でも、それに対して民主党が伸びて良かったと思うかというと、実はそうでもない。「反自民」の受け皿が、共産党や社民党ではなく今はほぼ民主党に流れてしまっているのは時代の趨勢で致し方ないかも知れないが、僕は「自民党対民主党」という、いわゆる「二大政党制」それ自体に懐疑的なのだ(オールドタイプなんです、僕は)。
今朝の朝日新聞で「今回の選挙に勝ったのは二大政党制への流れ」と論評した五百籏部眞氏(神戸大学・政治学)のことばは正鵠を射ていると思う。ついでに言うと、昨日の朝日新聞夕刊の大澤真幸氏(京大・社会学)の「我々は何も選んではいない」という趣旨の論説にも深く頷くところがあった。

まず、自民党対民主党という二大政党制の流れだが、イギリスやアメリカのように政権交代を促す仕組みだから良いのでは、という単純素朴な見方には僕は与することはできない。
確かに、例えばアメリカで共和党政権がポカをしたらその次は民主党政権、というような政権交代が起こっているのは確かかも知れないが、余りにも選択肢が少なすぎると思う
このブログでも誉めたイギリス出身のロック歌手モリッシーが歌うように、イギリス人だって「イギリス人が息も絶え絶えの労働党にも保守党にもうんざりする時を僕は夢見ている(I 've been dreaming of the time when the English are sick to death of Labour and Tonies)」のである(Irish Blood, English Heart、訳は私訳)。「第三の勢力」というのは、公明党みたいな例も出てくるかも知れないが、やはり必要だと思う(念のために言っておくが、僕は公明党そのものには何等特別な感情を持っていない。ただ、今の小泉政権に協力しているのが気にくわないだけだ)。

日本で考えてみると、まず自民党と民主党の明確な相違点すら有権者には分からないと思う。
第一、自民党のような「ヌエ」のようなものを「政党」と呼ぶべきかさえ一考を要すると思う。民主党も、寄り合い所帯ゆえ、例えば憲法や自衛隊の考え方の幅が広すぎる。さすがにそれを「民主的」なあり方と誉めることはできないだろう(西村真悟のような男ですら、民主党議員なのだ)。どちらも選びたくない、ということはままある。最悪のシナリオは、形式的な二大政党制は整ったが、政権交代が起こっても政治の実態が全く変わらない、という事態に陥ることである。
僕個人としては、一度くらいは民主党政権を見てみたいのだが(森首相みたいな人が首相ができるくらいのお国柄なのだから、民主党もびびることはない)、どこまで党内を調整して思い切った改革ができるかは難しいと思う。もしそこで失速したら、それこそ「命取り」になりかねないだろうから、慎重に歩みを進めて欲しい。
退潮著しい共産党と社民党だが、こういうことを言い続ける政党も僕は必要だと思うので、踏ん張って欲しい。

今更遅いけど、やはり衆議院の小選挙区制、あれが諸悪の根源のような気がする・・・(死票が多すぎて果たしてどこまで民意が反映されるのか)。

July 12, 2004

夏の風物詩(わが家的には)

今日はちょっと美味しそうな話題を。
昨日、北海道の義理の両親から「夕張メロン」が送られてきた。まさに「産地直送」。毎年夏のこの時期には送っていただいている。嬉しいことに、わが家は家族の構成員数が少ないので、まるまるたっぷり食べられるのだ。うひょひょ。

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(切り口ちょっと失敗)

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(4分の1カットをいただきま~す)

今、冷蔵庫はメロンのかほりが充満しております。

July 11, 2004

心理療法と宗教哲学

えらく難しいタイトルになったが、今日は上記のようなテーマの研究会(合評会)に出席したので、そのことについてのメモを。

京大宗教学出身の先生方が中心となった科研報告書『心理主義時代における宗教と心理療法の内在的関係に関する宗教哲学的考察』(代表:岩田文昭先生、2004年3月)の合評会が本日京大文学部で開かれたので、この報告書をいただいた僕も、自転車をとばして参加しにいった。ほとんどは初対面の先生方ばかり。特に、東大宗教学の関係者は僕だけ。こんなに「京大宗教学」の雰囲気のどっぷりつかるのは、10年ほど前に、京大の長谷正當先生が東大に集中講義に来られた時以来だ(長谷先生の話はやはり難しく、リタイアしてしまったのだが・・・)。

大変長いタイトルの科研報告書だが、中心テーマとしては「心理療法」や「スピリチュアル」という昨今の「心理学化する社会」において重要度が増しつつあるトピックを考えようという趣旨だった(と思う)。京大宗教学(宗教哲学の伝統が色濃い。今日の研究会には、現スタッフの氣多先生や杉村先生もご出席)の皆さんがなさる研究なのでいわゆる「現状報告」的な論考よりも、それこそ哲学的に「スピリチュアルとは何ぞや」「健康とは何ぞや」といった話題で盛り上がった。良くも悪くも「俗っぽい」と言われる東大宗教学の影響を受けている僕には新鮮だった(俗っぽいというのは、程度問題です。念のため)。

今回僕にとって収穫だったのは、もちろん発表された先生方とお知り合いになれたことだが、もう一つ、名前だけ存じ上げていた精神科医の加藤清先生の話が聞けたことだった。加藤先生は『癒しの森』という本を編まれた方で、僕もこの本は以前読んでいた。この加藤先生(今年で御歳83歳!)の話がめっぽう面白く、笑わせてもらった。そのライブ感を皆さんにお伝えできないのは残念だが、何せ西田幾多郎や田辺元やヴィクトル・フランクルの謦咳に接している方ですから、言うことの重みが違う。一番心に残った言葉は「癒し、癒しというのは本当に卑しいこと」という名言(笑)。他にも「フランクルは健康なボーダーライン(境界例)だった。だからアウシュビッツを生き延びることができた。ここにいる皆さんなら生き残れないよ(笑)」というのも笑ってしまった。あと「宗教と心理療法を比べるとお互いの足りない部分が見えてくる。心理療法から見れば宗教の盲目性が目に付くだろうし、宗教から見れば心理療法の空虚さが目にはいるだろう。それを今までは相補的に捉えてきたと思うが、果たしてそれだけでよいのか」という加藤先生の問題提起は重く心に残った。信仰を持たない人が多くなった現代社会で(僕もその一人だが)、「宗教の語彙が通じない人に、果たして如何なる方法で宗教的(もしくはspiritual)なケアができるのか」という問いは、現場では本当に深刻なものとなりつつあるように思われる(そもそも医療現場では、とらえどころのない「スピリチュアルなケア」などという言葉もなかなか通じないだろう。話を長々と聞くより薬を与えるという方が「効率」の面からしても良いわけで、そういうプラクティカルな態度は大いにあり得る)。

現代社会は「心理主義」と呼ばれる思潮が隆盛を極めている社会だと僕は認識しているが、その長所を生かしつつ(今更完全な否定はできないし、僕自身精神分析の考えなどは大変優れた人間論だと思っている)、批判すべき所は批判していく方策を個人的には模索中なのだが、今回の合評会に出席して、僕自身の「散文的」な考え方を少し反省させられた。「散文的」というのは、要するに、今までこの「心理主義」の問題を僕は哲学的に考えず、どちらかというと社会学的なパースペクティヴで考える事が多かったというのを指している。もっと言えば単純明快な「機能主義functionalism」的見地に偏っていなかっただろうか、ということである。「宗教の代替物としての心理療法・精神分析」という考え方は、その時点で「心理療法」の「存在理由」を既に担保しており、それについての根源的な批判はできづらくなっているのではないか、という反省である。別言すれば、昨今の心理療法の「操作主義」について、結局「程度問題(どこまでなら「操作主義」と批判されずに済むか、という線引きの問題)」として問題を矮小化してしまう恐れがある、ということだ。

あらら、今日は感化されて妙に脳みそが難しいことを言いたがっているが、僕の限界はこの辺だろうから、一旦止めておこう。

July 10, 2004

ナベツネの暴言

もうすでに色々書かれていますが、さすがに腹に据えかねる、というか、今回ばかりは本気で彼の人間性を疑いましたね。

普通言わないだろう、「賢い」経営者ならこんな台詞は。

その「選手ふぜい」が頑張ってくれているから、観客が来て利益を得ているだろうに。

もう、この人の「老害」については贅言は不要でしょう。敬老意識では人後に落ちないつもりの僕も、さすがにキレますね。

もうこの人はダメだ、と思いました。しかし、このダメな人がまだ色んなものを牛耳っているんだよなあ。本当に哀しい(日本の政治に対する気持ちと似てきました)。

今更になって、フリューゲルスのサポーターの気持ちが本当に分かったような気がします。

July 06, 2004

卒論題目の相談

昨日、今日と4年生が僕の研究室に何人か訪れた。
というのも、今週末、僕が勤める学科では「卒論題目」なるものを提出して「私はこういうテーマで卒論書くつもりです」という意思表示を夏休み前にする、という決まりになっており、その相談に何人かがやってきたのだった。

だいぶん前から「私はこれっ!!」という感じで力強く決めてかかっている学生は良いのだが、大半は迷いがある。当たり前だ。自分の経験から考えても、この時点で腰が据わっている、という方が珍しかろう。しかし教員としては、そろそろ腰を据えてもらわなくちゃ困る、というのも事実なので、いくつかアドヴァイスする。

僕自身の卒論のことを話すと、夏休み前と夏休み後では、卒論で取り扱おうと思ったテーマがまるで違い、先生に呆れられた。夏休み前は、自分の頭脳のことも考慮せず(笑)「宗教哲学」っぽいネタで書きたいな、などと身の程知らずにも思っていたのだが(今の僕を知る人にとっては意外でしょ?)、脳みそがついて行けなかったことと、ある学者の本を何冊か読んで(ジョン・ヒックというイギリスの学者さんの本です。宗教多元主義の論客として有名)、「これって要するに本地垂迹じゃないの?(彼の宗教多元論は大いなる絶対者が各文化によって違う名前を持っているのだ、というような感じの意見でしたので。もちろんこれは無知な僕の一面的な思いこみに過ぎませんが)」と思ってしまい、一気に熱が冷め(辛酸なめ子さんなら「萎えました」と表現するところか)、このテーマを断念。そしてホームページでさらしているような日本近代宗教史と政教分離に関する卒論を9月あたりからでっち上げてしまったので、「先生なんか、夏休み前からきちんと準備して・・・」というえらそうな説教は到底できないしする気もない。

しかし、うちの学生さん達は真面目。感心する。僕や同級生の卒論に対する態度を思い出しても、彼等の爪の垢を呑むべきなのは明らかだ。

学生の皆さんへ。卒論は誰よりも自分自身が愉しんで書くべき長い作文だと思います。だから、僕みたいな教員の話は、話半分に聞いておいて、我が道を行ってください(いわれなくても、皆さんのほとんどが「我が道」を勝手に、且つ強引に行っていると思いますので、実は気にしていないのですが)。その道が崖へ一直線とか、そういう場合はちゃんと我々が止めますから。

July 05, 2004

シャラポワ優勝

実はこのところ、遅寝遅起きが慣習化してしまい困っている。というのも、原因はただ一つ。地球の裏側で行われているスポーツを真夜中にテレビ中継するからです。

テニスでは全英オープン(ウィンブルドン)、サッカーではユーロ2004と、共に激しく僕の生活のリズムを狂わせてくれました。そして、共に驚くような結果がでました。ユーロ2004は何とギリシャが神話的なストーリーを伴って優勝(これには本気でびっくり)。
そして今回のウィンブルドン女子シングルスでは、まだ17歳のロシアのマリア・シャラポアが、前回の優勝者セリーナ・ウィリアムズを破って優勝しました。今回の日記はこのシャラポワについての雑感。

まあ、彼女のモデルもこなす美しさは、他にも様々な皆さんがブログで語り、マスコミもその辺りは重々承知で報道していますので(写真などは例えばウィンブルドンの公式サイトや、恐らくファンが作ったであろうこのサイトなどを参照)、ここでは特に触れませんが、僕もご多分に漏れず、「シャラポワって足長いなあ」と惚けたように見入ってしまいました。妻は「あのスリットは犯罪的」といいました。僕も同感。日本の杉山愛選手との準々決勝は最初から最後まで見てしまいました(杉山さん、惜しかったですね)。シャラポアを見ながら、昔先輩に聞いたダーティ・ジョーク(一種の人種差別ネタですね、こりゃ)、「スラブの女性は10代の時は人間ではない(天使のようだから)、しかし30歳越えると人間以外のもの(例えば樽)になる」というのを思い出していました。

実は僕は中高5年間硬式テニス部に所属していたので、結構今もテニスの試合を見るのは好きな方なのです(公式戦では一勝もできずに引退しましたが)。そのころの僕のスターはちょっと渋く、マッツ・ビランデル(スウェーデン)でした。今、この名前でピンと来る人はあまりいないでしょうね(彼のバックハンドをお手本にしていたのです)。

それはさておき、このシャラポワの快進撃に見られるように、どうも女子においてはロシアテニスが一大勢力になりつつあるようです(ベストテンのうち4人がロシア勢だとか)。時代ごとに、ある国出身の選手が世界の頂点を占める、ということがテニスではままあるようですね(ベッカー・グラフを中心としたジャーマンテニス、古くはボルグ、ビランデル、エドベリを中心としたスウェーデンテニス、ナブナチロワ・レンドルを中心としたチェコスロバキアテニスなど。たとえが古くて済みませんが。アメリカはみんなが移住してくる国なので単純には言えませんが、この10年ほどはアメリカ勢が結構有力だったような気がします。アガシ、サンプラス、ダベンポート、カプリアティなど)。何か不思議な気がしますね。

今回17歳という若さでウィンブルドンを制してしまったシャラポワ嬢ですが、まだ他の大会でめぼしい成績を上げてはいないようですので、「燃え尽き症候群」にはならなさそうで、一安心です。彼女の躍動する姿はまだしばらく拝見していたい気分です。
実際、テニスという競技は「若さ」がものをいうところが大ですから(老成よりはスピードと反射神経がものをいう実も蓋もない競技です)、若くして大きな大会を制してしまって早々に燃え尽き症候群に陥るという選手が結構いると思います。カプリアティなんかその典型でしたよね(更生しましたが)。
テニスって(『エースをねらえ』がいう以上に)残酷なスポーツだと思います。
そういえば、今クルニコワとヒンギスはどうしているのかな・・・。

July 03, 2004

今日は本のまとめ買い

ボーナスが僕にも先日出て、ついつい財布のひもが緩みがちな今日この頃だが、今日は昼過ぎから京都駅の旭屋書店に行って、色々とまとめ買い。
昨日のコンパで学生に聞くと、結構街中のバーゲンセールに買い物に行っているようだが、今のところ特に欲しい服も思いつかなかったので、そっち方面は止めにして、いつもと代わり映えしない書店巡りで休日を潰すことにしたのだ。

で、今日買った本を羅列してみる。

・九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫(言わずと知れた名著だが、何故か僕の本棚にないことに気付き、今更ながら購入。これを読んで京都の祇園をフィールドワークするか←冗談)
・赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』ちくま学芸文庫、2004(日本の性を語る時良く引き合いに出される赤松氏の本が文庫化。解説は上野千鶴子先生)
・大塚ひかり『カラダで感じる源氏物語』ちくま文庫、2002(前に読んだ『太古、ブスは女神だった』が面白かったので購入)
・大塚ひかり『源氏の男はみんなサイテー』ちくま文庫、2004(上記の本の続編と考えればよいか。とがしやすたかの挿絵が強烈なので購入)

・広田照幸『教育(思考のフロンティア)』岩波書店、2004(教育社会学で色々面白い仕事をされている広田先生の新刊)
・広瀬浩二郎『触る門には福来たる』岩波書店、2004(全盲のフィールドワーカー、宗教学者である広瀬氏の新刊。新聞広告で知り購入。昔、広瀬さんの本を書評したことがきっかけで研究会でお話ししたこともある)
・西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争-吹田枚方事件の青春群像』岩波書店、2004(在日朝鮮人史上の大きなトピック「吹田枚方事件」を知りたいと思い購入)

・小澤浩『民衆宗教と国家神道』山川出版社、2004(日本近代宗教史家の小澤先生のブックレット)
・田川健三『キリスト教思想への招待』勁草書房、2004(キリスト教研究者の「突破者(?)」田川御大の新刊)
・杉山幸子『新宗教とアイデンティティ-回心と癒しの宗教社会心理学』新曜社、2004(僕は著者を存じ上げないのだが、なかなか面白そうな題材なので、購入)

とまあ、これだけ買ったのだが、読むのは何時になる事やら。
大体本のまとめ買いって、ストレス解消になりそうでならないところがある。新たに「読まねばならない」という義務感が生じるから、結局自分をいじめている気にさえなるが、そういうマゾヒズムが好きな者が学者なんだろうから、致し方ない。

July 02, 2004

ゼミコンパ

今日は、第一回の川瀬ゼミコンパ。

場所は一乗寺の住宅街にある「いるか喫茶バー」というちょっとコジャレた感じのお店(多分、できて間もないだろう)。やはりお店の選定は学生さんにやってもらうに限る。僕が知っている店は少ないし、行動範囲も狭いので、ついついおきまりのお店に行くことになりがちだが、学生は大学からちょっと離れた良い店の情報をいくつか持っていて、毎回愉しませてもらっている(今回も幹事役をひきうけてくれたM君に感謝!)。

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(お店の外観)

今日は偶然だが、ゼミ生のKさんのお誕生日ということもあり、サプライズということで、こっそり有志が誕生日ケーキを買ってきて、最初の乾杯と共に「Happy Birthday to You」を歌って宴は始まった。
このお店はカクテルの種類がものすごく、僕もいくつか飲んだことのないものを注文(まあ、95%は呑んだことも聞いたこともないカクテルなのだが)。結構甘そうな名前なのにやたらきつかったりと個性豊か(僕が頼んだのはマグノリアなんとかというやつ。他は忘れた)。学生も思い思いのものを注文しまくり、それをお互い回し飲みして、結構みんな良い具合に酔っぱらう。話した内容はほとんど忘れたが、少なくとも学問的な真面目な話ではなかったことは確か。覚えているのは、何人かから「川瀬先生はどうやって結婚したんですか?」という質問を執拗に受けたので、それに対して返事したことと、「私、双子座の男に酷い目に遭わされてばかりなんです。でも、今は魚座の彼ができて(以下略)」という、ある学生の告白くらいだ(笑)。

3時間ほどの一次会が終わり、二次会はいつもの「ジャンカラ」と呼んでいるカラオケへ。
今回はあまりお笑い路線に走らず(この前大学院生とのカラオケでは、ブリーフ&トランクス「青のり」とかまで歌ってしまって反省)、久々に尾崎豊なぞを歌ってしまう。

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(熱唱する学生諸君)

あとはデュエットの要請があったので、「ロンリー・チャップリン(鈴木聖美・雅之)」とか「愛が生まれた日(大内義昭・藤谷美和子)」なども。あと、何故か清水健太郎の「失恋レストラン」もリクエストされたので、調子に乗って熱唱。
それを終えて、かすれ声のまま終電で帰宅。

July 01, 2004

ライブドア頑張れ

僕は昔からの「ホークス」ファンなのですが(生まれ育ちが南海高野線沿線というのもあって)、今回の近鉄・オリックス合併騒動、はたまた1リーグ制か、という問題にも、さすがに無関心ではいられませんでした(僕は基本的に2リーグ制支持派です)。
関西育ちというのに、実はそれほど阪神タイガースに昔から肩入れできなかった僕は(この性格のおかげで友人を何人か失いかけました)、判官贔屓というのでしょうか、結構セ・リーグよりもパ・リーグ、『巨人の星』よりは『あぶさん』を愛するマイナー指向の持ち主なのです(ですから、大学の専攻もマイナーなものを選んでしまいました)。

さて、その近鉄を買い取ってやる、という侠気を見せた企業が現れました。その名も「ライブドア」。インターネットビジネスの風雲児、堀江貴文氏が率いる新進気鋭の会社と申し上げて良いかと思います。
実は、本当に偶然なのですが、僕は堀江氏とちょっとした関係があります。というのは、実は彼は、僕の大学時代の学科の一つ下の後輩なのです。しかし学生時代からこの手の仕事で辣腕を振るっていた彼は全く大学に来ず(僕が彼の姿を最後に見たのは、年末のゼミにふらっと現れて、先生から「出席が足りなさすぎるねえ」とお小言をもらっていた現場です)、そのままフェードアウトしてしまい、いつの間にか、僕などは及びもつかない「金持ち父さん」(お子さんがいるかどうかは知りませんが)のお一人になっていました。

でもお金を持っているんだからすんなり移譲、というわけにはどうもこの世界は行かないようです。ライブドアの参入に、渋い顔をしている球団オーナーや関係者が結構いるとの報道もなされています。曰く球団経営を本気でやるのか、その資金は大丈夫なのかetc。大体、球団経営にまず参加料として30億円必要だ、というのを、初めて僕は今回の報道で知りました。これは一体なんでしょう。家を借りる時の敷金みたいなものでしょうか?謎のお金ですね。どういう使われ方をしているのでしょうか?ご存じの方はご一報ください。

しかし、「野球を愛しているかどうか」とか、そういう抽象的な条件より、第一に「球団を経営できる財政的な足腰」があるかどうかが問われなければなりません。堀江氏は会見で「自信あり」と明言しています。選手も地元ファンも、野球を愛する「貧乏父さん」より「野球?ほとんど知らないけど、ビジネスチャンスの一環だと思って」という軽い気持ちで球団経営に乗り出す「金持ち父さん」の方が、結果としてはありがたいのです(Jリーグのヴィッセル神戸の経営に乗り出した「楽天市場」を思い出しましょう)。選手も「合併よりは買収されて欲しい」との本音を述べています。
恐らくこれから身に降り掛かるであろう(1リーグ制に移行したがっている人からの)姑の嫁いびりのような嫌がらせに負けず、堀江氏にはふてぶてしく前進していただきたいと思います。


というわけで、僕は堀江氏及びライブドアを応援しています(あれ、この口調、どこかで聞いたことがあるような)。

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