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July 22, 2004

「科学的知識」を得るって?

今日の夕方、立命館大学のある研究会にお邪魔した。
立命館大学大学院先端総合学術研究科(この研究科は、学部から独立した研究科で、なかなか面白い試みをしているところだ)が主催した、「争点としての生命」プロジェクト研究会、というもの。
今回の研究会の共通テーマは「リテラシー」。リテラシーという言葉は、昨今では「メディア・リテラシー」という言葉が一番メジャーだろう。これはメディアが発する情報の取捨選択は消費者(市民)側が行わねばならない、つまり「もっと見る目を養わないとコロッと騙されるかもよ」という警鐘を鳴らす言葉だが、情報といっても、様々ある。この研究会では特にその中でも「科学的情報(知識)」に焦点を定め、我々一般市民が「正しく」科学情報を理解するとはどういうことか、もしくは理解せねばならないとされる社会はどういう社会か、ということを問題として考えようという試みであった(と思う)。

発表者は二人で、お一人目は、柄本三代子先生。柄本先生は『健康の語られ方』(青弓社、2002)という著作のある研究者で、この本のタイトルからも判るように、健康をめぐる言説を研究している方だ。もう一人は武藤香織先生(信州大学講師)。実は、僕と武藤さんは大学時代のサークルの先輩後輩の仲で、今回の研究会も、武藤さんに誘っていただいたのだが、共に面白いご発表で大変勉強になった。そのことに関するメモを今から書く。

柄本先生のご発表のタイトルは「リスク社会における『リテラシー』というものの活況」。このタイトルだけだと判りづらいが、テーマは、ズバリ「食品」をめぐるリテラシーについてだった。「リスクマネージメント」という言葉が人口に膾炙し、それとセットに「自己責任(論)」が語られる昨今だが、例えば食品について、我々はどこから情報を得て、どのように判断しているのだろうか?そしてその判断は適正なのだろうか?そのようないわゆる「ヘルスリテラシー」を中心にしたご発表で、大変面白く拝聴した。
健康に関する情報、といえば皆さん真っ先に思いつくのが、みのもんた教、別名「おもいっきりテレビ」とかでの情報とかではないか?「はなまるマーケット」でも「ためしてガッテン」でも「発掘!あるある大事典」でも何でも良いが、とにかくこのような番組の情報によってある食品の一過性のブームが嵐のように世の中を席捲するのを何度も我々は見てきた(スーパーも、夕方には昼までになされた番組に基づいたポップを立てて宣伝するくらいだ)。最近だと、例えば「へルシア緑茶」のような「特定保健用食品(特保)」と呼ばれる製品が大ヒットした(厚生労働省の規定では、この特保は「食品」と「医薬品」の間の存在とされているそうだ)。
では、果たしてこのような動きは「リテラシー」があるといえるのだろうか?実は、ここが難問だと思う。「リテラシー」は一種の「能力ability」だから、「話を聞いて自分で判断して行動する(そして結果としてブームを作ってしまう)」皆さんは、ある意味「リテラシー」を持っていると言えるかも知れない。しかし昔からの常套句「マスコミに踊らされているだけ」という批判も簡単だろう。専門用語では、食物や栄養が健康に与える影響を課題に信じたり評価することをFood Faddism(FF)というそうだ。FF批判は当然であり必要だと思うが、では、ブームを作り出す人が単に「騙されて」「踊らされているだけ」だとすると、真に正しい情報とはどのような情報なのか、それを判断する術は果たして我々にあるのか、という問題が立ち上がってくるだろう。例えばいわゆる学者や専門家の書いた栄養学の本が正しいかといえば、中には「トンデモ本」といいたくなるようなものもあったりする(例としては「キレない子供」を育てるにはこのような栄養を与えるべきだとか、そういう類の本)。
情報は増えて複雑になるばかり・・・だと、求められるのはいわゆる「専門家」のアドヴァイスであろう(厚生労働省自身がこのようなアドヴァイザリースタッフの必要性を述べている)。要するに錯綜する情報を「誤読」するしかない状況の中で、このような専門家の需要というものが「作られていく」のだ。ここにもプロフェッショナリズム(専門家にお任せ、という風潮)の問題が生じている。素人も色んな分野に口を出せる範囲が広がったのが現代社会だが(大衆社会、というのは基本的に「素人」の社会だ)、高度に複雑化していくと、やはり「専門家」にお任せの風潮が生まれる(税金とか法律とかも、素人には難しすぎるから税理士やら公認会計士やら弁護士という職業が成り立つのである)。そのような流れはある程度仕方ないのかも知れないが、恐らく今度はそのようなアドヴァイスに接することが出来る人と出来ない人との間にいわゆる「情報格差」が生じることになるだろう。
もう一つ、柄本先生の話で興味深いと思った話題が、「食育」という言葉である。これは要するに「健全な精神は健全な家庭(一緒に食事をするような家庭)から」という考えである。厚生労働省でもこれに関する検討会が開かれたり、自民党議員たちが議員立法を目指したりと、なかなか侮れないテーマなのだ。この動きには「最近のガキはなっていない→なっていないのは家庭が悪い→家庭を良くするには、昔のような温かい家庭に戻すことが必要」という単純すぎる考えが透けて見えるし、それを批判するのは容易だが、一番の問題は、このような検討会が組まれるのは「最近の家庭は全て機能不全」という斎藤学もびっくりの(笑)ペシミスティックな思いこみからスタートしているこということだ。こういう(根拠のない)思いこみを我々は「イデオロギー」と呼ぶのだ。


さて、次は武藤先生のご発表。武藤さんは医療社会学を中心に研究されている方で、特に難病の患者会の社会的動向や、生体肝移植を巡る問題や、胚の実験を巡る生命倫理的問題など、多岐にわたって研究されていて、いつも僕は耳学問させてもらっている。
今回の発表タイトルは「ヒトゲノム・遺伝子解析研究の普遍化-大衆化とリテラシー」というもの。「ヒトゲノム」という言葉は新聞にも解読されただとか特許競争だとかの文字が躍ったので、何となく判った感じになっている言葉ですが、実は良く僕も判っていません。僕の判る範囲で今回のご発表の内容をまとめると、ヒトゲノム(遺伝子)解析によって、個々人のかかりやすい疾病などが判る時代になりつつある(中には遺伝病に罹患するリスクなどさえ判ってしまう)、であるから一生懸命ヒトゲノムを解析しまくってデータを貯めて、最終的には「こういう遺伝子パターンの人にはこの薬」というような「オーダーメイド医療」を長期的には定着させよう(医療費の軽減にも繋がるし)、という国家プロジェクトが現在密かに進行中なのだが、情報提供者であり、時には自分や家族の遺伝子情報を授けられる我々のリテラシー問題はどのようなものか、という問題提起であったと思う。
最近の病院では「インフォームド・コンセント」という言葉がよく使われる。これは患者には充分な情報を医師は与えるべきだ、という考えに基づいているが、裏を返せば「判断するのはそちらですよ」と医者から下駄を預けられるということでもあるだろうし、そもそも情報を与えられたからといって、患者及び家族が本当に「自主的」な判断や行動を起こせるか、というのは大いに疑問な所だろう(情報が与えられたところで「よろしくお願いします」としか普通は言えないだろう)。遺伝子解析のプロジェクトにしたって、「医学の進歩のためなんですよ、ちょこっと血液取らせてくれませんか?」という医師の言葉に逆らえる人は少ない。そして解析した結果「あなたは将来糖尿病になる可能性が極めて高いので云々」とか、時には致命的な遺伝病の存在のような「知りたくもなかった情報」すら教えられかねない時代に突入しつつあるのだ。まとめるなら遺伝子解析による「知見」は

(1)病気に「なる」という情報(遺伝病など。この場合は「子供を作る」、という選択に圧力がかかることが予想される)
(2)治療法の選択に直結する情報(オーダーメイド医療への期待。現状はまだここまでは行っていないが)
(3)病気の「なりやすさ」に関する情報(予防行動のアドヴァイスが与えられ、「あらかじめアドヴァイス与えたのに、病気になったのは自業自得」というような自己責任論へ繋がっていく)

という三種類に分けられ、ここまで来たら、「一体(情報を聞く側の自由を却って奪うような)インフォームド・コンセントって何?」という根源的な疑問へと行き着く。武藤さんも強調していたのは、例えば後発性の遺伝子疾患などの「情報」を「知らないでいる権利」というのもありなのではないか、という問題提起であった(この問題提起に関しては「何を知らなければ自分の有利か、というようなことは、最初からその情報を知らなければ言えないのではないか」という疑義が出された。確かにそうかも知れない)。

あと、武藤さんが問題提起されていたのは一つは「コーディネーター」という「仲介者」の存在が病院では大きくなっているということ。例えば脳死臓器移植や前述の遺伝子解析プロジェクトでは「コーディネーター」と呼ばれる人たちが、医師のような「高圧的な物言い」ではなく、あくまでもソフトに「協力してくださいませんか?」という形で医療現場に介在することがここ近年とみに増えているそうだ。でも、これは武藤さんに言わせると「ソフト・ランディングを狙っているだけじゃないのか」ということになる。事実、患者や遺族の「説得」に失敗したコーディネーターが医師から怒鳴られるなど、そういう事例に事欠かないそうだ(これなどは、医師が本来受けるはずだったストレスを代わりに受けているのがコーディネーターだ、という構造だ)。
もう一つは、ジェンダー的な問題。これは最近問題になっている「余剰胚の実験利用」などに顕著だが、要するに女性を「卵という実験資源」を持つ存在と見なしたり、例えば夫や子供が肝臓や腎臓の移植が必要だ、ということになると「働いているお父さんのために、専業主婦である妻のあなたが提供すべきだ」というような有形無形の圧力がかかってきたり(事実、生体肝移植や腎移植は女性の提供者の方が多い)、代理母という「子宮の有効利用」やら(「不妊の娘の代わりに、母親の子宮が使えるんなら、使えばいいじゃないか」という放言をした生命倫理学者がいたそうだ)、もっと行くと中絶胎児や死産児の実験利用など、ヒト由来の「モノ」を利用する視点、つまり「女性の資源化」が進行しているのではないか、という問題提起だった。これは大いに頷かせる問題提起で、考えざるを得ない(育児や介護現場の女性の資源化については言わずもがなであろう)。

お二人の発表は共に、簡単に結論が出るような代物ではない(そんなに簡単に解決する問題は少ない。そんなに世の中が単純だったら、学者のおまんまの食い上げだ)。でも、誰もがこれから直面せざるを得ない問題なのだ。誰もが直面せざるを得ない問題に限って、解決策はないものなのだが。
とにかく、非常に啓発的な発表を聞けて、満足して帰った僕なのでした。

(上記の2名の先生のご発表の内容に関しては、勝手にまとめた僕に全ての文責があります)

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Comments

最近、研究者の立場性やら認識論やらをreflexiveに問う研究が異様に多いですね。もちろん、川瀬先生がご紹介の上記2研究は深みを感じますけれども。

ただ、あんまり仮想の状況を論じていてもしょうがないので、現場ではこうです、とか、こういう事例が実際にありました、というレベル中心に抑えておくほうが得策な気がする時もあります。

でも、たとえば「宗教リテラシー」「心理リテラシー」なんてのは立場性を超えて存立しうるのでしょうか。
たとえばカルト問題などについては、宗教学専門家の見方よりも、反カルト運動の長年の警鐘のほうが実態をうまくつかんでいた側面もありました。
心理リテラシーは『フロイト先生のウソ』(文春文庫)などを読むと、もはや「ポップ心理学」「精神分析批判派」「アカデミック心理学」のあいだの差異など、もはや「宗教戦争」の域に・・・(笑)

まとまりませんが、この辺で。
今日の記事は、確かにSafariでは全部は表示されませんでした。

Posted by: KOIKE | July 24, 2004 at 01:39 AM

>最近、研究者の立場性やら認識論やらをreflexiveに問う研究が異様に多いですね

それだけで終わってしまう研究論文も確かに目がつきますが、蛇足ながら上記のお二人のご発表はそうではありませんでしたよ。
文化人類学とか、宗教学、社会学の「フィールドワーク」や「インフォーマントとの関係」という問題意識が実際の調査を躊躇わせている、という実情はあると思います。現在、「安楽椅子の人類学者」が却って増えている気もします。


>ただ、あんまり仮想の状況を論じていてもしょうがないので、現場ではこうです、とか、こういう事例が実際にありました、というレベル中心に抑えておくほうが得策な気がする時もあります。

もちろん、事例・実例は重要ですが、倫理学(哲学)では、極端な状況にも耐えうるように思索を深める、というのも必須なのではないでしょうか?

>たとえばカルト問題などについては、宗教学専門家の見方よりも、反カルト運動の長年の警鐘のほうが実態をうまくつかんでいた側面もありました。

カルト問題の弁護士さんの言葉の方が「目標(詐欺性があったことを立証し、勝訴する)」が設定されているだけに、「説得的」に聞こえますよね。宗教学者はそういう「目標」がないから(下手にあったら困りますが)言葉の弱々しく聞こえてしまうのだと思います。

>心理リテラシーは『フロイト先生のウソ』(文春文庫)などを読むと、もはや「ポップ心理学」「精神分析批判派」「アカデミック心理学」のあいだの差異など、もはや「宗教戦争」の域に・・・(笑)

僕の立場をここで表明するなら、全ての心理療法や精神分析に賛同するものではないですが、その「有効性」は認める立場です。とくに、精神分析に関しては、臨床の現場から「使い物にならない」「よけい患者が悪化する」などの報告も寄せられており(もともとフロイトは精神病ではなく、神経症を治療する有効手段として精神分析を創始したのだが)、臨床からの声に耳を傾けざるを得ないと思いますが。
その他の流派の心理療法も改善されて、今日に至っているわけで(その「内ゲバ」自体はとりあえず棚上げします)、現在、機械的なフロイト主義者は臨床の現場にはいないのも周知のことですし、精神分析に関しては、臨床的に有効であるという視点は採りませんが、文化理論、文化批評、文芸批評などに有効な方法として、私は精神分析を採用したいと思っています。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | July 24, 2004 at 05:48 PM

面白く読ませていただきました。

医師の友人に聞いてみると、健康情報番組はハナで笑えるようなものがほとんどだそうで。ただ定説やプロフェッショナルがどこまで信用できるかという問題もないことはない。面倒な世の中になったものです。もはや「話半分」という古来の知恵に頼るしかないのか(笑)。

「食育」っていうのもねえ。母親が専業主婦で食事をきちんと作ってもらい、弁当を持ってくるタイプの生徒が、両親からの抑圧に耐えかねてつぶれる、というのも不幸ですがよくあるケースですよ。わはは。

Posted by: ガメ | July 25, 2004 at 12:48 AM

ガメ様、コメントありがとうございます。

>もはや「話半分」という古来の知恵に頼るしかないのか(笑)。

本当にそうですよね。でも、実は消費者側も「うまくいったらもうけもの」くらいに楽しんで情報を消費しているような気もします。

>「食育」っていうのもねえ。母親が専業主婦で食事をきちんと作ってもらい、弁当を持ってくるタイプの生徒が、両親からの抑圧に耐えかねてつぶれる、というのも不幸ですがよくあるケースですよ。わはは。

結局、こういう提言をする官僚や政治家の「家族イメージ」が旧態依然なんですよね。しかし、彼等の「思いこみ」に助力を与えているのが、ある種の心理学だったり、社会学だったりするのも何だかなあ、って感じです(笑)。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | July 26, 2004 at 01:27 PM

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