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July 11, 2004

心理療法と宗教哲学

えらく難しいタイトルになったが、今日は上記のようなテーマの研究会(合評会)に出席したので、そのことについてのメモを。

京大宗教学出身の先生方が中心となった科研報告書『心理主義時代における宗教と心理療法の内在的関係に関する宗教哲学的考察』(代表:岩田文昭先生、2004年3月)の合評会が本日京大文学部で開かれたので、この報告書をいただいた僕も、自転車をとばして参加しにいった。ほとんどは初対面の先生方ばかり。特に、東大宗教学の関係者は僕だけ。こんなに「京大宗教学」の雰囲気のどっぷりつかるのは、10年ほど前に、京大の長谷正當先生が東大に集中講義に来られた時以来だ(長谷先生の話はやはり難しく、リタイアしてしまったのだが・・・)。

大変長いタイトルの科研報告書だが、中心テーマとしては「心理療法」や「スピリチュアル」という昨今の「心理学化する社会」において重要度が増しつつあるトピックを考えようという趣旨だった(と思う)。京大宗教学(宗教哲学の伝統が色濃い。今日の研究会には、現スタッフの氣多先生や杉村先生もご出席)の皆さんがなさる研究なのでいわゆる「現状報告」的な論考よりも、それこそ哲学的に「スピリチュアルとは何ぞや」「健康とは何ぞや」といった話題で盛り上がった。良くも悪くも「俗っぽい」と言われる東大宗教学の影響を受けている僕には新鮮だった(俗っぽいというのは、程度問題です。念のため)。

今回僕にとって収穫だったのは、もちろん発表された先生方とお知り合いになれたことだが、もう一つ、名前だけ存じ上げていた精神科医の加藤清先生の話が聞けたことだった。加藤先生は『癒しの森』という本を編まれた方で、僕もこの本は以前読んでいた。この加藤先生(今年で御歳83歳!)の話がめっぽう面白く、笑わせてもらった。そのライブ感を皆さんにお伝えできないのは残念だが、何せ西田幾多郎や田辺元やヴィクトル・フランクルの謦咳に接している方ですから、言うことの重みが違う。一番心に残った言葉は「癒し、癒しというのは本当に卑しいこと」という名言(笑)。他にも「フランクルは健康なボーダーライン(境界例)だった。だからアウシュビッツを生き延びることができた。ここにいる皆さんなら生き残れないよ(笑)」というのも笑ってしまった。あと「宗教と心理療法を比べるとお互いの足りない部分が見えてくる。心理療法から見れば宗教の盲目性が目に付くだろうし、宗教から見れば心理療法の空虚さが目にはいるだろう。それを今までは相補的に捉えてきたと思うが、果たしてそれだけでよいのか」という加藤先生の問題提起は重く心に残った。信仰を持たない人が多くなった現代社会で(僕もその一人だが)、「宗教の語彙が通じない人に、果たして如何なる方法で宗教的(もしくはspiritual)なケアができるのか」という問いは、現場では本当に深刻なものとなりつつあるように思われる(そもそも医療現場では、とらえどころのない「スピリチュアルなケア」などという言葉もなかなか通じないだろう。話を長々と聞くより薬を与えるという方が「効率」の面からしても良いわけで、そういうプラクティカルな態度は大いにあり得る)。

現代社会は「心理主義」と呼ばれる思潮が隆盛を極めている社会だと僕は認識しているが、その長所を生かしつつ(今更完全な否定はできないし、僕自身精神分析の考えなどは大変優れた人間論だと思っている)、批判すべき所は批判していく方策を個人的には模索中なのだが、今回の合評会に出席して、僕自身の「散文的」な考え方を少し反省させられた。「散文的」というのは、要するに、今までこの「心理主義」の問題を僕は哲学的に考えず、どちらかというと社会学的なパースペクティヴで考える事が多かったというのを指している。もっと言えば単純明快な「機能主義functionalism」的見地に偏っていなかっただろうか、ということである。「宗教の代替物としての心理療法・精神分析」という考え方は、その時点で「心理療法」の「存在理由」を既に担保しており、それについての根源的な批判はできづらくなっているのではないか、という反省である。別言すれば、昨今の心理療法の「操作主義」について、結局「程度問題(どこまでなら「操作主義」と批判されずに済むか、という線引きの問題)」として問題を矮小化してしまう恐れがある、ということだ。

あらら、今日は感化されて妙に脳みそが難しいことを言いたがっているが、僕の限界はこの辺だろうから、一旦止めておこう。

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Comments

くだんの報告書は、案外社会学的調査とかが難しいこの領域について、ほう、なるほど、そういう調査研究の仕方もあるのか、という意味で興味深い&優れた先駆的なモノだと思いました。

「心理主義の社会学」の弱点は、インフォーマントへのアクセシビリティが悪いのと、ざっぱくな文明批評に陥ってしまいやすい点です。

ただ、ぶっちゃけ、心理主義文化のそれなりの「消費者」であった自分の実体験からしても、今の心理主義批判論者は心理学を過大評価しすぎです。カウンセリングにそんなに人を変えれるほどの効果はないですよ、マジで。

スピリチュアリティ研究はまた話が違ってきますね。
何より問題は、日本の場合、当事者があまりスピリチュアルという言葉を使っていないことです(この10年でずいぶん増えはしたが)。そこで研究者がスピリチュアルと思うことを対象にし記述していくと、それはほとんど宗教性と同義になってしまって、広げば広げるほど「宗教的現象に宗教性を発見しました」ってなトートロジーになりかねないですよね。

「スピリチュアル・ケア」なんかを病院で実施してなくても、アメリカ人より日本人のほうが長生きなんすから(笑)

こいけ先生

>「心理主義の社会学」の弱点は、インフォーマントへのアクセシビリティが悪いのと、ざっぱくな文明批評に陥ってしまいやすい点です。

これは痛感しますね。特に今、授業で土居健郎の『甘えの構造』なんか読んでいるから余計にそう思います(笑)。土居先生、お年と共に大雑把な文明批評ばかりになってきているもんなあ。

>今の心理主義批判論者は心理学を過大評価しすぎです。カウンセリングにそんなに人を変えれるほどの効果はないですよ、マジで。

あらら、そんな実も蓋もないことをこいけ先生が言うなんて(笑)。
昨日の議論では「心理主義批判」というのは、結局は広い意味で「専門家professionalism批判」の一つだ、という意見があって、僕はそうだなと納得しました。

>そこで研究者がスピリチュアルと思うことを対象にし記述していくと、それはほとんど宗教性と同義になってしまって、広げば広げるほど「宗教的現象に宗教性を発見しました」ってなトートロジーになりかねないですよね。

これは僕も同感。昨日の議論でも、僕が発言したのですが、「例えばAAとか内観をすぐに「これも一種の宗教だ」と「本質直感」してしまう僕の判断には根拠があるのだろうか?」という、ちょっとその場の哲学っぽい雰囲気に合わせたことを口走ってしまいました。「宗教とは宗教的なものの顕れてある」という同語反復を避けることはできないのだろうか・・・という疑問は、ウィトゲンシュタインで卒論を書いた先輩と話して以来の僕の疑問でもあります。

あれれ、またややこしいことを書いてしまったなあ。

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