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August 09, 2004

いちゃもん

リンクを張っているガメ様のブログで今朝知ったのだが、8月7日付の讀賣の社説は、これまたひどい代物だ。最初読んだときはその意味が良く取れず、二度目にようやく意味が判ったのだが、判ったところで、開いた口はふさがらない。

広島原爆忌の平和宣言で、秋葉忠利市長は「政府は、世界に誇るべき平和憲法を擁護し、国内外で顕著になりつつある戦争並びに核兵器容認の風潮をただすべきだ」と述べた。
 平和宣言で、憲法改正問題に踏み込むのは異例のことだ。護憲を反戦や反核と結びつける主張は、冷戦時代の左翼勢力の思考だ。これでは、世界に誤ったメッセージを伝えてしまう。

何でも市長が平和宣言で政治的主張を原爆の日に言ってはいけないんだそうだ。護憲と反核運動を絡めるのも、どうもこの社説によると好ましくはないようである。でも、何がいけないのかが全然判らない。どんな誤解を招くというのだろうか。
讀賣新聞は広島市長を「政治家」と見なしていないのだろうか。アジアカップの開会式とか、オリンピックの開会式で「反核・護憲」を唱えたわけではないのである。原爆に思いを致す式典の挨拶で「政治的な表明」を述べているのである。これ以上の相応しい舞台があろうか。

社民党衆院議員から転じた秋葉市長には憲法改正の流れに歯止めをかける狙いがあったのかもしれない。だが、自らの政治的な思惑に基づいた主張は、被爆地の心とかけ離れ、反核運動から国民を遠ざけるだけだ。

被爆地の心とどうかけ離れているのか、納得する説明を聞かせてもらいたいところだ。ただ、情緒的に訴えようとレトリックを使っただけなのだろうから、ハナから無駄なお願いだろうけど。
護憲を唱え、改憲の雰囲気に水を差すようなものは全て悪者に仕立て上げようとするこの社説、論理的に破綻しているのは明らかで論評する気にもならないが、一言だけ。
こういう言い回しを日本語では「いちゃもん」と呼ぶのだ。

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

Comments

初めまして。

讀賣新聞の社説に、その様な事が載っていましたか。
いかにも、自民党を後押ししている讀賣らしいですね。

しかし、ナベツネさんは、学生時代はバリバリの共産党員だったそうですよね。
よく、こうも変われるものです・・・。

ぶーすか様、初めまして。コメントありがとうございます。
僕はお察しの通り(?)朝日新聞を取っているものですから、この社説のことは知らなかったんですよ。本当にびっくりしました。「冷戦時代」とか、その物言い自体がものすごく古くさいこともさておき、これじゃ2ちゃんねるの「サヨ」たたきと選ぶところがありません。

ナベツネに関してはぶーすか様もブログで書いてらっしゃいますが、もと共産党員だろうが、ダメな人はダメ、ということでしょう。実は共産党的な中央集権、独裁的な気質はまだ彼の中にしぶとく残って、讀賣を食い物にしているのかも知れませんが。友人が讀賣で働いていたりするので、あまり悪口は言いたくないのですが、ナベツネとこの社説だけは・・・。

おおっとトラバしていただいていたのですね。多謝です。

元学者の(笑)舛添要一氏がテレビで「今や改憲の是非がどうこうではなくてどう改憲するかを話し合っているときなのに」云々とのたもうていました。読売の社説にも近いものを感じます。小選挙区比例代表並立制が決まったときのような、「もはや時代の趨勢はこっちだ」という勢いだけ、というような。自分はめだかの群れの先頭を泳いでいるつもりなのかもしれませんが……。

ガメ様

ガメ様の記事を読んで書いたものですから、TBをお送りしました。

>「もはや時代の趨勢はこっちだ」という勢いだけ

いわゆる「バスに乗り遅れるな」という掛け声ですよね。僕はこの言葉が大嫌いです。「時代の趨勢はこっち」というのは、実は単なる思考停止の言い訳にしか聞こえません。元学者の舛添氏にしてこの発言か・・・。頭がクラクラします。
こんな時代となっては(最早「戦前」かも知れません)、学者になろうとしている僕は「反時代的」に生きようと益々思ってしまいます。

追記:たまたま今日読んだ『丸山真男集』第5巻(岩波書店)に所収の「「現実」主義の陥穽」というエッセイは、1952年に書かれたものですが、まるでいま現在のことを言っているかのようでした。
丸山曰く、

現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します(pp.194-5)。

ですとか、

すなわち、その時々の支配者の選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです(p.197)。

とか、肯く言葉が目白押し。でも、丸山先生も50年前の文章がそのまま通用してしまう現実を草葉の陰で哀しんでおられるに違いないでしょう。

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