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September 28, 2004

mixiとGREE

最近(でもないか)何かと話題のソーシャル・ネットワーキングサーヴィス(SNS)についての雑感を書こうと思う。僕はタイトルに挙げた二つのSNSに加入している。両方とも友人に誘われて入って(mixi学科の同級生に、GREE大学の語学クラスの友人に)それなりに楽しんでいるが、様々なブログで批判も含めて言及されているし、自分でも「これは一体何なんだろう」という思いがしてきたので、ちょっと言語化してみたかったのだ。

SNSについて簡単に僕なりに説明すると、「友人の紹介状がないと入れないパーティー会場のような会員制サイト」であると、とりあえずは言えるだろう。「招待状メール」が友人からやってきて、とりあえず入って「自己紹介」(登録)をすれば、あなたもそのパーティーの一員、という感じかな(このブログをお読みの「リアル知り合い」の方で、ご興味がおありの方はご連絡を。いつでも招待メールはお出しします)。

まず、両者の「使い勝手(インターフェイス)」などを比較すると、僕としてはmixiの方に軍配を揚げたい。パッと見やすいデザインになっている。GREEの方は、特に、所属しているグループやコミュニティの新着スレッドが見づらいと思う。
でも、両者の「できること」はほぼ同じなのだ。ゆえに「デザイン」という点でだけ、僕はmixiを贔屓にしている。

どちらにしても、現実のパーティーと同様に、当初の僕の予想よりは知り合いは増えない感じがする(出会いが無制限なネット世界だから、一部では知り合いが数百というように、現実にもあり得ないだろうというような「繋がり」を誇示している人もちらほらいるが)。知り合いが増えないのはまあ、僕の方から積極的に動いていないから、当たり前といえば、当たり前だが。まあ、僕の印象だと、100人以下が妥当なところでしょうね。

で、大雑把な全体の印象論だが、GREEの方は、出身大学や所属をはっきりさせて同窓生、同業者、もしくは繋がりができそうな異業種の人を探すという色彩が濃いらしく、どちらかというとビジネス向きだと思う。GREE自体、積極的に大学、高校などの同窓会や、会社のグループなどを作らせるように促していますしね。
mixiは、それに比べると「趣味的」な色彩が濃く、僕のような「自由業」(笑)の人に合っている気がします。
どちらも自分がどのような人間であるかを、学歴や所属だけでなく、趣味などを開陳することができる(というか促される)ので(どのようなコミュニティに入っているかでその人の属性が分かる仕組みになっています)、ネットを漫然とうろつくより、趣味の似た人をゲットする確率は高いだろう。ちょっぴり「閉じた世界」というのも、ある種の「選ばれた感」というか、プライドをちょっぴりくすぐる仕掛けになっていると思う(SNSへの批判もこの部分に集中しているようだが)。

このSNSの閉じられた世界は、ネット上のオープンな性質に合わないのでは、という批判もあるが、それは例えばGREEの運営者の言葉では以下のように説明されている。

友人の紹介がないと利用できなくしたのは、GREEを、バーチャルな世界で知らない人と出会うためではなく、現実社会の友人との交流を深めるツールにしたかったから。「現実社会で人と知り合うときは、知り合いづてで紹介を受けることがほとんど。それと同じ仕組みを目指した」。

「ネットは確かに、世界中の知らない人と出会えるツールかもしれない。でも、普段チャットやメールしてる相手の99%は、毎日会ってる友人だから」。

そういわれればそうかもなあ、と思わず肯いてしまいそうになる。でも、僕の元教え子のumeten君が言うような「違和感」も同意してしまうのだ。ちょっと長いけど引用。彼曰く、

これが根本的な理由なのだが、今もってこのソーシャルネットワークというものが、一体何なのか、どういう意味を持つものなのか、さっぱりわからないのである。 もちろん、すでにファンを擁する文壇人や論壇人、芸能人に一芸者などであれば、ブログなんかよりもはるかに密な、コアな関係性を築くことができるのだろう。 また、ネット関連業界人や、デジタルクリエイターなる人々にとっては、同好の士、あるいは仕事上のパートナー探しにも役立つことだろう。 ついでに、若い女性であれば、匿名の利便性でもって、めったやたらに男性から声をかけられて(コメントを書き込まれて)、一種のネットアイドルとなることもあるだろうし、そこから発展して出会い系的な作用も持ちうるだろう。 が、しかし。 私のような、特に取り立てて芸もなく、ついでに身長も体重も平均に満たず、姿形も特にどこをどうナナメに見ても秀でているわけでもない男性が、ソーシャルネットワークに参加して、一体、何をどうすればいいのだろうか?

(中略)

せっかくネットというフリースペースにいながら、なぜ、わざわざそのような閉鎖的な空間を作る必要があるのか。
閉鎖的であるからこそ、一種の「自由/義務」的な空間が獲得できるということなのか。
ではなぜ、私はその閉鎖的空間に入会していながら、内部にいながら、そこにさらなる閉鎖性、外部感覚を感じてしまうのか。
それはつまり、結局、私がどこにも所属していないからなのか。

(中略)

つまり、強烈な一対一の関係性の「獲得」という明確な「ゴール」がはじめからある「出会い系」に対して、ゆるやかな横のつながりというイカニモお手ごろ価格の「いやし」商品的空間を提示し、そして、「その空間の存続自体を各メンバーに自己目的化させる」という、曖昧かつ「すでに決定済み」の目標を掲げる「ソーシャルネットワーク」は、そもそもその本質において、「メンバー間の密接な関係性の構築」とはまったく無縁のシロモノだったのではないだろうか。

特に、実はSNSがメンバーの密接な関係性の構築はめざしていない(できないのでは?)という指摘は非常に的を射たものだと思った。umeten君が言うように、僕が例えば有名な作家とかなら大変なことになっている可能性があるが(mixiにおいて、何人か有名なライターやマンガ家をお見かけしている)。

とりあえず僕は、まだ始めて半年も経っていないSNSを批判をするより、一年後どうなるのか、というのを見守りたいと思う。というわけで、僕はしばらくは退会はしません。過剰には期待しませんが、多少なりとも「繋がり」が増えたのは確かなので。

参考にしたサイト
特別企画 あなたはGREE派?mixi派?

September 26, 2004

シンポジウム出席(於佛教大学)

今日は、佛教大学で国際シンポジウムがあり、呼ばれたので参加させていただく。

タイトルは「文化と価値、そして社会の将来Culture, Values, and the Future of Society」というもの。タイトルだけだと、よく判らないが、日常生活において、我々が依拠している「価値」とは一体何か、その価値は可変なものか、等を考えるものだったと僕は解釈している。
今回は日米から一人ずつ発表者がいて、お一人が僕の指導教官でもある島薗進先生、もうお一方が、ニューヨークのニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチ大学のホセ・カサノヴァ先生。実は一昨日、喫茶店で読んでいたのはこのカサノヴァ先生の本で、ご講演の前のにわか勉強だったわけなのだ(お恥ずかしい限りだが)。本当はもう一人、イギリスの先生の講演が予定されていたが、急病でご欠席。それでこのお二人だけとなってしまったが、濃密なお話を聞けて、僕としては満足。研究者仲間や先輩方も来ていらして、僕が挨拶したのは、カサノヴァ先生の本の翻訳者である津城寛文先生、宗教学研究室の仲間だった稲場圭信先生、宗教社会学者の三木英先生など。京大のカール・ベッカー先生もいらしていたが、佛教大学の今回のシンポジウムの責任者であるバチカ(場知賀)先生と日本語で会話されているシュールな光景を目撃(笑)。お二人とも凄い。バチカ先生はベルギー人だけど、英語のスピーチで詰まると「えーと」と日本語で呟くぐらいの方だからな・・・。

島薗先生のお話は、最近先生がほぼライフワークとされている観のある「生命倫理」問題について。先生は政府の諮問機関の委員もなさっている方だが、昨今のヒトゲノムに関する研究だとか、脳死臓器移植問題だとか、ES細胞問題だとか、はたまた古典的には中絶だとか、それを受容するにせよ拒否するにせよ、その時の判断の基礎となっている我々の「価値観」とはいかなるものであるか、という問題提起をなさっていた。特定教団(例えばカトリックや大本、生長の家、幸福の科学など)が各自で中絶やバイオテクノロジーに対する懸念や反対の意思表示をしていることは知られているし、それをある程度肯定的に評価しても良いのだが、それが社会全体の趨勢に及ぼす影響は、特にこの日本においては残念ながらあまりないと言うしかない。にもかかわらず、日本においては、「雰囲気」と僕は呼んで良いと思っているが、脳死臓器移植に対する根強い反対があったり、特定の教団の教義に基づかない「公共的な意志」とでも言うべきものが見え隠れしている。それをどう捉えるか、もしくはそれをどう伸ばしていくかが、これからの課題であろう。特に現代においては、出生前診断だとか、個人のゲノム解読によるオーダーメイド医療だとか、「能力増強」とでも言うべき医療(要するに病気を治す、という医療ではなく、伸ばしたい能力を遺伝子操作や投薬で伸ばそうとするような動き)が一定の支持を受けるような「新しい優生学」の時代に突入したのだから我々の価値観を言語化しなければならない、というのが先生のお話の趣旨だったと思う。
「役に立つ、立たない」というような乱暴な二分法で全てを割り切ったり、競争原理そのものを「価値」と見なしがちな現代社会において、「何となくイヤな感じがする」という感性は、実は重要なのだと思う。極端な功利主義や競争至上主義は、いざ自分に振り向けられたとき、その「不条理」な姿を一気に露わにするものだと思う(例えば、自分が障害者になったとき、今と同じような弱肉強食的な世界観が語れるのか?)。
あと、僕が問題と思っているのは、今や「優生学」というのは、おどろおどろしいものではなく、「自分で選ぶ」即ち自己決定(選択)権の問題として浮上しているという点だ。出生前診断も、安楽死も、脳死臓器移植も、いつの間にか「自分で選ぶこと(即ち他人には口出しできないこと)」になり、そして実はその背後には「功利主義・効率主義」の落とし穴がぱっくり口を開いているというわけだ。最近、小松美彦先生の『自己決定権は幻想である』(洋泉社新書)という本も読んだが、「自分で決める」「人に迷惑を掛けない」という言い方が、実は極端に狭い範囲しか見えていない可能性がある、ということはもう一度考えてしかるべきであろう。

さて、もう一人のカサノヴァ先生は、「社会秩序」に関する複数の見方の長短を吟味するといった趣の発表。レジュメを僕なりに要約すると、現在3つの社会秩序に関する有力な見方があって、それは
1)(世俗的)コスモポリタニズム
2)ハンチントン流の「文明の衝突」論
3)多元的な近代像
となる。
まず最初のものは、近代主義的、もしくは進歩主義的な見方で、宗教などはどんどん「私事化privatization」「世俗化secularization」の方向にシフトするとされる。そして世界は「俗化」した部分で秩序化されるという。例えば文化が違っても、人権概念(宗教的なバックボーンに依拠しない)などは共有できるはずだ、という考えだ(と僕は解釈した)。この見解は、一見説得的に見えるが、世界の趨勢を見ると、「原理主義」的な動き、即ち宗教が「私事」であることを拒否する、という流れが見て取れるのも事実である(カサノヴァ教授は「脱私事化」という言葉を著書で使用している)。この見解では、「私事化」を拒否する宗教は危険視されるのだが(要するに、そういう「宗教」が「原理主義」呼ばわりされるわけだ)、宗教が過去に果たした役割を考えると、こういう見方は一面的に過ぎよう(過去に途上国でカトリックがなした民主化運動を想起せよ)。
また、西洋が経験した進歩が、人類普遍のものであるということを前提としていることも問題であろう。

二番目のものは、これまでも激しい批判に晒されてきた。「文明(文化)が違えば理解はできず、衝突するのは必然」という考えは、覇権主義的な流れに棹さすものでもあっただろうし、他文化を理解することに疲れたものの「ぼやき」のような感触も受ける(僕は、最近のイスラエルが造築したパレスティナとの「分離壁」などは、その「疲れ」「倦み」が端的に表れていると思う)。それに実は、「文明の衝突は必然」という考えを、覇権主義的な先進国のトップと、それに抗う非西欧諸国のリーダーは共有しているのだ。ここにハンチントンの議論は、奇妙な「共犯関係」を肯定する論理となってしまう。
ハンチントンの「本質主義」的な文明(文化)観に批判が集中したことは言をまたないが、もう一つ大きな問題は、実はこのハンチントンの文明の分類は地政学的な見地から提出されたものである、という点である。地政学的な見地から出された分類から「これらの文明同士は喧嘩をするに違いない」というのは、一種のトートロジーだ。この点もちゃんと勘案すべきであろう。

そして最後の見解が、カサノヴァ教授の取る見解である。第一の見方のように全世界で同じような「近代化」の道筋を通る必要も必然性もないという「多様な近代化」論である。例えば「イスラームの私事化によらない民主化は可能か?」という問題は、考えるに値する。イスラームのイディオムを使いつつ、その社会を民主主義的な方向に変えていくことは恐らく可能であるし、その方策の方が無理な西洋流の民主主義の注入よりうまくいく公算が大きいであろう。この見解は、コスモポリタニズムの普遍的主張のいくつかを保持しつつ、宗教の役割を肯定する、という方向だと換言できる。

以上が僕なりにまとめたお二人の発表の要点だが、もしかしたら誤解・曲解があるかも知れない。その点はご寛恕を乞う。ちょっと濃すぎるはなしで消化不良を起こしてしまった(このシンポを聴きに来ていたゼミ生のH君と夜食べ過ぎた、というのもあるが)。手前味噌だが、去年と今年、僕が学部ゼミでみんなと共有しようとした問題意識は、敬愛するこのお二人とずれていなかったことが確認できて嬉しかった(共有も何も、僕がミーハーに追いかけているだけ、とも言えるのだが)。

September 25, 2004

日本橋となんばパークス訪問

今日は完全にオフ、と自分で決め、前々からその「秋葉原化」(笑)が気になっていた大阪の電気屋街の日本橋に向かう。ようするにオタク・オリエンテッドな街並みに日本橋が変わりつつあるのは、堺三歩さんのブログでも言及されていたが、それを自分の目で確かめたかったのだ。昔、堺に住む高校生だった僕は、この辺りに良くレコードやCDをあさりに来たので、全く知らないというわけでもないが、この10数年で大きく街並みは変貌したはず。

僕の第一の目的地は、ジョーシンが経営している自称日本一のガンダム専門店「GUMDAM'S」である。まさに「見せてもらおうか、その日本一のガンダム専門店の力とやらを」とベタな台詞が頭にリフレインしていましたが、店の場所は簡単。堺筋の表に面しています。

gundamus.jpg
(「君は行き着くことができるか」、というようなことはありません。)

で、印象ですが、僕にとってはいまいちでした。というのも、商品数が思ったより少ない。確かにガンダムのプラモデルなどは「圧倒的じゃないか・・・」と呟きたくなる量ですが、その他のグッズがあまりない。僕は残念ながらプラモデルやら、その手のものを部屋に飾る趣味はないので、関係なし。もっと、例えば往年のアニメイトみたいに、ファーストガンダム関連の文房具とか日常に使えるグッズが並んでいて欲しかった(ジオン公国旗は、最後まで迷ったんですが、余りに非日常すぎるので却下)。文房具はちょっとはありましたが、ほとんど『SEED』関連ばかり。僕は小学生の時にガンダムを見て以来のファンで、いわゆる「ファースト」そして「Z」「ZZ」「逆襲のシャア」までが許容範囲という人間なので(安彦良和先生がキャラデザインでも「F91」は不可)、これらのグッズはパス。ことガンダムに関してだけは、ガッチガチの「保守派」なのです、僕は(笑)。結局買ったのは、半分ネタですがCOSPAという会社が作っているT-シャツ。ジオン公国のマークが入っている奴です。

zeontshirt.jpg
(ジーク・ジオン!)

そのすぐ隣には、同人誌などを手がける「K-BOOKS」という店があったり、北に戻ると「まんだらけ」が。

mandarake.jpg

あとはフィギュアのお店とか、DVD(エロも含む)の店が堺筋の西側には密集。堺筋の西側は、ほぼオタクが制圧している印象だ。同人誌を扱っている店も、ここと恵美須町に密集しているそうだ(僕は同人誌には興味はないので素通りしてしまったが)。コンピュータが中心となっている産業構造では、こういう電気屋街は、どうしてもオタク・オリエンテッドになるのは避けられない運命だとは思うが、細々ながら昔ながらの店も多少は生き残っているようだ(僕が昔良く通っていたレコード屋を確認できて思わず感涙)。

GUNDAM'Sで、どのシャツにしようかと迷いに迷って、疲れたので、ちょっと場所を変えようと思って、大阪球場跡地にできた複合商業施設、「なんばパークス」に向かう。
さっきまでいた日本橋とは「天と地」のような違いがあって、その落差に思わず立ちくらみを起こしそうになる(笑)。数百メートルしか離れていないのに・・・。

parks02.jpg
(突然のおしゃれな街並み。流れている音楽も明らかに日本橋とは違います)

急にコジャレた店に適応できるはずもなく、まず僕が向かったのは、7階にある「南海ホークスメモリアルギャラリー」というコーナー。あぶさんが優しく元南海ホークスファン(現在ダイエーホークスファン)の僕を迎えてくれた。

abusan.jpg
(viva!水島先生!)

hawkshistory.jpg
(南海ホークスの栄光がここに!!)

その後はこの中をうろついて一通り見渡したが、欲しいものは見つからず、そのまま帰宅。

10数年ぶりに訪れた難波、日本橋は確かに変わっていたけど、なんだかんだで「闇雲なエネルギー」を吸収しようとする貪欲な街であるというのは変わらない気がする。疲れました。

September 24, 2004

独り祝杯(?)

今日の夕方、懸案の原稿の第一稿が上がり、それをメールで送信。とりあえず、「目の前の課題」は終了。少しは肩の荷が下りた。金曜の夜だし、どこかに行きたいところだが、一緒に行ってくれる人も思い付かず、独りでビール一杯だけ飲むことを決意して、自転車で一乗寺方面に向かう。

向かった先は「いるか喫茶」。以前ゼミのコンパで使ってから気に入っているお店だ。お酒は勿論あるし、食べ物のメニューも豊富だし、コーヒーも旨い。夜遅くまでやってくれている、という、よく考えれば申し分のない店だが、いかんせん、ちょっと大学から遠いので足が遠のいていたのだ。こんな店、自宅の近くにあれば入り浸れるのに・・・。

8時半頃到着。早速生ビールとつまみを頼みつつ、小難しい宗教社会学の本などを広げるが、ビールの酔いもあってさっぱり頭に入らず(読んでいたのはホセ・カサノヴァ『近代世界の公共宗教』玉川大学出版会)。しばらくすると読むことにも飽きたので、手持ちぶさたな僕は携帯メールで色々な人にメールをしてみる。まずはこの「いるか喫茶」を女の子との「勝負スポット」(笑)として利用しているらしい(W君のたれ込みによる)ゼミ生のM君に。

「M君へ。川瀬です。今独りでいるか喫茶に来ています。今月〆切の原稿完成を祝い、独り酒です。今日はM君、ここを「勝負スポット」として使っていないみたいだね」

というようなメールを送信。返信がなかったので忙しいんだろうなあ、と思っていたら、突然M君と同じくゼミ生のIさんがやってきて、結局スパゲッティをすすりながら3人で終電近くまでお喋り。何でもたまたま近くの別のお店にいたのだそうだ。寂しがり屋の僕が二人を呼んでしまったことになってしまった。
今日のお喋りで印象的だったのが、家族の話。M君、Iさんの故郷にいらっしゃるご家族の話とか、卒業後実家の方に戻るのか否かとか、etc。色々難しいこともあるようで、上手いアドヴァイスも思い付かず、宗教学者らしく口から出任せなのだが「家族はもしかしたら最後の〈宗教〉かも知れないね」などと言ってお茶を濁す。

人によって「最後の〈宗教〉」は色々だろう。恋愛だったり、会社だったり・・・。それを文字通り「墓場」まで持っていけるかどうかは、まだ判らない。僕がよく採用している機能主義的な宗教定義は、内容を問わないから、「本当に墓場まで持っていけるほどのものなんですか、それ?」というような質問に弱いよなあ、と酔っぱらった頭でぼんやり考えながら帰宅。

September 23, 2004

久保田早紀を聴きながら

今日は休日だが、今月締め切りの原稿のため、泣く泣く出勤(自業自得だが)。

今日の作業中のBGMは、最近手に入れた久保田早紀の初CD化アルバム三枚(「見知らぬ人でなく」「ネフェルティティ」「夜の底は柔らかな幻」)。現在は「久米小百合」という本名で、ゴスペル歌手として活躍中の彼女ですが(僕は3回ほどそのコンサートに行ったことがあります)、過去のアルバムも捨てがたい魅力にあふれています。

久保田早紀といえば、反射的に「異邦人」という不朽の名作が思い出されるでしょうが、彼女はその他にも名曲を数多く作っているのに、何故かあまり陽の眼を見ず、7枚のオリジナルアルバムのうち、後期の3枚は長い間CD化されず、僕を含めたファンがしつこくCD化を嘆願してきました。そして、「こういうマニア連中相手の商売はいけるかも」とソニーも思ってくれたのか、ソニーは「オーダーメイドファクトリー」という部署を立ち上げ、一定数ネット上での「復刻希望」の票が集まった過去の音源を限定発売する、というちょっぴりあこぎな(笑)商売をはじめ、僕もついついそれに乗せられて、久保田早紀のアルバム復刻運動に数ヶ月前邁進していたわけです(そのような重症なファンの集まりはこちら)。
実は、僕は中古レコード屋さんやらyahooオークションなどで、この3枚のアルバムは手にしていたのですが、CD化されるとなれば、ついつい買いたくなるのがマニアの性というもの。それに収入のある「大人」ですから。

で、エンドレスで聴いていたんですが、何故これが売れなかったのかが不思議なくらい完成度の高いアルバムたちでした。それに、敢えて声を大にして言いたいのですが、お美しいです。確認したい方は、特に6枚目のアルバム、「ネフェルティティ」のジャケットをご覧ください。これです。1983年発表ですから、彼女は当時25歳!

FCCX-10.jpg

申し訳ないですが、「人間、所詮は顔」という信念をいつの間にか注入されていた僕は(恐らくハンサムや美女ばかり活躍する少女マンガの耽読が遠因だと思われます)、芸能人、アイドルはもちろんですが(あれは顔で判断される職業です)、いわゆる「アーティスト」も顔で判断するいけない人間になった気がします。僕が女性アーティストを好きになる順番は、おおよそ2パターンあって、

1)ラジオや試聴コーナーで「一聴き惚れ」して、どんどん好きになっていくパターン(この場合は顔はあまり関係ありません)
2)ジャケットの美しさに惹かれてとりあえず買って、そのアーティストの世界にあとでずぶずぶはまっていくパターン(恐らく8割はこちらのケース)

2番目のパターン(いわゆる「ジャケ買い」)では、もちろん何度も失敗して痛い目に遭っていますが(笑)、一度惚れたら、しつこいさそり座ですから、とことん追いかけまくります。
このパターンで骨がらみに好きになってしまったのは、古くは「G-Schmitt(ゲー・シュミットとドイツ風に読んでください)」というインディーズバンド。歌詞とヴォーカル担当のSyokoさんが、ただひたすらお美しかった。歌詞も意味不明でどろどろして暗くて、緊張感があって好きだったなあ。
鈴木祥子さんも、最初は「きれいなお姉さんだなあ」と思って買っていたら、段々凄いことになっていって、今もリスペクトし続けているアーティストです。

なんか、小谷野敦さんばりの「美人礼賛」になっちゃったなあ。反省(しないけど)。

September 19, 2004

環境問題を考えながらのコンサート

今日は、同僚のA先生ご夫妻に、鴨川上流の方にあるお寺でのコンサートに誘っていただいた。そのお寺は「岩屋山志明院」というお寺で、なんでも歌舞伎の「鳴神」という演目の元ネタになったお寺だという。このお寺のご住職が、環境問題にも熱心な方で、特に鴨川上流域の自然環境保護の運動もなさっているそう。そこで、環境問題を考える集いと、京都市交響楽団(京響)の有志の方のコンサートがこぢんまりながら、和やかな雰囲気で行われた(この集いの主催はNPO法人「市民環境研究所」)。

まずは、鴨川の水源地である京都北部において、どのような森林伐採が行われているかの報告。その報告の要旨をまとめると、
1)現在、大規模な伐採が進行中である。
2)現行の「森林法」には、この伐採を制止する力がない。
3)森林自体の伐採もさることながら、環境にダメージを与えているのは、その材木を運び出すための「作業道」建築である。しかも、その工事はずさんで、土砂流出も著しい。
4)しかし、大規模伐採と大雑把な作業路建設は不況の林業業界の苦肉の策(コストを抑えるための)であることも事実。

環境を保護することが素晴らしいのは当然のことで、環境破壊に反対の声を上げることも、さして難しくはないが、その「環境破壊」で飯を食べている人に対する配慮、となると、僕などは途端に声が小さくなる。今回の報告では、その辺りにも言及していて、非常に勉強になった。
京都府では、この9月に府知事が鴨川の環境に配慮するための条例の検討に着手することを宣言したのだが、掛け声だけに終わらないで欲しいと思う。

コンサートはオーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの四重奏。僕は全く知らない作曲家だが(シュターミッツという作曲家)、楽しく聞くことができた(演奏者の方は、湿気の多い山寺で、調律が大変そうだったが)。

コンサートのあとは、岡田瑛さんの「おしゃべり」。岡田さんは、著名な生物学者岡田節人(ときんど)さん(京大名誉教授)のご夫人で、ご自身も生物学者(ご夫婦でこの集いに来られていた)。その「おしゃべり」の内容は、「京都の中の奇人の一人」(梅原猛評)と目される節人氏の「人生」を妻の視点から解説するというもの。伊丹のブルジョワ家庭の育った岡田節人先生がどんな人だったかがおぼろげながら判って、非常にゴシップ的に楽しい「おしゃべり」だった。僕などは、岡田ご夫妻の存在自体が、京都の「サロン文化」の残光のような気さえした(京阪神の「細雪」的世界の残り火、といった方が判りやすいか)。ちなみに岡田節人さんは、無類の音楽好きで、京響の「友の会」会長もつとめられている由。

帰りはA先生ご夫妻と北山の中華「白龍」で夕食(ごちそうさまでした)。楽しく、ためになる一日でした。

September 17, 2004

教え子訪問とプロ野球スト

現在、勤務校はテスト期間なので、通常講義はなし。

しかし、僕は今月末〆切の某原稿があるので、その準備をこそこそしている。そこに、OBのN君が現れたので、ここぞとばかり「現実逃避の口実」にさせてもらって、数時間お互い喋りまくり。彼は今東京の方に出て某大学院にいるのだが、彼が取り扱おうとしている対象が、多少僕の専門とかぶるので、それについて色々語る。彼は分野で言うと「スポーツ社会学」というものを研究しているのだが、戦前のアマチュアスポーツのリーダー(大抵大学教授とかのインテリ)がどのような思想を持って、スポーツに臨んでいたか、そのイデオロギーと影響力はいかなるものだったか、等を調べている最中。たまたま僕が数年前に買った本の中で、彼が研究対象にしようとしている人物の研究書があったので、それを貸して、彼は帰宅。

で、彼のかつての論文は「野球」を取り扱ったものだったが、プロ野球、とうとうストに突入しましたね。
僕は前から言っているように、この件に関しては完全に「選手会」寄りの立場です。中には「数億円もらっておきながら労組もくそもあるか」というような声もありますが、それこそ、年俸は「経営者の手腕」でどうとでもなったことだと思います。もちろん、大もめに揉めるでしょうが、得意の「横並び体質」を駆使して(笑)、選手の年俸の上限を押さえてやれば良かっただけの話です。そういうこともせずに、年俸の高騰が球団経営を苦しくさせたとか言っているのはおかしいと思います。僕はスト自体が「汚点」になるという発想自体がおかしいと思うので、大いにやって欲しいと思います。
でも、コミッショナーって、何をしている人なんですか。すぐにすねて辞意を表明したり。こんな役職、いらないんじゃないの?

September 16, 2004

現実に振り回される

今朝の朝刊を見ると、ちょっと不穏なニュースが目に飛び込んできた。小泉首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」が、これまでの国防基本方針を見直すようにとの報告書の骨子をまとめたとのこと。
その報告書の要点は「日米関係(同盟)のさらなる重視」「自衛隊の海外活動の積極化」「武器輸出3原則の緩和(事実上の撤廃)」などのようだ。あとは仮想敵国としての北朝鮮、中国への警戒感の表明もあるようだ。

首相の私的な諮問機関なんて、次に行う政策の理屈を作るのがお仕事なのだろうから、あの小泉首相の下での諮問機関でこのようなものが出されることには、さして驚きはないのだが、結構、この方向転換は見過ごせないものを持っている。特に、国連中心主義から日米同盟中心主義への転換と、武器輸出に関する点で今までの方針とは真っ向から対立するからだ。今までの方針が素晴らしいものだったかはさておき、この方向転換には、どうしても危険な「臭い」を感じてしまう。
簡単に言うと「現実に振り回される日本」というのが、まさにこの方針に現れているからだ。
国連が機能不全だ、結局アメリカには誰も逆らえないのだから、アメリカとの関係を最重要視していきましょう。これはこれで確かに現実的だろうし、合理的な選択だろう。しかし、これは理念もへったくれもない。アメリカが一番世界で強いから追随しましょう、という機会主義に過ぎない。その時は合理的な選択のつもりでも、長い目で見れば不合理な選択、というのもあるのだ。こんな「機会主義」を国是とするような国が「国連常任理事国」に立候補して良いのだろうか(僕個人としては、国連に相当の資金を提供している日本は、その中でそれなりの地位を要求してもしかるべきだと思うが、軍事面での貢献などは別にしなくても良いじゃないか、という考えである。教育やら医療やら文化財保護やら、するべき事は山のようにあるのだから)。

実は、以前このブログで引用したのだが、もう一度、片岡義男氏の「美しい」とさえ思える言葉を引用して、僕の代弁としたい。

日本は憲法を改正して現実のあとを追う国になる。新たな現実は次々に立ちあらわれる。だから日本は次々に現実を追う国になる。次々に現実を追えば、現実に引きずられる国になるにきまっている。憲法を改正した日本は、現実に引きずりまわされる国となる。

諮問機関のお歴々は判っているのだろうか。
戦後間もない頃、当時の吉田茂首相は、東大総長の南原繁を「曲学阿世の徒」と非難したことがあるが、これはもちろん吉田首相の言葉の使い方が間違い。南原氏はそれとは正反対だったのだから。
この諮問機関の学者の面々は、後世に正しい意味で「曲学阿世」と呼ばれることを覚悟しているのだろうか。

追記:僕のこのブログにトラックバックしてくださった「glocal ethos」で、僕の言いたいことがほぼ論じ尽くされていますので、改めてこちらからもトラックバックしたいと思います。

September 14, 2004

死刑についてつい考える

皆さんご存じの方も多いでしょうが、大阪の池田市の小学生殺傷事件の被告、宅間守の死刑が執行されたそうです。先程調べたところ、既に様々なブログでこの件について発言されていますが、そのほとんどが「早い(早すぎる)」という感想だったという印象です。僕もそう思います。何が早いかというと、彼は死刑に値する自分の犯行をろくに見つめもしないまま、死刑になってしまったのではないか、ということです。「奴の自殺に公権力が手を貸してやっただけ」なんていう物言いをしているブログも散見されました。残念ながら、このようなちょっとrudeな物言いにも、首肯してしまう部分があります。

トラックバックさせてもらったブログの方が言うように、「死刑」は何よりも抑止効果が期待されて行われるべきものだと、僕も思います。でもこれは建前論であることも感じています。
実際、人を殺してしまう瞬間なんて、自制心がきかなくなっているときですから、その抑止効果なんて当てにならない、と思います。それでも、死刑をもし理由づけるなら、これ以外には思いつかない、というのも正直なところです。

僕自身は、特に熱烈な死刑廃止論者ではありません。しかし、なるべくなら死刑は避けるべきだろう、と思っています。理由は簡単。間違い(冤罪)なら、取り返しがつかないからです。
でも、もし自分が被害者になれば、その犯人を「死刑にしてくれ」と望むことは充分ありえると思えます。妻子を殺されて、最終的には被害者救済の運動に立ち上がった光市のあの青年のような行動は尊敬もしていますし、理解できるのです(あの事件の場合、加害者が未成年であったということも大きな問題ですが、ここでは措きます)。

そこで僕はつらつらと「死刑以外の方法はないか」と考えてみました。例えば、被害者の人に慰謝料を払わせるために、時給が高い労働に強制的に駆り出す、なんていう「刑罰」があったら、なんて事まで考えてしまいます(これは僕の思いつきなので、加害者の人権云々はあまり考えていません。とにかく究極の人権蹂躙のはずの「死刑」の代替案を考えているので)。あとは、本当の「無期懲役(終身刑)」を作るなんていう意見も聞いたことがあります。

うーん、考えがうまくまとまりませんが、皆さんのご意見も聞いてみたいところです。僕ももう少し考えてみます。

September 11, 2004

ミニ同窓会

日本宗教学会が東大で開かれるのに合わせて上京。シンポジウムは日曜日だけなので、土曜日はフリー。そこで、土曜の午後は、来年3月の国際学会の発表の事前打ち合わせを、研究者仲間の大澤さん、大谷さん、辻村さんと行なう。四人の発表の原案をそれぞれ出し合って、共通の問題意識を醸成(というと格好良いか)。

この打ち合わせは夕方に解散して、僕はそのまま一路池袋へ。というのは、僕の勤務校の卒業生のうち、現在東京に出てきている子たちに声をかけて、「ミニ同窓会」を催そうと企画したのだ。池袋は、結婚する前に一番ぶらついていた街だが(その当時は練馬に住んでいたので、通学路の丁度真中が池袋だった)、こうして降り立ったのは恐らく二年以上振り。そんなに変わっていないのだろうが、なんとなく「怖い」街の様に見えたのは、京都のような「こぢんまり」としている町に慣れて、僕の「免疫力」が弱っているせいだろう。集まったのはKさん(大学院生)、Oくん(修行中)、Yさん(大学院生)、Wさん(社会人)の四名。
店は決めていなかったので、昔僕がよく行っていた、西口の奥まったところにある台湾小皿料理店へ(無くなっていないことを祈りつつ)行く。すると、店名は変わっていたが(恐らくオーナーが変わったのだろう)、元のところに在りました。内心ほっとして(元教え子たちに「池袋のディープな所に連れていってやる」というようなでかい顔をしていたので)、そのお店に数年振りに入る。
各人好きなものを頼みまくり、僕も久々にこの店の「大根餅」と「腸詰(相変わらず美味!)」を食べてご機嫌。同級生同士でも三年振りに会う、などという組み合わせもあり、非常に楽しく盛り上がりました。6時過ぎにお店に入ったのに、出るときは11時ごろ!長居し過ぎだ。
僕としては、あまり喋ったことのなかった(彼らは僕が赴任した年に卒業した学生なので、付き合いは残念ながら浅かったのだ)彼らの色々な面を知ることが出来て、有意義な夜だった(特にOくんの「心のない」セリフには大爆笑だ。まるで高田純次かと思ったぞ)。
彼らを見ていると、やはり大学時代、特に同学科の仲間はかけがえのない友人だなあと再確認。

また機会があったら逢いましょう。それまで元気でね。

September 09, 2004

小谷野敦の「実も蓋も無さ」について

小谷野敦さんの本を立て続けに読了。読んだのは

・『俺も女を泣かせてみたい』筑摩書房
・『すばらしき愚民社会』新潮社

の2冊。僕はこの人の「実も蓋もない」文章のファンで、出る本は結構買っている方だと思う(ご多分に漏れず、最初に読んだのは『もてない男』ちくま新書)。でも、いつも小谷野氏の所論に満腔の賛意を持っているというわけではなく(当たり前だ)、大体、7割か8割は「なるほど」と思い、2、3割は「ええ、そうかなあ」とか「ちょっと違うんじゃないの」という感触を持っている。それは多分、僕が小谷野さんよりよっぽど「おぼっちゃま」度の高い心情左翼だからだろう。個人的には、もうちょっと論評対象個々人の学歴云々を言及するのは控えた方が良い気がする(確かに、僕も実は隠れ「学歴教」信者だから、ゴシップとしてそういう情報は愉しいのだが。ここで僕が言う「学歴教」とは、その人の学歴がその人の人格のほとんどを決定付けているように見えてしまう、という「心の病」である)。

さて、前者は連載エッセイをまとめたもので一本一本は短めで、すらっと読めた。話題も多彩で、こちらはそれほど引っかかるものもないので、特に言うことも無し。ルサンチマンが良い方向に(即ち「文化」を作る方向に)流れたお見本と言えましょう(笑)。

後者は、新潮社の雑誌に連載していたエッセイ、というか評論文をまとめたもので、タイトルの通り「愚民社会」を斬る、という感じで書かれたものが大半である。しかし小谷野さんが言う「愚民」とは、簡単に言えば「大学生のくせに本も読まない」「大学を出たくせにろくすっぽものも知らない」ような連中を指しているのであって、もっと言えば、いわゆる「知識人」の中にこそ見つかる「愚かさ」を糾弾しているのである。ということで、勢い「同業者批判」となっているので、一応「同業者」の一員である僕としては、ちょっとファンであるということを差し引いても見逃すことができなかった(この本の帯も、そういう惹句が書いてあって目を引いたのだ)。
この本も内容は多岐にわたるが、面白く読めた。個々の意見にはちょっと首肯しかねるものもあるのだが、「問題提起」と考えれば、それなりのインパクトはあったと思う。この本の最後の「禁煙ファシズム」に関する論と、イラク情勢を背景にした後書きの文章には、非常な違和感を憶えた。それまでは結構面白く読んだんだけどなあ。この辺りが、やはり僕と小谷野さんの分水嶺か。

さて、僕が小谷野さんのどういう点を「実も蓋もない」と思っているかというと、実は小谷野さんは、多分ご自身で自覚しているだろうが徹底した「エリート主義者」なのである(今更気付いたの?といわれるかも知れないが、こうしてダラダラ書いているうちに着想が飛び出すこともあるのだ)。学問においては言わずもがなだし、今回の本ではそれが一番露骨に出て、三流大学は職業訓練校にでもすればいい、とまるで『男組』の神竜のようなこと(喩えが古すぎますかそうですか)まで言っている。こういう小谷野さんの物言いに、多少なりとも共感を覚えた僕も実は「エリート主義者」なのだろう。「Noblesse Oblige(高い身分にはそれなりの義務がつきまとうこと)」という意味ならまだ良いのだが、自分では判断しかねる。
そして、小谷野さんがこれまでの書籍で一番言及してきたであろう「恋愛」問題にしても、「恋愛するには、それなりの資格(才能や容姿などの条件を含む)が必要」という実も蓋も無さを「売り」にしてきて、僕のような読者の支持を得てきたのだ。で、ここでアポリアが生まれる。これまで小谷野さんは恋愛(イデオロギー)に対して「もてない人はどうなる」という問題提起をしていて、それがルサンチマン(恨みつらみとは、憧れていながら手に入らない状態のことだ)であることもはっきりと(露悪的に)言っている人だからこそ、ここで、もしも小谷野さんがハンサムで、もてまくりの人生を歩んでいたら、という「if」を考える余地が出てきてしまう。僕はいわゆる「小谷野恋愛論」の最大のウィークポイントはここだと思う。つまりは、小谷野さんの所論は、結局はいわゆる「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の「解毒剤」にはなり得ないのである。

「解毒剤」云々は、過剰な期待と自分でも思う。でも、学問の「効用」の一つは、それまで自明視していたものが単なる「思いこみ」だったとか、ある時は嘘であったとか、そういうことを「暴露」して考え方を転換させたり、少なくとも多元的なものの見方を得られる、というところにあると思う。「学問は楽しいなんてもんじゃなく、そんな甘いものではない」という意見もあろうが(小谷野さん自身そういうことは言っている)、何等かのインパクトを与えてこそ「学問」だと思う。

上記の小谷野本と並行して読んだ加藤秀一さんの『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか』(ちくま新書)も、近代日本の「恋愛観」の変遷を教科書的にまとめた好著だと思うが(誤植が多いのが難点)、この本の冒頭部で言われているように「結婚=幸福」という図式は批判しようにも我々の血肉となりすぎているので、加藤さんが教えてくれる「歴史」や「恋愛結婚の陥穽」や「優勢思想へのリンク」などを見ても、そこから今までの考え方を変えるのは、恐らく困難だろう。トラックバック先の書評者の方が言うように、

日本がこの百年余り、「異性間関係」というものをどうやって捉えてきたかを振り返り、その到達点である現在でもてはやされている、「恋愛結婚」というおはぎより甘ハァ~い言葉の中には、国家主義・全体主義イデオロギーや優勝劣敗思想というカッターの刃が潜んでいますよ、と警鐘を鳴らしている本。

というのがこの本から得られるせめてもの「教訓」だと思う。もちろん、これだけのことを言うだけでも、僕は十分偉いと思っているのだが・・・。

September 07, 2004

地震と台風

このところの近畿地方はついていない。
久々に大きな地震があったし(結構長く揺れた。思わず本が飛んでくるのを避けようと思い廊下に待避)、現在は台風のせいで暴風雨圏だ。
実は、今大学の研究室に閉じこめられたような状態です。夕食を食べに行き損ねた・・・。
腹は減っていますが、今外に出るのは自殺行為なので、我慢して、研究室に置いてあるお菓子をつまんでしのいでいます。
今朝も地震があったし(それで目が覚めた)、一昨日などは地下鉄に乗っているときに地震があり、止まってしまった。電車に乗っているときに地震のせいで停車するなんて、10年以上の東京での生活でも経験がなかったのに。
天災だけは「気をつける」というわけにも行かない。

今年は台風の当たり年なのだそうだが、大昔なら「お祓い」をしているほどの頻度だろう。中国古代の「災異説」からすると、現在の統治者の「徳」が問題になるところだが、逆に近現代の日本の統治者で祥瑞を引っ張ってくるだけの徳を持った人がいたとも思えないので、この説は却下。

腹減った・・・。思考がまとまりませんので、尻切れとんぼですが以上で。

September 05, 2004

町山智浩の『底抜け合衆国』

ちょっと前からブログを楽しみに読ませてもらっている映画評論家の町山智浩さんの新刊『底抜け合衆国-アメリカが最もバカだった4年間』(洋泉社、2004、\1500)を昨晩布団の上で読み出したら、あまりの面白さに止まらなくなり夜中までかかって読了。その感想と紹介を少し書きたいと思う。

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これは97年からアメリカに移住した町山さんが見聞した2000年から2004年までのアメリカ社会をコラムとして書いたものを集めた本。主に映画やラジオなどの話題が多いのだが、全く知らないアメリカの「顔」を知ることができるし、文章もポップで読みやすいです。
中でも僕にとって興味深かった話題は

・差別ネタ、シモネタを言いまくるラジオのDJ
・ヘイトクライム(人種差別による犯罪)についてのエッセイ
・下層白人(ホワイト・トラッシュ)に関するコラム
・アメリカにおける言論の自由の規制状況

などです。詳細は直に町山さんの本に触れていただきたいのでここでは述べませんが、日本人がなかなか知ることのできないアメリカのサブカルチャーの暗部を教えてくれる非常に良質な「啓蒙書」だと評せましょう。

プロフィールを見たら、編集者時代の町山さんは『オタクの本』『いまどきの神サマ』など、古き良き時代(笑)の「別冊宝島」シリーズを編集していたとか。学生時代大いに楽しませてもらいましたよ。あと、「トンデモ本」シリーズの編集にも関わっていたそうだ(ブログによると)。道理で「感性」が合うなあ、と思いました。
おすすめ。

September 04, 2004

男らしさ、女らしさって?

今朝の朝日新聞(京都版)を読んでいて、びっくりする一面広告があった。
それは、埼玉県川越市にある秀明中学校・高等学校の広告なのだが、そのコピーが

「男はより男らしく 女はより女らしく 育てる学校です」

というもの。ホント、腰が抜けました。ジェンダーフリーなどに対するバッシングはこんな所まで・・・と感慨にふける。
具体的にこの学校でどんな「性教育」が行われるのかは知らないが(ジェンダーフリー教育が存在するおかげでこんな「売り」が作れたのだから、秀明関係者はフェミニストに足を向けて寝られないであろう)、上記のコピーの横に、ある財団法人が行った世論調査の結果が表示されていて、曰く

「男は男らしく」を肯定
①中国81.1%、②米国63.5%、③韓国54.9%、④日本43.4%

「女は女らしく」を肯定
①中国71.6%、②米国58.0%、③韓国47.7%、④日本28.4%
(下線部は元々の広告にあった)

という結果なのだそうだ。さあ、この数字をどのように読むかが問題だ(大体、こんな大雑把な質問では、どう答えて良いものやら。まあ、その方が「傾向」が浮き彫りになるメリットはあるかも知れないが)。
僕などはパッと見て「日本も進んできたものだ」と思ったし、「アメリカはやっぱりなんだかんだ言いながら、ジェンダー方面もサイレント・マジョリティの保守派が強いなあ」と思ったのだが、皆さんはいかがだろうか。

秀明学園の「上」の人々は「この結果は悪しきジェンダーフリー教育のせいだ」と言うだろうが、それほどジェンダーフリー教育に実効性がこの20年ほどの間あったのか、ちょっと立ち止まって考える必要があると思う。学校の教育によって、全て意識が変革される、というのはいささか過大評価だろう。もちろん、ジェンダーフリー教育にたずさわってきた先生方の努力は多大なものであったと思うが。
(本からの知識を偏重する学者気質の)僕の個人的な経験から言っても、学校の授業・教科書はきっかけにはなるが、それによってコロッと変わるということはないと思う。あえて「保守派」のようなことをいうが、日本のジェンダーへの意識がこれだけ変わったのは「家庭」での「しつけ」や、もっと言えば親の取る態度によって変わってきたのだと思う。何よりも「家庭」での振る舞いが大事ですよ、お父さん、お母さん!

でも、21世紀になって、まだこんな陰影も減ったくれもないコピーが新聞に踊るのだから、嫌になってしまう。
「男らしさとは女々しいことだ」といったのは、確かイヴ・モンタンだっけ?(ちょっと記憶が曖昧です。済みません)太宰治にも逆説的に「男らしさ・女らしさ」を定義したエッセイがあったと思う。人間の意識って、そんなに進歩するものではないですね。

September 03, 2004

因果は巡る(ちょっと違うか)

今日は夏休み明け初の会議の日。ということで、長すぎると言われる大学の夏休みも昨日で終わり。

まずは、この3月に卒業したKさんが帰省のついでに遊びに来ていたので、会議までの時間少しおしゃべり。彼女は卒業後、東京に出て大学院に進学したので、その様子を主に聞く。まあ、真面目な学生だったから、心配はしていないのだが。

会議のあとは、卒論を抱えた学生と、修論を抱えた大学院生の訪問を受け、個別に簡単に指導。
どうも二人とも書きあぐねている、というか逡巡している様子がありありだったので

「もうここまで来たら腰を据えろ」

だとか

「ぐちゃぐちゃ考えずに、まずは書き始めてごらん」

等と偉そうに言ってはみるのだが、実はこれ、全て自分自身に降り掛かる言葉なのだ。
学生も学者も、やっていることは同じなのだから、学生への説教は巡り巡って自分にも降り掛かる。
「指導教官の先生方は、どういう思いで僕たちを説教していたのかなあ」と考えると、先生方の寛容さに青ざめる。

僕自身、約一週間後に一つ〆切があるのだから、そろそろ上記の言葉が身にしみる・・・。
さて、そろそろ本腰を入れるとしますか・・・。

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