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September 26, 2004

シンポジウム出席(於佛教大学)

今日は、佛教大学で国際シンポジウムがあり、呼ばれたので参加させていただく。

タイトルは「文化と価値、そして社会の将来Culture, Values, and the Future of Society」というもの。タイトルだけだと、よく判らないが、日常生活において、我々が依拠している「価値」とは一体何か、その価値は可変なものか、等を考えるものだったと僕は解釈している。
今回は日米から一人ずつ発表者がいて、お一人が僕の指導教官でもある島薗進先生、もうお一方が、ニューヨークのニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチ大学のホセ・カサノヴァ先生。実は一昨日、喫茶店で読んでいたのはこのカサノヴァ先生の本で、ご講演の前のにわか勉強だったわけなのだ(お恥ずかしい限りだが)。本当はもう一人、イギリスの先生の講演が予定されていたが、急病でご欠席。それでこのお二人だけとなってしまったが、濃密なお話を聞けて、僕としては満足。研究者仲間や先輩方も来ていらして、僕が挨拶したのは、カサノヴァ先生の本の翻訳者である津城寛文先生、宗教学研究室の仲間だった稲場圭信先生、宗教社会学者の三木英先生など。京大のカール・ベッカー先生もいらしていたが、佛教大学の今回のシンポジウムの責任者であるバチカ(場知賀)先生と日本語で会話されているシュールな光景を目撃(笑)。お二人とも凄い。バチカ先生はベルギー人だけど、英語のスピーチで詰まると「えーと」と日本語で呟くぐらいの方だからな・・・。

島薗先生のお話は、最近先生がほぼライフワークとされている観のある「生命倫理」問題について。先生は政府の諮問機関の委員もなさっている方だが、昨今のヒトゲノムに関する研究だとか、脳死臓器移植問題だとか、ES細胞問題だとか、はたまた古典的には中絶だとか、それを受容するにせよ拒否するにせよ、その時の判断の基礎となっている我々の「価値観」とはいかなるものであるか、という問題提起をなさっていた。特定教団(例えばカトリックや大本、生長の家、幸福の科学など)が各自で中絶やバイオテクノロジーに対する懸念や反対の意思表示をしていることは知られているし、それをある程度肯定的に評価しても良いのだが、それが社会全体の趨勢に及ぼす影響は、特にこの日本においては残念ながらあまりないと言うしかない。にもかかわらず、日本においては、「雰囲気」と僕は呼んで良いと思っているが、脳死臓器移植に対する根強い反対があったり、特定の教団の教義に基づかない「公共的な意志」とでも言うべきものが見え隠れしている。それをどう捉えるか、もしくはそれをどう伸ばしていくかが、これからの課題であろう。特に現代においては、出生前診断だとか、個人のゲノム解読によるオーダーメイド医療だとか、「能力増強」とでも言うべき医療(要するに病気を治す、という医療ではなく、伸ばしたい能力を遺伝子操作や投薬で伸ばそうとするような動き)が一定の支持を受けるような「新しい優生学」の時代に突入したのだから我々の価値観を言語化しなければならない、というのが先生のお話の趣旨だったと思う。
「役に立つ、立たない」というような乱暴な二分法で全てを割り切ったり、競争原理そのものを「価値」と見なしがちな現代社会において、「何となくイヤな感じがする」という感性は、実は重要なのだと思う。極端な功利主義や競争至上主義は、いざ自分に振り向けられたとき、その「不条理」な姿を一気に露わにするものだと思う(例えば、自分が障害者になったとき、今と同じような弱肉強食的な世界観が語れるのか?)。
あと、僕が問題と思っているのは、今や「優生学」というのは、おどろおどろしいものではなく、「自分で選ぶ」即ち自己決定(選択)権の問題として浮上しているという点だ。出生前診断も、安楽死も、脳死臓器移植も、いつの間にか「自分で選ぶこと(即ち他人には口出しできないこと)」になり、そして実はその背後には「功利主義・効率主義」の落とし穴がぱっくり口を開いているというわけだ。最近、小松美彦先生の『自己決定権は幻想である』(洋泉社新書)という本も読んだが、「自分で決める」「人に迷惑を掛けない」という言い方が、実は極端に狭い範囲しか見えていない可能性がある、ということはもう一度考えてしかるべきであろう。

さて、もう一人のカサノヴァ先生は、「社会秩序」に関する複数の見方の長短を吟味するといった趣の発表。レジュメを僕なりに要約すると、現在3つの社会秩序に関する有力な見方があって、それは
1)(世俗的)コスモポリタニズム
2)ハンチントン流の「文明の衝突」論
3)多元的な近代像
となる。
まず最初のものは、近代主義的、もしくは進歩主義的な見方で、宗教などはどんどん「私事化privatization」「世俗化secularization」の方向にシフトするとされる。そして世界は「俗化」した部分で秩序化されるという。例えば文化が違っても、人権概念(宗教的なバックボーンに依拠しない)などは共有できるはずだ、という考えだ(と僕は解釈した)。この見解は、一見説得的に見えるが、世界の趨勢を見ると、「原理主義」的な動き、即ち宗教が「私事」であることを拒否する、という流れが見て取れるのも事実である(カサノヴァ教授は「脱私事化」という言葉を著書で使用している)。この見解では、「私事化」を拒否する宗教は危険視されるのだが(要するに、そういう「宗教」が「原理主義」呼ばわりされるわけだ)、宗教が過去に果たした役割を考えると、こういう見方は一面的に過ぎよう(過去に途上国でカトリックがなした民主化運動を想起せよ)。
また、西洋が経験した進歩が、人類普遍のものであるということを前提としていることも問題であろう。

二番目のものは、これまでも激しい批判に晒されてきた。「文明(文化)が違えば理解はできず、衝突するのは必然」という考えは、覇権主義的な流れに棹さすものでもあっただろうし、他文化を理解することに疲れたものの「ぼやき」のような感触も受ける(僕は、最近のイスラエルが造築したパレスティナとの「分離壁」などは、その「疲れ」「倦み」が端的に表れていると思う)。それに実は、「文明の衝突は必然」という考えを、覇権主義的な先進国のトップと、それに抗う非西欧諸国のリーダーは共有しているのだ。ここにハンチントンの議論は、奇妙な「共犯関係」を肯定する論理となってしまう。
ハンチントンの「本質主義」的な文明(文化)観に批判が集中したことは言をまたないが、もう一つ大きな問題は、実はこのハンチントンの文明の分類は地政学的な見地から提出されたものである、という点である。地政学的な見地から出された分類から「これらの文明同士は喧嘩をするに違いない」というのは、一種のトートロジーだ。この点もちゃんと勘案すべきであろう。

そして最後の見解が、カサノヴァ教授の取る見解である。第一の見方のように全世界で同じような「近代化」の道筋を通る必要も必然性もないという「多様な近代化」論である。例えば「イスラームの私事化によらない民主化は可能か?」という問題は、考えるに値する。イスラームのイディオムを使いつつ、その社会を民主主義的な方向に変えていくことは恐らく可能であるし、その方策の方が無理な西洋流の民主主義の注入よりうまくいく公算が大きいであろう。この見解は、コスモポリタニズムの普遍的主張のいくつかを保持しつつ、宗教の役割を肯定する、という方向だと換言できる。

以上が僕なりにまとめたお二人の発表の要点だが、もしかしたら誤解・曲解があるかも知れない。その点はご寛恕を乞う。ちょっと濃すぎるはなしで消化不良を起こしてしまった(このシンポを聴きに来ていたゼミ生のH君と夜食べ過ぎた、というのもあるが)。手前味噌だが、去年と今年、僕が学部ゼミでみんなと共有しようとした問題意識は、敬愛するこのお二人とずれていなかったことが確認できて嬉しかった(共有も何も、僕がミーハーに追いかけているだけ、とも言えるのだが)。

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Comments

洋泉社新書、読んでみます。毎度詳細なレポありがとう。とても助かります。
「心理主義における自己責任」研究をもう数年来やってるけど、そろそろ打ち止めにしたかったりして(笑)

Posted by: こいけ | September 28, 2004 at 04:00 AM

こいけ君へ

>毎度詳細なレポありがとう。

いやいや、自分の頭の中を整理するために書いているだけですから・・・。ブログ始めて良かったと思うのは、このように、ある講演とか映画とか本とかを聴きっぱなし、見っぱなし、読みっぱなしではなく、自分でちょっとまとめてやろうというモチヴェーションを与えてくれることかもしれません。ホントに忙しくなたら、そんなことも言っていられないんだけど。

>「心理主義における自己責任」

ああ、そういえば、こっちにも繋がるよね。僕も後期の授業で「トラウマ理論と自己責任論」とか喋っちゃうかも知れない(笑)。「いつまでも傷つけられましたとか言うな」、と言いそうで怖い。

おーつかさま(こちらでお返事しますね)

ご指摘のように、僕は社会思想としての「功利主義」と言うより、ここでは通俗的なニュアンスで使っております。「利己主義」とストレートに言うにはちょっと、という気がしたので、この言葉を遣ってしまいました。
でも、ちょっとだけ強弁すれば、「少しの犠牲で大勢の幸せ」という危険な考えも、一種の「功利主義」に入るということはないのでしょうか?もちろん、ここには社会思想の「功利主義」が要求する倫理もへったくれもありませんが、人体を「資源化」する眼差しは現実のものですし、その眼差しを正当化するときに使われる語彙は、やはり「功利主義」の語彙だと思うのですね。
ちょっと舌足らずですが。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | September 28, 2004 at 02:35 PM

ベンタムの「最大多数の最大幸福」という理念が「少しの犠牲」というものを必要としているのか、幸福の計量という発想が人体の「資源化」なのか、ミルの倫理だけでは言い訳のつかないところではありましょう。
しかしながらプラグマティズムの剥き出しの効能思想と比べて、功利主義者の考えは一歩引いていた(遅れていた?)と思うのです。
功利主義の政治的な後継者はフェビアン協会だと思いますが、彼らが作り上げた英国の民主社会主義、つまり労働党に反旗を翻したバートランド・ラッセル卿が、わたしの理想の人物像のひとつです。

Posted by: おーつか | September 29, 2004 at 12:52 AM

>しかしながらプラグマティズムの剥き出しの効能思想と比べて、功利主義者の考えは一歩引いていた(遅れていた?)と思うのです。

あ、なるほど、プラグマティズムのことを忘れていました。でも、おーつかさんがここで使っている「プラグマティズム」も、一般的な意味合いで使っておられるような気もします(哲学的なプラグマティズムって、認識論が中心ですしね)。
僕が使った「功利主義」にしても、ここで言うむき出しの「プラグマティズム」にしても、僕たちがつい使う一般的な意味合いでは「有用性・有効性を第一義としてその倫理性は問わない」というのが共通しているように思います。共に「実践性」が最重要課題と考える思想ですから、こういう「誤用」はある意味必然かも知れません。

>功利主義の政治的な後継者はフェビアン協会だと思いますが、彼らが作り上げた英国の民主社会主義、つまり労働党に反旗を翻したバートランド・ラッセル卿が、わたしの理想の人物像のひとつです。

僕は政治音痴なので、ちゃんとしたことは言えないのですが、社会主義的な理念を、議会民主制を通じて活かしていくことには大賛成なので、僕もこの立場に近いと思います。大昔、ラスキとかも読んだっけな・・・。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | September 29, 2004 at 06:46 PM

>、「何となくイヤな感じがする」という感性は、実は重要なのだと思う。
というのはその通りだと思うのですが、今の「管理」問題や「優生思想」問題に関しては、個人の感性に頼っていては危険なのではないかという気がします。というのも、それを共有していない人たちのほうが増えているというか、もっと差し迫った危機意識によって、「イヤな感じ」がしたとしてもそれを抑えて「管理」を認めようという意識が強まっているのが、最大の問題のような気がするからです。
これに対抗するには、感性でもイデオロギーでもなく、やはり実利的な立場から理論的な反論を加えることが重要なんじゃないでしょうか。

特に「優生思想」問題に関しては、いまだに思想面から文化相対論をもとに、生得説対環境説の二分法で優生論者に対抗しようとしている人文系の論者を見かけますが、それでは、進化心理学や進化生態学の研究成果を自分の都合に合わせて取捨選択し、さも科学的な振りをして「合理的」に迫ってくる優生論者に対抗するのが難しいという気がするのです。

たぶん、わたしがあまりイデオロギーにたいして重きを置いていない理系人間だから、余計そう感じるのかもしれませんが。

Posted by: 堺三保 | September 30, 2004 at 02:30 AM

思ったことをぱっと書き込んでしまったので、あとから読んで「なんか批判的に読めるなあ」と自分で思ったので補足しておきますが、どうも川瀬さんのblogを読むと、いろいろと刺激されてつい日頃考えていることを書いてしまっているだけなので、ご容赦ください。

Posted by: 堺三保 | September 30, 2004 at 03:36 AM

堺様、色々僕の方も刺激になりますので、これからもご遠慮なく書き込んでください。

さて、

>今の「管理」問題や「優生思想」問題に関しては、個人の感性に頼っていては危険なのではないかという気がします。というのも、それを共有していない人たちのほうが増えているというか、もっと差し迫った危機意識によって、「イヤな感じ」がしたとしてもそれを抑えて「管理」を認めようという意識が強まっているのが、最大の問題のような気がするからです。

これはおっしゃる通りだと思います。
例えば、僕自身も、余剰胚を使った実験に対してぱっと聴いたときは「何か嫌だな」と思うのですが「アルツハイマー病の治療に役立つかも知れないんだぞ」と言われると、つい納得してしまいそうになりますし、余剰胚の実験に対して忌避反応をしておきながら、中絶は良いのか、といわれれば言葉に詰まります。

>特に「優生思想」問題に関しては、いまだに思想面から文化相対論をもとに、生得説対環境説の二分法で優生論者に対抗しようとしている人文系の論者を見かけますが、それでは、進化心理学や進化生態学の研究成果を自分の都合に合わせて取捨選択し、さも科学的な振りをして「合理的」に迫ってくる優生論者に対抗するのが難しいという気がするのです。

そうなんですよね。人間の「でき」って、全ては生得的なものでもないし、全てが環境的なものでもないのは自明のことなのに、優生学がからむと、ついall or nothingの議論になりがちですよね。このことはちゃんと考えなければいけないと僕も思います。
繰り返しになりますが、僕としては「自分が障害者になったとき、もしくは自分が障害者の親になったとき」を想定してみれば、感情としても、倫理的にも自ずと明らかではないか、とやはり言いたいんですね。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | September 30, 2004 at 09:35 PM

ググったら カサノヴァのことを 川瀬さんが書いてらっしゃるのを発見!!
早速 TBさせていただきました。

Posted by: コンドウ | October 09, 2005 at 12:53 PM

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