« 地震と台風 | Main | ミニ同窓会 »

September 09, 2004

小谷野敦の「実も蓋も無さ」について

小谷野敦さんの本を立て続けに読了。読んだのは

・『俺も女を泣かせてみたい』筑摩書房
・『すばらしき愚民社会』新潮社

の2冊。僕はこの人の「実も蓋もない」文章のファンで、出る本は結構買っている方だと思う(ご多分に漏れず、最初に読んだのは『もてない男』ちくま新書)。でも、いつも小谷野氏の所論に満腔の賛意を持っているというわけではなく(当たり前だ)、大体、7割か8割は「なるほど」と思い、2、3割は「ええ、そうかなあ」とか「ちょっと違うんじゃないの」という感触を持っている。それは多分、僕が小谷野さんよりよっぽど「おぼっちゃま」度の高い心情左翼だからだろう。個人的には、もうちょっと論評対象個々人の学歴云々を言及するのは控えた方が良い気がする(確かに、僕も実は隠れ「学歴教」信者だから、ゴシップとしてそういう情報は愉しいのだが。ここで僕が言う「学歴教」とは、その人の学歴がその人の人格のほとんどを決定付けているように見えてしまう、という「心の病」である)。

さて、前者は連載エッセイをまとめたもので一本一本は短めで、すらっと読めた。話題も多彩で、こちらはそれほど引っかかるものもないので、特に言うことも無し。ルサンチマンが良い方向に(即ち「文化」を作る方向に)流れたお見本と言えましょう(笑)。

後者は、新潮社の雑誌に連載していたエッセイ、というか評論文をまとめたもので、タイトルの通り「愚民社会」を斬る、という感じで書かれたものが大半である。しかし小谷野さんが言う「愚民」とは、簡単に言えば「大学生のくせに本も読まない」「大学を出たくせにろくすっぽものも知らない」ような連中を指しているのであって、もっと言えば、いわゆる「知識人」の中にこそ見つかる「愚かさ」を糾弾しているのである。ということで、勢い「同業者批判」となっているので、一応「同業者」の一員である僕としては、ちょっとファンであるということを差し引いても見逃すことができなかった(この本の帯も、そういう惹句が書いてあって目を引いたのだ)。
この本も内容は多岐にわたるが、面白く読めた。個々の意見にはちょっと首肯しかねるものもあるのだが、「問題提起」と考えれば、それなりのインパクトはあったと思う。この本の最後の「禁煙ファシズム」に関する論と、イラク情勢を背景にした後書きの文章には、非常な違和感を憶えた。それまでは結構面白く読んだんだけどなあ。この辺りが、やはり僕と小谷野さんの分水嶺か。

さて、僕が小谷野さんのどういう点を「実も蓋もない」と思っているかというと、実は小谷野さんは、多分ご自身で自覚しているだろうが徹底した「エリート主義者」なのである(今更気付いたの?といわれるかも知れないが、こうしてダラダラ書いているうちに着想が飛び出すこともあるのだ)。学問においては言わずもがなだし、今回の本ではそれが一番露骨に出て、三流大学は職業訓練校にでもすればいい、とまるで『男組』の神竜のようなこと(喩えが古すぎますかそうですか)まで言っている。こういう小谷野さんの物言いに、多少なりとも共感を覚えた僕も実は「エリート主義者」なのだろう。「Noblesse Oblige(高い身分にはそれなりの義務がつきまとうこと)」という意味ならまだ良いのだが、自分では判断しかねる。
そして、小谷野さんがこれまでの書籍で一番言及してきたであろう「恋愛」問題にしても、「恋愛するには、それなりの資格(才能や容姿などの条件を含む)が必要」という実も蓋も無さを「売り」にしてきて、僕のような読者の支持を得てきたのだ。で、ここでアポリアが生まれる。これまで小谷野さんは恋愛(イデオロギー)に対して「もてない人はどうなる」という問題提起をしていて、それがルサンチマン(恨みつらみとは、憧れていながら手に入らない状態のことだ)であることもはっきりと(露悪的に)言っている人だからこそ、ここで、もしも小谷野さんがハンサムで、もてまくりの人生を歩んでいたら、という「if」を考える余地が出てきてしまう。僕はいわゆる「小谷野恋愛論」の最大のウィークポイントはここだと思う。つまりは、小谷野さんの所論は、結局はいわゆる「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の「解毒剤」にはなり得ないのである。

「解毒剤」云々は、過剰な期待と自分でも思う。でも、学問の「効用」の一つは、それまで自明視していたものが単なる「思いこみ」だったとか、ある時は嘘であったとか、そういうことを「暴露」して考え方を転換させたり、少なくとも多元的なものの見方を得られる、というところにあると思う。「学問は楽しいなんてもんじゃなく、そんな甘いものではない」という意見もあろうが(小谷野さん自身そういうことは言っている)、何等かのインパクトを与えてこそ「学問」だと思う。

上記の小谷野本と並行して読んだ加藤秀一さんの『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか』(ちくま新書)も、近代日本の「恋愛観」の変遷を教科書的にまとめた好著だと思うが(誤植が多いのが難点)、この本の冒頭部で言われているように「結婚=幸福」という図式は批判しようにも我々の血肉となりすぎているので、加藤さんが教えてくれる「歴史」や「恋愛結婚の陥穽」や「優勢思想へのリンク」などを見ても、そこから今までの考え方を変えるのは、恐らく困難だろう。トラックバック先の書評者の方が言うように、

日本がこの百年余り、「異性間関係」というものをどうやって捉えてきたかを振り返り、その到達点である現在でもてはやされている、「恋愛結婚」というおはぎより甘ハァ~い言葉の中には、国家主義・全体主義イデオロギーや優勝劣敗思想というカッターの刃が潜んでいますよ、と警鐘を鳴らしている本。

というのがこの本から得られるせめてもの「教訓」だと思う。もちろん、これだけのことを言うだけでも、僕は十分偉いと思っているのだが・・・。

|

« 地震と台風 | Main | ミニ同窓会 »

Comments

『反文芸評論』読みました。理由は、村上春樹嫌いだからw

あと、その「恋愛」について少し考えてるのが、世間的に存在する「恋愛主義」が少子化の一因となっているんじゃないか、ということですが、
いまは心身のバランスが取れないので、まともに思考をまとめられません。(うあ

そのポイントだけ挙げると、やっぱり「クイア」がでてくる、からんでくるのですが、「最もクイアな存在とは、やはり、「声を上げることができない層」なのではないか」という事が一つの考えの核です。
『サバルタン』読んでないんで、うまく言及できませんが、それ(サバルタン)に近く、より世界的に広く分布するのが、この「恋愛に関するクイア・サバルタン」なんじゃないかなというものです。
それがたとえばどんな人間なのかというと、
僕のようなものです。w

Posted by: 梅天@サエテナーイ | September 09, 2004 at 11:05 PM

梅天君へ
ネット世界復帰おめでとう(?)。

>あと、その「恋愛」について少し考えてるのが、世間的に存在する「恋愛主義」が少子化の一因となっているんじゃないか、ということですが、

これは生半可な結婚より、身も心も焼くような恋愛、というものがあると信じて、そっちの方に価値を置いて非婚化へ、ということかな?子供より、エロスの世界の方の比重が人生の中で高いまま年を取ってしまう、ということでもあるかな。

>『サバルタン』読んでないんで、うまく言及できませんが、それ(サバルタン)に近く、より世界的に広く分布するのが、この「恋愛に関するクイア・サバルタン」なんじゃないかなというものです。

うん、これだけじゃ、ちょっとよく判らないね。僕個人の意見ですが、他人(特に子供)を無理矢理巻き込まない形のセクシャリティなら、大体良いと思います(基本的には、成人の合意に基づく性関係なら、他人は口を挟めないだろうという考えです)。

>それがたとえばどんな人間なのかというと、
僕のようなものです。w

え、そうなの?
その辺りは、今度直接逢ったときにたっぷり聞かせてもらいましょう(笑)。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | September 10, 2004 at 04:02 PM

いやいや、そんな志村けんや、某ホウダ兄さんのようなエロス人間のことではなくて、
むしろ市民宗教団体「世間」が、そういうどっぷり恋愛主義「信仰」にはまっている状況に、ある種の斥力を感じて、逃避的になる層があるのではってなことを考えていたのです。
そうすると「もてない男」あるいは「もてない女」は、ホモ的なセクシャリティの志向を持たないにもかかわらず、自らの立ち位置、アイデンティティを確保しなければならないために、消極的に「クイア」という概念を借用して、それを「自称」し始める羽目に陥らされているのではないのかな、ということです。
特に、やっぱりオタクという趣味志向をもつ層にこれが顕著なのではないか、という指摘も出来ます。
『網状言論F改』にもあった、「オタクは女の子になりたい」というのがそれです。男だけどショタ好きだというのも割とあるようです。→はてなで遭遇

Posted by: 梅天@誤解される男 | September 11, 2004 at 01:02 AM

>むしろ市民宗教団体「世間」が、そういうどっぷり恋愛主義「信仰」にはまっている状況に、ある種の斥力を感じて、逃避的になる層があるのではってなことを考えていたのです

なるほど、「強制的異性愛社会」というのはフェミニズムでは良く聞くテーゼですが、それよりも何よりも「恋愛」そのものをあがめ奉る雰囲気は、確かにありますよね。そこに「斥力」を感じる、というのは、君らしいというか、君の独特たる所以なんだけど(笑)。

>そうすると「もてない男」あるいは「もてない女」は、ホモ的なセクシャリティの志向を持たないにもかかわらず、自らの立ち位置、アイデンティティを確保しなければならないために、消極的に「クイア」という概念を借用して、それを「自称」し始める羽目に陥らされているのではないのかな、ということです。

うーん、これはどうかな?僕はこの意見には反対。ホモセクシャルって、そんな「消極的」な存在ではもうなくなっていると思うんだけどな。もう、「無理矢理」言わされているようなものではないのでは(と、カミングアウトしている知り合いがいる僕は思う)。

>特に、やっぱりオタクという趣味志向をもつ層にこれが顕著なのではないか、という指摘も出来ます。
『網状言論F改』にもあった、「オタクは女の子になりたい」というのがそれです。男だけどショタ好きだというのも割とあるようです。→はてなで遭遇

この辺は、僕はどちらかというと「宮台」寄りの考えを持っているんだけど、「コミュニケーションスキル」の問題なんじゃないかなあ、と思います。実も蓋もなくいえば、「もてるオタク」もいるでしょう。
オタクのヴァーチャルな世界で繰り広げられている性的倒錯は、まさに「弱い自我」を守る機能を持っていると思う(自分は傷つかず、何でもできるからね)。
僕はそういうオタクのセクシャリティのあり方を否定しているのではありません。そういうのもありだと思うけど、世間に対する「オールタナティヴ」になっているかどうか、というのは、多少疑問なのです。これは小谷野さんの「反恋愛論」が、実のところ「恋愛」への渇望に過ぎない、というのと似ていると思います。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | September 13, 2004 at 03:00 PM

川瀬さん、ソーシャルネットワーキング(SNS)のGREEってご存知ですか。

GREEで私がつくった「ジャコモ・プッチーニ」というグループがあるんですが、先ほど一人始めてそのグループに参加された方がいて、誰かなーと思ったら小谷野さんでした…。

不思議なもんですねえ、SNSというのも。

Posted by: | September 19, 2004 at 01:14 AM

「ぽ」さま
僕も実はGREEに一応入ってはいますが、ほとんど幽霊会員です。SNSではmixiのほうに結構どっぷり浸かっています(笑)。

そうか、小谷野さんがやってきましたか・・・。
どこかで出会いそうだなあ、僕も。
大分前ですが、彼と出身学科を同じくする知り合いの掲示板に、小谷野さんが現れたこともありました。

SNSでは「以前から川瀬さんのサイトを見ていました」というようなお声もかかってきたし、距離感覚がなんだか訳分からなくなる時ありますね。もともとネットは見知らぬ人と「なれなれしい」口を利ける、というのが最大のメリットかつ最大の問題なのですが。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | September 20, 2004 at 09:27 PM

The comments to this entry are closed.

« 地震と台風 | Main | ミニ同窓会 »