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December 31, 2004

良いお年を!

先程、掲示板にも書いたのですが、ブログでも今年最後のご挨拶を。

このブログを立ち上げて約7ヶ月、前から付けていたウェブ日記と合わせれば1年以上になってしまいました。これもコメントや感想をくださる皆様のおかげです。ありがとうございました。実際、本当の「日記帳」に書く日記は3日と続いた試しがないのですが(笑)、ブログは何らかの反応があるので、こうして続けられるのだと思います。

僕は一貫して何かに興味を持つということができない「浮気性」なので、勢いブログもその時々に興味を持ったことを書き散らしております。そんなへなちょこブログにも関わらず、「ご愛読」いただきありがとうございます。

来年もまた宜しくお願い申し上げます。
皆様にとって2005年がよい年でありますように!!

川瀬貴也拝

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December 28, 2004

ロックどころか精神が「死んだ」日

先程、あまりのしょーもなさとくだらなさを感じて身もだえするニュースをネット上で発見。

それは、あるインディーズバンドが、会場のスクリーンに香田証生さんの殺害映像を映し、現在主催のTBSが猛抗議だとか。TBSはこのバンド名を出さない方針だったようですが、調べたら、「夕刊フジ」がしっかり暴いてくれていたので、この「KLACK(クラック)」とかいうどーしよーもないバンドについての感想を一言だけ。

以前もとX-JAPANのYOSHIKIが天皇・首相に招かれる事態(在位十周年記念式典)を見て「本当に日本のロック(笑)は死んだな」と思ったのですが、今回は、ある意味それ以上の衝撃を受けました。ロックが死んだ、とかそういうちゃちな感慨ではなく、「とにかく過激にやりゃいいんだよ」という何も考えていないこのバンドのアホぶりというか、その精神の腐食ぶりに「戦慄」したのです。こんなのはパンクでも何でもありません。

YOSHIKIの時は、「まあ、ポール・マッカートニーも爵位もらったし」などとまだこじつけて言い訳ができたのですが、今回の場合は、第一趣味が悪すぎる。80年代の臓物投げていたパンクバンドの方がまだ「パンク」だなあ(全然好きではなかったけど)。

「ロック」どころか「精神」が死んだ日を見届けたような気分になりました。

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December 25, 2004

赤川学『子どもが減って何が悪いか!』を読む

世間はクリスマスで浮かれているこの二日間、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか?昨日なんか、京都駅の伊勢丹横の階段(カスケード)はすごかったですよ。どこからこんなに湧くんだ、と思うほど、雲霞のようにカップルの皆さんが鈴なり。その人混みをかき分けるように家路につく僕。いつもと変わらない生活のはずなのに、昨日今日だけは周りにあおられて何となく寂しい気持ちがします。恐らくクリスマスソングばかり流しているFM局のせいだと思います(読書中のBGMにはFMかジャズが多いです)。

さて、僕は非モテ、もとい学者らしく、昨日も今日も読書とネットサーフィンで時間を潰していました。誰もいない大学の研究室に篭もって、クリスマスらしく(?)読んでいるのは、韓国キリスト教に関する論文や資料です(近々論文を書こうと思っているので)。

でも自分の研究に直接関係のある本ばかりでは飽きてきますので、通勤電車の中では最近はなるべく本業とはあまり関係のない新書などを読むことが多いです。で、今読み終わったのが、タイトルにあるように社会学者赤川学さんの『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)です。今日は、この本について簡単に感想を書きたいと思います。赤川さんはセクシュアリティ研究で有名な方で、僕のような門外漢もお名前は存じ上げていたのですが、勢いのあるタイトルと、後書きにあった小谷野敦氏への謝辞につられて購入したのです(このブログでもたびたび言及しているように、僕はなんだかんだ言って氏のファンである)。もちろん、扱っている内容が、ちょうど僕たちのような世代に大いに関係のある事柄だからでもあるわけですが。

まず赤川さんはわれわれが漠然と常識だと思っていることに疑問符を突きつける。その「常識」とは、「女性の就業率が高ければ高いほど、出生率は上がる」とか、「男女共同参画社会が進展すれば、出生率は回復する」という言説である(逆に保守派の側からは「女性の社会進出が少子化の根本原因」と言われてきたわけだ。この言説も滅びずにしぶとく残っているが。ブログを少し徘徊すると、この手の言葉が予想以上にあふれていてびっくりする)。
当然、一応インテリ(笑)の僕なども、これらの言葉に与するスタンスで今まで生きてきた(これからも恐らくそうだろう)。しかし赤川氏は、虚心坦懐にデータを分析すれば、そうは言えないということを、リサーチ・リテラシーの観点から明らかにしている(データ分析の当否については、僕などど素人なので、判断する術もない。であるから、この書に対する以下の感想は、まさに僕の印象論でしかないことをお断りしておく。この書のデータ分析に関する書評としてこのページを参照のこと)。
例えば、出生率の高い県と低い県を比較すれば一目瞭然だが、前者はいわゆる「田舎」、後者はいわゆる「都会」である。そして出生率の高い地域に、その出生率を高める要因を求めるような政策提言は、畢竟「日本全体を田舎のような構造にしちゃいましょう」ということとあまり変わらないという、笑えない事態になる。赤川氏の恐れるのは、極端に単純化すればこのような事態である。それは時計を逆回しにするようなものだし、女性は家にいろ、だなんて強制する根拠はもはやどこにもないことも明白である。であるから、我々に求められるべき事は、「これとそれは別」と割り切る気持ち、つまり「少子化対策」と「男女共同参画社会の実現」と「子育て支援」などをとりあえず別個の問題として考えることなのである。そして赤川氏は

著者は「少子化対策として無効だから、男女共同参画社会の実現は必要ない」と主張しているのではない。その逆である。「男女共同参画社会の実現が本当に必要ならば、それが出生率を上げようと上げまいと、もっと極端にいえば、さらに少子化を進めることになろうとも、必要と主張すべきだ」といいたいのである。(p.92)

とある意味「真っ当すぎる」意見を述べる。「出生率を回復するために、男女共同参画が必要なのではない(p.102)」のである。
彼の「男女共同参画は少子化対策にならない」という言葉尻だけを捉えて、彼をバックラッシュの一翼を担う人物と思うのは完全な早とちりだ(赤川氏自身、学会や研究会でそれに類した体験をされているようだ。まあ、バックラッシュ派から下手な引用をされれば、意図せざる利敵行為になるやも知れぬが、それは赤川氏の責任では無かろう)。
この書で彼が何度も強調するように、男女共同参画社会は、少子化対策とは独立しておこなわれなければならない課題なのである。続けて求められるのは、もはや少子化という流れは簡単に止めようがないのであるから、それを織り込み済みにした社会プラン(具体的には年金制度などの見直し)を図るべきということだ。つまり

少子化がもたらす弊害を子ども数を増やすことによって解消するのではなく、子ども数が増えないことを前提としながら、あらゆる制度を、選択の自由に対して中立的に設計していく必要があると考える。子供を産まないことを、わがままとか、ただ乗り(フリーライダー)とか批判するのではなく(それをいうなら、子供を産むことだって「わがまま」であり、支援を受ければ「ただ乗り」だ)、子供を産む/産まないという選択に対して完全に中立的な制度を設計した上で生じる負担に対しては、社会全体で公平に共有することを考えたらよいのではないか。(pp.136-7)

ということである。「まだ充分に男女共同参画社会が実現していないから効果が目に見えて現れないのだ」という言い訳もあるだろうが、これは反証不可能な物言いで、フェアではない(p.101)。「そういうことを言っている内はまだまだ」という台詞は、どんなときにも使える(昔友人に酒の席でこう言われてキレてしまったことがあったなあ。閑話休題)。ゆえに、使うべきではないのだ。

さて、実はここでやっかいな問題がある。赤川氏も述べるように、

厄介なのは、自らが援用しているデータが怪しげな根拠に基づくことを知りながら、男女共同参画という目的のために、あえて戦略的に使い続けている場合(p.95)

があるのだ。これは前述の「意図せざる利敵行為」と関係がある問題だ。要するに、その言説の社会的・政治的な機能の、メタな次元の問題設定である。
実は、僕がこの書に対して持っていた一種の違和感、もっと正確に言語化すれば「赤川さん、ここまでいわなくても良いのに」という気持ちは、まさに上記のようなことを僕が考えていたからである。僕などは、多少の誇張やはったりは、事態を改善するためには手段としてやっちゃっても良いと考えているものだから(「マキャベリズム」や「責任倫理」というほど大げさに考えてはいないが、それに近い)、今まで主にフェミニズムにおいて語られてきた戦略的な言動を一概に批判する気にはなれない。そういう物言いは、言わないより言った方が良いに決まっているのだから。しかし、自らの「正しさ」を過度に強調する言動は、一度綻びが見えると、途端につけ込まれる危険性があるのも確かだ(辻元清美氏の事件はその典型例だと思う)。赤川氏も実はその辺りを心配しているのではないだろうかと思った。僕はそこに氏の誠実さを見る。
さて、続けて「正しさ」の危険性をもう一つ思いついたので、書き留めておきたい。
「男女共同参画のプランは、少子化対策に役立つ」という言われ方が今までになされ、この言説が支配的なわけだが、このように「役に立つ」ことを強調して存在理由を語るというのは、実は危ない。単純な話だが、役に立たない、ということがばれれば、その正当性・存在理由をあっという間に失ってしまうからだ。
僕が思いつく例では、例えば大学、特に僕も属する文学部などは、最近だと世間様や設置者に対して如何に役に立つかというのを主張しないといけない羽目に陥っているが(そして「文学部は決して無用の長物ではありませんよ」というような適当な作文を作製することを強いられている)、その論拠が崩れたら「じゃあいりませんよね」と手のひらを返される危険もあるのだから、少子化論議同様慎重に事は運ばねばならない(もちろん僕は、文学部、もっと言えば人文学がムダだなんて思ってはいません。当たり前ですが)。
話が少しそれてしまったが、僕がこの書から得た「教訓(敢えて言えば、である)」は、ありきたりながら、「正しさを押し出すことの危険性」である。個人的には「是は是、非は非」と一貫性のあるようなことを言いつつ、時には「嘘も方便」なんていうずるいバランスが取れれば、と思うのだが、僕では無理だろうな。人間が単純にできているから。無理だと思うから、こうしてこの場で書いてしまうわけですが。

さて、繰り返すが、氏の主張はひどく真っ当である(少なくとも僕にとっては)。特に、結婚する、子供を作るというような、人生における個々人の選択に対して、国や制度が介入することができないであろうし、するべきではない、という氏の言葉は玩味せねばならない。

「してもいいし、しなくてもよい。してもしなくても、何の利益も不利益も受けない。何のサンクション(懲罰・報奨)も被らない」という原則である。これが「選択の自由を保障する」という言葉の意味である。(p.111)

ともかくこの書は「少子化」問題を考える際には必読であろう。学生にも薦めようかな。

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December 23, 2004

また町山さんの本を

kanibaketu今日から本格的に冬休み。
思ったより疲れが溜まっていたのか、しっかり昼過ぎまで寝てしまい、休み早々ダメ人間としてスタートしてしまう。

とりあえずブランチを食べながら洗濯機を回し、その後外出。海外の知り合いへの年賀状(クリスマスカードを出すつもりだったが、すでに時遅し)を買いに出掛けたのだ。韓国へ2通、アメリカへ2通、いかにも「ゲイシャ・フジヤマ・ワンダホー」な絵柄のものをチョイスして、送る(向こうで受ければいいのだが・・・)。
国内向けの年賀状もほぼ書き終わり(正確には、プリンター君のおかげだが)、最近買っておいた町山智浩さんの新刊『USAカニバケツ-超大国の三面記事的真実』(太田出版、2004)を、あまりの面白さのためドドドと読了。ふーっ。

この本は、タイトルの通りまさに「外人が知らないタブロイド紙的なネタ」からアメリカの一面を鋭く剔った本。前作の『底抜け合衆国』とコンセプトはほぼ同じだが、よりアメリカの「トホホ」な実態が知れて、大爆笑必至。といっても「アメリカ人て馬鹿でー」と日本人が振る舞えるかどうかは、全く別だ。アメリカも日本も、馬鹿さ加減ではどっこいどっこいかも知れないのだ(少なくとも、僕はそう思っている)。人間の本性なんて、意外とどこでも変わらないと思う。

でも、この本を読んでいて、ある意味羨ましくもあったのは、一言で言えばアメリカの「豪快さ」。国土の広さにものをいわせて、という面があるのかも知れないが、人間のスケール(特にはみ出し方)が日本のようにせせこましくなく、豪快(例えば、マイケル・ジャクソンの「人間としての壊れっぷり」を見よ!)。
「アメリカ奇人変人伝」という趣もあるこの本、「人間」の業の深さというものを考えさせてくれる教材だと思いました。おすすめ。

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December 22, 2004

今日で授業終了!

とりあえず今年の授業は今日でラスト。来年の1月7日までは授業しなくて済む。うれしー(とか教員が言っちゃまずいか)。
でも、4年生や修士2年の学生諸君は、これからが大変な時期(うちの大学の文学部は、卒論、修論ともに1月中旬から下旬が〆切です)。従って、彼ら迷える子羊を導く(はず)の我々教員も大変な地獄の日々が本格的にスタート、と言えなくもない。まだ、書きかけのものすら持ってきてくれないので、指導しようがない(これを読んでいる学生諸君、早めに持ってくるように)。同志社大学の小原先生も、この数日、本当に大変そうだ(学生の描いたイラストが秀逸!)。お疲れ様です(明日は我が身ですが)。

そして、実は教員にも、それ以外に「冬休みの宿題」が色々あるのです。

「来年のことを言うと鬼が笑う」と言いますが、実は、すでに来年4月以降の授業概要(シラバス)を考えなくてはならないのです。〆切がちょうど冬休み明けですから、まさに「宿題」。
毎年同じことを喋るような講義はそれほど考えなくても良いかもしれませんが、ゼミとかになると、読む本を選ばなければなりません。これが結構大変。それは「自分が読みたい本」「学生に読ませたい本」「学生がブーブー言わずに買ってくれる本(要するに安い本)」「自分がちゃんと解説できる本(難しすぎると、危ないです)」という条件を組み合わせると、選ぶのに難渋します。さっきも自分の研究室の中をうろうろしちゃいました。

そして、当然ですが、来年度に〆切のある論文やら書評やら学会発表原稿やら。当然これも片づけなければならない「宿題」です。講義のないこの休みに、やってしまわなければあとで死にますからね。普段、講義をする毎日ですと、講義が終わったら「一仕事した」という気になって、なかなか論文とかに取り組むエネルギーが湧いてきませんので・・・(こんなヘタレは僕だけ?)。

で、僕はというと、まず今晩と明日で、最重要課題の一つである「年賀状」に取りかかるつもりです。これも「宿題」ですよね・・・。

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December 19, 2004

三宅乱丈はすごいかも・・・

この週末は、疲れた体を休めることに決定。冬休み直前で息切れしてきたことに加えて、忘年会やらで体力が削れていることを自覚したからだ。
あ、今卒論を抱えている学生の皆さん、疲れたヘロヘロの体と脳みそでは、ろくな文章になっていませんから、一度ゆっくり寝ることをお薦めします。今まで君たちが寝すぎである、ということはとりあえず棚上げします。そろそろ精神的に追いつめられ始めているかも知れませんが、いざ追いつめられれば不思議なことに人間、自分でも思いがけないようなエネルギーが湧いてきて(人によっては神が降りた、と表現する人もいます。実は、僕も今「言霊様」のご降臨を平井和正先生のように待っているところです)、何とかなるものです。頑張ってください。

閑話休題。ということで、近所の本屋さんに行って、何冊か息抜きになりそうなマンガを物色して読みふける。
で、そのうちの一冊が、久々に僕をして「何じゃこりゃー」と叫ばせた代物で、作者は三宅乱丈先生(excite booksでのインタビュー記事です)。今まで名前は知っていたんですが、何となく読まずに過ごしてきたんですよね。僕の大学の同期のT澤嬢が「『ぶっせん』、すげー面白いよー」と奨めてはくれていたのですが、『ぶっせん』(講談社モーニングワイドコミックス)を数ページパラパラ読んで、「何かピンと来ないなあ」とその時は思い、そのままにしていたのですが、何故か今回は吸い込まれるように、三宅先生の最新作『大漁!まちこ船』(講談社モーニングワイドコミックス)を購入してしまいました。表紙の迫力に押されてしまったので・・・。

このマンガ、何と言っても、バカバカしい設定を大まじめに書いていて、強引に独特の世界に引きずる力が半端じゃない!!こんな不条理な世界に連れて行かれたのは久々です。倉橋由美子や川上弘美に勝るとも劣らない(当社比)力業だと思いました。

えー、簡単にこの物語を説明しますと、舞台は港町で、「マグロのエサ」が職業のまちこと、脱サラしてスローライフの実践として漁師を始めた小川さんが、紆余曲折があったあとで、まちこが産んだ卵に放精してほのぼのとした子だくさんの家庭を築くという、愛の物語です。大丈夫ですか?ついてきてくれてますか?僕もこのように強引に物語をまとめてみましたが、改めてこの世界の「ものすごさ」に戦慄しております。
よくもまあ、こんな設定を考えつくものだ。多分、三宅先生は実は「何にも考えていなさそう(正確に言うならば、設定はすごく思いつきっぽくて、ディテールは非常に細かいです。そのせいで地引き網に引っかかったようにこの世界に引きずり込まれたわけですが)」な雰囲気もあるのですが、「これは愛の寓話として読み替えなければ」という変な義務感を読者に感じさせます。

というわけで、これから遡って三宅先生の作品を読みあさるかも知れません。今までちゃんと読んでこなかった不明を恥じております。

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December 17, 2004

読書マラソン

昨日、一年生のK君が一枚の紙を持ってきてくれた。それは、生協が主催している「読書マラソン」という企画の紙で、要するにお薦めの本の「ポップカード」(店頭で飾られるキャッチコピーが書いてあるカード)を自分で書いて生協に持っていって、どんどん読書をしていくと割引券や景品が進呈されるというもの。K君はサークルの関係上、この企画に関わっているらしく、学生のみならず教員の意見も聞きたい、とのことで、学年担任の僕のところにその紙を持ってきたわけだ。
僕としては、『東大教師が新入生にすすめる本』(文春新書)がすぐに思い浮かんだが、まずは、大学1、2年生が読んで損はない本、そして廉価な文庫本か新書に限定して推薦しようと思い、本棚を物色して、以下の4冊をとりあえずエントリー。
結構ポップカードを書くのは骨が折れる。小さな紙に、いかにして興味を引く言葉を入れるか、というのは難しいものだ。「コピーライター」というのは大変な職業だと思い、改めて博○堂で働く大学の同級生川○君や、ヴィレッジ・ヴァンガードの店員さん達に頭が下がる思いだ。

読書マラソン推薦図書

川瀬貴也(文学部教員)

kukai石牟礼道子『苦海浄土』講談社文庫
水俣病という恐ろしい「犯罪」を独特の手法で告発した名著。被害者の声にならない声、低い呟き、ささやきを石牟礼氏という「巫女」が倍音と化して伝えてくれている。恐らく読者は、今までに聞いたことのない「声」に戦慄することだろう。


kusanohana福永武彦『草の花』新潮文庫
人を愛する、ということはどういう事か。これは文学の決して終わりのないテーマの一つでしょう。時には「愛する」ということ自体のエゴイズムにも目を向けねばならないときがあると思います。その格好のテキストがこの本です。


musyukyo阿満利麿『日本人はなぜ無宗教か』ちくま新書
日本人は無宗教といわれますが、それは本当でしょうか。我々はいつの間にか「痩せた宗教観」でもって〈宗教〉を見てはいないでしょうか。自らに内在する「宗教観」の見直しをこの書を通して考えてみて欲しいと思います。


nenagara内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書
大学に入ったら、色々難しい外国の思想家のことを勉強しなければならなくなります。「構造主義?それ、食べられるの?」と思っている皆さんに、「名シェフ」内田先生の料理をお勧めします。この本で基礎を養って、難しい原典に当たってみてください。



こんなものを推薦してみました。

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December 15, 2004

三分の理

先程、ネットで興味深いニュースを見かけた。「興味深い」というのは正直言って不謹慎な言葉遣いだと思うのだが、十代の少年による「振り込め詐欺」事件である。1480万円だまし取ったという金額もさることながら、驚かされたのは、主犯格の少年の言葉。

主犯格の少年(19)は「田舎のお年寄りが金をため込んで使わないからバブルがはじけた。だまし取って使えば景気は良くなる」などと供述しているという。

いやあ、久々に声を上げて驚いた。泥棒にも三分の理とは良く言ったもの、いや、この少年はもう少し、五分の理くらいあるかも知れぬ。やったことは当然許すべからざる事だが、ここまで言えたら立派なものだ。この少年の台詞、「だまし取って」という部分を無くして経済評論家などが言ったらどうなるか。そのまま週刊誌の片隅に載りそうな言葉ではないか?逆に言えば、この少年の思いがけない語彙の豊富さに驚くよりも、経済評論家などの語彙の少なさに驚くべきなのかも知れない、などと思う。

彼らは、だまし取ったお金を高級料理やホテル代などで浪費していたという。彼らの風体は知らないが、少年たちが豪遊しているのをホテルやレストランなども黙認していたわけだ。恐らく、少年たちは現金ニコニコ払いの「美味しい」お客だったはず。金が全てのこの世の中、彼らの行動を止める術は店の側には無かっただろう。

「振り込み詐欺」の事件はいつ聞いても、悪意のエッセンスが抽出されているのでいつも胸くそが悪くなるが、今回の事件は久々に本当に、憂鬱な気持ちになってしまった。少年たちの「悪意」と、彼らの蕩尽を許容してしまう現実に。

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December 14, 2004

固定リンクのバグ

最近、ココログは写真のアップロード方法を改善したり、色んなデザインを導入したりして努力はしているようなのですが、あちらを直せばこちらがおかしくなる、という、まあコンピュータソフトには付きものの「底なし沼」に陥っている気配がちょっとします(そういう「底なし沼」の最大の原因は、穴だらけのOSやソフトを出して世界を牛耳っている某社にあることは言うまでもありませんが)。

で、このところ僕が悩まされているココログのバグは、「固定リンク」の自動割り振りに関するバグです。
ココログでは、各投稿に対して、「公開」する際に自動的に「固定リンク」が割り振られるのですが(その記事固有のurlです)、それがこのところおかしい。
最初におかしいな、と思ったのは、11月30日付の記事から。この記事は、日付が変わった12月1日に書いて、「公開」する際に「11月30日付」と記事投稿の時間を修正してアップしたものですが、そうすると固定リンクが「/11/post.html」となりました。これは、11月の最初の記事に以前割り振られたものです。これはやばい、と思った僕はこの投稿を一旦消して、改めてコピー&ペーストしてアップしたら、「post_1.html」となってしまい、慌てて消してもう一度やって、今は「post_2.html」となっています(ここで一旦諦めました)。実は、これは11月5日付の記事に割り振られたものです。どうも、「月」を越えて過去記事を書くと、こうしたバグが現れるようです。これはもちろんサポートセンターに報告して解決策を訊いたのですが、要するに「打つ手なし」だそうです。
ちなみにココログの固定リンクの付けられ方は、日本語のタイトルの場合は投稿順に「post_数字.html」と割り振られて、タイトルにアルファベットが並んでいるときはそちらが優先されます(例:11月9日付の日記はタイトルが「このところのexcite booksは面白いぞ」というものだったので「excite_books.html」と割り振られました)。これもちょっとどうにかした方が良いんじゃないかとは思います(その英単語がダブったらどうなるのかな?)。

で、今月は不思議なことに「5以上の奇数番号が飛ばされる」という形になっています(12月13日現在)。こういうバグは、この半年で初めてなのでびっくり。「12/post_4.html」(12月9日付)までは順番通りなのですが、その翌日から、本来は「post_5.html」になるはずの記事が「post_6.html」(12日)に、その次の記事が「post_8.html」(13日)になってしまいました。「post_7.html」も飛ばされたわけです。で、早速サポートセンターに昨晩質問して、今日来た返答が以下のものです(サポートセンターで答えてくれた個人名は消しました)。

川瀬 貴也 様

 アット・ニフティにお問い合わせいただき、ありがとうございます。
 メールサポートセンター●●です。

 お問い合わせいただいた「ココログ」の件について回答いたします。

 このたび、ご連絡をいただきました内容を元に、当窓口で検証させていただきましたところ、お客様のご指摘通り「post_4.html」より奇数番号が飛んで割り振られることを確認いたしました。

 現在はこのような仕様になっている可能性もございますが、川瀬様よりご指摘いただいた固定リンクの件に関しまして、担当部署に報告させていただきたいと存じます。

 アット・ニフティでは、今後とも会員の皆様が快適にご利用いただけるよう鋭意努力させていただきたく存じます。これからもご愛顧たまわりますよう、よろしくお願い申し上げます。

 お問い合わせありがとうございました。
 今後ともアット・ニフティをよろしくお願いいたします。

 アット・ニフティメールサポートセンター●●

これも「担当部署に知らせる」とあるだけで、対処しようがないようです。
まあ、致命的なバグではないけど、何か気分が悪いですね。先月までは起こっていなかったバグですし。ですからこのバグは、最近のココログ全体の「改良」が却ってあだになったのかな、と思います。

今からこの記事をアップしたらどうなるか。これを書いている段階では判らないのですが、このまま行くと「post_10.html」になるかも知れません。どきどき。さあ、アップしてみます。

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December 13, 2004

野望のために・・・

今朝、新幹線に乗って京都へ戻る。ちょうど着いたらお昼時だったので、そのまま最近お気に入りの伊勢丹の上にある「京都拉麺小路」へ行って、妻に(コレステロールの件で)叱られそうな昼食。

matsushitaseikeijuku新幹線の中では、大概は眠っているのだが、今日はなんだか目が冴えてしまったので、新書を一冊読破。
読んだのは出井康博『松下政経塾とは何か』(新潮新書、2004)。このブログでも前に買ったことはメモしておいたのだが、その「野望の王国」ぶり(笑)を拝見しようと思って、リュックに入れておいたのだ。

最初、この本は細川元首相への直撃インタビューから始まっている。最近細川氏は「陶芸家」として生きているらしいが、その展覧会に著者は出向き、日本新党と松下幸之助の構想の関係を問いただすが、細川氏が言下に否定するシーンがこの本のマクラ(実際は大ありらしいのだが・・・)。その辺りの描写や、展覧会に対して「隠遁生活を気取りながら、社会との関わりを完全に断ちきる勇気はないのである」(p.8)なんて書く当たり、どうもこの著者のストレートすぎる好悪の感情が表に出ている嫌いがあるが、これ以降の現在国会議員や地方議員、地方首長などになっている松下政経塾の面々の描写は生き生きとしており、一気にに読めてしまった。特に、この本の中で大きく取り上げられている山田宏杉並区長や(思い出話になるが、この区長が「つくる会」の教科書に肩入れするような態度をとったので、数年前杉並区役所を囲むデモがあり、僕もそれに参加した。あの時は山住正己先生も先頭にいらした。今の都立大の惨状をご覧になって、先生も草葉の陰でどう思われているか・・・)、中田宏横浜市長の人間的な「えぐみ」の描写は面白かった。
ノンフィクションの通弊かも知れないが、一部「講談師、見てきたような・・・」という気がしないでもなかったが、最初に細川氏に毒づいた著者派の反骨ぶりは、最後まで貫かれており、「松下政経塾は、すでにその役目を果たし終えたのではなかろうか」(p.203)という結論に至る。簡単に言うと、国家百年の計を考える「志士」たちを養成する現在の「松下村塾」たらんとした松下政経塾が、単なる政治家養成機関(政治家になるノウハウを教えるだけ)に成り下がったと著者は見ているわけだ。

本書の内容は、担当編集者の紹介記事(上記のリンク先)に書いてあるのでここでは繰り返さないが、この本を読んで、僕は前々からこの「松下政経塾」に感じていた一種の「違和感」が多少氷解するのを感じた。
まず、第一は、この塾に入って来るような政治家志望の青年は、僕なんかよりもよっぽど「保守的」な人が多い、ということ。当たり前といえば当たり前なのだが、ついぞこの塾に入る人のメンタリティに思いを馳せたことがなかったので、その点「目から鱗」だった(これは僕の愚鈍さの証明だが)。僕が彼らに感じていたのは、この「保守性」への違和感だったのだろう。もう少し詳しく言うと、生まれたときから豊かな「日本」そのものを享受していて、それに対する疑問が最初からぬけおちている、という類の「保守性」だ。例えば、旧聞に属するが、この塾出身の高市早苗氏の「私は戦争に行っていないから、戦前の日本の責任をとることはぴんと来ないし、そう振る舞うつもりもない」、と明言したことなどへの違和感だ。

そして、その「保守性」が、悔しいことに(笑)、僕の内部にも確実に存在する「保守性」だと言うこと。思いっきり最初から自民党、というよりは、民主党的、もっといえば一昔前の「新党さきがけ」的なメンタリティだと言うこと(僕が過去に政権与党に票を投じたのは、確か「さきがけ」だけだったと記憶している)。ドラスティックな改革は避けつつ、でもちょっぴり反体制でいたい、という、まあ虫の良い考えですね。確か宮台真司さんの本にも「東大生はさきがけ支持者が他の社会集団に比べて有意に多い。まさに東大生らしい現象だ」と皮肉を言っていた記憶がある。下世話な言い方をすれば、僕から書生臭さを多少抜いて、「人間、とにかく上に立たなきゃ話にならないでしょ」という感じの脂っこさを加えれば、恐らく政経塾の皆さんに大分近づく気がする。

将来政治へ「野望」を秘めた人も、それをシニカルに見る人にもお薦めだ。

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December 12, 2004

東京出張とサッカー観戦

この週末は東京出張。

まず土曜日は「日・韓次世代学術フォーラム」という学会の日本側運営委員会。僕も(偉そうにも)運営委員を仰せつかっているのだ(日本側韓国側双方7名ずつ)。新宿の某ホテルの会議室で、昼ご飯を食べながら来年度の大会の相談。この会議は昼から夕方にかけてで、夕方解放されたのは良いが、新宿のあまりの人の多さにめまいがして、新しいジュンク堂新宿店を見に行く予定だったが行く気を失い、そのまま帰宅。一応、12年間も東京に住んでいたのだが、この2年ちょっとの京都生活で、すっかり京都に染まり「京男」になりつつあるのかもしれない(でも、こんなこと言ったって、いけずな京都人は「まだまだですなあ」と言って仲間に入れてくれないだろうけど。なんたって、京都の自宅も「洛外」と言われる地域だし)。
夜は妻と食事しながら、Jリーグのチャンピオンシップを観戦。僕は浦和レッズ、妻は横浜Fマリノスを応援。結果は皆さんご存知の通り。ああ、最後くらい、レッズに花を持たせてやりたかった・・・。

日曜日は、来年3月に行なわれる国際学会の準備として、一緒にパネルセッションをやる仲間と打ち合わせ。日曜の東京は急激に寒くなり、打ち合わせ場所もなかなか温まらない。だいたいのこれからのスケジュールも決めて解散。
帰宅して、またサッカー観戦。BSで天皇杯の川崎フロンターレと鹿島アントラーズ戦。判官びいきの僕としては、当然フロンターレを応援。途中まで2-0でリードしていたのに、同点に追いつかれ、結局延長戦で負け…。二日連続ひいきにしていたチームが負けると、何かすっきりしないなあ。ぶつぶつ。あ、柏レイソルのファンの皆さん、おめでとうございます。セレッソ大阪のファンである僕にしても、明日はわが身、と言うか、「来年はわが身」という気がしますので、他人事とは思えません。

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December 09, 2004

カリーマ先生のエッセイ集

年をとってからの語学は難しいと言われますが、NHKアラビア語講座を見ている僕には、本当に実感できます。講師の師岡カリーマ・エルサムニー先生に釣られて見始めたのは良いが、文字もろくに憶えられず毎回絶賛挫折中であることは前にも書きましたが、その罪滅ぼし、というのは嘘ですが、本屋さんでカリーマ先生のエッセイ集を見つけて、「マー・ハーザー?(「これはなんですか?」という意味のアラビア語)」とばかりに、ついつい買ってしまいました。

その本のタイトルは『恋するアラブ人』(白水社、2004、\1800)
これはカリーマ先生が『季刊アラブ』という雑誌に長期連載していたものを集めたものだそう。電車の行き帰りの中で読んでいるのですが、面白くてぐいぐい読んでしまいました。

まず特筆すべきは、その文章の巧さ。押さえた感じの表現が僕好みです。
今回のカリーマ先生のエッセイは、すっきりとした端正な文章だし、ちゃんと「アラブ」というのがどのような文化風土にあるのか、ということも自然に理解させてくれる好エッセイだと思った。ご自身のエピソードと、歴史的な知識がうまく解け合っています。
それに、ところどころで、カリーマ先生の「硬派」な部分もわかり、ますます好感を持ちました。というわけで、お薦めです。

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December 08, 2004

思いこみだったのか?

今日、ヤフーで面白い記事を見つけた。東大生の全学的な調査で、「高所得層の親が大半で、六年一貫校出身が大半」というイメージは実は現状と合わない、というのだ。
東大の「学内広報」にその詳細が載っているので、講義が終わった後、色々読んでしまった(家庭環境については、特にここを参照)。うーん、なるほど。

僕が入学したときの資料は調べれば判るのだろうが(恐らく、『入学アルバム(そういうものもあったのだ)』に載っていると思うが、押し入れの奥なので取り出すのは断念)、僕の全く「感覚的」な思い出話になるが、やはり公立校出身の友人は少なく(その公立校も、その県のいわばトップ校ばかりだった)、関東近辺が多く、六年一貫校出身者が目立ち、親の職業も年収も高そうだ、という感じだった(ちなみに僕の父は某銀行の部長クラスで、僕の父あたりが東大生の親の平均値だ、という気がしていた)。少なくとも家が極端に貧しく、刻苦勉励して奨学金とバイトで食いつないでいる友人はごく少数だった。あの時のイメージは、この10年ほどで変わってしまったのだろうか・・・。

まあ、年収の話は統計資料として出てきたのだから「そうですか」というしかないのだが、問題は、前もこのブログで話したことがあるが「文化資本」の社会的偏在の問題だろう。これはなかなか数値化しにくい問題である。教養とは、元々数値化できない能力だし。教育学部の佐藤学先生(大昔、教職の授業でお世話になった)によると、東大生の間でもその「文化資本」の差が年々激しくなっているそうだが・・・(内田樹『街場の現代思想』NTT出版、2004、pp.11-5)。


さて、話は急に変わるが、心理学(特に男と女に関するベストセラーで有名な)某教授が、要するに「セクハラ」の容疑で逮捕されたようだ。僕は元々この先生の言うことはうさんくさいと思っていたのだが(何でもかんでも父親のありかたが娘の人生を規定する、なんて話にいつの間にかなっている。トラウマ理論はそのような「運命論」ではないと僕自身は思っている)、それにして迂闊だなあと思う。
で、僕も色々言いたいことがあったのだが、言いたいことは大体内田樹先生が早速日記で書いてらっしゃるので、言うことがなくなっちゃった(笑)。この某教授は、うさんくさいことも言うけど(同工異曲の本をあれだけ出している)、さすがにカウンセリングとかトラウマ理論とかについて僕よりは知っているだろうと思っていたけど、やはり僕の思いこみだったか。内田先生を真似するわけではないが、あの人のうさんくささについて前々からぴんと来ていた僕は結構読みが鋭かったかも。

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December 07, 2004

あんまりな人選

新聞で知ったのだが、なんでも例の「歴史教科書を作る会」の幹部だった高橋某という人物を、埼玉県知事が県の教育委員に推薦したのだそうだ。いやあ、もう呆れてものもいえないですなあ(もう、この例の教科書をあげつらうのは体力がいりますので、止めにしておきます。悪しからず)。新しく知事になった上田さんの正体も見えた、という感じです。やれやれ。ホント、脱力感を感じます。

この前も、確信犯的に、というよりは、ほとんど神経症的な「症状」として(言っちゃいけないと判っているがどうしても言ってしまう、というのは強迫神経症めいています)、文部科学大臣が「失言」なさいましたが、ホント、懲りないですね、皆さん。言えば絶対(発言者が敵視している)諸外国に非難されるのが判っているのに。
まるで熱いお風呂に足を入れるように、ちょっと言ってみて大丈夫そうだったら、もう少し・・・という感じで事を進めたいのかも知れませんが、向こうもそれほど「甘く」はないようです。

僕は自分では、もちろん青臭い理想主義的な部分があるのは自覚していますが、一方ではマキャベリズムとまでは言いませんが、結構「戦略的」に事を進めることも考えているつもりの人間です。僕に限らず、どんな人も同様だと思いますが。
で、上記の人たちに腹が立つのは、その主義主張の同調できないこともさることながら、その「戦略性」の無さです。政治家のくせに全く・・・。まあ、戦略的すぎて、こちらが文句を言えなくなるのも怖いので(僕なんか、故小渕首相はそういう人だったのではないか、と思っています)、文部科学大臣をはじめとする皆さんには、時々問題を思い出させてくれる役割をこれからもお願いします、と皮肉の一つも言いたくなります。
でも、僕の友人の小埜田君が言うように

「ある意味で、彼のような「自明なる悪」が存在してくれることによって、「あれは悪だ!」とキャンペーンを張ることが簡単になるのだが、しかしそれでも、彼を「自明なる善」と頑なに信じる少数者と、無意識に支持してしまう多数者とがいる。このことこそが最大の問題である。」

というのも考えなければならない問題だと思います。「白黒」の単純な問題にしてはならないのだと僕も思います。

さて、聞くところに拠ると、制服組上がりの前防衛庁長官が、現役自衛官と組んでしょーもない提言をしたりと、どうも戦争ごっこが好きな御仁が多くて困る。どうしてそんなに「軍隊」とか「戦争」が好きなのか?平和ボケで、隣人を信じることのできる楽天家の僕には全く理解できない。それに、素人ながら戦略的な物言いをさせてもらうなら、隣国が攻めてきても何のメリットもないような状況を外交や貿易の積み重ねで作っておけば良いだけではないか、と思ってしまうがいかがだろうか。

いま言えるのは、残念ながら確実にこの国は危険な道に進みつつあるということだ(警察も不当な職質とかを平気でするようですし。←宮台真司氏のブログより)。楽天家の僕も、この点に関してだけは悲観的にならざるを得ない。僕は数十年後、「証人」として何か語っていることができるだろうか?

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December 02, 2004

内田樹『他者と死者』を読んで

いつもブログと著書を愛読している内田樹先生の新刊『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』(海鳥社、2004、\2500)を読了して、今頭が非常に混乱している。

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(渋ーい表紙です。)

ラカンとレヴィナス、という超絶に難しい二人の思想家についての本なのだから、そもそも内容が僕などに判りづらいのは当然なのだが、僕を混乱させるのは「判る、判らないとは根源的にどういう事か?」という疑問を、この書から受け取ってしまったからだ。
レヴィナスの「師弟論」を展開する部分で、内田先生は以下のように書いている。

 (このレヴィナスの言葉は)ソクラテスが『メノン』で展開した「想起(アナムネシス)説」を批判する文脈の中で出てきたことばである。ソクラテスによれば、人間は繰り返し転生する間に天上の世界も現世のこともすべて知り尽くした。だから肉体を持つ以前に天上界で見たイデアに関わりを持つものを地上で見ると、「忘れていたイデアを思い出す」とされるのである。だが、「知るというのは思い出すことだ」というソクラテスの想起説によれば、人間の知に外部は存在しないことになる。  ソクラテスに反対して、レヴィナスはこう説く。師が弟子にもたらすもっとも重要な教えとは、何よりも、外部が存在することを教えることである。それは「師の現前」というそれ自体「外部的」な経験によって担保される。  師はなにごとか有用な知見を弟子に教えるのではない。そうではなくて、弟子の「内部」には存在しない知が、「外部」には存在するという知を伝えるのである。「師」とは何よりもまず、「知のありかについての知」を弟子に伝える機能なのである。(pp.58-9)

いやあ、困っちゃった。
ここでの説明は僕には「すっと」判ってしまった。でも、こんなものを読んでしまうと、「僕のこの「判った」という感覚は、結局は今読んだことを既知のものに置き換える作業を頭の中でおこなっているだけなのではないか?」という疑問がメタなレヴェルでどうしても浮かんできてしまったのだ。
「他者理解」とか言っているけど、「他者」は「理解できないもの」なんだよ、というレヴィナス的な存在論的テーゼも頭をよぎる。「僕がこの絵を美しいと思うのは何故なんだろう」という昔からの疑問(美学では良くある問題設定だと思いますが)まで蘇って来ちゃうし。

とまあ混乱しっぱなしで、この書の内容を要約したり紹介することは僕の手に余るのだが、僕の印象に残った部分だけでもメモ代わりに書き留めておきたい。

先程僕が混乱した「理解」という問題に繋がるのだが、「我々はついつい、眼前のものを既知のものに還元する」という問題がまず印象的だった。
さて、ユダヤ教の聖典解釈(タルムード学)においては、独学者は認められない。必ず「師」について学ぶことが要請されるそうだ。というのは、

「独学者はすべてを既知に還元し、テクストの意味を残りくまなく明らかにし、聖句に「正解」をあてがい、解釈の運動を停止させ、タルムードに「最終的解決」をもたらすことになる」(pp.93-4)

からだ。「最終的解決」と聞けば、ユダヤとからめて当然恐ろしい過去が思い出されよう。同様に続けて曰く、

彼(独学者)の努力は「自分がすでに知っていること」を他者のパロールのうちに「再発見」するためにしか行使されない。それは独学者が「他者」を知らないからだ。彼の目の前にいるのは、彼と同類等格の「他我」、彼自身の「鏡像」(image)にすぎない。(p.95)

とある。そしてとどめは

そのつどすでに既知であるものを既知に繰り込むこと、それが西欧の思想における「知」の機能である。独学者とは西欧的な知の別名なのである。(p.97)

思わず上記の部分はすべて蛍光ペンを引いてしまったのだが、この僕の行為も「既知であるものを既知に繰り込む作業では」と思ってしまったのだ。堂々巡りですね。
「語り得ないものには沈黙しなければ」とウィトゲンシュタインを気取るつもりは毛頭ありませんが、僕の学問的営為(大げさに言うと)へのきつーい「パンチ」のように感じてしまったのだ。

もう一つ考え込まされたモチーフは「死者の代弁をしてはならない(死者を自分の「道具」として召喚してはならない)」というもの。レヴィナスはユダヤ人で、自身も家族や親族をナチスの「最終的解決」で失った人である(レヴィナス自身はフランス軍人という身分が保障されており、収容所送りにはならなかった)。そうしたレヴィナスが上記のようなまさに「法外」な要求をするのであるからびっくり。
小泉首相の靖国参拝を中国が問題視したりして、この話題は実はいまだに日本ではホットである。いや、最近になって死者を「復活」させ、まるで死者を、言葉は悪いが、「腹話術の人形」のように扱って自分の気持ちを述べるような人が増えてきたように思う。誰よりも、そういうことをする権利があるユダヤ人であるレヴィナスが、このような「自制」を説いたところに、空恐ろしささえ感じる。何故レヴィナスは、かくも過酷な「禁欲」を自らに課したのだろうか。それは、「歴史が教えるように、これまでのほとんどすべての粛正と排外主義は、「死者の遺言執行人」、「非人道的迫害の証人」を自称する人によって担われてきた」(p.183)からである。要するに「目には目を」の敵討ちの論理は、どこまで経ってもキリがない。暴力の連鎖を断つには、この法外な禁欲を自らに課さねばならないのだろう(誤解の無いように僕なりに付け加えるが、これは例えば「戦争による被害は水に流しましょうね」というような無責任な発言とは違う)。

そしてとどめ(と僕が思ってしまったの)は、「先立つ有責性」である(僕の貧しいレヴィナス理解でも、この部分が鍵なのだろうということくらいは察知できる)。これは、簡単に言えば「やってもいないことに対しても、私は責任がある」「過失を犯していないのにもかかわらず、罪の意識を抱くこと」という考え方だ(その究極形態は「私が受けた迫害についてさえ私は有責である」というレヴィナスの言明である)。
レヴィナスが引用するように、これの代表的な表れは、イエスの言行録、即ち福音書のイエスの言葉に見られる。マタイによる福音書25章31節以下には、「やってもいない善行を誉められる祝福された人びと」とやってもいない罪状を挙げられて「主よ、いつ私たちはそのような罪を犯したのですか?」と戸惑う人びとが交互に描かれる。そこでイエスが述べるのは「最も小さなものの一人に施したことは私にしたことであり、最も小さなものにしなかったのは、私にしなかったことなのである」という断定である。これは、因果応報という枠組みでは絶対に合理化されない宣告である。しかしレヴィナスは、このような敢えてクロノロジカルな時間の流れを遡るような形での言及に、宗教的な意味を見出している。それは内田先生が解説しているように、人間が人間たる要件を備えるのは、神に基礎づけられない倫理的な行いをするときなのである。なぜなら、神がすべてを取り仕切ってくれるならば、人間はわざわざ面倒くさい「善」をおこなうきっかけすら失ってしまうから(p.268)。

 驚くべき事だが、レヴィナスにおいて、倫理を最終的に基礎づけるのは、私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的な仕方」で聴き取ってしまった私自身なのである。  私自身が私自身の善性の最終的な保証人でなければならない。神への恐れが、神の公正な裁きの予感が私を善へと誘うのではなく、善への志向は私の内部から発露するものでなくてはならない。(p.265)

この辺りのレヴィナスの論議は、今までちょっと聞きかじった「神義論」の中で、最も僕にとって説得力のあるものだった。

若き日の内田先生が、訳の分からないレヴィナスの本を読んで、「君に話があるんだよ」と「召喚」された感覚とは比すべくもないが、僕は内田先生経由で、レヴィナスをもう少し「判りたく」なったのは確かだ。要するに僕には「面白かった」のだ。ということで、そういう「欲望」を賦活してくれた内田先生は僕の「師」と言うことになるのかな?

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December 01, 2004

山中千尋ライヴ

先週は「澤野工房コンサート」に行ったばかりだが、立て続けにジャズを聴きに行ってしまった。
今日はこれまた澤野工房からアルバムを発表している山中千尋さん(彼女のホームページは、日記がなかなか面白い)。彼女のライヴは初めて。写真で見る限り、小柄で可愛らしい感じの彼女だが、どんな音を聞かせてくれるのか・・・。何と今回の会場は、京都コンサートホール。実は、職場から歩いて5分の立地(笑)。これは行くしかないでしょうとばかりに1ヶ月ほど前にチケットは購入済みだったのだ。

職場から自転車でコンサート会場へ、なんてのは初めてだ(当たり前だが)。昔、zabadakのコンサートで、渋谷のシアターコクーンでのライヴでは、駒場校舎から歩いてBunkamuraに行ったけど(あれは91年か。このライブは後でCD化された)。

僕の今回の席は左側のブロックの前から6列目。まあまあのポジションだが、舞台では左からピアノ・ベース・ドラムと並んでおり、左側のブロックはずっと山中さんの背中を見ることになってしまいお顔がよく見えず残念。
演奏は、僕みたいな素人が論評するまでもない。素晴らしいの一言に尽きる。素人ながらの感想としては「強弱の付け方がうまいなあ」というもの。一本調子ではなく、囁くような弾き方から、「ついてこい」とばかりにはじける弾き方までヴァリエーションがすごい。プロは違うぜ(当たり前だ)。

でも、一つだけ苦言を言わせてもらうと、やはり「しゃべくり(MC)」でしょうね(笑)。山中さんはシャイなのか、小さな声で早口で喋ることが多く(僕も講義で、判らなかったりすることを誤魔化すためによく早口になります)、ちょっと聞き取れないのがあったりしたので。まあ、綾戸智絵さんみたいになる必要は全くありませんが(笑)。
コンサートの後はサイン会までやってくれて、その場で買ったDVDの表紙にサインしてもらって大満足で帰ってきた僕なのでした。

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