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January 31, 2005

ミニ同窓会

夕方、慌てて新幹線にて上京。
上京した理由は二つあって、一つは「書類仕事」。東京で先生のハンコをもらって事務に自分で出す必要があったので郵送できず、わざわざ上京して提出しなければならなかったのだ。
で、もう一つは「ミニ同窓会」。本来はこの書類仕事がメインで、その予定は一週間前から立てていたのだが、急に大学の教養時代の友人からメールが来て、「いまK林くんが一時帰国中だから、集まれる奴だけでも集まって飲もう」ということになり、偶然上京する日に重なったので、それに混ぜてもらうことになった。
集まったのは90年入学文Ⅲ3組(中国語選択)のメンバーの内、11名(クラスは30名ほどだった。約3分の1集まったことになる)。もうこいつらと知り合って15年目、人生の半分近いんだなあ、と感慨にふけるというようなことは全くないのですが(笑)、気の置けないつきあい、というのは僕にとってはやはりこのクラスメイトとのつきあい、ということになる。ということで、非常に楽しんで参りました。特に僕は京都に住んでいるので、会う機会も減りましたし。参加したメンツは、K林君、M井くん、S藤さん、N岸君、I川君、T尾くん、M本君、M部さん、U野君、F田くん、そして川瀬。

場所は有楽町にある東京国際フォーラムの地下の店。これは、上京してくる僕の都合や、銀座に事務所を構える弁護士M本君や、霞ヶ関の某官庁で働いているU野君の都合にも合致して、幹事役のM部さんが選んでくれた。メンツとしては男9,女2だったが、ネクタイしているのはたった二人。30過ぎの社会人の平日の飲み会とは到底思えない自由人っぷり(ネクタイをしていたのはU野君と、新聞記者のF田君だけ)。

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今回の一応の主賓のK林君は、某マスコミを思うところがあって退職し、何故か現在ウラジオストックでロシア語を勉強している最中。
その彼の一時帰国がきっかけでこのミニ同窓会が開かれたのだが、驚いたのはみんながほとんど変わっていないこと。もちろん、ちょっとは老けたり髪の毛が・・・・・となっていたりするのだが、その「キャラ」というか、例えばギャグの出し方とか、その受け応えの仕方とかが、自分たちでも驚くほど変わっていないのだ(実は僕が「一番変わっていないのはお前だ」とみんなから指さされたんですけど)。ということは、要するに、僕たちは18歳、19歳の頃からほとんど成長していないということですね。
もしかして、「30歳以上を信用するな( Don't trust over 30)」という言葉は、こういう意味だったのか・・・。
でも、大学時代、それも20歳前後にあーだこーだ言った仲間とこうしてまた酒が飲めるというのは幸せなことだと思いました。でも、みんな月曜日の夜だっちゅうのに、飲み過ぎだ。みんな明日の仕事はー?
また飲もうね。

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January 26, 2005

岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』を読んだ

皆さん、今晩は。
今週で講義が終わりだ、と思った途端、身体が勝手にフライングをして風邪を引いてしまった川瀬です。ちょっと気を抜くとこれです・・・。自分の虚弱さに嫌になりますが、今日は通勤電車で読み終えた

岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書、2003年

のご紹介。

まず、こんな濃密な内容の入門書がジュニア新書に入っていることが驚き。内容は全然「ジュニア向け」じゃないですよ。ハードです。でも、分かり易く解説してくれています。

岩田先生は元々ギリシャ哲学がご専門だそうですが、最近ではレヴィナスやロールズにもその視野を広げていらっしゃいます。長年の哲学研究の精髄を集めた感じのこの本、特徴としてはヨーロッパ思想を貫く二本の太い柱である「ギリシャの思想」と「ヘブライの信仰」を中心に解説していることでしょう。もちろん、限られた紙幅でヨーロッパ哲学を全て解説するのは不可能なので、このような限定をしているわけですが、却ってすっきりとヨーロッパ思想の見取り図が頭に入る仕掛けになっていると思います。中世以降の哲学者個々人の解説が食い足りない、というのは仕方ないでしょうが、それは無い物ねだりと言うことで。

特に僕がお薦めしたいのは「第2部 ヘブライの信仰」です。ヘブライの信仰、といってもいわゆるユダヤ教だけでなく、イエスの思想を分かり易く解説しており、しかもレヴィナス的な見地からそれを行っているので、内田樹先生の本で多少は「予習」した感のある僕にとっては、非常に判りやすかったです。岩田先生の描くイエス像に思わず入れ込んでしまい、「回心」しそうになったほどです(笑)。

というわけで、お薦めです。

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January 23, 2005

かっぱえびせん漫画

皆さんこんにちは。このところ、〆切の近づきつつある原稿に追われて、休日出勤の川瀬です(ですから、この1月と2月は更新頻度が少し落ちると思いますので、ご了承ください)。

まあ、研究室では小難しい本やら資料を眺めていますので、家に帰るとどうしてもリラックスできる漫画とか、頭を余り使わなくても良いような深夜番組とかに走りがちです。
しかし、リラックスしようと漫画を手にしたら、その漫画のドラマのエネルギーが強すぎて、次々と読んでしまい止まらなくなる漫画ってありますよね。評論家の竹熊健太郎先生は、的確にも「かっぱえびせん漫画」と名付けていますが(そして、その筆頭として『ガラスの仮面』と『野望の王国』を挙げていらっしゃいます。このチョイスに文句のある人は恐らくいないでしょう、『野望の王国』を読んでいない人以外では)、僕も昨日、ついうっかりして、そのような「かっぱえびせん漫画」の一つに手を出してしまい、おかげで昼過ぎに起きてしまうという体たらくです。

それは、言わずもがなの超名作、池田理代子先生『ベルサイユのばら』です。何でこれを読み返そうかと思ったかというと、昨日偶然このようなサイトを発見してしまい、不覚にも大爆笑してしまったからです。このサイトの「ベルサイユの時事録♪」というのをご覧ください。要するに、『ベルばら』のコラージュパロディなんですが、ついつい本家の方を読み返したくなる面白さでした。

あ、そうだ。もしかして、このブログを読んでくださっている皆さんの中には若すぎて池田理代子先生のことも、『ベルばら』のことも知らないようなお嬢ちゃんお坊ちゃんがいるかも知れませんから言っておきますが、『ベルサイユのばら』を読んでいないのは、夏目漱石の『こころ』を読んでいないのと同じくらい、いやそれ以上に恥ずかしいことですから、速やかに読みなさい。以上。
今は文庫化されて入手も容易ですし、もしかしたら、皆さんのお母さんが「嫁入り道具」の一つとして、夫に黙ってこっそり実家から持ってきている可能性も大です。お母さんに尋ねてみたら、ボロボロになるまで読み込まれたマーガレットコミックス(全10巻)をそっと部屋の奥から出してくれるかも知れませんよ。

今書いている論文が終わったら、僕は自分へのご褒美として、こういう「かっぱえびせん漫画」を一気に大人買いする予定です。候補としては、『ガラスの仮面』と『北斗の拳』です。両方とも、過去に友人に借りてしまって自分では買っていなかったんですよね。

さて、論文に戻ります・・・。

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January 20, 2005

公立大学を「効率」大学にすべきか?

今日は講義を1時間終えた後、学部の会議。
自分が発言しなくても、会議というのはボディーブローのように体力を削っていくので、その直後は難しい本を読む気が起こらず、そのリハビリの一環として、毎日巡回しているブログを見ると、内田樹先生が、東京都立大(内田先生は都立大仏文の院のOB)に呼ばれて講演なさったことが書いてあり、その続きで、「首都大学東京」(もはやこのネーミングには、いちゃもんを付ける気すら起こらない。僕の勤務先が将来「古都大学京都」とかにならないことを祈るばかりだ)の新学長予定者の西沢潤一氏と、「首大」を作った首謀者(というか総責任者でもあるはず)の石原慎太郎都知事の新大学に関する「挨拶文」が抜粋されてあり、思わずパソコンの前で大笑いしつつ拍手喝采してしまうほど、両者に対して胸のすく悪口を書いてらっしゃる。僕の笑い声は恐らく4号館の3階に響いたことであろう(気味が悪かったかも知れませんね。学生諸君、ごめんね)。内田先生の西沢・石原批判はつまるところ

日本語運用能力と論理的思考力にいささか難のある学長と、開設される新大学について(というよりそもそも「教育について」)真剣に考える習慣のない政治家によって領導される大学がこのあとどうなってしまうのか、推測することはそれほど困難ではない。

ということに尽きるだろう。そして、本当に残念なことに

首都大学東京の未来の見通しについても若干のコメントを述べさせて頂いた。 私の予測では、首都大学東京は日本の高等教育史に残る劇的な失敗例となるであろうというものである。 都立大学の教育理念を守るために悪戦してきた教員のみなさんや、そこで学びつづけなければならない学生院生の諸君にとってはたいへん気の毒なことであるが、私の予言は悪いことにかんしてはたいへん的中率が高いのである。

という内田先生の予測に、僕も同意せざるを得ない。先行きの不安さから、首都大学は偏差値という点でも大幅に下落していると聞く(当然だろう。僕が受験生でも恐らく避けるだろう。受験生というものは、意外と保守的なものだ)。このような事態を招いたことに対して、どなたかは責任を取るのだろうか?都の職員の方に聞いてみたい。

さて実は、首都大学の問題は他人事ではない。
まず、僕も勤務先が公立大学だし、こういう「scrap & build」のリストラ策で、まずターゲットにされる文学部(人文科学)の人間だからだ。
実は、僕の勤務先も、首都大ほどひどくはないが、要するに「改革」を迫られている。正確に言うと、設置者である自治体を納得させる「改革案」を大学側から出すことを要求されている。しかしその「改革」とはどういう事なのか。こういう言い方は無責任だし、不勉強だといわれるだろうが、どうもよく判らない。僕たちに「改革」を要求している自治体の方も実はよく判っていないのではないか、という節もある。そしてお互いが判らず、お互いの胸の内を忖度し合っていて「結局は向こうの出方次第ですよね」とお互い思っているのかも知れない。でもそう考えているのはノホホンとしている大学側だけで、実際自治体側はけっこう明確なプランをお持ちなのかも知れない。恐らく持っているとすれば「効率的な大学(運営)」ということに尽きるだろう。
そもそも「改革」とは、一言で言えば「効率的」な運営をできる組織に、ということだ(リストラクチャリング、というのは元来そういう意味だったはず)。確かに「効率的」な組織は、非効率的な組織より良いに決まっている。このことに異論はないであろう。
しかし、敢えて古くさいこと言うが、大学って、「効率」だけを求めて良いのだろうか。文学部に限らず、理系でもいわゆるなかなか結果が出ない「基礎科学」の分野が「効率」一辺倒の雰囲気の中で縮小していくのではないか、という危機感が持たれている。「象牙の塔」という批判はもちろん承知している。しかし、今現在「役に立つか立たないか」という超近視眼的なパースペクティブだけで全てを数量化して査定されてはたまらない、というのも本音だ。それは学問の死を意味する。大学が全て「効率」一辺倒で運営されるようになれば、文部科学省あたりが言っている「国際競争力のある日本の大学」は、逆に達成することは出来ないと僕は確信している。
理系の話から横に滑るが、NHKの「プロジェクトX」、あれはおじさんのみならず様々な人の涙を絞っているわけですが、あの番組の肝(プロットといっても良いか)って「会社からムダ扱いされた研究やグループが大逆転する」というカタルシスが大半なんじゃないのか(まあ、この番組では、そうしたグループの努力が実を結んで会社に貢献するわけですが)。営利を追求する企業にしても、辛抱強く結果を待ったからこそ「プロジェクトX 」になったわけだ。況や大学において、多少の雅量を期待するのは、それほどの「悪」なのか。

「効率化」はある程度必要だろう。そのことに異存はない。しかしそれだけを基準に運営されることは大学の死を意味する。「朝令暮改」的な改革は絶対におこなってはならないと思う。
改革とは名ばかりで、実は儲けたのは看板屋さんだけ、ということにならないことを祈る。これは僕の勤務先のみならず、全国の大学に対してだ。
最後に、最近読んで同感と思った室井尚先生の言葉を引用しておきたい。

ぼくは大学はそれとは全く別の「隙間」の空間でなくてはならないと思っている。つまり、時代の歩みと完全にシンクロしてはならない25時間目の場所こそが大学に残されなくてはならないと考えているのだ。それはぼくが「アート」や「文学」に託しておきたいと考える「空き地」の場所なのだ。システムがすべてを窒息させ、スーパーマーケットの売り場面積を獲得しなければ生き残れないと考える神経症的な世界から距離を取って物事を考えられる場所こそが大学なのだと思いたい。

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January 19, 2005

クルド人親子強制送還

友人のブログ経由で知りましたが、難民申請をして日本政府には認められず(国連の難民高等弁務官事務所には認められていたのに)、クルド人親子が強制送還されちゃったそうです。

こういうニュースを聞く度に、日本政府の「ケツの穴の小ささ(下品で済みません)」を痛感してしまう。確か、前にはアフガン難民でも同じようなことをしてすったもんだがあったはず。

こういう難民を許せば、「堤防の蟻の一穴」というような感じで難民が日本にどっと押し寄せるという恐怖心でも持っているのだろうか?
その心配はないと思う。こんな度量の狭い国に、難民がどっと押し寄せるようなことはないと思います。哀しいけど。

津波被害の最大の支援国の裏の顔がこれじゃあね。がっかりです、我が国ながら。

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January 17, 2005

『現代宗教事典』刊行!

今日は卒論締め切り日。今のところ大きな混乱もなさそうだが、本当の「ドタバタ」は〆切10分前ぐらいに起こるので、油断は禁物(笑)。今年の学生は、要領が良いのか、それともあきらめが良いのか(恐らく両方だろう)、あまり目に見えて混乱はしていないようだ。去年はテンパった目で「先生っ!パソコン貸してくださいっ!」と息を切らせて駆け込んできて、僕のパソコンで卒論及び要旨を書いていたHさんとか(その横で僕は、彼女のプリントアウトされた卒論にパンチで穴明けをしていた)、色々いたがなあ。

さて、今日はとりあえず事典の宣伝です。
僕もちょっぴりだけ項目を書いた

井上順孝編『現代宗教事典』(弘文堂)

が、刊行されました。僕は韓国関係の「円仏教」「純福音教会」「曹渓宗」「東学」の4項目しか書いていないのですが、、今日届いたのをパラパラ見ると、学者やその主要著作についての解説などもあって、「読める事典」になっていると思います。

このブログをご覧の研究者、大学関係者の皆さま、公費で一冊、私費で一冊(できれば)お買い求めくだされば幸いです。僕の研究者仲間の大谷さんも、この事典の宣伝をしていましたので、便乗しました(笑)。

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January 13, 2005

卒論指導

卒論指導で、体力がもともと無い僕は疲労困憊。〆切は来週の月曜日。
「ギリギリになるまで手を付けない」事に関しては人後に落ちない自信があるが、僕の担当学生たちも全員このタイプ。というわけで、津波のように「朱入れてくれ」というのがドドドと届く。

でも、数ヶ月前の中間発表に比べれば、大分マシになった、と思う。そう思わなければ、僕が浮かばれない(笑)。
僕が注意するところは、主に「お作法」の問題。例えば脚注の付け方とか、引用文献の示し方とかだ。今まで注を付けた論文なぞ書いたこともない学生たちばかりだから(僕だって、注を付けた論文は卒論が初めてだった)、そういうところが一番ダメなのだ。

卒論を書いている皆さん、ゼミ発表の時でも口を酸っぱくして言っていますが、「読んでいる人、聞いている人に判るような、親切なもの」を書いてください。要するに「思いやり」です。「俺的(私的)にはOKだと思うんですけど」というのは、言い訳になりません。
あと数日、僕も頑張るけど皆さんも頑張ってね。

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January 12, 2005

語るほどの「内面」はありや?

今日は久々の大学院ゼミの日。
今読んでいるのは、今更といわれそうだが、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)。これは僕が指定したのではなく、学生たちが「読んでみたい」というので、僕としても「以前読んだことがあるから予習が楽そうだし、再読するのも良いかなあ」と思って承知して読み進めているわけだが、今日は第2章の「内面の発見」。僕の院ゼミは、僕の性格を表してか、学生たちも暖かい僕の研究室(暖房の利きが良いのだ)で頭のねじが緩むせいか(笑)、自由闊達すぎる雑談になりがちなのだが、今日も僕も学生も全員ちと暴走気味。思いつきを喋りまくってしまった(歌舞伎と宝塚とネズミーランドの共通点は、とか)。

今回読んだ「内面の発見」は、その後筍のように出る「●●の発見」的な研究のはしりとなったものだが(フーコー・ホブズボウム的な仕事の先駆として、この論文はやはり意味があると再確認した)、ついつい考えてしまったのは、「語るほどの内面を最近の我々は持っているのか?」という疑問だった。僕もインテリ(笑)の端くれとして、昨今の内容の薄いベストセラー(『せかちゅー』とか『Deep Love』とか)を小馬鹿にしてきたのだが、よく考えると、ベストセラーになるにも理由があって、その程度の「内面」が今の我々の「身の丈」にあっているからではないか、ということを考えてしまったのだ。どんなことがあっても「むかつく」とか「だるい」という簡単な言葉でほとんどの感情の揺れを表現できる(もう、これは能力だと思う)人には、他人に語るほどの「内面」はすでに消失しているのではないだろうか?
近代になって、「内面」を語る作法を我々は身につけた、と柄谷氏は言っていると思うが、もう早くも我々は「内面を語るべき」という重圧に疲れ始めているのではないだろうか。一方ではもちろん今も「自分語り(もしくは自分探し)」という衝動も抜きがたく(まさに)「内面化」しているわけだが。

ゼミでは僕が突然、マンガ家の故横山光輝氏の話を思いつくままでたらめに喋る。
横山氏は名作『三国志』をはじめとして、特に晩年は歴史マンガを倦みもせず延々と書き続けた人だが、何故あれだけの仕事をこなせるか、というのは僕の長年の疑問であった。もちろん、横山氏の力量が人並み外れて優れているのは承知しているが、それだけでは理由にならない仕事量だと思う。そこで僕が今回、柄谷さんの論文を読みつつ思いついたのは、「横山氏の歴史マンガには、内面を持った人物がいない(人物の内面描写がない)から、作者は消耗しなくて済むのではないか」という理由だった。彼の歴史マンガを読めば判るが、風景も、人物描写も、ほとんど「お決まり」のパターンが見て取れる。月はあくまでもまん丸だったりするし、三国志だと食べるときは「むしゃむしゃ」、酔っぱらうと「うーい」、慌てると「あわわ」、逃げるときは「ひーっ」、襲うときは「ジャーンジャーン」である(この法則は、三国志のパロディを書いている佐藤製薬さんに教わった。)。
念のため言うが、僕は横山氏の歴史マンガを腐そうとしているのではない。僕は彼の歴史マンガのファンである(『三国志』のみならず『項羽と劉邦』とかもすきだし)。ただ彼の「お定まりのパターン」は、歴史物を扱うときは非常に有利な描き方だったのではないだろうか、というのを言いたかっただけである。

我々に語るほどの「内面」はありやなしや。

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January 11, 2005

コメディエンヌとしての斎藤由貴

連休中は、自分の勉強(先日購入した資料集を眺めたり)と、学生の卒論指導。言いたいことは判るのだが、言葉足らずな学生の文章を読んでいると、普通の論文を読むより消耗し、頭を使ってしまい、自然とオーヴァーヒートしてしまい、目が冴えてしまう。ということで、最近は寝付きが悪く、勢い脳みそを使わなくても良いような深夜番組を帰宅後はダラダラ流すハメとなる。
ということで、今日から本格的に講義が始まったのだが、眠い。

特に今日眠いのは、昨晩深夜に放映していた、斎藤由貴主演の映画「さよならの女たち」を見てしまったからだ。懐かしーい。大森一樹監督が撮った由貴ちゃん主演のコメディ3作目です(その前は「恋する女たち」「トットチャンネル」です)。
実は、僕は昔、そうですね、16、7年ほど前でしょうか、斎藤由貴ちゃん(心は遙か昔の少年時代に戻ってしまいましたので、以下「由貴ちゃん」で通すこととします)のファンだったのです。同世代なら判ってくださると思いますが、あのころの由貴ちゃんは、「D.T.」(みうらじゅん、伊集院光)度の高かった男子にとって「女神」だったのです(「笑いたければ笑うがいいさ」とやけくそになって言いたい気分です)。明星の「青春という名のラーメン」のコマーシャルや、「スケバン刑事」を見た人は、当時の由貴ちゃんの可愛らしさをご記憶でしょう。あと、余談ですが、高校で漫研の部長まで務めたと伝えられる「根の暗さ」に、僕なんかが反応してしまった可能性もあります(笑)。

本当に久々に見た彼女は、今風に言い回しをするなら、「由貴可愛いよ由貴」という感じでしょうか(笑)。
それと改めて思ったのは、彼女の「コメディエンヌ」としての力です。彼女が主演した映画は、大森監督が撮ったようなコメディ路線と、それとは正反対にトラウマを植え付けることが目的としか思えない(笑)相米慎二監督の「雪の断章」のようなものと二つに分けられると思うのですが、僕は断然前者を支持します。その最高傑作は僕が思うに「恋する女たち」でしょうね。ストーリーは他愛ないもので、一生懸命論じるほどのものでもないのですが、見終わったあと「ほんわか」した気持ちにさせてくれるのですから、コメディとしては合格だと思います。
で、この作品の隠れた一番の見所(というかびっくりしたの)は、ヒロインたる由貴ちゃんの相手である、「爽やかな」竹内力です(笑)。今や竹内力兄イといえば、「難波金融道 ミナミの帝王」の萬田銀治郎であり、「岸和田少年愚連隊」のカオルちゃんなわけですが、初期の彼は、ずーっと爽やかな役柄をやっていたんですよね。片岡義男原作の「彼のオートバイ、彼女の島」の主演も彼だったし(相手役は原田貴和子。けっこう好きです。「恋する女たち」では、由貴ちゃんのお姉さん役をしていました)。今となっては「爽やかな竹内力」なんて、まるで「凍った炎」のような撞着表現にしか今は聞こえませんが・・・。

今度、「恋する女たち」だけでもDVDにしてくれないかなあ、東宝さん(どうもされていないようなので)。

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January 08, 2005

国と国民、双方が選び取る

昨日は補講2時間、卒論指導2人、夕方には大学院生とのおしゃべりでエネルギーを使い果たし、自分のお勉強をするはずだった夜は使い物にならず。というわけで、今日目覚めたのもお昼前。新学期が始まった途端この体たらくだ。

もそもそとブランチを食べながら、高校サッカーの準決勝を横目で見つつ、今朝の朝日新聞を読んでいて、興味深いインタビューを発見。「新年 日本の皆さま」というインタビュー記事で、今日のインタビュイーは作家の矢作俊彦氏。いくつか思わず頷いてしまう言葉があったので、メモとして書き写してみたい。

まず冒頭で矢作氏は、去年のイラク人質事件についてこう述べる。

僕は信号を積極的に守らないんですよ。横断歩道で信号は見ていない。車を視認しなければ赤信号でも渡ってしまう。すると、周囲の人が一斉に歩き出すんです。そういう人たちが、イラクであの3人が人質になると「自己責任だ」「自己責任だ」って騒いだでしょう。すごい違和感を覚えました。 費用を払わせろといった政治家などは論外、この国は自立した国民国家ではないと言っているようなものです。国民国家という仕組みのキモは、「税金を払いなさい。その代わり国が生命財産を守ってやる」ってところにある。人質を、たとえ格好だけでも助けなかったら、そうした国の成り立ちがほごになってしまう。そんなことも分からない政治家が、改憲論議をしているんだから、お笑いだね。

ほとんど付け足すこともなく、納得。特に「たとえ格好だけでも助けなかったら」という部分、ここがまさしく「キモ」だと思う。誠意や結果ももちろん大事なことだが、何よりも最初、僕たちが見たいのは「誠意を持っている」と思わせてくれる身振りなのだから。そうした「身振り」さえあれば、たとえ結果的に失敗しても「失敗したけど、誠意を込めて頑張ったんだよね」と寛大な心になれるというもの(政治的案件が全部こんな風に心情倫理だけで動くのは大問題なのは言うまでもないが)。その「身振り」というか、「素振り」さえしないのは大失点だったと僕も思う。

そして、インタビューの後半で、その人質バッシングについて矢作氏はこう語っている。

自己責任なんて言葉もそうですが、あれは「非国民」や「売国奴」のような、今使うに使えない禁句の代用として国と国民、双方から選びとられたんですね。

「国と国民、双方から選び取られたんですね」、これは衝撃的な言葉だ。なぜなら、その通りだからだ。あの事件の際は、政府が人質に対してネガティヴな姿勢を見せて、それが国民に感染してしまったという側面があるように思われているが(それは確かに事実の一側面であろう)、それよりも重要なことは、易々と(と敢えて言うが)感染してしまった我々の側にある。
我々は単なる被動者ではない。積極的に「私は思う」と主語でもって語ってしまった主体なのだ。

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January 06, 2005

「図書館」を考える

今日は、年が明けてから初の教授会(正式には「教員会議」というのだけど)。というわけで、今日から本格的な仕事始め。今日と明日は補講日なので、学生の姿を久々に見る(月曜日が休日になることが多いので、その補講をおこなっているのだ。僕も明日、ゼミの補講が待っている)。あちこちから「あけおめ、ことよろ」の声がする。何人かの学生が「先生、明けまして(以下略)」と言ってくれるので、僕も笑顔で「今年宜しくね(今年はちゃんと授業出ろよ)。」と脅しを掛ける(笑)。

会議はいつものように終わり(要するに疲れたって事です)、学生の書きかけの卒論に朱を入れて、夕飯を食べる、という何の変哲もない一日。まあ、これが日常に復帰したと言うことなのでしょうけど。

教職員のメールボックスに行くと、嬉しいことが一つあって、それは長年探していた本があっけなくネットで見つかり、それが届いていたこと。その本は

小川圭治・池明観編『日韓キリスト教関係史資料1876-1922』(新教出版社、1984)

という資料集。
僕などは専門からして持っていなければまずいのだが(この本の続編『日韓キリスト教関係史資料Ⅱ 1923-1945』は昔、西荻窪のキリスト教専門待晨堂で購入済み。久々に行きたいなあ。あの店、他にも渋い人文系の本や、クリスマスカードも売っていて便利だったのだ。東京女子大に非常勤で行っていたときは良く通っていた)・・・。これまでは大学図書館で借りてなんとかしていたのだが、やはり欲しくなって(今の勤務先の図書館にはないから)、だめもとで「日本の古本屋」で探したら、あっけなく見つかってしまいました。今までほとんど古本市場に出てこなかったのに。ネットって、こういうときホントに便利。
で、届いた本を見てびっくり。それは、図書館の「廃棄本」だったのです。埼玉県の某市立図書館の・・・。
手元に来たことは嬉しいんですが、こういうものを保管してこそ、図書館なんじゃないかな、とやっぱり思ってしまった。ハリーポッターを数十冊入れるより、こういう本を一冊ずっと保管しておく方が良いと思うのですがねえ。それは、大学図書館にももちろん当てはまることだ。まあ、さすがに大学図書館はハリー・ポッターを数十冊も買うようなことはしないが。

古本購入から、思わず「図書館」について考え込まざるを得ませんでした。

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January 04, 2005

GHQ陰謀史観

ネットをうろうろしていて、讀賣新聞の社説(2005/1/1)をちょっと読んでみたら、びっくり。確かに、僕は自分でも憲法やガンダムなどに関しては「保守的」だし、「抵抗勢力」だろうなあと自覚はしていたのですが(笑)、どうも僕はこの社説にいわせれば「戦後民主主義の残滓」の「守旧派」なのだそうです。
うーん、言葉を失うなあ。

 【「戦後民主主義」の残滓】

 こうした“守旧”思考は、文字通り「戦後」の数年間に、連合国軍総司令部(GHQ)の大がかりで巧妙な検閲・言論統制、マスコミ操作によって培養された「戦後民主主義」の残滓(ざんし)である。
 現行憲法の作成・制定過程そのものが最重要の言論統制対象だった。
 GHQが作成した現行憲法前文は、「平和を愛する諸国民」を信頼しさえすれば国の安全は保てるとする趣旨になっている。これに「戦力放棄」の九条二項が重なり、世界の実像とはかかわりなく一国平和主義が貫徹できるかのような「戦後」的幻想を生んだ。

でもこれって、よーするに「GHQ陰謀史観」ですよね。戦後日本人が精神的にフニャフニャになったのは全てGHQの陰謀だ、と言っているようにしか読めません。基本的に、「敵」を一元化して判りやすく解き明かそうとする陰謀史観を僕は全く信じませんし、陰謀史観的なことを言った時点でその人の知性に対しては、申し訳ないけど内心で軽蔑することを禁じ得ません。
愚にもつかない「ユダヤ陰謀史観」が、何故か日本で猖獗を極めていることは有名ですが、今度は「GHQ陰謀史観」ですか。「敵」を見つけることは戦略上大事ですから、その点は否定しませんが、その主張するところは全く僕の考えているところと正反対。
よしんばGHQの陰謀のようなものがあったとして、何故この社説を書いた人は、そこから自分だけは「抜け出すことができたのか」、そしてそれを自分で信じていられる信憑性の根拠は何、と小一時間(以下略)。
このような主張をするこの社説子は、当然ながら教育基本法だとか、軍事アレルギー感覚に対しても闘志満々です。

世界・国際社会の実像に対応すべき日本の現実的課題とはなにか。  米国は現在、世界的な規模でいわゆるトランスフォーメーション、米軍再編に着手している。イスラム原理主義勢力による最大のテロ標的国家として脅威の変化に対応するとともに、唯一の超大国としての長期展望に基づく世界戦略の再編でもある。  その一環として、北東アジアから中東に至る「不安定の弧」に対処するため、アジア・太平洋地域における即応展開能力を拡充しようとしている。  この動きは、日本の長期的な国家安全保障と切り離せない。日米協力・相互補完関係を展望すれば、集団的自衛権を「行使」する様々なケースを想定せざるを得ない。  「行使」は、憲法を改正するまでもなく、首相の決断による憲法解釈の変更次第で、直ちに可能になる性格の問題だ。首相および政治全体が、「戦後民主主義」的な軍事アレルギー感覚と一線を画す時である。

軍事アレルギー感覚と一線を画するときだそうです。確かにアレルギーは困ったものですが、なかなか直らないんですよ、花粉症やアトピーや喘息と同じで。そもそもアレルギーを引き起こした「原因」を考えるべきでしょう。あと、教育基本法については、以下のように言っています。

【改正すべき教育基本法】

 憲法とセットで制定された「戦後」規範の一つに、教育基本法がある。
 久しく改定の必要性が指摘されていながら、現在も、改定作業が難航しているが、最大の焦点は「愛国心」の扱いである。愛国心が是か非かなどということが議論の対象になる国など、世界中、どこにあろうか。
 こんな奇現象が生じるのは、「愛国心」と聞けば、反射的に「狭隘(きょうあい)な」という形容句をかぶせたがり、「戦前回帰」「軍国主義復活」などとして騒ぎ立てる“守旧”思考が、いまだに一定の勢力を有しているためだ。
 教育基本法策定の過程で、GHQは、日本側が主張した「伝統を尊重して」という部分を削除させ、「個」の尊重に力点を置く基調のものとした。
 伝統の尊重の否定=愛国心の否定は、公共心の希薄化につながり、今日の教育の乱れを招いている。「個」の尊重が、ともすれば児童・生徒の自主性の名のもとに放任へと傾き、規律心の低下、さらには昨今の学力低下にもなっているのではないか。

今の教育が万全なものではないのは、百も承知です。僕だって、一応教育の末端にたずさわっているものです。しかしこれも、上記と同様、GHQ陰謀史観ですよね。
愛国心バリバリの時の教育がどんなものだったか、まさか知らないとはいいませんよね。あの時代が理想的だ、とおっしゃるならそれまでですが。

メモのようになってしまいましたが、読んでいる内にどっと疲れが出てしまったので、簡単ですが以上で。

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仕事始め(リハビリ)

2005年が来てしまった。
一日は実家に夫婦で戻り、姉一家と兄一家と一堂に会し、甥や姪の成長ぶりに驚きつつ、親子・兄姉の語らいを久々にする。実に正しい正月の過ごし方と言えよう。
二日は、地元の神社に初詣に行き(天満宮なので、とりあえず自分と学生の学業成就を祈る)、箱根駅伝や高校サッカーを見てダラダラ過ごす。これまた正しい正月の過ごし方だろう。
三日は、最近ジョギングにはまっている妻が箱根駅伝を見るために付けたテレビの音で起こされ、その後京都駅の伊勢丹などに出向き、今年初めの買い物をし、家に帰ってビールを飲みながらダラダラ過ごす。これまた正しい正月の(以下略)。

で、今日から仕事始め。
でも、正月の三賀日は上記の如く弛緩しきった生活をしていたので「リハビリ」が必要だ。その「リハビリ」の一環として、こうしてブログを書いています(笑)。

遅ればせながら、今年も宜しくお願い申し上げます。

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