« 論文提出 | Main | 吾妻ひでお『失踪日記』を読む »

March 05, 2005

サブカルからナショナリズムへ

今日は久々にだらだら過ごせる休日。てなわけで、テレビと読書三昧。

今日読んだのは、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版、2005)と、荷宮和子『バリバリのハト派』(晶文社、2004、こっちは拾い読み)。この2冊、同時に読んだら北田君のほうはもしかしたら嫌がるかもしれないけど(確か彼、ブログで荷宮さんをちょっぴり批判していた記憶が…。僕も彼女の「くびれの世代」という世代論は却下だが)。まあ、ともに、サブカルチャーとナショナリズムの関係に着目した論考である(僕は、ナショナリズムが「サブカルチャー」化しているのが昨今だと思う)。そして、教えられること、考えさせられることが多かった。以下はその備忘録。

まず、北田君の本は、前に読んだ大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』、大澤真幸の一連のオウム論(「第三の審級」云々というやつです。『虚構の時代の果て』ちくま新書、とか)の系譜に位置付けられるであろう野心作、だと思う。彼はもともと社会システム論とかに造詣が深いから、大澤氏のシステム論的な視座と、大塚氏の世代論的社会批評をかなりうまくミックスしていて、「ああ、こういう方法があったんだ」と思わせてくれた。ついでに言うと、どうして僕は2ちゃんねる(的なもの)が嫌いなのかを、すっきり教えてもらったような気がした。よーするに、僕は、2ちゃんねるに横溢する際限のない「アイロニズム(隘路ニズム、と最初誤変換されたけど、そういう感じだよな)」「シニシズム」についついベタに反応してしまう感性の古いタイプの人間だからだろう。北田君の指摘によると、2ちゃんねるという空間は、徹底してアイロニカルに振舞うことを要求する「形式主義」の空間だそうだ。

「内容」「理念」を付随化するその形式主義ゆえに、アイロニカルにみること自体が自己目的化してしまうことに注意しなければならない。(中略)純化された形式主義者たるかれらにとって、『朝日』が「何を」書いているか・意図しているかはじつはそれほど重要なことではない。もし仮に『朝日』が「らしくない」ことを書いていれば、「それも『朝日』の狙い」「『朝日』必死だな」といった具合に、陰謀論的に処理してしまえばよい。いかなる内容を持った記事であっても、それが『朝日』に掲載されている限り、いわば文法的に『朝日』を嗤うコミュニケーションのネタとして機能してしまうのだ(p.209)

なるほど、そこでは「ネタ」にマジ(もしくはベタ)に反応することが最も忌避される。話の「内容」も全く無視される。話に真剣に耳を傾け、その真意(裏)まで読み取ろうとすることのほうを重んじるような感性は最初から「拒絶」されるしかない運命にある。つまり、僕は「2ちゃんねる」という空間にそもそも召喚されないタイプ、という事だろう。ちっとも惜しいとは思わないけど。
あと、北田君は僕と同い年なので、彼が体験したサブカルチャーは、首都圏と関西圏の違いはあるけど、共通項があって(あり過ぎて?)、くすぐったいような気持ちになってしまったのも確か(後書きで「ローディスト」だった過去をカミングアウトするとは…。ぼくはアウシタンでしたが)。

荷宮さんのは第1部しか読んでいないけど(第2部は、僕の知らない宝塚が中心のようなので、パス)、彼女も2ちゃんねるのようなシニシズム(彼女はもっと退嬰的なものとして扱おうとしているが)をそれこそ「マジ」で批判している(その言葉は「正論」であるがゆえに2ちゃんねらーには届かないような気もするが)。僕も、彼女の論はちょっと乱暴な部分が多くて全面的に首肯することは出来ないのだが、いくつか納得、と思う言葉もあった。以下はその1つ。

自身が「無知」であるということを恥じるどころか、「無知」であることを盾にとって「自身の知らない感情を発露する他者達」を過剰に糾弾するのが今の若者なのだ。(p.42)

僕も、このことは良く感じる。特にネット上で論戦(と呼べるのかどうか)があると、自分の無知に開き直って「じゃあ、噛んで含めて教えてくださいよ」と見ず知らずの人に要求する、というシーンはよくあるし、僕も経験したことがある。でも、問題は、教養主義の崩壊という話ともつながると思うのだが、「ここまでは知っておかねば」という基準が無くなってしまっており、共通基盤のないもの同士がいきなりネットで衝突することになることが常態化しており、その知識の水位差を無化する方向で、形式主義的にアイロニカルに振舞う2ちゃんねる的コミュニケーションが出てきたのではないか、ということである。で、「ベタ」にそれに立ち向かうと、必ず「負けてしまう」。向こうは「ベタ」をバカにして(本当は相手の言葉に依存しているのだが、その構造は隠蔽される)「そんなこと言っているから(w」と身をかわしていくだけでいいので楽なポジションだ。そして「ベタ」側がそのトートロジカルな構造の前に「失語症」になるとそれを「勝利」と受け取れる美味しいポジションである。
いわゆる「歴史修正主義者」や「ジェンダーフリー」バッシング論者に対する時も、似たような消耗戦を強いられてしまう。それは、彼らも自動的に相手を貶める「文法」を操っているだけだから。僕個人としては、そろそろそういう「ためにする」議論に付き合う必要も感じなくなっているけど。

|

« 論文提出 | Main | 吾妻ひでお『失踪日記』を読む »

Comments

あー面白いですね。ご紹介の本、読みたいと思います。

2ch、特にニュー速+あたりのコメントのほとんどは、確かに形式主義化していると思います。本当に内容はどうでもよくて、形式の選択(貶すか貶さないか)すらも「(場の)空気」という名の他人任せになっている。しかも形式主義ゆえに表現も先鋭化するばかりで。

まあ、私は「もういいんじゃないかな」感があります。

Posted by: ガメ | March 06, 2005 at 01:25 AM

僕も荷宮さんのほうは読みましたが…うーん、というカンジでしたね。あまり世代論で片づけて欲しくない、というのが正直な感想です。(ただ、各々の世代の過ごした時代性を考えると、世代論がまったく意味を消失してしまうとも思いませんが、「××世代は○○」的な紋切り型の議論ですべて済ませるわけにもいかないと思います)

「正論」すぎて彼らには届かない、というのもごもっともと思います。同時に、北田さんの議論もそうだとは思いますが。

サブカルにせよ、メインにせよ、「カウンター的」側面を有しているものなのではないでしょうか。教養主義の崩壊というのも、もちろんそう見ることも可能だけど、それ以前に教養主義への「カウンター」として見ることもできるのではないでしょうか。

「カウンター」に「カウンター」をぶつけてヘゲモニー争いをしても、結局は力学的に優位に立つ方が勝ってしまうと思われるので、「じゃあどうすればいいの(笑)」というのが悩みです。ほっといても増長しそうだし、対抗しても増長しそうで…。

まったくとりとめがなくて、すみません

Posted by: 小埜田 | March 06, 2005 at 12:06 PM

 いやもう、今日の私のblogを読んでいただけるとわかると思うのですが、こういうサブカルチャー化したナショナリズムつうか、メディアと結託してエンターテインメント化した心情右翼どもに、どう立ち向かっていいのやら、わりと気持ちは真っ暗であります。
 でも、正論を言い続けるしかないのかも。いや、実は「疑似科学」に対する事例と同じで、論戦の場に出ること自体が相手を利する行為になりかねないのが、これがまた厄介なわけですが。
 なんせ、川瀬さんのおっしゃるとおり、相手は何があろうと「絶対負けない」わけなんで。(-_-;;

 ちなみに、わたしは荷宮和子は全然ダメです。あまりに感情的すぎて論証に欠けすぎているし、何よりもすべてを世代論に還元しちゃって、自分の世代だけをすっかい無罪放免しちゃってるから。教養とか価値観の崩壊に拍車かけちゃって、下の世代を不安にさせちゃったのは、私たちの世代(1950年代後半~60年代前半生まれ)に一番罪があるのに。

Posted by: 堺三保 | March 06, 2005 at 10:08 PM

ガメ様

僕も、もう律儀におつき合いする気は全く有りません(笑)。堺さんがおっしゃるように、

>論戦の場に出ること自体が相手を利する行為になりかねないのが、これがまた厄介なわけ

ということになっちゃいますから。意地悪な言い方ですが、向こうの自尊心を満足させてやるのは真っ平です。でも黙っていると、ブログで書いたように、向こうは勝手に「こっちの勝ちだ」と言ってくるからなあ、それが本当に厄介なのですが。

さて、小埜田君も堺さんも、荷宮さんの「世代論」には反対なようで、僕も意を強くしました(笑)。彼女、ところどころいいこと言うのに、全部世代論でまとめようとして、破綻するのがもったいないです。堺さんが反省的に

>教養とか価値観の崩壊に拍車かけちゃって、下の世代を不安にさせちゃったのは、私たちの世代(1950年代後半~60年代前半生まれ)に一番罪があるのに。

とおっしゃっていますが、僕はどこかの世代に、現状の責任を負わせるという考え方自体に懐疑的です。例えば「今の日本がこんなにひどくなったのは団塊の世代のせいだ」というような物言い。たとえどこかの世代が今現在まで引きずるような「事件」を起こしたとしても、それを継承しているのは、それより下の世代なわけですから。過剰に自罰的な倫理を説いたレヴィナスまで行かなくても、「遺産継承者」として、負の遺産も引き受けなければ、くらいは思っています(それを反省材料としてちょっとはましな日本を作りたい、というベタなナショナリズムは、僕にもあります)。

あと、堺さんのブログも拝見しましたが、ああいう「情緒」にのみ訴える番組、最近多いですよね。僕はブログで「ナショナリズムがサブカル化している」と書きましたが、その意味は、「今ここ」の自分の感情を担保するものとして、ナショナルなアイテムがすぐに引用される事態を指しています。北田君の本で最初に例として引かれている窪塚洋介君の例などは判りやすいですかね。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | March 06, 2005 at 11:50 PM

角川書店発行の大塚英志プロデュース『comic新現実』VOL.3での大塚氏による森川嘉一郎氏へのインタビュー<「おたく」とナショナリズム>がテーマ的に、サブカルとナショナリズムを扱っているのと、大塚氏がシレっと自分の無知(無垢?)に開き直っている森川氏を執拗に挑発しても全く話がかみ合わないのが、いかにも「今」の状況だよなあ、と大変興味深く読みました。

だからくどいけれど、萩尾の作品の中に出てくるナショナルなイコンについて川瀬先生にお尋ねした時に結局「僕は萩尾はそんなに好きじゃないから」「深読みのしすぎじゃん」みたいな終え方をされた時にジジイの私がカッとなたのもまああのインタビューでの大塚氏の空回りぶりに近いんでしょうな。いや私は川瀬先生けっこう好きですよ。たぶんそちらは私をきらいでしょうが。

Posted by: natunohi69 | March 07, 2005 at 11:27 PM

ニミタンこそ荷宮和子の本領は、2ちゃんねらーは「無職で甲斐性無しの貧乏人」[(c)高橋留美子]で「負け組」だと決め付けた、タイトルからしてB級感漂う『声に出して読めないネット掲示板』でしょう。
でもこの本、2ちゃんねらーにもあまり相手にされずに消えてしまいました。
ときに、わたしも北田・川瀬両氏と同世代ですが、メージュニアンでした。

Posted by: おーつか | March 08, 2005 at 09:30 AM

おーつかさま(お久しぶりです)
まず、
>「無職で甲斐性無しの貧乏人」[(c)高橋留美子]

というところに反応して笑ってしまった川瀬です。

荷宮さんの2チャンネル批判本、立ち読みをちょっとしただけで内容は覚えていないのですが、「もっと別のやり方で批判できないかな」と思ったのは覚えています。だってストレートすぎますからね。
「負け組」のルサンチマンは馬鹿にできないので、それをどういう方向に水路づけるかが、大げさに言うと社会システム的に重要になってくると思います。
>ときに、わたしも北田・川瀬両氏と同世代ですが、メージュニアンでした。

ほほう。僕は『ファンロード』も一時期買っていましたが、自認していたアイデンティティとしては、アウシタンだったのです。多分、アニメそのものより、「投稿文化」にはまっていたので、この両誌を買っていたのでしょうね。

Posted by: 川瀬 of Joytoy | March 08, 2005 at 03:37 PM

The comments to this entry are closed.

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/34862/3185762

Listed below are links to weblogs that reference サブカルからナショナリズムへ:

» 語る「内面」とはなにか。 [CastleintheSky]
少し前の川瀬先生のブログのエントリ「語るほどの『内面』はありや?」にコメントし川瀬先生からのお返事も頂きながらそのままにしつつあったので改めて考えてみる。もっと... [Read More]

Tracked on March 07, 2005 at 12:05 PM

« 論文提出 | Main | 吾妻ひでお『失踪日記』を読む »