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April 28, 2005

今少し躊躇うこと、立ち止まること

昨日新聞広告を見ていたら、『週刊文春』の広告に、気になるフレーズがあった。
それは、例の尼崎での列車脱線事故についてであるが、その運転手の家族(母親らしい)に早速インタビューしたというもの。見出しも「JR脱線事故死者70人超 暴走運転手の素顔 小誌直撃に母は…」となっている。それを見た途端、いやーな感じがした。僕は元々、『週刊文春』とかは、敬愛する土屋賢二先生のエッセイを立ち読みするだけなのだが(いわゆる週刊誌は買う習慣がない。記事の90%は僕から見てあまりにくだらない且つ下品だから)、それにしても、まだ原因もよく判っていない段階で、運転手(とその家族)をあげつらう行為としか見えないようなことを、こんな拙速におこなって良いのだろうか、という疑問がわき上がる。この段階(まだ救助作業が続いているというのに)で「あの運転手が「犯人」に決まっているじゃないか(故に好き放題書いても構わない)」という断定は、慎む、というか躊躇してしかるべきなのではないか?一方的に叩くことのできる(であろう)対象をとことんしゃぶり尽くすかのように攻撃を加えるマスコミ(とそれに追随する「普通の人々」)という図は、醜悪さを通り越して、空恐ろしさを感じる。もう出てしまった週刊誌に対して言っても仕方ないが、もう少し躊躇ったり、立ち止まるということはできないものか。一番世間に対して申し訳ないと思っているのは、JR西日本の関係者や、もっと言えばあの運転手の家族に決まっているのだから、既に土下座している人に対して「頭の下げ方がなってないんだよ」と嗜虐性をむき出しにするような取材は、いかがなものか。

と思っていたら、ジャーナリストの綿井健陽氏(高校時代の旧友)が、僕の言いたかったことを代弁してくれていた(このエントリは、綿井君の文章を読んで、ようやく形になったものです)。綿井君の言葉を引用すると

この事故の責任や原因と、運転手の家族や母は関係あるのかなあ。何でも「家族」「生い立ち」「性格」に結びつけて、そして「犯人」を設定して、その周囲もまとめて吊るし上げる。だいたいいつもこのパターンだ。
 決してJR西日本の免責をしたいのではない(あえて書くまでもないことだが、一応念押しで言っておく)。
 だが、「過密ダイヤ」のことが言われているが、その過密ダイヤに追い込んでいるのはいったい誰なんだろうか。
 普段、東京で山手線やほかの電車にも良く乗るが、人身事故で「ダイヤが乱れた」とき、いちばんイライラ、何度も舌打ちしているのは誰なんだろう。僕も恐らくしている。
 駅員や車掌に「いつ動くんだ!」「運転再開の見通しを言えよ」などと怒っている光景もよく見るが、それは間違いなく普通の乗客だ。
 つまり、遅れを取り戻すことを無意識に要求・圧迫しているのは、普段電車を使って乗っている僕らの側、こちらの側なんじゃないのか。少しの遅れも許さない社会で生きているのは、何も電車の運転士だけではない。
 運転士の家や家族に取材する前に、そんなことを考えたり、想像したりすることはしないのだろうか。それは必要ないことなんだろうか。取材には余計なことなのだろうか。
 今すぐ「家族のコメント」を取ることは、何のためだ。誰のためだ?
 これもまた、ある意味で「遅れを許さない」雑誌の締め切り、OA時間に間に合わせるためなんだろうか?
 そうやって、また「誰か」を追い込んで、自分もまた同じことをしている。そしてまた同じことが起きる。
 この国でよく使われる言葉「事件の教訓」なるものを、次に生かせないのも無理もない。

 日本とはそんな国だ。(2005年4月28日=「集団的正義感」と命名する)

余りにもそのとおり過ぎて、却って言葉をなくす。救いは、そのような「躊躇い」や「想像力」を保とうとしている綿井君のようなジャーナリストがまだ存在してくれている、ということだけだ。

自分の正しさに躊躇いを感じない行為は、すぐに暴力に転化する。

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April 27, 2005

居直るしかないことの不幸

作家の片岡義男さんのウェブでのエッセイで、以下のようなフレーズがあり、深く肯くところがあった。「空虚な言葉の人とは」、という題名のエッセイだ。

 言葉の裏づけとなり得るほどの確かな実体とは、いったいなにか。正確で深く、しかも範囲の広い知識をもとに、自前で考えて到達した方針や信念あるいは作 戦などにもとづき、有効な行動をとってそれを積み重ね、その人の実績として誰もが認めるようになったもの。簡単に言えば実体とはこういうものだ。
 
 こういうものがいっさいなく、ただ単に口先だけの言葉がある場合を、空疎な言葉と呼ぶ。正確で深く、範囲の広い知識などまるでない、だから自前で考える ことが出来ない。したがって方針や信念、作戦などには、いつまでたっても到達することが出来ない。そのことの当然の結果として、有効な行動をとろうにも、 きわめて稚拙にしか動けない。だから実体はなにひとつ蓄積されていかない。空疎な言葉の人は、じつはこういう人なのだ。恐ろしいではないか。

この言葉は、じつは「我らが」小泉首相を批判しているわけだが(詳しくは本文に当たってください)、別に小泉さんに限らず、結構日本を覆っている「雰囲気」そのものにも当てはまるのではないか?これは、僕自身を含んで、そう言っている。

とにかく、何かを言わなければならない、なぜなら、沈黙は黙認と一緒だから、もしくは無能さの現れに過ぎないから。誰もが「知らない」「判らない」という言葉が怖くて言えず、場当たり的な「原因」を話して得々としている。内心は小心翼々、戦々恐々としていながら。
このような強迫観念に煽られて、いつの間にか、僕も、口先だけの空虚で無意味な言葉を紡ぎ出してはいないか。そして、無意味な言葉を紡ぎ出していったら、以下のような事態になる。

これでは遅かれ早かれ、追いつめられる。そうなったとき、空疎な言葉の人は、どうするのか。居直 るしかない。あらゆる責任をあらゆるところに押しつける。そして、あとは次のかたにがんばっていただきたい、というひと言で逃げていく。空疎な言葉の人と は、信頼出来ない人、さらには、信頼などしてはいけない人のことだ。そのような人をも、信頼出来そうだ、となんの根拠もなしに思うことは、いつだって、誰 にだって、たやすく出来る。


今、我々は、そのしっぺ返しを喰らっているのかも知れない。いや、「かもしれない」という無責任な言い方は、卑怯だ。そして我々は「居直るしかないことの不幸」のただ中に生きている。しかし、それを不幸と感じる(難じる)人は、どれくらいいるだろうか。

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April 23, 2005

鈴木祥子DVD『Life,/Music & Love』

今回のエントリは、完全にファンの一人としての「布教活動」であることを最初に申し上げておきます(笑)。

15年間、ずっと僕がファンでいるアーティスト、鈴木祥子さんの初のDVD作品『Life,/Music & Love』が発売となり、事前予約をしていた僕のところに、届きました。早速視聴。いやあ、満足でした。

実は、僕はいつも運が悪く祥子さんのライブに一度も行ったことのない「不信心者」なのですが(都合のいいときに限って、sold outだったりします)、そのライブの息づかいを、この作品で、おそらく実際の何分の一かでしょうけど、感じることができました。

lifemusicloveインタビューが所々挟まれているんですが、祥子さんの業の深さ(この「業」というのは、何か作品を作るアーティストには不可欠なものです。「業」の深くないアーティストなんて、語義矛盾だと思います。「業」のない人間は作品を作って人に差し出して、感動させるなんて芸当はできません)がうかがい知れて、興味深かったです。封入されていた自伝(年表)も、結構ヘヴィな事をさらりと書いていたりしましたが、それが却って「凄み」を感じさせます。

また、彼女の「歌」はこの数年間ずっと聞いてきましたが、インタビューやライブのMCなど、しゃべる声は久々だ、という感動もありました。10年ほど前だったかな、FM放送(確かBay FMだったかな)での深夜番組以来だと思います(この番組は、ずっと聞いていました)。相変わらず良い声だよな、しゃべる声も。

そして、僕はこのDVDを見て、祥子さんの「可傷性(ヴァルネラビリティ、vulnerability)」を感じ取り、それが僕に「感染」して、僕も、祥子さんの歌声によって「傷つけられる」準備ができてしまう、というのを感じたのです。ふつう「可傷性」というのは現代思想とかで「暴力を誘発するようなこと」という意味で使われています。要するに「自分が手を出したら、その人は容易に傷つく、もしかしたら死んでしまうかもしれない」というような状態を指し、そのような者を目の前にしたときにどのような「倫理」が発生するとか何とか、難しい議論がなされていますが、僕はこの言葉をあえて違う意味、というか広い意味で捉えたいと思っています。音楽にしろ何にしろ、芸術活動っていうのは、「届く相手」がいなければ何の意味もありません(後世に発見されたとしたら、その後世の人に「届いた」わけです)。そういう意味で、アーティストという存在は、基本的に、消費者である我々が簡単に「傷つけ得る者the vulnerable」だと思うのです。「無視する」だけで、アーティストは容易に傷つきます。
でも、一旦作品に何らかの「到来」を感じてしまった消費者たる我々は、今度は逆に、その作品に「傷つけられる=感動する」ことになると思います。そして、アーティストの作品に、そのような「出会い」を持つものを「ファン」というのだろうと思います。そして、そのような出会いをして、傷つけられることは幸せだと思います。そして、ゲストの直枝政広さん(CARNATION)が言っていましたが、祥子さんの世界は「女性のもろさと強さの両極端にふれているところがあ」り、その部分が僕にとって「到来するもの」なのだと思います。

で、具体的に、DVDの中身ですが、「Happiness」が最高!!この曲は祥子さんが25歳の時に作ったもので、「生まれてからもう25年も」というフレーズがあるのですが、ライブ映像の時は、「38年も」と歌い直していました(笑)。
でも、祥子さんのようにかっこよく年をとる人って、本当に少ないと思う(男女問わず)。祥子さんより6歳下の僕は、まだ挽回のチャンスがあるかもしれないので、精進あるのみ。僕のある女友達が(Uちゃん、君のことだよ)、20代の終わり頃に「(あんたたち)男は年をとると「渋さ」が付いてうらやましい。女は年をとること自体がすごくマイナスだもの、やんなっちゃう」とか言っていたが、今のところ、僕はまだ残念ながら「渋み」の対極にいます(笑)。
あと、「PASSION」と「依存と支配」もいい。二回見直しちゃいました。ラストの「忘却」、これはアルバムなどに未収録の歌(のはず)。初めて聞いたもの。これはプロモーションヴィデオの作りになっていて、彼女が生まれ育ったとおぼしき多摩川沿いでギターをかき鳴らすシーンがあり、これも格好いい(彼女は大田区大森の育ちなんだとか)。

このDVD見たせいで、CARNATIONのアルバム、買いたくなっちゃった。僕は『a beautiful day』しか持っていないので。

深夜に見ちゃって、興奮冷めやりませんが、お休みなさい。

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April 21, 2005

色んなブログを見て回って

中国での反日デモは、この数日小康状態、といった感じですが、この一週間ほど、僕も触発されてブログにエントリを書いたりしましたが、他の人の意見を知りたくて、おそらく3、40ほどのブログを見て回り、すっかりこのところ夜更かしの習慣が付いてしまいました。
トラックバックを辿っていくと、ある傾向のブログを立て続けに読むことになるので、ある意味効率的ではありますが、「みんな、見たいもの、聞きたいものだけを選ぶものなんだなあ」と改めて思いました。まあ、人のことは言えませんが、このところ思うに、ブログって、色んな人の意見を聞く、というより、自分に似た傾向の人を探して、自分にフィードバックさせて、自分の信念のお墨付きを求めるってことをしてしまいがちで、喧々諤々、という感じではないんですよね。僕も、あからさまに中国人に対する偏見や蔑視を開陳しているようなブログ(これが山ほどあって、ホント、うんざりさせられますが)のコメント欄に「あなたは間違っている」なんて書くほどの親切心はありませんので、議論が盛り上がらない、というのは、僕の方にも責任があるとは思っています。

で、今回見て回ったブログで、目立った意見は「中国の愛国教育が悪い」という見解。果たして、これって正しいんでしょうか?僕は、中国で行われた愛国教育の実態をよく知らないので、何とも申せませんが、もし正しいのなら、今、与党が議論の俎上にあげている「愛国心の涵養というのを教育基本法に盛り込む」とか、そういうのは、無しにした方がいいんじゃないでしょうか?日本なんか、特別な愛国教育しなくたって、そこそこの愛国心を持った国民が、自然にできあがっている国じゃないのかなあ、と思いますが(もちろん、日本社会の同調圧力の強さなどは考慮するべきでしょうけど)。この「そこそこ」の加減が難しくて、中国当局も苦慮しているんだと思いますがね。「そこそこ」、英語ならmodestとかdecentという形容詞、これって重要だと思うんですがね。「中庸」が大事だって、孔子も言ってますしね。

人の振り見て我が振り直せ、ってことわざ、まさか知らない人はいないですよね。しかも、60年ほど前に、過剰な愛国教育を施していた国が、夜郎自大な自尊心で、蛙の腹のようにふくれあがったあげく、ぼろぼろになって国を滅ぼしかけたことを忘れた人もおりますまい。僕はもちろん、自尊心は人一倍持っていると思いますが、過去の教訓を忘れるほど盲目的な自尊心を持たないことが僕のプライドです、と締めたいと思います。

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April 19, 2005

泥縄&泥沼な予習

先週から、勤務校は授業を本格的にスタートしました。先週は、まあガイダンスですから、適当に「こんな事をする予定ですよ~」としゃべって終わりにしていたのですが、今週からはそうも行きません。年貢の納め時、というやつです。

昔の自分の学生時代のことを思い出すと、遅くやってきて早く終わる先生を愛していたような気もしますが(昔の先生は、その辺いい加減で、大らかだったなあ。特に語学の先生は、時間きっちりに来る人なんて、ほぼ皆無だったと思います)、あまりにそういうことをやって、学生のせっかくのやる気を削ぐのはよくありません(新学期が始まったばかりで、やる気だけは結構持ってくれていますから)。てな訳で、こつこつとこのところは残業して授業案を作っています。
で、残業して研究室に残っていたら、この季節は学生さんの方は結構お気楽なもので、大学のキャンパス内でお花見だーとか、新歓コンパだーとか言って、酒をかっ喰らった大酔っぱらいの学生が急にどどどとなだれ込んできて、「先生ー、酔い覚ましのコーヒー飲ませてー」とか言いやがるんですが(そして甲斐甲斐しくコーヒーを淹れてやるわけですが)、まあそれは別の話。

というわけで、講義やゼミのための泥縄&泥沼な予習の日々が始まってしまいました。「ふしだらVSよこしま」はBarbee Boys、「泥縄&泥沼」は川瀬の十八番です。(バービーボーイズってのは、ちょっとマニアックでしたかね。念のために言いますが「泥縄&泥沼」というような曲はありません)。

毎年毎年、どうしてこう、講義の予習に余裕が持てないのか・・・。もうこの大学に勤めて四年目だっちゅうのに。
小学生の時の僕は、七月中に宿題を終える優等生だったような記憶(おそらく捏造されている恐れ大)がありますが、立派な大人になったはずの今、却って自転車操業しているような気がします。「気がします」じゃなくて、実際そうなんですが。
で、マーフィーならぬ川瀬の法則。

休み中の宿題は、年をとるほど、仕上げるのが遅くなる。

大学の教師って、要するに学校から離れたことのない(離れられない)人間ですから、休み中の宿題からは逃れられない運命なんですね。
ということで、お休みなさい。

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April 11, 2005

中国の反日デモ雑感

今、中国では反日デモが盛り上がっています。どれくらい続くかは判りませんけど、多くの日本人は、「なぜこれほどまでに」と驚いたと思います。かくいう僕も驚いています。竹島の時は、日本が喧嘩を売ったようなものだし、という思いもありましたが、今回はそういう直接的な原因が見えづらいものでしたから(国連の安全保障理事会の常任理事国になることの可否や、アサヒビールに関する噂などが一応原因とされていますが、別のことでも起こりえたのでは、と思います)。

僕の感想は単純なもので、「中国の(一部の)反応は行きすぎ、でも、その遠因を営々と作ってきた日本にも非がある」というものです。喧嘩両成敗みたいな感じで、面白くも何ともないのですが、一方的に「中国人が悪い」とか「日本人が悪い」という単純なものの見方、特に中国人蔑視をオブラートで包んだようなものの言い方には与することはできません(ブログを巡回して、毎度のことながらそのような物言いが多いのに、ちょっとがっかりですが)。

日本人が、長年「戦争を反省しています」と口先だけで反省を述べて、却って反省していないことを身振りなどのノン・バーバル(非言語的)コミュニケーションで向こうに伝えてきたことについては、内田樹先生がブログで書いており、僕もその意見におおむね賛成です。

僕が内田先生のエントリを読んで思い出したのは、ベイトソンという学者の「ダブル・バインド」理論でした。この理論は、統合失調症(分裂病)のコミュニケーションのありかたを考察した際に出てきたもので、簡単にいうと、相矛盾するような命令を同時に出されて、にっちもさっちもいかなくなるような状態を「ダブル・バインド」と呼びます。例えば、母親が子どもに怒った顔で「こっちにいらっしゃい!!」と命令したとします。子どもは母親の言葉通りに動きたいのですが、表情を読むと「こちらへ来るな」「お前なんか嫌いだ」というメタ・メッセージが読み取れてしまい、硬直して動けなくなってしまいます。このように、口によるメッセージと、口によらないメッセージの意味内容が乖離した状態に晒され続けると、その者は「関係性」自体をどのように構築して良いかが把握できなくなり、言葉の隠れた意味に執着したり(これがいわゆる妄想です)、文字通りの意味にしか反応できず空気が読めなくなったり、コミュニケーションそのものから逃避したりすると、ベイトソンは推測しました。

内田先生は、戦争の反省を口にする政府首脳の「棒読みさ加減」を強調していますが、僕はそれもさることながら、言葉の面でも、日本政府は「戦前の反省」と、「あの戦争(植民地支配)のどこが悪かったんだよ」と、相矛盾する(筈)のメッセージを戦後ずっと垂れ流しており、それが澱のように中国や韓国の人の脳裏に沈殿され、あのような過剰とも見える反応を生んでいるのではないか、と思います。要するに、信用してコミュニケーションを取ることのできない国なわけです、向こうにとって日本という国は。

今回のデモ騒動は、ちょっと大げさにいうと、ポストコロニアルな問題の一つだと思います。
日本企業が中国人労働者を雇ってやっている、というような意識は未だ根強いものがありますし、そのような意識は、繰り返しになりますが、中国人労働者にじわじわと「反日」の種を植え付けてはいなかったか、ちょっと考えたいところです。

所謂排日思想なるものは日本の主我的帝国主義の影ではありませぬか。影を悪(にく)む前に先づ自身を省みる必要がありませう。「国威を海外に輝かす」とか「大に版図を弘める」とか「世界を統一する」とかいふやうなことを日本の理想とし主義として進んでいつた結果が隣近所、皆排日となつて今日の八方塞を招いたのであります。(中略)所謂「日本主義」で傍若無人に振舞へばいかで反動を起こさで止みませう。(中略)朝鮮などに来て居るものは婦女子に到るまで威張ることを知て愛することを知りません。取り立てることを知て与へることを知りません。(中略)而して其根本原因は帝国主義の中毒であります。(中略)其れはいくら総督府が善政を布かうとしてもだめなのであります。又いくら総督府を改革したところでだめなのであります。日本人の素質が変らねばならんのであります。(鈴木高志「朝鮮の事変について」、『福音新報』一九一九年五月八・一五日)

上記の言葉は、1919年の三・一独立運動の直後に、朝鮮に住んでいたある日本人牧師が述べた言葉ですが、今回の騒動で、再びこの言葉を思い出しました(昔、論文に引用したことがあるので、覚えていたのです)。
少し尻切れとんぼですが。

追記:大学時代の旧友(中国史専攻)が、反日と反中の悪循環について触れていましたので、TB。ホント、この悪循環をどうにかしないと。

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April 08, 2005

偽預言者に気をつけなさい

いま、僕の住んでいる近くの教会が事件を起こしたようで、大きな騒ぎになっています。僕は宗教学者として当然関心を持ってニュースを追っていますし、どうも報道によると、この牧師は韓国と深い関係がある、ということで、日韓の宗教を専攻している僕は、普段のニュースよりは熱心にこの事件を見守っていますが、何せ、この「聖神中央教会」、情報が少なすぎて(韓国系キリスト教は日本に結構入っていますが、この教会の特徴や、所属宗派、牧師の留学先など、まだ今の段階ではよくわからないので)、何一つ断定的なことが言えないという隔靴掻痒感があります(何人か僕に質問された方がいらっしゃったのですが、そういうわけであしからず)。
僕が韓国に滞在していたとき(1999年)にも、韓国で「偽予言者」というか、カリスマ的な牧師(教祖)が詐欺事件を起こしたという報道がなされ(その牧師が手のひらから金粉を出したとか、たいしたことのない水を「聖水」として売っていたとか)、その報道に激高した信者が、放送局に乱入して放送を止めるという事件が起きました(万民中央聖潔教会という教会が引き起こした事件でした)。今回の報道を聞いてまず思い出したのは、その事件でした。「中央教会」という名前を聞くと、なにやら既視感が襲ってきたんですね(いや、もちろん真面目に活動されているあまたの「中央教会」は存在するんですが)。
nokirisutoそして次に思い出したのは、異能ギャグマンガ家岡田あーみん先生の『こいつら100%伝説』のワンシーンでした(図版参照。3巻p.98)。こんなやばいネタを料理していた岡田さんを改めてリスペクトします(笑)。確か、岡田あーみん先生は、お母さんがクリスチャンで、結構そっち方面に造詣が深そうでしたが・・・。ちなみに、昨日の日記で書いた岡田史子先生は紆余曲折の後、キリスト教に入信しています。
でも、あれだけイエスが「偽預言者には気をつけなさい」(マタイ:7章15節)と言っているのにな・・・という感想を持ってしまったのも事実です。信仰がそんなに「理性的」に割り切れるものではない、と知っているつもりなんですが。

さて、オウムの時もそうでしたが、今回のこの事件に関しても「カルト」云々が議論されていますが、「教義にカルト的なもの」があるかないかは、僕自身は水掛け論になるので生産的ではないと思います。「カルト」というものは、「現行法を逸脱 した犯罪行為」を行った集団に対する事後的なレッテルだと思いますし、またそうあるべきだと思っています。つまり、最初からある集団に対して「カルト呼ばわり」はしてはいけない、という立場です。たとえ教義に一般常識に著しく反する「カルト的なもの」があっても、彼らがま だ何の犯罪にも手を染めていないならば、犯罪者扱いは慎むべきだと思っています。でも、今回の事件は、報道されていることが事実だとしたら、立派な「カルト」としか言いようがないな、とも思っています。
とにかく、新しい情報が欲しいの一言です、今は。

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April 07, 2005

また一人の「天才」が消えてしまった

vol1 さきほど、僕が入っているSNSのmixiで知ったのですが、マンガ家の岡田史子先生が、今月三日に心不全でお亡くなりになったそうです。享年55歳。mixiでこの訃報を知らせてくれた方は、岡田先生の息子さんとお友達なのだそうです。

まずは、ご冥福をお祈りするとともに、日本漫画界がかけがえのない「天才」をまた一人失ったことを惜しみます。明日、所沢の小手指にある所沢教会で本葬だそうです(11:00~)。

岡田史子さんは、一部でまさに「天才」と絶賛されていましたが(岡田さんの一番の賛美者は、萩尾望都先生でしょう)、はっきりいってその作品は一般受けする性質のものではなかったと思います。これほど読む人を選ぶマンガも少ないのでは、と個人的には思っているほどです。

実は僕も、最初それほど良いとは思いませんでした。いや、正確にいえば、読む度につらくなるので、なるべく目に触れないようにしていたのです。

彼女の代表作であった『ガラス玉』(朝日ソノラマ)も、ラッキーにも古本屋で入手したのに(古本屋でこれを買ったとき、店長が「いい買い物したね」とニヤッと笑ったことを覚えています)、繰り返し読むのがつらくて、結婚して引っ越すときに売ってしまったのですが、結局、画像で示したアンソロジーを買い直してしまいました(飛鳥新社から出ています。入手可)。

彼女の作品は、こういう言い方をすると誤解されるかも知れませんが、人に訴えたり、人を癒すというよりは、「読む人を傷つける」ことを意図して描かれたのではないか、とさえ僕は思っています(こんなことを言うと、もしかしたら岡田先生はお笑いになるかも知れませんが)。僕はこのような製作態度を否定しません。読む人、見る人のトラウマを目指す創作活動は「あり」だと思います(映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーも、同様のことを言っていたと記憶しています)。それが僕が彼女の作品を一時避けていた原因であり、それと同時に、再び購入させた原動力だと思います。別の言い方をすれば、僕はいつの間にか、まさに「トラウマ」というものが言語化できないのにその人のアイデンティティに決定的な影響を与えているのと同様に、岡田先生の作品に「傷つけられ」、それ故に再び求めざるを得なくなった、ということを言いたかったのです。

最後にもう一度、ご冥福をお祈りいたします。

修辞ではなく、魂の平安あらんことを。

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April 05, 2005

まだサブカル少年(?)

新学期が迫ってきました。

先月末までの国際学会などもあり、未だ講義案に関して「白紙状態」なので、今、焦りまくりながら、付け焼き刃の予習をしているところです。
でも、哀しいかな、体の方がすっかり「春休みボケ」になっていまして、いまいちエンジンがかかりません。現在読んでいるのは、日本中世仏教の「顕密体制論」とか、そういうややこしいものなのですが(講義には直接関係ないのですが、背景として押さえておこうと思って、ちょっぴり読んでいます)、リハビリとしてはきつすぎて、すぐに眠くなったり、集中力が切れてしまいます。

てなわけで、今日は気分転換且つ夕食を食べに行くついで、ということで、この前学生に教えて貰ったあるサブカル書店に行くことに決定しました。それは、左京区北白川にある「ガケ書房」という本屋さんです。一部では既に有名らしいのですが、僕は初めてでした。ついついこういうサブカルチャー臭漂うスポットに行きたがる習性は、昔、まともな音楽&情報誌だった頃の『宝島』を読んでいたトンガリキッズだった名残でしょうか・・・。三つ子の魂百まで、というか・・・。
どっちにしても、「オサレサブカルなんて」と普段はすねているくせに、なんだかんだ言って、我ながら未練がましいです。

で、お店に関しては、リンク先をみていただきたいのですが、それっぽい本、写真集、CD、雑誌、小物がきれいに並んでいて、一時間以上も中でうろうろしてしまいました。この書店の近くには、京都造形芸術大学もありますから、客層には、明らかにそこの学生さんだろうな、という人も多かったです。そういう傾向は、一乗寺の恵文社にも言えることですが。
僕が良いなあと思ったのは、写真集のほとんどが立ち読みできたこと。中には、ちゃんとビニールに巻かれたものもありますが、ほとんどはむき出しのままだったので、パラパラめくることができて、これが僕としてはポイント高し。

実は、北白川って僕にとっては、ほとんど未開拓の場所なんですよ。勤務先からはちょっとだけ離れているし。これから良い季節になってきますから、このガケ書房も気に入りましたし、散歩がてら、ちょくちょく訪れようと思います。

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April 02, 2005

わがこころのよくてころさぬにはあらず

jibutsu_1さて、タイトルの言葉は、『歎異抄』13条の有名な一節ですが、昨日と今日で、内田樹先生の新刊『いきなりはじめる浄土真宗』と『はじめたばかりの浄土真宗』の上下巻本(本願寺出版社、2005)を立て続けに読みました。これは、浄土真宗の僧侶で宗教学者でもある釈徹宗先生との往復書簡からなっている本で、ネット上ですでに公開されていましたから、ご存じの方も多いと思います。相変わらず、読みやすく深いところを突くなあ、と感心し、釈先生の解説も的確だなあと思いました。

タイトルに偽りなし、といいたいところですが、プラスの意味で裏切られます。それは、内田先生がレヴィナス経由のユダヤ教(旧約聖書)の深い読み込みを提示し、釈先生がそこからインスパイアされた浄土真宗の解説を語ることによって、単なる「浄土真宗」の概説本になることを防いでいるからです(後書きで、釈先生も同様のことを言っていました)。

個人的なことを言えば、僕の家は大谷派(東本願寺)の家で、親鸞とか浄土真宗とか、他力とかに関しては、大学で受けた講義もあって(三年生の時に受けた、親鸞とルターを比較宗教学の視点から捉えた加藤智見先生の授業がきっかけでした)、結構自分で読んだり調べたりしたことがあります。倉田百三の『出家とその弟子』も読んだりして(福永武彦とかも読んで、頭でっかちになっていた頃ですね)。その結果、僕は親鸞のお師匠様である法然に傾倒しているのですが(法然の大らかさと高潔さの共存に頭を垂れざるを得ません)、まあ、それは別の話。

この本で印象深かった部分を指摘したいと思いますが、前述のように、内田先生が、浄土真宗に別の角度から光を当てその理解を深めるために持ってきたユダヤ教の話が印象的でした(例えば、1巻の「その3」)。これは僕が以前このブログで言及した前著『他者と死者』にも同じことが書いているのですが、「全知全能の神の存在は、人間を倫理的な方向に導かない」、ということの指摘は、繰り返さなければならない重要な「神義論」の構成要素だと思います。もっというと、勧善懲悪・因果応報は人間を倫理的にはしないということ(浄土真宗も、このエントリのタイトルのように「自分が偉いから悪いことをしないのではない。それはたまたまそういうラッキーな状態にいるだけだ」と教えているわけです)。そういうことを改めて教えられたような気がします。

jibutsu_2このあたりを敷衍して、内田先生は「常識」と「非常識」の往還(こういう言葉は使っていませんが、僕なりにまとめるとこういうことです)にこそ、宗教の「核」があるのではないか、ということを、有名なアブラハムのイサク殺害未遂を元に考察しています(2巻の「その15」)。旧約聖書の「創世記」において、アブラハムは息子のイサクを「山の上に行って、生け贄とせよ」という、神の無文脈かつ超非常識な命令を受けて、泣く泣く息子を山に連れて行って、殺そうとします。しかし、神の命令にそこまで従ったアブラハムを見て、神様は天使を遣わし、寸前で止めてめでたしめでたし、という有名な挿話ですが、内田先生は、以下のように解説しています。

このストーリーラインでなければ、「あなたの常識には外側がある」という被造物としての宗教的覚知と、「あなたはあなたの『常識』を守って、あなたに与えられたスキームの中で、『正しく』生きなさい」という倫理的命令を同時にアブラハムに理解させることはできないからです。(2巻、p.125)

おおざっぱに言って、「宗教」とは、この世界の外側(あの世とか他界とか、天国とか地獄とか、何でもいいですが)の存在への志向性がなければ成立しません。要するに「常識では推し量れない世界」が実在して、それが自分とは無関係なものではなく、それどころか自分を成立させているもっとも根源的なもの、という思いがなければならないでしょう。でも、その「非常識」な世界にばかりかまけることは、普通の人には許されません(許されるのは、一部の「聖者」だけでしょう)。ですから、その「非常識」さを、「常識」に還元できるか否かが、その人の「宗教性」の質を問うことになる、と、内田先生は考えているようです。例えば、オウム真理教の麻原やその弟子たちが見せた「奇跡」について、

 けれども、そのあとに、その霊的な覚醒をどうやって「市民としての適切なふるまい」にリンクさせるか、ということにはたぶん一秒も頭を使っていません。逆に、「市民としての適切なふるまい」を自分たちの教理に合致するように変更しようとしました。自分たちに反対する人間はみんな殺してもいい、それが真の正義の実現であるという「非倫理的」結論は、あらゆるファナティズム(狂信主義)に共通するものですが、その発想がどれほど「凡庸」なものであるかに彼らはたぶん気がついていません。私はこれを「頭が悪い」と思ったのです。(2巻、p.64)

と、「常識」に帰ってこれなかった彼らを批判していますが、僕もその通りだと思います。釈先生が言及されていますが(1巻、p.99)、仏教がそもそも抱える矛盾、すべてを捨て去らねばならないのに、「解脱」とか「救い」という目的に執着せざるを得ないという矛盾に、オウムは無自覚であるか、それを深層心理に押し込んでしまった嫌いがあると僕個人は思っています(実際、事件後の彼らのアジトに行ったときに、その疑問をぶつけてみましたが、はかばかしい回答は得られませんでした)。

この本は、往復書簡ですから読みやすいし、浄土真宗とユダヤ教のエッセンスが少なくとも分かったつもりになれる、お得な本だと思いました。釈先生の、所々に挿入される宗教学的な解説も有用です。

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