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May 26, 2005

そろそろうんざり

さあ、小泉さんの「頑迷さ」が原因で、中国の副首相との会談が中止になってしまった。
どうして、この人はここまで頑迷、というか「聞き分けがない」のか。首相として靖国神社に参拝するのは、これまで裁判所から合憲判断を下されたこともない行動だということに、どうしても思い至らないらしい。「何故でしょうね、わからない」というとんまな台詞を繰り返せば、世の同情を買えると思っているのだろうか。

郵政民営化については、僕はよく知らないから発言はしない。こちらでも、一部の人からは首相の「頑迷さ」が指摘されているが、今我々が戴いている首相は、どうも「人の話を聞かないこと」をそのまま「信念の強さ」と勘違いしている人のようだ。言うまでもないことだが、世の独裁者や戦争指導者は、人が呆れかえるほどの「強い信念の持ち主」だった。

そもそも、今の首相は、言葉は全く信用できないし(今回中国副首相が帰ったのも、インドネシアで殊勝なことを言った舌の根も乾かぬ間にこの首相殿が正反対のことを言ったからだ)、実のない言葉を連ねてあちこちで事態を悪化させている。僕は彼のことを端的に「無能」だと思う。政治は何よりも「結果」が大事なのだ(ウェーバー先生の『職業としての政治』でも読んでください)。「真心込めてやりましたが、失敗しちゃいました。許してね。てへっ」というわけにはなかなか行かないし、その責任を取るのが「政治家」という職業の役目だ。

政治というのは理想論じゃないんだ、甘っちょろいことを言うな、という「忠告」は、僕自身、考えが正反対の人からことあるごとに言われてきたと思う(9条や自衛隊やアメリカとの関係を巡る議論で)。確かにお説は承りました。その台詞、どうぞ今の首相にも言ってやってください。宜しくお願いします。

僕は現在の首相が、僕と正反対の考えだから辞めさせたい、だなんてことは思っていない。それほど僕は「狭量」な人間ではないつもりだ(向こうと違って)。
ただ、単純に、こんな無能な人間が舵取りをしていると大変なことになりそうだから(もう一部なっているが)、辞めていただきたく思う。

もうそろそろ、うんざりだ。この不実な首相には。

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May 21, 2005

「想像力」の回復-Little Birds感想

先日、このブログで宣伝したドキュメント映画『Little Birds』の特別先行上演会に行って参りましたので、その様子と映画の感想を書き留めておこうと思います。ドキュメント映画ですから、多少のネタバレは許してください(もちろん、白紙状態で見に行きたい方は、以下を読まないでください)。

会場は、大阪市福島区民ホール。大阪環状線の野田駅に下車。僕は、ここで降りるのは初めて。
どれくらい人が来るかな、と思っていたが、新聞にも掲載されたせいだろう、始まる五分前には用意された座席は満杯になっていた。

最初に、監督である綿井健陽さんの挨拶(以下、もと同級生の特権ということで、綿井君と呼ばせてもらいます)があり、綿井君は一言、
「つらい映像もあるかもしれませんが、見ておくべきものだと思います」
と端的に自分の映画の本質を語り、上映が始まった。
この映画は、綿井君が足かけ一年半ほどイラクで撮影した取材フィルムを元に構成されている。しかし、単なるニュース映像ではない。意図的に、テロップやBGM、ナレーションは排され、「生の雰囲気」をそのまま伝えてくれている(現在のテレビ映像は、たとえニュースであっても、いやニュースだからこそ、様々な「脚色」がなされていることに、この映画を見た人は気づくだろう)。

映像は、今から約二年前の(フセイン政権が倒されて、もう二年もの月日が経っているのだ!まずそのことを思い出して、驚く)、アメリカの対イラク戦争開始の二日前から始まる。もはや、アメリカとの戦いは、避けられないという見通しのもと、イラクの市井の人々の声を綿井君は拾う。その中の一人は「日本は良い国、日本人は良い連中だ。でもなぜアメリカと一緒なんだ?」と。また「日本は、アメリカに二つの爆弾を落とされた(当然、ヒロシマ・ナガサキのことだ)。その日本が今度はアメリカと一緒にやってくるのか?」日本への好意をもったいないくらい表現してくれるイラクの街の人々。しかし、その最後には「なぜアメリカと一緒に」という疑問文が付くのだ。このことは、数日後、開戦のあと、家を燃やされ、負傷したイラクの人に綿井君が実際に投げかけられた言葉に凝縮されている。

「ブッシュとおまえたちが!!」「アメリカとおまえたちが!!」

「おまえたち you」、そう、日本人はイラクに「侵攻する側」に入っているのだ。この「事実」を決して忘れてはならないし、もう一度、いや繰り返し我々は思い出す必要がある。
アメリカ軍は戦車で「凱旋軍」としてバグダッドに入城する。そのアメリカ兵に対して、人間の盾の一人だった女性は(パキスタン系イギリス人)、「何人子どもを殺したの?病院に行って、死にゆく人々を見に行け!!」と叫ぶ。アメリカ兵は、わざと「聞こえない」振りをしたり、だんまりを決め込んだり、高圧的に「向こうへ行け」というばかりだ。ビデオを回していた綿井君もたまらず駆け寄って「もうこれ以上、罪のない人を殺すのはやめてくれ」と叫ぶ。僕はこの綿井君の勇敢(無謀)すぎる行為を見て、冗談抜きで戦慄した。肩にライフルを引っかけているアメリカ兵に、そこまで言う綿井君を尊敬し、彼のこれまでの取材と、これからの取材は信じるに足るものだと確信した。友人のひいき目など無しで、同時代に綿井健陽というジャーナリストがいることを、本当に誇りに思う。シャイな綿井君は「褒められるのは苦手」と今日の舞台の上でもはにかんでいたが、君はそれに値する行動をしてきているのだ。ということで、もっと褒めることにします(笑)。

さて、この映画には主人公といえる人物がいる。アリ・サクバンという若い父親だ。彼は突然「天から降ってきた」爆弾で、一気に上から七歳、五歳、三歳の三人の子どもを亡くす。もちろん、子どもは何もしていない。だが、「厄災」なのではない。この災いをもたらしたのは、アメリカ軍の爆弾なのだ。
もう一人の主人公は、クラスター爆弾の破片を右目に受けた少女ハディールだ。綿井君のサイトで、眼帯をつけているかわいらしい少女が彼女だ(この映画のポスターのモデルも彼女)。彼女の右目は大がかりな手術が必要だが、それも困難だ。
綿井君が映しているアリ・サクバン氏の一家や、ハディールの一家を見ても、あまりの「普通さ」に却って愕然とする。子煩悩な父親、おしゃまでやんちゃな子どもたち。そのまま日本に移し替えたら、ホームドラマの題材にすらならないくらい平凡な風景だが、その風景の背後には「イラク戦争」が横たわっているのだ。この映画の白眉は、こういう家庭のシーンだと僕は思っている。その「平凡」の持つ重みと意味の彼我の差に唖然とし、「恥ずかしい」という感情が湧いてくるのを押さえることができなかった。
そして、忘れてはいけないのが、綿井君自身「裏の主人公」と言っていた「米兵たち」である。彼らのリクルーティングがいかにひどいものかは、昨年公開されたマイケル・ムーアの『華氏911』が暴いてくれているが(僕もこのブログで感想を書きました)、田舎のとっぽい兄ちゃんや、奨学金が欲しい貧乏学生、市民権を獲得したいアジア系移民の子どもたちなど、アメリカの中の弱者が大勢来ている実情がある。しかし彼らも、綿井君に「よう、何撮ってるの?」と気安く声をかけるような「陽気なアメリカン」でもあるのだ(綿井君がそう言っていた。この映画に出てくる米兵は、ほとんど向こうから声をかけてきたそうだ)。そういう「普通」のアメリカ人が、「普通」のイラク人をいつの間にか殺しているというのが悲惨な実情なのだ。綿井君から「この戦争の目的はいったい何だったんだ?」とか「大量殺戮兵器はどこだ」と聞かれて、答えようが無くなりうつむく米兵の彼ら。まだ自衛隊は、現地の人を幸運にも(ホント、万に一つの僥倖だと思う)殺してはいない。しかし、もし「イラク特措法」の定める範囲で人を殺したらどうなるのか。アメリカ以上にうつむかざるを得ないのではないか?

この映画を前に我々がなすべきこと、というよりは唯一できることは、「想像力の回復・復活」だろうと思う。
同じ空の下のイラクの人々を思い、時にはアメリカ兵のことを思うこと。「戦争」とは無縁なつもりの日本人の想像力の無さそれ自体を考えてみること。僕は残念ながら、これくらいのことしか思い浮かばない。だが、やらねばならないのだ。

さて、上映のあとは、綿井君とジャーナリストの大谷昭宏氏とのトーク。その中で、印象的だったことばを思い出すまま羅列すると(正確ではないかもしれませんが、真意ははずしていないつもり)、

「ヴェトナム戦争は、一番映像が撮られた戦争。その中のいくつかの映像が反戦運動の元になった。しかし現在は、軍にコントロールされた「従軍記者」のレポートしか基本的に許されない。「侵攻する側」からの映像だけになってしまっている。湾岸戦争も、イラク戦争もしかり。」(大谷氏)

確かにその通り。湾岸戦争時の映像を「ゲームのようだ」と評した人がいたが、実際、ボタンを押してミサイルや爆弾を打ち込むだけなら、「ゲーム感覚」だろう。映画の中でも、アメリカ兵にくってかかるお爺さんに「The game is finished! Yankee, go home!」といった人がいた。この人は、アメリカ兵にとってこの戦争は「ゲーム」なのだと正しく見抜いていたのだと思う。
この大谷氏の発言はもちろん、「侵攻される側からの映像」を提供した綿井君への賛辞なのだが。

「現在イラクの取材は大変困難になっている。一つは入国時のビザの問題。もう一つは、日本人の取材協力者だと言うだけでねらわれる危険性が高まると思って、なかなか現地スタッフの協力が求められない。だから取材はどうしても米軍の従軍取材か、自分でガードマン(拉致されたらしい斎藤さんのような)を雇うしかない」(綿井氏)

これじゃ、気軽に「言って頑張って来いよ」というわけにはいかない。この二年間、アメリカは何をやっていたのか。ブッシュ、早寝している場合じゃないぞ!(笑)

「サマワに行っている自衛隊、派遣される部隊についての報道の無さは異常。ここまでマスコミがノーチェックで良いのか。イラク特措法のいいかげんさだって、目を覆わんばかりの代物なのに」(大谷氏)

僕も恥ずかしながら、伊丹の部隊がサマワに向かったことなど、この大谷さんの発言で初めて知った。しかも、今は一人の記者もサマワにいないという。

「「治安の悪化」という言葉は、まやかし。「治安」というレベルではなく「戦争の悪化」と評した方が正確。」(綿井氏)

確かに「治安」という言葉は、戦争をしていない状態にしか似つかわしくない言葉だ。綿井君は「第二次イラク戦争」と呼んでいた。

「学生にインタビューしたとき、シーア派かスンニ派かと聞くと、怒ったものが多かった。この両者の区別は外から持ち込まれたものであって、絶対的なものなどでは決してない」(綿井氏)

これは宗教学者としても興味深い発言。宗教的な「色分け」なんて実際、どれだけ影響しているか、知れたもんではないと思う。「敵の敵は味方」という論理だって、すぐに思い浮かぶし。

「僕は「後ろめたさ」を感じながら取材しています」(綿井氏)

前線で命を削っている綿井君に比べれば全く比較にもならないだろうが、僕もある種の調査などをしているとき、「後ろめたさ」を感じるときがある。僕は宗教学者だから、ある教団の信者さんにインタビューする(した)ことがあるが、自分自身が「ズカズカ」とインタビュイーの内面に入り込まざるを得ない場面があり、ついたじろいでしまうのだ。同様に、韓国のことを研究するときも、僕は植民地時代を中心に研究しているので、どうしてもデリケートな問題に入り込みやすい。綿井君のこの発言は「我が意を得たり」などと言うとおこがましいが、「想像力」を決して枯渇させない彼のようなジャーナリストは本当に貴重だと思う。

というわけで、見て楽しくなる映画ではもちろんありません。しかし「直視しなければいけない」映画の一つであることは確かです。是非ご覧ください。

追記1:上映と対談が終わってホールの外に出ると、綿井君自身がお見送りをしてくれていたので、僕らは13年ぶりに(僕の記憶が正しければ)直接言葉を交わした(僕が前に出したメールのことを覚えてくれていた。嬉しかった)。握手をして、お別れ。スタッフの方からポスターまでいただく(大学の掲示板に貼るつもりです)。

追伸2:これを読んでいる川瀬ゼミおよびその他の学生の皆さん。スタッフの方によると、京都ではちょっと遅れて九条の「みなみ会館」で上映が行われるそうですから、「ポストコロニアル」というテーマでせっかく輪読やっているんだから、特にゼミの皆さんは是非見に行くように。またあとでアナウンスします。

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May 20, 2005

Little Birds公開について

僕の高校の同級生で、イラクなどを中心に熱心なルポをしているジャーナリストの綿井健陽氏がいますが(彼とは大学三年以来直にしゃべっていないけど)、このたび彼がイラクの実情を訴えるべく、映画を作り、現在順次全国の各都市を回りつつあります。
その映画のタイトルは「Little Birds」というものです。公式ページにどうぞ行って、その内容や映画館をお確かめください。また、同タイトルの本も、晶文社から出ています。僕は先ほど買いました。

littlebirds

僕も、大阪に見に行こうかと思っています。見終わりましたら、改めてその感想は書こうと思っています。
皆様も是非足をお運びください。

今日は宣伝でした。

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May 14, 2005

僕だって実は「現状肯定の保守」なのだ

さて、今となっては守旧派となった護憲派の僕ですが、今月号の『世界』(岩波書店)を購入して、今読んでいるところ。
今月号の特集は、「憲法9条ができること-平和の構想」というもの。
僕の目当てはまず、敬愛する歴史家安丸良夫先生の扶桑社教科書批判(「肥大化するナショナリズム史観」)。これは正確には、特集記事の一つではないのだが、大いに関係のある文章だ。思わず笑ってしまうくらい、西尾幹二氏に対する皮肉が満載(と僕には読めた)。「自分に甘く、他人に厳しい」歴史記述が貫かれている(一応一つのものの見方に「貫かれている」が故に、一貫した記述にはなっている)「二重基準」のこの教科書に対する安丸先生の評価に、全面的に賛成だ。なんと言っても、この教科書の最大の問題点は、先生のおっしゃるように「歴史の回顧が現代日本の現状肯定に帰結」することだろう(p.45)。
さて、特集だが、この特集の巻頭言が、ある意味全てを語っている。少し引用すると、

冷戦が終結した90年代以来、日本では「憲法9条があるから」あれもできない、これもできない、という議論ばかりだった。憲法が政府の行動を制限するもの である以上、「できない」ことがあるのは当然である。しかし、「できない」のは、日本が、現代世界の諸々の問題を軍事力で解こうとするから「できない」こ とになるのではないか。
 軍事力の役割を最小にし、対立を回避し、紛争が生ずれば対話と交渉で解決すること。そのためには、私たちは何をしたらいいか。様々な人権侵害や迫害、差別、テロ、格差等など、暴力を生みだす構造をどう変えていったらいいか。
 つまり、「憲法9条ができること」、あるいは「憲法9条でなければできないこと」が、山ほどあるはずだ。日本を「戦争ができる国」に変えるために改憲を急ぐ必要は、どこにもない。

全くその通りとしか言いようがないと思う。それに、「改憲したい」といいまくっている議員が国会の「憲法調査会」ではほとんど「学級崩壊」と揶揄されるような不真面目ぶりを示していたことも、忘れてはならない(高田健「いったい何を「調査」したのか」:検証・衆参両院憲法調査会の五年間)。要するにこの態度は、「最初から結論ありき」であったということを雄弁に語っている。ちゃんとしろ、とまではいません。「ちゃんとしている振り」くらいはしてくださいよ、僕なんかが教壇でやっているくらいには(笑)。

以前、「現実に合わせて憲法を作り替えようとすると、結局は現実に振り回される国になるだけ」という主旨の片岡義男氏の言葉をこのブログで引用したことがあったが、今回の特集でも、政治学者の土佐弘之氏の「「現実主義」は現実を切り捨てる」という記事があった。日本の外交で「現実主義」というと、ほとんど自動的に「アメリカに追随する選択」ということになるのだが(「朝生」でご活躍中のD大学のM田氏なんかは、その典型)、要するに、土佐氏も指摘するように、「長いものには巻かれろ」というのを少し高尚に言い直したに過ぎないと思う。また、今我々が直面している「保守主義」は、実はこのような意味での狭い「現実主義」であって、例えば「伝統(創られた、ということはとりあえず棚に上げて)」や「理念」に則って、何かを「守る」というのではない、要するに場当たり的なものなのではないか、とこの論説を読んで思った。

さて、僕は、戦争に行かなくてもいいし、徴兵制もなく、「頼りなく豊かなこの国」(浜田省吾「J-BOY」より)を結構愛している(僕を「サヨ」だの「反日」だと思っているものは、自分の「人を見る目のなさ」を虚心坦懐に反省すること)。そういう意味では、僕も思いっきり「現状肯定」の保守派だ。だたし、世間とは違った意味での「保守派」なのだが。
漫画だオタクだサブカルだなどと、好きなことにうつつをぬかすことのできる幸福、つまりこの状況(「平和ボケ」と言うなら言ってくれてもよい)を根幹で支えている9条を、僕は「死守」したい。勇ましく「改憲」を叫ぶ「改革派」の皆さんには悪いが。
9条の理念が、世界へ輸出するべき崇高な理念であることを述べたりすることは、もちろんできる。事実、僕もそう思っているが、そのような言葉が届かなくなっているなら、敢えて僕は「生活保守主義者」の立場から、皆さんに訴えたい。「戦争をする口実(これは一方では「喧嘩を売られる口実」でもある)を作って、何が楽しいのか」と。

そのほかの記事で印象に残ったのは、臓器移植問題の記事(額田勲「新たな局面を迎えた脳死・臓器移植問題」)。僕の指導教官が、こ の問題に積極的に関わっていらっしゃるので、ついつい気になる。記事の中心は、要するに、脳死臓器移植の基準を下げて、もっと供給量を増やそう(特に子どものド ナーを作ろう)という動きが国会で密かに進行中とのこと。「何だ、良いことじゃないか」と思うかもしれないが、「人の死」をデジタルに割り切るっていうのは、これはなかなか難しい問題だと思います。自分自身は切り刻まれようがかまわないって人は多いと思いますが、それを見つめる家族にとってはたまらないものがあるだろう。「死生観」なんて、一番「保守的」なものかもしれないから、一朝一夕で変わることはない。

あれ、結局「保守主義」ってことでまとまっちゃったな。

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May 07, 2005

休日最後の

皆さん、この大型連休はどうお過ごしでしたか?
なんだかんだで、あっという間に終わってしまいますね。

で、僕は今日、休日の最終日となる明日の過ごし方を、決めてしまいました。
それは・・・

garasunokamen

とうとうやってしまいました。美内すずえ先生の『ガラスの仮面』の文庫版の大人買いを!!ひーっ。

実は、今まで友人や先輩に借りたりして読んでしまっていたので、自分では買っていなかったんですよね。これだけ中毒性が強い漫画は体に悪いとも思っていましたし、自制していたのですが、もう我慢できなくなりました。大人って、ちょっぴりお金を持っているから、却って自制心が効かなくなります。僕が人生で一番忍耐強かったのは、風呂無しアパートで一人暮らしをしていた大学時代でしょう。そのときに比べたら、僕はすごく忍耐力が摩耗しています。「こんな贅沢しちゃダメだ」とも思うのですが、いつも

「ブランド品などを買う人に比べれば、こんなのちっとも贅沢じゃない」
→「故に、この程度の大人買いは許されて当然だ」

という、ものすごく自分に都合のいい二段論法(三段にも達さない)が頭の中を駆けめぐる昨今です。

レジにこれだけどっさり持って行くとき(二十数冊)、思わず自分に「タカヤ・・・恐ろしい子・・・」とつっこみを入れずにはいられませんでした。いや、店員さんが思ったに違いありません。

というわけで、今晩から明日にかけてこれを貪り読んで、休み明けの月曜日には、水城さんを心配させる真澄様のような表情をしているかもしれませんが、自業自得ですので、ご心配無用です。

それでは皆様、素晴らしい休日の最終日を。

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May 03, 2005

下鴨神社の流鏑馬

今日は、妻と一緒に久々の京都散策。
まず目当ては、下鴨神社で、葵祭の最初の行事として行われる流鏑馬。朝、@station(FM京都)を聞いていて今日行われることを知り、いそいそと出て行きました。
予想通り、すごい人並み。それと、セミプロのカメラマンの人々が(おそらく)朝からコース前を陣取って、ものすごい装備のカメラで待ちかまえていて、その気合いと、相当な程度の傍若無人さに当てられました(「あ、あんた、構図としてじ邪魔やから、そこどいてくれ」などという要求を平気で神社側の人間に言ったりする。彼も仕事で馬場をならしたり、色々しているのだろうに。全く)。
なお、英語、韓国語、中国語でアナウンスしている神社側のホスピタリティには関心。

まずは、コスプレ昔の衣装で身を固めた人々の行列から、この行事はスタート。

parade

一番後ろでちょこまかしている小さな子どもたちは、流鏑馬の的を持っています。
そして、実際に流鏑馬をするりりしい方々が入場。

yabusame001

で、始まったわけですが、先ほど言ったセミプロのカメラマンが完全にいい場所を押さえているので、ろくに見えやしません。それに、流鏑馬って予想以上のスピードで、あっという間に終わるんですよね。20秒ほどで三つの的に矢をいかけて終了、という感じでした。でも、そのスピードのすごさで、流鏑馬をする人の超絶技巧が判りました。

待つこと一時間以上、流鏑馬を見たのは数分、という感じで、その後腹も減ったので、神社のすぐ脇にあるみたらし団子屋に。

mitarashi

この団子を食べて元気を取り戻し、そのまま銀閣寺方面に歩き、妻の目当ての和菓子屋さん(彼女は和菓子にこっている)に行って買い物をし、「哲学の道」を下り、岡崎公園を経て、河原町四条まで歩き通しました。やっぱり、京都は結構いい意味で狭いです。

夜は、東京から来た元教え子カップルと一緒に、4人で飲み。元教え子のNさんが「彼氏と連休は京都旅行するので、夜に会いませんか」、と言ってくれたのです。
そして僕がネットで見て適当に予約した「まんざら亭先斗町店」というところ。二階の座敷に通され、結構長居してしまいました。真面目な話題から、少女漫画の話題(こっちの方が、僕は得意)まで、4時間くらいしゃべり通し。
彼らが泊まっているホテルがちょうど僕の自宅への帰り道の途中にあったので、彼らを送るという名目で、足も疲れていたし、タクシーで帰宅。休日らしい休日でした。

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