Recent Trackbacks

April 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« 固定リンク・カテゴリのバグについて | Main | 旧友との再会 »

June 29, 2005

「素人の集まり」としてのゼミ

先ほど、内田樹先生のブログを見ていたら、またまた考えさせられるエントリが。実は、僕もゼミや講義のやり方に対して常々考えることが多いのだが、今回の内田先生のエントリは、耳が痛いというか、身につまされる内容だった。
現在内田先生は、中国研究者が一人もいない環境で中国を語る、というゼミを大学院でなさっている。ところが、これが先生が言うには、非常に「生産的」なのだという。何故か。教師と学生の知識に水位差がないと、教師も泰然と構えてはおられず、きわめてスリリングな展開が待ちかまえており、その緊張感がゼミを活性化させるからだということだろう。

しかし、この「全員シロート」体制というのは教育的にはきわめて効果的なものであることが三ヶ月やってきてよくわかった。
教師がその主題についての専門的知識を独占的に所有しているということになると、聴講生たちは教師が誘導しようとする結論に誰も的確には反論することができない。
「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」ということになってしまう。
しかるに、教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると話がまるで変わってくる。
発表者によってその日にあらたに与えられた情報を、これまでのゼミ発表で仕込んだ情報と組み合わせて、「ということは…こういうことじゃないの?」という仮説を立てる権利は全員にほぼ平等に分かち与えられている。
つまり、ここから先は「知識量」の勝負ではなくて、断片的知見をどのような整合的な文脈のうちに落とし込むかを競う「文脈構成力」の勝負になる。
誰も正解を知らないクイズ番組みたいなものである。

僕などはまだまだ「若く」「未熟」な教師ゆえに、学生に対して知識量の差を何とか作り出し(もちろん、長年研鑽を積まれた先生に比べれば、鼻くそみたいなものだが)、その水位差から生じる「勢い」で、講義やゼミをおこなっている傾向があると思う(このやり方は、自己弁護になるが、きわめて「普通」の大学教育である。僕が受けてきたゼミも、そもそも僕とは比較にならない知の巨人の後塵を拝して「自分でつかみ取る」という類の、修行めいたゼミがほとんどだった)。
内田先生がよく使う表現に則れば、僕はまだ「劫を経たおじさん」ではないので、却ってその「水位差」に頼ろうとしてあがいているのだと思う。昨日初めて読んで知った知識を、あたかも数年前から知っていて自家薬籠中のものにしている振りをする事だけは、まあまあ上手くなりつつある今日この頃だ。
そして、「なに、君たち、こんなことも知らんのかね。まあ、知識がないところからは、何も始まらないわな」とばかりに、ゼミで僕が学生を睥睨するものだから、学生は益々発言しなくなり、僕はといえば「これだけヒントを教えてやっているのに、発言する奴がどうしてこうも少ないのか」と不満に思う、という悪循環をいつのまにやら、やってしまっていたようだ。

内田先生のゼミは、言うまでもなく内田先生ご自身の博覧強記ぶり、「オールマイティ」さ加減と、やる気のある社会人も一緒にゼミに参加しているというモチヴェーションの高さが際だっており、「川瀬先生のゼミは、他の先生より楽そうだから」という理由で学生が集まることも多い僕のゼミとでは、そもそも比べるのが間違いなのだが、先生の「シロートの集まり」という部分には、僕も思い当たる節があるので、ちょっと思い出話をしてみたい。

僕は学部生時代、あるサークルに参加していた。それは「KAOS」という名前のサークルで、残念ながら、今はもう消滅してしまった。これは「Komaba Academic Optimist Society」という名称の省略だが、もちろん先に「カオス」という言葉があって、語呂合わせで考えた英語名称だったわけだが、このサークルは一種の茶話会で、様々な分野の人間が集い(大学も色々)、大体毎月一回会合を開いていた。そしてその会合では、一人が自分の「専門」に関する発表を行い、それに対して、基本的にその分野に素人の連中がつっこみ議論する、というのが活動内容だった。例えば僕が宗教学に関する議論をみんなの前で発表すれば、法学、生物学、化学、医学、物理学etc.の分野の連中がそれを聞いて、つっこんでくれた。これは今から思えば、自分の専門を他分野にも通じる話に鍛え上げようとするものだった、と格好良く回想できるかもしれない(実態はどうだったかは保証の限りではないが)。ちなみにこのサークルは、一度『AERA』に取り上げられたことがあります。1992年8月18日号で、ジャック・デリダが表紙のやつです。この号は「哲学」が特集されており、大学のある先生が、僕たちを朝日新聞社に紹介してくださったのです。お暇な方はバックナンバーを探してください。「宗教学 川瀬貴也」という文字が初めて全国紙に載ったのが、これです(笑)。まあそれはさておき、僕はこのサークルで、他分野の人に揉まれること、もっと言えば「素人目の生産性」、というのを身にしみて感じたのだ。でも、これにも条件があって、ある分野に関してはちゃんとした「専門」を持っていることが、生産性につながるのだと思う。この時に得たものは大きく、物理的な交流の広がりも、知識の幅も、自分の卑小さの自覚も、全てこのサークルで与えられたと思っている。

あと、大学院に入ってから、朝鮮・台湾・「満州」など、日本の旧植民地を様々な分野で研究する若手が集まった自主ゼミ「植民地勉強会」(そのまんまの名前ですな)というのに僕も参加して、その仲間たち個々人の能力の高さもさることながら(僕を除く)、やはりここでも、「KAOS」で感じたようなもの-特にこれは学際的な広がりを最初からある程度狙った集まりだったので-を感じた。身内褒めをしてしまうが、本当にこの自主ゼミでは様々な意見や知識が得られて、吸収する一方の僕には、大変有意義なものだった。この自主ゼミは素人と言うよりは「セミプロ」の集まりだったわけだが、他分野の話を聞くことの生産性は、やはり味わわせてもらったと思う。
僕が考えている「素人の生産性」は、正確に言うと、上記で述べたように、何か一つ、ある専門(得意分野)を持った上で、他の分野の専門的な話に「つっこみ」を入れること、ということだ。

さて、内田先生はこう締めくくる。

ふつう私たちは「専門的知識を備えた人間が指導しなければ教育は成立しない」と考えがちだが、そういうものではない。
仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリーさえいれば、どのような分野の主題についても学生たちは実に多くのことを学ぶことができる。
逆に、知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている限り、学生はたぶん何も身に付けることができない。

いやはや、耳の痛い言葉だ。まるで僕のことを言われているような気さえする(学生から「先生は物知りだけど、時々その話は何のために話しているのかが、わからなくなるときがあります」とやんわり批判されたこともあります。彼女は鋭い。その通りだ)。

ゼミで取り扱うテーマに関して全く知識がない、というのは論外としても(それじゃ、あまりに学生に失礼だし、内田先生ほどの広がりがない僕が下手に真似したら、独りで撃沈だ)、あまり知らないことを一緒に考えたり読んでいくようなゼミは、もう少し「劫を経たら」やってみたいと思った。

« 固定リンク・カテゴリのバグについて | Main | 旧友との再会 »

学問・資格」カテゴリの記事

Comments

川瀬さま

はじめまして内田 樹です。
たびたび興味深いTBをありがとうございます。
今日のTBも「ああ、わかってくれているひとがいるなあ」とうれしく拝読しました。
その中で「素人にもまれる」ということの教育的意義について触れておられましたが、もしかするとこのことがいまの高等教育の場でいちばん足りないものではないかと思います。
「専門家」とは「自分の専門領域の先端的知見について非専門家にきちんと説明できる人」というのが私の定義なんですけれど、「非専門家にきちんと説明できる」ためには自分の専門を鳥瞰的に一望する批評的な視座が不可欠です。
そのことのたいせつさをもっとアナウンスしないといけないよなと思う今日この頃でありました。
すみません、よそのブログで説教しちゃって。
川瀬先生のますますのご活躍を祈念いたします。

内田先生、こんにちは。
わざわざ拙ブログにおいでくださり、恐縮しております。

>「専門家」とは「自分の専門領域の先端的知見について非専門家にきちんと説明できる人」というのが私の定義なんですけれど

との先生のご意見、同感です。特にこのところ、例えば同じ文学部内の文学研究者と歴史研究者でも話が通じないほど蛸壺化している学問情勢を、個人的には何とかできないものか、と思っているのです。「学際的」という堅いタームを使わなくても、他の専門家から「揺さぶられること」は単純に楽しく、スリリングな体験ですから。
手前味噌ですが、僕もそのことを、未熟ながらもサークル活動や自主ゼミで体得した気でおります。僕はともかく、友人たちは間違いなくそのような能力を持っていた連中と断言できます(事実、彼らの多くは、それぞれの分野の最先端で、今も活躍中です)。

>「非専門家にきちんと説明できる」ためには自分の専門を鳥瞰的に一望する批評的な視座が不可欠です。

このことは、最近先生が問題にされている「教養」論ですよね。
僕などは学生に「図書館や大きな本屋さんに行って、背表紙をだーっと見てごらん。それで何か感じて、本を手に取ったとき、君は「教養」に一歩近づいたことになるんだよ」などと、偉そうに説教しています(本屋や図書館でのこうした「修行」は鳥瞰的な視座を獲得する第一歩だと思いますので)。

コメント本当にありがとうございました。

川瀬さま

こちらでははじめまして、ですね。
先日「オタク訪問」させて頂いた際に拝見した、
川瀬ゼミの小冊子を思い出しつつ、
今回のエントリ拝読しました。

以前拝見した小冊子には、
様々なジャンルのレポートが並んでおり、
「これを御する川瀬さんは大変だなぁ」と、
嘆息したことを覚えております。

川瀬さん自身は謙遜されてますが、
引用にあります
「仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリー」
として振る舞っておられるからこそ、
様々なジャンルも対応することが可能なのでしょう。

しかしながら私自身は、
非常勤も含め接している学生から、
「仮設の提示と挙証、その反証という手順」
などというまどろっこしいことはメンドクサイ、
との反応を度々頂戴するのです。

レフェリーとして精進を続けるためには、
まず学生=選手をリングに上げねばと、
コーチ業にも勤しんでおるところであります。
(まずは本屋や図書館で背表紙を眺める技から)

乱文ご容赦のほどを。

どゐさま

>以前拝見した小冊子には、
>様々なジャンルのレポートが並んでおり、
>「これを御する川瀬さんは大変だなぁ」と、
>嘆息したことを覚えております。

いえいえ、みんな、思う以上に「奔馬」でして、全然制御が効きません(笑)。でも、一つ約束事があるとすれば、これも内田先生の受け売りになりますが「リスナー(リーダー)フレンドリーな発表を心掛けよ」とは言っています。「僕的(私的)にはこれで大丈夫だと思いますけど」という言い訳も禁止にしています。判りやすくみんなに伝えるというのが、どれだけ大変なことか、というのを身を以て知ってもらうことが、ある意味僕のゼミの唯一の目標かもしれません。
川瀬ゼミは、色んな知識をみんなで共有することをモットーとしておりますが、まだ僕の指導ぶりが未熟なせいで、まだ「素人の生産性」まではなかなか行き着いていないのが現状だと思っています。

>レフェリーとして精進を続けるためには、
>まず学生=選手をリングに上げねばと、
>コーチ業にも勤しんでおるところであります。

これは、僕だって他人事ではありません。水べりに馬を引っ張ってきても、飲むか飲まないかは向こうが決めることですが、何とかおとなしく「引っ張ってくる」くらいのことはしないと、とは思います(大げさですが、高等教育に携わる者の、最低限の倫理かな、とも思います)。まあ、僕が学生を見捨てるのは、何度もこちらから「こんにちは」と挨拶しても、返してくれないような場合だけですけど(こういう基準を持っている僕は、結構古くさい人間かも)。

もしかしたら理系と文系とで違う点が多いのかもしれませんが、思ったことを書きます。
私の専門である生物学においてもタコツボ化を避けたほうが刺激的な研究になるのも間違いなく(実際僕もそういう教育を受けてきました)、そういう意味でこのようなゼミ運営が刺激的になりうる、というのは大いに理解できます。
しかし、専門家でない人間は論文の読み込みが浅かったり、論文に用いられている手法への理解不足から独り善がりな説明をしてしまう可能性が大いにあります。さらに、ゼミの場で原文が提示されない場合、他のメンバーも発表者の浅い説明をそのまま受け取ってしまう危険性も残ってしまいます(全員素人なので)。このような問題をうまく切り抜けるコツがあればいいのですけれども(僕自身はこれで痛い目にあったことがありますので)。
つまり、広い視野を持つのはいいが、哄笑されるような浅さではだめ、というわけで。

ちゃあり~さま

おっしゃること、もっともだと思いますが、僕が強調したいのは、「プレゼンテーションする側が成長できる」ということです。専門家でない人の読み方が浅いのはある意味当たり前です。僕だって「プロをなめんなよ」と思うときがあります(笑)。
僕などは、上記のサークルで、生物学科の友人の「大腸菌のDNAのスーパーリラクゼーション」だとか、物理工学系の友人の「数学の公理系について」など、全くわからない話をたっぷり聞かされましたが、プレゼンする側が、僕のようなド素人にもその精髄をわかりやすく言おうとすることに意味があったと思います。要するに素人のオーディエンスは、「触媒」なのだと思います。

>ゼミの場で原文が提示されない場合、他のメンバーも発表者の浅い説明をそのまま受け取ってしまう危険性も残ってしまいます

これは、僕も最低限の「礼儀」として引用部分と自分の意見を区別して示せ、と教えています。レポートでも、最後に参考文献一覧がただ並んでいるだけものは、本文の出来が良くても、優はあげていません。

>つまり、広い視野を持つのはいいが、哄笑されるような浅さではだめ、というわけで

同感です。でも、広い視野を持つことができれば、自分の至らなさに気づいて、「哄笑」を受けるような下手な真似はしないようになると僕は思っています(その割に恥の多い人生を歩んできた気もしますが)。要するに「プロ」の深み・凄さを知った人間ほど、謙虚になれると思います。

>僕が強調したいのは、「プレゼンテーションする側が成長できる」ということです。

おっしゃるとおりです。ど素人のために説明するというのはとても勉強になりますから。誰かが言ってましたよね「あることを理解するための最良の方法はそれを他人に教えることだ」と。
ただ僕はそれできちんとしたレベルにたっせなかったので、プロとしての教育もまた必要かな、と思ってしまったのです。もちろんモチベーションの高い人間でしたら問題はないでしょうが。


>要するに「プロ」の深み・凄さを知った人間ほど、謙虚になれると思います。

うむむむ。精進です…。

 ども、堺です。
 実は今期、暇なときはできるだけ大阪大学の「サイエンス・フィクション: 科学と物語の間」(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/kougi/SF/)という基礎セミナーを聴講に行くようにしているのですが、これがまさに川瀬さんのおっしゃったとおりで、実に刺激的です。
 一回生向けの少人数ゼミで、SFはもちろん科学にもあまり馴染みのない19歳の若者たちに、SFを肴にして現代科学について考えてもらおうという主旨の講座なんですが、まさに彼らの発言は未熟ながらもときおり「目から鱗」のような素朴な反応に溢れていて、とても参考になります。
 そして、先生の菊池誠さん(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/)が、彼らに対してなるべく平易な言葉で説明して理解を求めていく過程が実におもしろいのでした。
 自分たちのあいだで「常識化」してしまっていることというのは、実に多いんだなあと、いろいろ反省しきりでもあります。
 ちなみに、かくいうわたし自身も、一回だけ話をさせてもらったんですが、こちらは講演方式(http://www.kt.rim.or.jp/~m_sakai/SF&Science.pdf)だったのでわりと楽でした。(^_^;;

 おっと、つけ加えておくと、このゼミで扱っている科学的なテーマは実に多岐に渡るので、菊池さんもわたしも、基本的な部分は知ってはいるものの、専門外(菊池さんの専門はもちろん物理、わたしは電子工学)の事柄を扱っているというところも、川瀬さんの言及されている事例と似ているのでした。

堺様、面白そうな試みがなされているのですね。
僕もいずれ、他の先生方と合同で、この手の合同ゼミを行いたいなあ、と密かに思っていますが、なかなか都合をつけるのが難しいです(ホント、文学部もたこつぼ化が著しいのと、似た分野だと変にいがみ合ったりするのですよ。恥ずかしながら)。

参考までに申し上げると、例えば東大文学部の大学院では「他分野交流ゼミ」というのが開講されていて、複数の先生と、その先生が連れてくる学生が共通の話題を様々な角度から討論し合う、という実験的なことが行われています。僕も一度参加しましたが、僕などは、滅多に聞くことのない他学科の先生の謦咳に触れるだけでも楽しかったです。

The comments to this entry are closed.

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/34862/4753416

Listed below are links to weblogs that reference 「素人の集まり」としてのゼミ:

» ゼミの進め方と生徒の質 [フランスにいて思うこと]
またもや、内田先生のプログに面白いことが載っていた。内田先生は文系の先生なので、自分が行っていた工学系とはいささか違いがあるが、非常に参考になる。というよりも、自分もその手のことをしていた。 教師の要らないゼミについて である。自分が2年ほど所属してい... [Read More]

« 固定リンク・カテゴリのバグについて | Main | 旧友との再会 »