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September 24, 2005

ミシェル・カミロ@京都

このところ、かっこつけてジャズなんかを聴くことが多くなった僕ですが、今日はコンサートに行って参りました。超絶テクニシャンとして有名なミシェル・カミロのコンサートが京都コンサートホールであったので、ついついチケットを買ってしまいました。なんたって、このコンサートホールは、僕の勤務校のお隣にあるんですから・・・。自分の研究室から徒歩10分足らずで、コンサート会場に足を運べるのは至福です。ここでのコンサートは、去年の山中千尋さん以来。しかも、今回はスペシャルゲストとして、上原ひろみさんまで出るのですから、これはお得といえましょう。両方とも、「豪腕」と表現したくなるようなタイプですから、相性はばっちりのはず。

てなわけで、土曜の昼下がり、通勤と全く同じルートで(当たり前ですが)いそいそとコンサートに向かいました。時間があったので、一旦自分の研究室に荷物を置いてから、ほとんど手ぶらでホールに向かいました。
舞台には、大きなグランドピアノが一台だけというシンプルなスタイル。つまり、今回はリズム隊を抜いて、完全にピアノソロとしてのコンサートでした。開演の二時半きっかりに、ミシェル・カミロ登場。僕は彼のコンサートは二回目です。初めての時は、妻と一緒に青山のブルーノートに見に行きました。
ホールのロビーは、開演前からビールやワインを飲む大人の雰囲気。まだ真っ昼間ですが。ドレッシィな装いの女性もちらほら見受けられます。僕はユニ○ロのシャツに(以下略)。

さて、全体的な感想ですが、一言でいうと

「大丈夫ですか、カミロさん、そんなに激しく弾いて」

というものです。「ピアノは打楽器」と言っていたピアニストがいたと思いますが、今日の彼の弾きっぷりはまさにそれ。鍵盤の上推定20~30センチまで腕を振り上げて、そこから垂直に降ろすような弾き方ですよ。ほんと、爪とか指とか大丈夫かと素人ながら心配してしまうほどです。そして、相変わらずの、鬼のような超絶早弾き。人間の限界に挑戦しているんじゃないかと思うほどです。今日のコンサートの楽譜って、一体どうなっているんでしょう。カミロは激しい曲と比較的おとなしい曲を交互に入れて、メリハリを付けていました。

コンサートは二部構成で、第二部は、グランドピアノがもう一台増えて、上原さんとの共演です。グランドピアノが二台舞台の真ん中にあると、何か違う楽器に見えてきました。何せ巨大ですし。
上原さんとのセッションは、最初お互いをおっかけっこしているような雰囲気の旋律が結構長く続き、次第にボルテージが上がってきて、上原さんは椅子から腰を浮かせて、前のめりになって演奏。圧巻はチック・コリア作曲の「Spain」の共演。もう、この演奏は、カミロ先生が「さあ、ひろみ、ついてきてごらん」とばかりに、早弾きでシゴいているんじゃないかと錯覚するほどの激しさ。

ともかく、お二人の超絶テクニックは堪能しました。敢えて苦言を言えば、その超絶テクニックに目が奪われてしまい、一曲一曲を味わうという感覚が、ちょっと乏しかったかな、と思いましたけど。

カミロさんと上原さん、まだまだ日も高いですから、これから京都の夜を楽しんでくださいね。

September 12, 2005

こんなプロフィールあり?

今回の総選挙、僕個人にとっては、大変残念な結果に終わってしまいました。
昨日は、見るのも苦痛な選挙結果でしたので、夜更かしすることもなく、すぐにふて寝したのですが、今朝の朝刊で、議員になった皆さんのプロフィールなどをじっくり読んでみました。そこで思ったことを列挙すれば、

1)なんだかんだで、東大OB・OGが多いということ(恥ずべき先輩も多いけど)
2)「松下政経塾出身者、やはり一定数はいるなあ」ということ(僕が数えたところ、ざっと10人はいた)
3)弁護士・官僚・医者など、元の職業が「しっかりした」人が多い(これは友人T君の指摘で気づいた)

といったところでしょうか。

で、ご飯を食べながら読んでいて、思わず「えっ、こんな事、プロフィール欄に書いていいの?」とびっくりしたのが、福井一区で勝った稲田朋美さんという議員(プロフィール欄は、彼女には不本意でしょうが、アサヒ・コムのものです)。ちょっと引用しますね。

稲田 朋美(46) いなだ ともみ
自民 新 当(1) 弁護士・自由主義史観研究会員・日本南京学会員▽早大

皆さん、よく見てください。「弁護士」、これはいいです。でも、彼女は「百人斬り名誉毀損裁判訴訟」の原告側の弁護士だそうです。

問題は次です。

自由主義史観研究会員日本南京学会員

なぜ、こんなところに単なるサークルの会員であることをさらけ出しているのか、全く判りません。「マイケル・ジャクソン・ファンクラブ日本支部会員」と書くようなもんじゃないの?(これじゃ、マイケルに悪いか)
ちなみにこの人、そのサークルの会報にもエッセイを書いているようです。

そして次の「日本南京学会」。まあ、名前を見れば判るように、「南京虐殺は色々疑わしいから修正しようね」という有志の集まりのようです。本当に「学会」なのかは、知りません。でも、「と学会」の方が数百倍、学会と呼ぶに相応しいだろうな、ということは疑いありませんけど。まあ、たとえ学者でも、自分の所属学会を選挙用のプロフィールに載せることは、滅多にないでしょう(その学会の会長でもしていれば別ですが)。よほど、プロフィール欄に書くことがなかったんでしょうね、この人は。
こういうプロフィールが堂々と出ていたこの「刺客」候補に票を入れて当選させてしまった福井一区の皆さん(約5万人)、申し訳ありませんが、僕はあなた方に対して、大変失望してしまいました(この選挙区、まれに見る接戦だったんですけどね)。
あと、僕が文句を言いたいのは、僕の生まれ故郷の大阪17区。自民党候補が勝ったのも、あまり気分が良くありませんが、何でこんな男にも相当数の票が入っているのか・・・。僕は以前彼のインタビュー記事を見て以来、たとえ彼が車にひかれて路上に倒れていても、助けてあげないと誓いました。

2001年の9月11日は、世界にとって忘れられない日となりましたが、ここ数年で日本という国の「かたち」が変わってしまったとしたら、僕の脳裏には2005年の9月11日も、忘れられない日となるでしょう。

今回は腹立ち・個人攻撃日記となってしまいました。

追記:これも、今更言っても仕方ない愚痴ですが、やはり死票が多すぎる小選挙区制という制度の弊がもろに現れた選挙だったと思います。小選挙区での総得票数の比は、自民対民主=47・8%:36・4%なのだそうです。なのに、獲得議席数は雲泥の差・・・。ワイマール期のドイツを笑えなくなってきました。でも、あの当時のドイツより、よっぽど自由を謳歌できているはずのこの社会が、このような選択をしてしまったことに、「世に倦む日日」のthessalonikeさん同様、本当にがっくり来ていますが、「たゆたえど沈まず」のstandpoint1989さんの以下の言葉も、肝に銘じたいと思っています。

民衆への呪いの声が聞かれる。衆愚という嘲りが、日々を生きる人々に投げかけられる。しかし分かっていたはずではないか。人間はパンのみで生きるのではないということを。
人間は生きる使命によって生きるのだ。
民衆の声に耳を塞いではならない。民衆と共に歩く視線を失ってはならない。民衆を呪った時、どうしてあなたがたの言葉が彼らに届くだろうか。これは、まだ、民衆の勝利ではない。しかしあなたがたの敗北である。
民衆を侮蔑し、その心を思いやることを怠った、あなたがたの敗北である。彼らのあせりと怒りを嘲笑したあなたがたの敗北である。

September 06, 2005

人生で大事なことはネットからだけでは学べない

ネットをうろうろしていたら、大学の講義の情報(楽勝度が最重要項目だろうが)を収集するサイトやら、中には、レポートを集積して、「さあ、皆さんの元ネタにしてください」という主旨のサイトまであって驚く。探せば、類似のサイトはたくさん出てくるだろうし、これからも生まれるだろう。今日は「講義」の評価をするサイトについて、ちょっと考えたことをメモしたい。

こういうサイトができるのは、時代の趨勢だろう。インターネットという便利なツールが目の前にあるのだから、それを利用するのは、ある意味当然だろう。ネットは、不特定多数の人から情報を得ることができるし、情報提供者の心理的負担も少なかろう。しかし、教育する立場の者として、敢えて古くさいことをいいますが、こういうサイトの情報を鵜呑みにしたら、やっぱだめですよ。メディア・リテラシーという流行りの言葉を使っても良いが、要するに、「人の話を「話半分」に聞くことができること」がメディア・リテラシーなのだから。もう少し、疑う心も持ちましょう。

もちろん、僕も学生時代には先輩や同級生から、大学の色んな講義の情報を入手し、参考にしていた。先輩からもらった「オリエンテーション・パンフレット」(そういうのもあったんです)には、ちゃんと教官の「鬼・仏表」なるものもあったと思う。しかし、僕たちは、その情報を発する人間の「人柄」を勘案して、その「鬼・仏表」を判断していたと思う。つまり、信用できる人間からの情報か否か、ということだ。だから、「口コミ」は当たり外れが少なかったと思う。情報を教えてくれる人間の性格を考慮すれば、「彼には合うだろうけど、俺には合わないだろうな」ということまで考えられるからだ。しかし、ネット上の無責任な情報だけで判断すると、ひどい目に遭うことも増えそうだ。逆に、実際出てみればいい講義かもしれないのに、ネットでの噂だけで判断して、受ける事すらしない、なんていうのはもったいないと思う。まあ、本は素晴らしいけど、講義はイマイチ、という先生もいらっしゃったが(「これなら、独りでこの先生の本を読んだ方がいいや」と見切ってしまった講義もままあった)。

また、ネットは、求める情報は出てくるかもしれないが、それ以外の、自分の想像の埒外のことについては、ほとんど教えてくれない。これも、ネットの欠点の一つだ。シラバスの分厚い冊子をパラパラと見ていると「へえ、こんな科目もあったんだ」と発見することがある(僕は教員となった今も、他学部・他学科のシラバスも結構読んでいる)。シラバスを見るだけでも、自分の知らない世界というものがかいま見られるし、大げさにいえば、自分の殻を壊すきっかけとなる。
これこそ、大学らしい「知の見つけ方」だと、僕は思う。

直接的な人的交流が、大学という現場には決定的な意味を持つ、と僕はある意味愚直に思っている。ゼミナールなんか、その最たるものだと思う。google先生や、上記のようなサイトだけから、全てを教えてもらおうってのは、ちょっといただけない。

September 02, 2005

「飽きさせない」言い方を模索する

先日、某高校が「ひめゆり学徒の体験談は退屈」、という意味を盛り込んだ英文を入試問題にして、問題化したことがあった。今朝の朝日新聞に、その後日談が書かれた記事が載っていた。それに触発されたことをメモしておきたい。

確かに、「戦争体験談」を退屈、といってしまうことは、倫理的にも良くないように思われる。折角語ってくださっている方に、失礼であるのは間違いなかろう。しかし、その「決まり切った口調」に退屈を感じてしまうことはないだろうか。内容には関係なく、その「話形」がこの場合重要になる。「はじめ」を聞けば、最後まで聞かなくとも、その結論が分かってしまうような話。落としどころが、既に決定されているような語り。そのような話は、端的に「飽きられて」しまう(残念だけれども)。話の内容が正しければ正しいほど、もしかしたら「飽きられる」スピードも速いのかもしれない。

例えば、内田樹先生は、上記のような意味で「フェミニズム(の話形)は、その歴史的役目を終えた」とおっしゃっている。僕は、この内田先生の意見にそのまま同意することはできないが(まだ、ファミニズムの話形を「飽きる」資格は、僕らにはないと思っているので)、学問において、フェミニズム以外にも、昨今の例えば「ポストコロニアル」や「カルチュラル・スタディーズ」は、その一端を担っているつもりの僕から言うのも何だが、例外を除き、ほとんど「落としどころ」が判る話形になっているのは、否めない事実だと思う。つまり、自動化された「同じ話」をしてしまっているのだ。

生の声ならば、思わず体験を思い出して、声を詰まらせて嗚咽してしまう、なんていう「現場」を目の当たりにして、思いがけない感動をするということもあろうが、文字となってしまったものは、型にはまってしまい、勢い「飽きられてしまう」確率が高い。

だからこそ、自戒を込めていうが(そう、これは告発ではなく、自戒である)、僕たちは様々な話形を模索せねばならない。それは、僕たちの声を聞いてもらう努力であると同時に、少しでも共通項がありそうな人を巻き込む、という戦略的な意味もある。白か黒か、ではなく、灰色、しかも濃淡の違う灰色を様々に提示して、様々な人とつながる「回路」を確保していく努力を、惜しんではならないと思う。「平和」「フェミニズム」「ポストコロニアル」「カルチュラル・スタディーズ」「(アンチ)グローバリゼーション」etc.にまつわる複数の「話形」・・・。
昨今、ネット上に広がる「リベラル派批判」は、その内容のほとんどは僕には論評にも値しない噴飯ものに見えるが、そのようなシニカルな人々(彼らは「決まり文句」に飽き飽きしている人たちだろう)のメンタリティについては、どうしても考えざるを得ない。彼らに届く(もしくは、彼らを「ギャフン」といわせる)「ことば」は、一体どのようなものなのか。

同じような話を、様々に言い換えつつ、その幅を広げていくこと。これはある意味、僕にとっての「一生」の宿題となるだろう。

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