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October 29, 2005

虚心坦懐に読めば・・・?

朝から雨で、ちょっと憂鬱な土曜日。
新聞を広げると、自民党の「新憲法草案」の詳しい内容が掲載されていた。全部、目を皿にして読んだわけではないけれど、ちょっと気になることを書き留めておきたい。

まず、一番の懸案である9条は、「自衛」と書きたい書きたい、と昔から言っていたのがそのままなので、これはとりあえずスルー(「平和主義」を堅持したまま、名前を「軍」にして、何が楽しいのか僕にはよく判らないけど)。

僕が気になったのは、12条と20条。特に宗教学者としては、政教分離規定の20条や89条に目がいくのは仕方がない。
まず12条だが、草案では

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民はこれを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する義務を負う。(強調引用者)

となってるのだが、なんだかなあ、って感じである。現行憲法でも「国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」となっているのだけど、草案の方は「自由や権利には責任および義務がつきもの」というお説教部分が混入されているわけだ。はっきりいうけど、こういうお説教、よけいなお世話です。
そもそも、憲法とは国民の国家に対しての命令だと昔に習った記憶があるんですが、どうも草案を作った人の頭の中ではそうはなっていないらしい(中世の「憲法」だって、王様が無茶をしないように掣肘するためのものだったわけだし。「マグナ・カルタ」とか)。納税・教育・勤労の三大義務をこなしていたら、基本的に犯罪以外のことはしていいはずなんじゃないの、という素朴な思いがどうしても湧き起こる。
有事法案でも「人権は最大限守られなければならない」と書いてあるが、「人権を守る」とは書かず「最大限守られなければならない」との表現は、「もしもの時には人権を守らない場合がありますよ」という注意書きとして読むべきだろう。この12条案には、それと同様の臭いを感じてしまう。

次に20条に関してだが、自民党案では第3項がいわゆる「目的効果基準」(これはかみ砕いて言えば、公的な現場で、ある特定の宗教を採用したりしても社会的にそれほど影響がなかったり、特別にその宗教を布教したりというような意図がなければ、それほど目くじら立てなくてもいいんじゃないの、という考え)に沿うような形で書き換えられている。曰く

国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉になるようなものを行ってはならない。

うーん、僕なんか、これでも虚心坦懐に読めば、首相及び国会議員の靖国参拝は憲法違反なんじゃないかと思いますけどね。やっぱり特定宗教の「宗教的意義」を有する行為ですよ、参拝って。そうじゃないと、逆に靖国神社の宗教としての尊厳はどこに、という話になる(ろくに拝まず、お賽銭チャリーンでいいんですか、という話だ)。ついでに言うと、「靖国神社への崇敬は国民の自然な感情で」などというなら、「自然」に任せるべき、という至極単純な考えを僕は持っている。

よく首相及び国会議員の「信教の自由」はどうなる、という声も聞くが、一個人として、内心で何を思おうが、何を信じようがそれは自由なのは当たり前。第一それを規制することは不可能だ。ただ、公を代表する人間がそれを前面に押し立てて行う行為には最大限の注意が必要という、単純な話だと思う。下っ端の公務員でも、結構政治活動その他に関しては色々うるさく言われるのだ。「公」のトップたる議員がもっと慎重になるべきなのは当然であろう。

貶してばかりだとあれなので、最後にちょっとは褒めておきましょう。僕個人としては、「あっさりしすぎ」と評判の悪い草案の「憲法前文」、結構すっきりしていて好きですよ。ただし、本当にあの文章に盛り込まれていることが実現されるなら、という留保は必要ですが。どうもそれと真逆の法案ばかり最近目立つ気がするんですが。杞憂なら、幸い。まあ、現行憲法の前文ですらも、海外に自衛隊を飛ばす理由付けに持っていく首相を今の我々は戴いているわけですしね・・・。

追記:様々なブログを巡回して、今回の改憲案の肝の一つは、改憲のための議員数が「三分の二」ではなく「過半数」となっていることだ、というのに気付かされた(96条)。過半数だったら、今の国会とかで、ドカドカ通っちゃうものな。そんなに改憲要件を簡単にしては、やっぱまずい。「現実に合わせて」どんどん作り替えるということは、現実に振り回される事と同義だ。

October 26, 2005

「道義国家」がまた遠のく

昨日、植民地時代の台湾と朝鮮半島において、強制収容・断種など様々な被害を受けていたハンセン病患者たちがその補償を訴えていた裁判で、同じ東京高裁でこれまた対照的な判決が出てしまった。韓国側原告は控訴したそうだ、それは当然だろう。

一応新聞記事はじっくり読んだつもりだが、裁判所的な作文(悪文の極みであろう)もあって、全く判らない。単純に「法の下の平等」ってのに反しているんじゃないの、この判決は。僕は韓国研究者でもあるので、韓国に関してのイシューについては、普通の日本人よりも韓国側に同情的になってしまうきらいがあるが、それでももし、今回の判決で韓国側が勝訴、台湾側が敗訴という結果でも、全く同じ感情が湧き起こったことであろう。それには自信がある。「そりゃないよ」と。

言うまでもなく、僕は法律に関してはド素人も良いところだから、法解釈がどーたらこーたら、という具合には、文句が付けられない(裁判員制度についても、懐疑的な僕である)。法解釈というのは、まさに裁判官によって違うものなのだなあ、ということを改めて今回確認させられた、という感慨を持つだけだ。でも、合法だけど、納得のいかないことって、結構ある気がする。合法だけど、非道。日本の植民地支配や、当時の医療システムそれ自体がまさに「合法だ(った)けど、非道」と今なら解釈できることであろう。僕はそちらを重んじたい。植民地支配にしても、非人道的なハンセン病政策にしても、当時、どの列強も行っていたわけだが、「だから仕方なかった」とか「免罪される」のではなく。

あと、法律論とは離れるが、僕はこの判決の「政治的効果」というものも考えてしまう。最初から政治的効果を狙って判決をねじ曲げる、ということはあってはならないが(政教分離関係の裁判では、実はよくある風景だが)、今回の判決によって、また日本は「戦後補償をきっちりとしている道義国家」と名乗ることが遠のいたな、ということを思った。古くさい言葉かも知れないが、僕は「道義」という言葉が好きだ。

October 21, 2005

歴史(学)と想像力

america先日購入した、内田樹先生の『街場のアメリカ論』を、あっという間に読了。いやあ、面白かった。このごろは対談本も多い内田先生だが、やはり僕などは、対談より「内田節」(独演会)を楽しみたいところだったので、この出版は嬉しかった。
内容は、既に先生のブログで拝読している部分も多いので、サクッと読めてしまったわけだが(あまりに周りから「サクッと読めてしまう」と言われたことに、内田先生が「 もう少し読者のみなさんにも苦吟するなり輾転反側するなり歯がみするなりして頂かないと、憎々しげなことを書き連ねた甲斐がない」とおっしゃっているけど)、相変わらず刺激的だった。僕も一応「歴史(学)」に関わる者なわけだが、この本を読んで真っ先に考えさせられたのは、「想像力」と「歴史(学)」の関係についてだった。それは、この書の冒頭の第一章に縷々述べられている。
一般に、「歴史(学)」とは、物事の「流れ」を再構成(もしくは、「創造」と言った方が良いときもある)する営み、と考えられている。それはもちろん間違いではないが、どのような「流れ」を作るかが問題となり、「歴史論争」やら「●●史観」の相剋とか、そういう問題を引き起こすこともある。その際問題になるのは「想像力」である。「何故それが起こったのだろう」と考えをめぐらすのは普通の歴史的想像力だが、もう一歩進んで「何故こっちは起こらなかったのだろう」と考えることも、時には必要だ(内田先生に従えば、このような考え方は、フーコーが行った「系譜学的思考」である)。この系譜学的思考様式は、僕などには、ある意味なじみ深い。というのも、僕は宗教や思想を対象に研究している人間だが、思想史を例に取ると、その学的営みは、過去の思想・思想家の言葉を拾い、その未だ発揮されていない可能性を探る、という方向に行くことが多い。既に、その思想や思想家が同時代的には活躍できなかったとしても、「全く無価値である」と断定するわけにはいかないのは、この想像力が生産的だからである。複眼視的な思考に資するところがある、と言い換えてもよかろう。内田先生の言葉を借りれば、

歴史には無数の分岐があり、そこで違う道を選んでいれば、今は今とは違ったものになっていたということ、これは歴史を考えるときにとても大切なことです。それは歴史を「一本の道」としてではなく、いわば無数の結節で編み上げられた「巨大な広がり」として思い描くことです。そんなふうに無数の「存在しなかった現在」とのかかわりの中において、はじめて「今ここ」であることの意味も、「今ここ」であることのかけがえのなさや取り返しのつかなさも判ってくるのです。(p.39)

ということである。これは、別の言葉で言えば「マイナスの想像力(p.54)」とも言えるだろう。「既に起きたこと」をかっこに入れて、遡行して当時のリアリズムを内在的に理解しようとすることは、内田先生もおっしゃるように、非常に困難なことだと思うが、そこにこそ、広い意味での「歴史家」の力量が試されるのだと思う。もっと言えば、僕がいつも批判している自由主義史観などは、この手の「想像力」が欠けているのだと思う(一番欠けているのは、「相手の立場になって考えてみる」という想像力だと思うけど)。

あと、この本を読んで、本当に驚いたのは、内田先生がこのアメリカ論を書くとき、まさに座右に置いていたであろうトクヴィルの洞察力である。本当にすごい。内田先生経由で、トクヴィルの偉大さを見せつけられた、というのが、実はこの書の第一印象であった。これに触発されて、暇になったら(なかなかならないんですけど)、積ん読状態であるリチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(みすず書房、2003)を読むことを固く決意。無理矢理読むために、来年のゼミの課題図書にしてやろうか、とも画策中だが、何せ高いので、学生たちが嫌がるな・・・。

個々の内田的アメリカ論は、僕なんかが紹介するより、皆さんに読んでいただきたいので、要約は差し控えます(僕として面白かったのは、「シリアル・キラー」論とアメリカのキリスト教についての論でした)。
アメリカが好きな人にも、嫌いな人にも(まあ、内田先生に言わせれば、日本人はアメリカに対してアンビヴァレントな感情を持つように「呪われている」わけですが)おすすめです。

October 11, 2005

受け止めて、変化できること

今日、僕の勤務校では、卒業論文の中間発表会だった(明日も一日つぶして行われる)。
それぞれ面白い発表、良くできた発表、イマイチだった発表、準備不足だった発表など、色々あったが、それはまあいい。いつものことだ。一応「プロ」および「セミプロ」が集まっているはずの学会ですら、目を覆いたくなるような発表があるんだから(自分のことは思いっきり棚に上げています)。

さて、今日の発表を聞いていて、脳裏によぎっていたのは、今日のエントリのタイトルで挙げた「受け止めて、変化できること」ということだった。これはもちろん、僕ら教員のコメントやアドヴァイスを学生が受け止めて、欠点を修正してくれる、ということが第一義だが、逆に、僕ら教員の側も、学生の発表をどのようにして受け止めて、変化できるだろうか、という問題でもある。
それなりの経験を積んでいる我々教員は、学生が提示する今まで目にしたこともない題材や、切り口に関して、ただ「未熟」という一言で斬って捨ててはいないだろうか。もちろん「料理」の腕を磨いてもらわないことには、話にならないのだが、「そんな野菜、見たことがないから食べる気が起こらない」というかたちで、捨ててしまってはいないだろうか、ということである。
つまり、「頭が固い」というのは、実は学生・教員共通の問題ではないかと思ったのだ(学生だって、自説に固執して頭の固いのはいくらでもいる。若さとかは、あまり関係がない)。「話を聞かない教員・論文の書けない学生」とか、そういうことを言いたいわけではないけど(笑)。

僕は、今日の発表のいくつかのやりとりを聞いていて(僕もたくさん質問したが)、なんとなく、漫画家榛野(はるの)なな恵の『Papa told me』の一節を思い出していた。これは作家と編集者の会話で、「作家への批評」というものがどのような形を取るか、という話題をめぐっての会話だ(「シャーベットオレンジ」、『Papa told me』26巻、p.141)。「急にボールを投げつけられるみたい」に批判の言葉が投げかけられることについて、

北原(編集者)「別に投げた側に責任は無いんですけどね、ボールって投げて遊ぶためのものですし」
宇佐美(作家)「そーそ、どーせ重たく受け止めちゃった方がバカなのよ」
北原「いえ、バカというか・・・・・・弱いんです。でも困ったことにその弱い部分がきっと創作に必要不可欠なものなんでしょう」
宇佐美「いたちごっこだよね」

「人の心ない批評に本気で傷ついてしまうこと」、それこそが作家としての資質なのだ、という会話なわけだが、この部分は非常に僕の印象に残っている。
ぶれない人は、確かに頼りがいがあるだろう。でも、良い意味で、「心が揺れる」ということも、やはり大事なのだと思う。それはまさに「変化の可能性」そのものなのだから。

そんなことを疲れ果てた頭で、ぼんやり思っていた。(下の画像は、同じく『Papa told me』3巻、p.207)

papatoldme03

October 07, 2005

耳元でささやかれ続けると

夕刊の一面に「自民党憲法草案」の記事が載っていた。絶対与党となり、いよいよ牙をむき始めた感もあるが、内容は昔から自民党が言ってきたことで、ある意味一貫してはいる(感心はしないけど)。自民党内の「新憲法起草委員会」の委員長は、「神の国」森センセイ。この人選だけでも、絶望的になるのは避けられまい。
記事によると、

原案では、国の基本理念として「日本国は、民主、人権、平和を国の基本として堅持する」との表現で、現行憲法の国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3 原則を継承する考えを表明。そのうえで、特徴として(1)愛国心の明記(2)天皇制に触れつつ国の成り立ちを紹介(3)国防の意義の強調(4)「自主憲 法」との明記――などが挙げられる。

とのこと。あと、「国際平和を誠実に願う」「国際社会において圧政や人権侵害を排除するよう努力する」との表現で、積極的に国際貢献に取り組む姿勢を示しているそうですが、その前に自分の国の中で圧政を敷いてどうする、と一言言ってやりたいのも事実(笑)。
でも、こういう動きをバカにはできない。
「愛国心は押しつけるものじゃなくて、いい国作りをしていれば自然と身に付くもの」
という正論があり、もちろん僕もそれに賛成だが、耳元で四六時中「愛国」「愛国」と言われれば、嫌でも身に付くものなのは、戦前の経験と独裁国を見ていれば判る。

この記事を読んでいて、思い出したのは、丸山眞男による中野好夫評だ。二人とも戦後の言論界をリードした知識人であるが(ちなみの僕は両者のファン。両者の全集を持っています。丸山のは、妻から奪っちゃったんですけど)、尊敬すべき先輩である中野を、丸山はこう評している。

中野さんほどの知性を持った人が、国策が決まった以上それに従うのが国民の義務だ、ということを信じて違わなかったということは、中野さんが正直に書いているだけにぼくらにとってはおどろくべき問題ですね。国家を超えた価値というものにコミットしていないということです。明治生まれの日本国民が、幼児から叩き込まれた教育というものがいかに恐るべきものであったかということも示しています。(中略)国民の義務とは何なのか、本当の愛国心とはどういうものか、その時々の政府が決定したことが国策となるとき、それはほんとうに日本の国家にとっていいことかどうか-それは国家が決めることじゃなくて、国家を超える価値を基準として初めてその国家がやっていることが正しいかどうか判ることです。その自明の理を中野さんのような知性といえども戦争前まで気がつかなかった。(丸山眞男「中野好夫氏を語る」、『中野好夫集月報11(第8号)』筑摩書房、1985年、p.12。現在は『丸山眞男集』12巻、岩波書店に所収)

丸山のこの中野好夫評は、非常に印象的だった。中野ほどの超インテリでもある意味越えられなかった「愛国」という枠(中野は人並み外れて「誠実」だったから、こういう事も口にした、とも評せるのだが)。しかし、一方では、

自分の戦前・戦中の経験をバネにして、二度とその過ちを繰り返すまい、という態度を持続的に(原文傍点)貫き、その反省を通じて自分の「思想」を変えていったかどうか(中略)中野さんは戦争直後の文章で「あのあまりに大きすぎる一連の代償から学んだ最大教訓の一つというのは、近代社会の市民というのは専門、非専門にかかわらず各人の信念はもし機会があれば表明すべきであって、それが市民の最大義務の一つだ。満州事変以来、国民がこの義務を実行していたら、たとえ暴力的抵抗に訴えるというようなそんな極端なことをしなくてもあの破局は食いとめられたのではないか」という趣旨を書いています。これは何でもないことのようで、実は日本に一番根づきにくい考え方です。(中略)中野さんは書物の中からでなくて、自分自身の戦前・戦中の体験から、これを体得して実行した。(同上、pp.10-11)

と、これまた重要な指摘をしている。恐らく「愛国心」(この「愛国心」が偏狭なものであることは言わずもがなだ。僕はそういうのを本当の愛国心とは認めたくはない)を憲法や教科書に盛り込みたい人々は、「国民なんて、耳元でささやき続ければ、どうにでもなるもの」と思っているのだろう(ささやきどころか大音量の恫喝かも知れないけど)。事実、そうい う側面があるのは否めない。しかし、このまま言われっぱなしでは腹に据えかねるので、ささやかながら、抵抗したいと思っている。例えば、こういうブログという道具を手にして、言いたいことが言えるわけですし。僕も、この偉大な二つの知性の顰みに、ささやかながら習いたい。

October 05, 2005

妄想ですよ、自民党さん

今朝の朝日新聞で「「ジェンダー」迷走中」という記事が目にとまった。要するに、この「ジェンダー」という用語に対して、自民党が「ジェンダーという言葉は使うな」「文化が破壊される」などのいちゃもんをつけ、来年度改定予定の「男女共同参画基本計画」が揺れているんだとか。どうやったら、文化が破壊されるんだか。ただ「男だから、女だからって最初から不利になるような状況は良くないから改めましょうね」って言うことの、どこが文化破壊なのか。

最初に申し上げるが、自民党のいちゃもん(いちゃもん、としか表現しようがない)は、はっきりいって、妄想ですよ。何でこんなアホなことを堂々と開陳できるのかなあ。自民党のアンチ・ジェンダーフリーのグループの代表は、例の安倍晋三氏。ああ、こういう人なら、やっぱ陰に日向にNHKのああいう番組を作ったスタッフに圧力はかけるだろうな、というのはさておき、自民党のこの「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実施調査プロジェクトチーム」というのは、どうも根本的に「ジェンダーフリー」というものを誤解しているし、そういう脳内で構築された仮想敵を現実に投影している姿は滑稽である。彼らの語る「過激で文化を破壊するようなジェンダーフリー教育」などは、はっきりいってデマゴギーだ。まあ、学者でも、西尾幹二氏や八木秀次氏のように妄想を垂れ流す輩はたくさんいるから、学問のない議員先生をばかり責められないが(丁寧につっこみを入れたchikiさんに感服。僕なら、途中で挫折する(笑)。この二人の会話、ほんとオヤジ臭がして、同性ながら嫌になる)。いや、一応学者だからこそ、彼らの方が罪は重いだろう。

自民党のみならず、ネット上でも「アンチ・ジェンダーフリー」を標榜する人が大勢いるが(「フェミナチ」などという汚らしい言葉を用いて、まるで自分が特高警察の取調官にでもなったかのような思い違いをしているらしいけど)、彼らは何を「恐れて」いるのか。一番分かり易い理解としては「既得権」が脅かされる、というものだろう。男性の既得権はもちろんのこと、最近なら女性の側からもそういう声が聞かれる。だから、その「既得権」を見直そうっていう「ジェンダーフリー」にあれほどの敵意をむき出しにするのも、まあ、判らなくもないが、端的にみっともないよね。「既得権」にしがみつく姿を良くないって叫び続けたのが、小泉改革じゃなかったんでしたっけ?違っていたら、ごめんなさい。
自民党がこの問題とリンクさせて考えているであろう「少子化問題」にしても、「環境の整備」しか、もはや道はないのも明白だと思うんだけどなあ。どうして精神論に走るのか。まあ、その方がお金がかからないし、自分の今までの考えを否定しなくてすむから精神的にも楽なんだろうけど。

自民党の女性議員も・・・まあ期待できないだろうな(野田聖子氏も、今はハブにされているし)。今回当選した片山さつき氏なんかが、ある意味典型ではないかと勝手に思っているのだが、いわゆる「できる女性」は、自分の力で今までの人生を切り開いてきた自信があるので、却ってフェミニズムやジェンダーフリーのような考え方には理解を示さない、ということがよくある気がする(私事だが、大学時代の同級生で、そういうことを公言する友人がいた)。もちろん、自分が切り開いた道を再び閉じさせるわけにはいかないと考えている人も多いとは思うが。

僕も大学でジェンダー関連の講義を受け持ったことがあるが、上記の自民党の大人の皆さんより、大学一年生の諸君の方が聞き分けが良かったですよ。やれやれ。

追記:上記で引用した西尾・八木の居酒屋談義を斬りまくった「成城トランスカレッジ!」のchikiさんが、「ジェンダーフリーとは」というナイスなページを作成なさいました。どうぞこちらもご覧ください。Q&A方式で「ジェンダーフリーとはどういうものか」と言うことが的確に分かり、大笑いしながら反ジェンダーフリーのバカバカしさが分かります。(05.10.06)

October 01, 2005

ジャズライブ@上賀茂神社

土曜日の昼下がり、自宅で洗濯などをしつつ、だらだら過ごしていると、教え子のOさんから電話が。彼女の話は、今晩上賀茂神社でジャズのライブがあるので、先生興味ありませんか、という事でした。しかも、このライブには、僕のゼミ生でもある教え子のW君(彼は大学のジャズ研の部長)がスタッフとして関わっているとのことなので、僕も俄然興味を持って、早速W君に電話をかけ、詳細を聞き、飛び入りでここに駆けつけることにしました。

今日のライブは、今来日している大物ジャズピアニストランディ・ウェストン(Randy Weston)の京都公演のいわば前夜祭として、日本人ジャズメン・ウィメンが上賀茂神社に奉納する、という名目で、ついでにランディにも自分達の演奏を奉納しようというコンサートでした。最近京都のお寺や神社は、こういうコンサートを開くところが多いのですが(最近では法然院など、有名ですね)、こういうのも、既成宗教の新しい「共同性」の模索って感じで、好感が持てます。
主催はラッシュライフという出町柳にあるジャズライブハウス。ここが手作りでこのコンサートを企画したそうです。教え子のW君もここの常連ということでスタッフに加わったとか。持つべきはこういう教え子ですね。結局電話をしてくれたOさんともう一人ゼミ生のIさんと三人で、大学で待ち合わせて自転車で上賀茂神社に向かいました。うちの大学は、下鴨と上賀茂神社のちょうど真ん中あたりにあるんですね。

会場は、何と重要文化財でもある上賀茂神社の庁ノ舎という建物。そこに名門ベーゼンドルファー社のグランドピアノがどーんと置いてました。僕たちはそのピアノから4列目の座布団席に座りました。僕たちが座った横に、古びたソファが鎮座していて「これはVIP用だな」と思っていたのですが・・・(後述)。
奉納ライブは二部構成で、その構成を書き写すと次の通りです。

1st stage:岩田美智夫(G)solo/登敬三(Ts)+船戸博史(B)+村上健三郎(Ds) trio
2nd stage:市川修(P)solo/市川芳枝(Vo)+仲武子(P)

さあ、そろそろはじまるかな、と思ったら、入り口の方で拍手が巻き起こりました。演奏家が来たのかな、と思ったら、明日奉納ライブを行うジャズピアノの「生き神様」、ランディ・ウェストンご本人の登場です。そのでかさにびっくり。70代のお爺さんとは思えません。そして、僕らが座っていた場所の横にあったソファに、その生き神様がお座りになったので、二度びっくり。一番端っこに座っていたIさんなんか、まさにランディの長すぎる足が当たるような場所に座ることになり、実際、30センチはあろうかという足に触る羽目になりました。
最初は岩田さんというギタリストのソロ。ガンガン引くのではく、まさに「つま弾く」という感じの演奏で、リラックスしてしまいますが、重要文化財の中なので、飲食禁止、特にアルコール禁止なのが辛いところです。良い演奏と片手にビールっていうのがやはりジャズを聴くときの理想型ですよね。
次のトリオの皆さんは、うってかわって激しい演奏。この建物は能舞台でもあるので、背後の松の絵がほほえましかったです。ドラムソロのパートが、ガンガン来ましたねえ。
30分ほどの休憩の後、第2部がスタート。最初のピアノソロの市川修さんは、鍵盤の数が通常よりも多いこのピアノの端から端まで使い切ってやろうというような演奏でした。
とりは、ピアニスト仲さんとヴォーカリストの市川さんのduo。市川さんは背もすらっとしていて、黒のビロード地のチャイナドレスというお姿。瞬殺されました。後で学生達から「先生、ああいう人が好きでしょう」図星を突かれ、動揺する僕がいました。何で僕の好みを知っているんだ、というより、僕が分かり易すぎる人間なのが問題なのでしょう。市川さんは、見た目よりも太い声の人で、いい具合に「焼けた」声の持ち主でもありました。もしかしたら、ランディが最後に乱入してくれないかな、なんていう期待もしていたのですが、御大は明日に全力投球をなさるおつもりらしく、残念ながらそういうハプニングは無し。
3時間ほどのステージが終わり、自転車で北山に戻り、軽く一杯飲んで帰りました。話題は、先ほどの市川嬢の衣装と、来週から始まるゼミと、もうすぐ彼女たちが直面する「卒論中間発表会」というイベントについて。空きっ腹に飲んで、大分回ってしまい、お酒を飲まなかった素面のIさん(彼女は来週の僕のゼミでの発表の準備を今夜するといって飲まなかったのです。えらい!!)に心配されましたが、何とか終電で帰ってきました。

長い夏休みが終わって、いよいよ来週から新学期ですので、これからは真人間に戻って仕事します。今週は、研究会や会合などがあって断れなかったのですが、確かに毎晩飲んじゃいました・・・。ちょっぴり反省。

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