« 耳元でささやかれ続けると | Main | 歴史(学)と想像力 »

October 11, 2005

受け止めて、変化できること

今日、僕の勤務校では、卒業論文の中間発表会だった(明日も一日つぶして行われる)。
それぞれ面白い発表、良くできた発表、イマイチだった発表、準備不足だった発表など、色々あったが、それはまあいい。いつものことだ。一応「プロ」および「セミプロ」が集まっているはずの学会ですら、目を覆いたくなるような発表があるんだから(自分のことは思いっきり棚に上げています)。

さて、今日の発表を聞いていて、脳裏によぎっていたのは、今日のエントリのタイトルで挙げた「受け止めて、変化できること」ということだった。これはもちろん、僕ら教員のコメントやアドヴァイスを学生が受け止めて、欠点を修正してくれる、ということが第一義だが、逆に、僕ら教員の側も、学生の発表をどのようにして受け止めて、変化できるだろうか、という問題でもある。
それなりの経験を積んでいる我々教員は、学生が提示する今まで目にしたこともない題材や、切り口に関して、ただ「未熟」という一言で斬って捨ててはいないだろうか。もちろん「料理」の腕を磨いてもらわないことには、話にならないのだが、「そんな野菜、見たことがないから食べる気が起こらない」というかたちで、捨ててしまってはいないだろうか、ということである。
つまり、「頭が固い」というのは、実は学生・教員共通の問題ではないかと思ったのだ(学生だって、自説に固執して頭の固いのはいくらでもいる。若さとかは、あまり関係がない)。「話を聞かない教員・論文の書けない学生」とか、そういうことを言いたいわけではないけど(笑)。

僕は、今日の発表のいくつかのやりとりを聞いていて(僕もたくさん質問したが)、なんとなく、漫画家榛野(はるの)なな恵の『Papa told me』の一節を思い出していた。これは作家と編集者の会話で、「作家への批評」というものがどのような形を取るか、という話題をめぐっての会話だ(「シャーベットオレンジ」、『Papa told me』26巻、p.141)。「急にボールを投げつけられるみたい」に批判の言葉が投げかけられることについて、

北原(編集者)「別に投げた側に責任は無いんですけどね、ボールって投げて遊ぶためのものですし」
宇佐美(作家)「そーそ、どーせ重たく受け止めちゃった方がバカなのよ」
北原「いえ、バカというか・・・・・・弱いんです。でも困ったことにその弱い部分がきっと創作に必要不可欠なものなんでしょう」
宇佐美「いたちごっこだよね」

「人の心ない批評に本気で傷ついてしまうこと」、それこそが作家としての資質なのだ、という会話なわけだが、この部分は非常に僕の印象に残っている。
ぶれない人は、確かに頼りがいがあるだろう。でも、良い意味で、「心が揺れる」ということも、やはり大事なのだと思う。それはまさに「変化の可能性」そのものなのだから。

そんなことを疲れ果てた頭で、ぼんやり思っていた。(下の画像は、同じく『Papa told me』3巻、p.207)

papatoldme03

|

« 耳元でささやかれ続けると | Main | 歴史(学)と想像力 »

Comments

 幸か不幸か、マイナーなジャンルながら、私は批評を投げる側と受ける側の両方に脚を置いちゃってるので、つくづく思うのですが、まさに川瀬さんの言うとおりで、だからこそプロの批評家は「ボールの投げ方」を考えて投げるべきだし、プロの作家は「飛んできたボール(特に素人の投げてくる無数の球)」に感情的に反応しない(そして、論理的に受け止める)強さが欲しいものです。いや、ほんとに。

Posted by: 堺三保 | October 12, 2005 at 01:34 PM

堺様
こうしてネットに文章(及び身分)を晒していると、思わぬところからつぶてが飛んできますよね。

>プロの作家は「飛んできたボール(特に素人の投げてくる無数の球)」に感情的に反応しない(そして、論理的に受け止める)強さが欲しいものです。

まさにその通りなんですが、そうした「心の強さ」と、ついつい揺れ動いてしまう「感受性」をどう両立させようか(まあ、元々無茶な試みではあるんですが)ということを、昨日うだうだ悩んでしまったわけです。

「自分の理解できないものはくだらない」というようなことを、ちょっと権力持った人間がいうと、偉いことになりますから(大学教員などが最も自戒とすべきことです)。

Posted by: 川瀬 | October 12, 2005 at 05:51 PM

>「心の強さ」と、ついつい揺れ動いてしまう「感受性」を どう両立させようか

この言葉に、とても、共感してしまいます。感受性を失くさずに、
心を強くしていくには、どうしたらいいんだろうと、日々考えて
しまいます。答えはなかなか出ませんが…。

Posted by: たあ | October 20, 2005 at 09:38 AM

たあさま、はじめまして。
ほんと、答えが出ない問題なんですよね、これは。

例えば、某巨大掲示板では、まあ色んな人が好き放題書いてくるわけです。一々反応するのも面倒くさいけど、無視することも出来ない。それでついつい胃が痛む・・・なんてことがあります。僕などはまだあまり被害を受けたことはないですが(2、3回urlが貼られて、通常の3倍以上のお客さんが来たこととかはあります)、有名人やアーティストの方などは、そういう経験はしょっちゅうでしょう。でも、「傷つかないでいる」ということもできないわけです。繰り返しになりますが、そういうものに傷つくような人だからこそ、文章を書いたり作品を作って世の中の人に問い掛けるわけですから。
話は飛びますが、「動揺しない心」を無理矢理作ろうとした真面目な人々がいました。それはオウム真理教の皆さんです。彼らは「聖無頓着」というような用語を作って、たとえ目の前で殺人が行われようが動じない心を作るんだ、と取り組んでいました。その結果はああいう結果なわけです。オウムは極端ですが、「動じない心」というと、宗教学者の僕はついついオウムを思い出してしまいます。

Posted by: 川瀬 | October 20, 2005 at 11:48 AM

The comments to this entry are closed.

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/34862/6356390

Listed below are links to weblogs that reference 受け止めて、変化できること:

« 耳元でささやかれ続けると | Main | 歴史(学)と想像力 »