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October 21, 2005

歴史(学)と想像力

america先日購入した、内田樹先生の『街場のアメリカ論』を、あっという間に読了。いやあ、面白かった。このごろは対談本も多い内田先生だが、やはり僕などは、対談より「内田節」(独演会)を楽しみたいところだったので、この出版は嬉しかった。
内容は、既に先生のブログで拝読している部分も多いので、サクッと読めてしまったわけだが(あまりに周りから「サクッと読めてしまう」と言われたことに、内田先生が「 もう少し読者のみなさんにも苦吟するなり輾転反側するなり歯がみするなりして頂かないと、憎々しげなことを書き連ねた甲斐がない」とおっしゃっているけど)、相変わらず刺激的だった。僕も一応「歴史(学)」に関わる者なわけだが、この本を読んで真っ先に考えさせられたのは、「想像力」と「歴史(学)」の関係についてだった。それは、この書の冒頭の第一章に縷々述べられている。
一般に、「歴史(学)」とは、物事の「流れ」を再構成(もしくは、「創造」と言った方が良いときもある)する営み、と考えられている。それはもちろん間違いではないが、どのような「流れ」を作るかが問題となり、「歴史論争」やら「●●史観」の相剋とか、そういう問題を引き起こすこともある。その際問題になるのは「想像力」である。「何故それが起こったのだろう」と考えをめぐらすのは普通の歴史的想像力だが、もう一歩進んで「何故こっちは起こらなかったのだろう」と考えることも、時には必要だ(内田先生に従えば、このような考え方は、フーコーが行った「系譜学的思考」である)。この系譜学的思考様式は、僕などには、ある意味なじみ深い。というのも、僕は宗教や思想を対象に研究している人間だが、思想史を例に取ると、その学的営みは、過去の思想・思想家の言葉を拾い、その未だ発揮されていない可能性を探る、という方向に行くことが多い。既に、その思想や思想家が同時代的には活躍できなかったとしても、「全く無価値である」と断定するわけにはいかないのは、この想像力が生産的だからである。複眼視的な思考に資するところがある、と言い換えてもよかろう。内田先生の言葉を借りれば、

歴史には無数の分岐があり、そこで違う道を選んでいれば、今は今とは違ったものになっていたということ、これは歴史を考えるときにとても大切なことです。それは歴史を「一本の道」としてではなく、いわば無数の結節で編み上げられた「巨大な広がり」として思い描くことです。そんなふうに無数の「存在しなかった現在」とのかかわりの中において、はじめて「今ここ」であることの意味も、「今ここ」であることのかけがえのなさや取り返しのつかなさも判ってくるのです。(p.39)

ということである。これは、別の言葉で言えば「マイナスの想像力(p.54)」とも言えるだろう。「既に起きたこと」をかっこに入れて、遡行して当時のリアリズムを内在的に理解しようとすることは、内田先生もおっしゃるように、非常に困難なことだと思うが、そこにこそ、広い意味での「歴史家」の力量が試されるのだと思う。もっと言えば、僕がいつも批判している自由主義史観などは、この手の「想像力」が欠けているのだと思う(一番欠けているのは、「相手の立場になって考えてみる」という想像力だと思うけど)。

あと、この本を読んで、本当に驚いたのは、内田先生がこのアメリカ論を書くとき、まさに座右に置いていたであろうトクヴィルの洞察力である。本当にすごい。内田先生経由で、トクヴィルの偉大さを見せつけられた、というのが、実はこの書の第一印象であった。これに触発されて、暇になったら(なかなかならないんですけど)、積ん読状態であるリチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(みすず書房、2003)を読むことを固く決意。無理矢理読むために、来年のゼミの課題図書にしてやろうか、とも画策中だが、何せ高いので、学生たちが嫌がるな・・・。

個々の内田的アメリカ論は、僕なんかが紹介するより、皆さんに読んでいただきたいので、要約は差し控えます(僕として面白かったのは、「シリアル・キラー」論とアメリカのキリスト教についての論でした)。
アメリカが好きな人にも、嫌いな人にも(まあ、内田先生に言わせれば、日本人はアメリカに対してアンビヴァレントな感情を持つように「呪われている」わけですが)おすすめです。

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Comments

お久しぶり(?)です。
内田節、読んでみたくなりました。
坂野潤治さんの『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)も、
歴史を研究するうえで求められる想像力と、
「いまここ」のかけがえのなさについて語った好著ですよ。
(ご存知でしたら、ごめんなさい~)

Posted by: bubuko | October 23, 2005 at 11:06 PM

bubukoさん、情報ありがとうございます。坂野先生の新書は、タイトルだけはチェックしていたのですが、まだ買っていませんでした。
明日にでも買いましょうかね。

Posted by: 川瀬 | October 24, 2005 at 12:18 AM

今回も、ブログをたいへん興味深く読ませていただきました。そして、『街場のアメリカ論』を、とくに「福音の呪い—キリスト教の話」という章を、読みたくなりました。うちの大学附属図書館で購入するように頼んでみようと思っています。

恥ずかしながらトクヴィルは高校生の時いらい全然読んでいませんけど、その時にも彼の洞察力に驚いたことを覚えています。

また、あまり関係のない話ですが、「歴史を「一本の道」としてではなく、いわば無数の結節で編み上げられた「巨大な広がり」として思い描くこと」というおことばを読んだら、私がむかし愛読していた一種のSF小説を思い出しました。それはいわゆる「歴史改変SF」とかいうジャンルで、例えばディックの『高い城の男』や、ギブスンの『ディファレンス・エンジ』が好例といえるでしょう。「想像力」を育てることには別に役にたたないでしょうけど、時間つぶしにでもいいかもしれません。

私の印象に過ぎませんけど、日本のマンガやアニメにも、歴史改変SFっぽい要素が取り入られることが多いような気がしますが。

Posted by: Micah | October 27, 2005 at 02:03 AM

Micahさん、内田先生も「是非アメリカ人に読んで欲しい」と言っていますよ。なお、「福音の呪い」という章は、基本的に内田先生は、Richard HofstadterのAnti-intellectualism in American Lifeを下敷きにしています。

>それはいわゆる「歴史改変SF」

日本も、この手の作品は多いのですが、ほとんどが「負けた戦争」を回顧して、こうしたら勝てたのでは・・・というような感じの作品だったりするので、要注意です(笑)。つまりフィリップ・K・ディックのような批判的精神がほとんど見られないわけです。

>私の印象に過ぎませんけど、日本のマンガやアニメにも、歴史改変SFっぽい要素が取り入られることが多いような気がしますが。

いや、その直感は、僕も正しいような気がします。「宇宙戦艦ヤマト」なんか、その典型例かも知れませんね。

Posted by: 川瀬 | October 27, 2005 at 10:35 AM

川瀬先生
毎回先生のHP(特に「主なお仕事」のコーナー)を拝見させてもらっています。
今回紹介されている内田先生の御著書も是非読んでみたいと思いました。川瀬先生の感想にある、内田先生の節からすると、歴史学における「側面史」に対する評価も変わってくるのではないかなと思ったりします。私は専ら側面史を学んでいるので・・・。
では失礼します。


 

Posted by: mimijapon | December 15, 2005 at 01:06 PM

mimijaponさま、初めまして。コメントありがとうございます。また、HPをご覧くださっているとのこと、恐縮です。

>歴史学における「側面史」に対する評価も変わってくるのではないかなと思ったりします。

確かに、側面史というか、今まで顧みられてこなかった部分にスポットを当てたり、「起こる可能性があったかも知れないのに、結局起こらなかったことの原因を探る」という試みは、視野を広げてくれるものと思います。僕なんか、元々「側面」に行きがちなマイナーな宗教事情とかを調べたりしている人間ですから、真っ当な研究対象と見なされるものには食指が動かないんですよね。因果な性格です。

Posted by: 川瀬 | December 16, 2005 at 12:07 AM

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