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November 26, 2005

マイケル・パイ先生の講演会

この週末は京都のいくつかの大学で、学園祭が繰り広げられたりしていて、にぎやか。僕の勤務校も、今どんちゃん騒ぎの最中だ。何でも京大では「唯一神又吉某」氏まで呼んで大騒ぎだとか。

そのような喧噪を遠く離れて、今日はアカデミックな講演会に出席した。
今日僕が聞きに行ったのは、ドイツのマールブルク大学名誉教授で、国際宗教学・宗教史会議(IAHR)の前会長だったマイケル・パイ(Michael Pye)先生の講演。要するに、僕にとっては「雲の上」の方だ(3月の東京でのIAHRで遠目に拝見した)。パイ先生は現在大谷大学の客員教授として日本にお住まいで、京都のNCC宗教研究所が今回講師としてお呼びしたのだ。僕の大学にその案内が送られてきたので、いそいそと参加。卒論で日本のキリスト教を調査する教え子Oさんも参加してくれた。

今日の先生の講演のタイトルは「宗教対話と宗教教育-宗教学から考える-」というもの。パイ先生は日本宗教研究の大家でいらっしゃるので(江戸時代の思想家富永仲基研究や大乗仏教研究が有名)、幸いご講演は全て日本語。でなければ、僕みたいに英語が苦手な人間が出席できるわけがない(笑)。でも、参加者は思いの外少なく(十数名)、その上参加者は外人の先生が過半数で、そんな中、日本語で講演してもらうのに少し恐縮してしまった。まあ、皆さん日本研究をなさっている方ばかりで、物凄く流暢な方ばかりだったが。

以下、僕なりに今回の先生の講演内容を要約してみる(以下の内容については、一切が僕の文責です)。

まず結論から言うと、先生の今回のお話の中心課題は「宗教学(もしくは宗教学者)」が果たすことのできる役割とは何か、ということだった。複数の宗教が対話する現場で、または教育の現場で宗教学は何ができるのか、という非常にプラクティカルな問題提起だった。先生は「このような現場に関わることが宗教学の責務」と言った、と思う。
例えば最初の「宗教対話」について話すと、この世界が「複数の宗教」で成り立っているのはもはや動かしがたい事実であり、その対話が今後ますます重要になるのは言うまでもない。偉大な宗教哲学者マルティン・ブーバーのように「我」と「汝」という二者間で話し合いをしたいところだが、残念ながらこのような二者間の対話は物別れに終わることが多い。それは歴史の示すところでもあろう。ではどうすればいいか。それは、両方の橋渡しをすることのできる(要するに、第三者的な立場から両方の言葉を「通訳」する)宗教学(者)の役割が期待されなくてはならない。つまり「媒介」としての宗教学(者)だ。

そして、その宗教対話と並んで、この世俗世界で宗教学(者)が果たす役割の一つが、教育現場における「宗教教育」であろう。他宗教を知る、というのは「他者理解(流行の言葉で言えば異文化理解)」の不可欠な要素であろうし、他国、他文化の宗教伝統を知らないでは済ませられない時代なのも明白である。しかし、日本の場合を考えると、憲法や教育基本法の縛りもさることながら、宗教についての知識も十分に与えられていない(高校までの歴史や地理、倫理の教科書の内容は、仕方ないこととはいえ、内容は薄く他文化理解にはほど遠い)。これからは、高校以下の公教育で、もっと厚みのある「宗教教育(できれば抽象的ではなく、具体的な事例中心の)」を模索しなければならないのではないか、というのがパイ先生の問題提起であった。

先生の話で面白かったのは、civil religion、すなわち「市民宗教」が、教育の現場で実は「隠れた宗教教育カリキュラム」を構成しているのではないか、という指摘だった。「市民宗教」とは、社会学の用語で、明確な輪郭を持った教団宗教とは違い、いわば「常識」という言葉でカヴァーされるような、その社会の価値体系を構成しているもの、といってよいと思うが(間違いや補足があればご指摘ください)、例えば日本の場合では「私は無宗教です」と言いながら初詣や墓参りは欠かさなかったりするのも、一種の「市民宗教」と言ってよいだろう。パイ先生の指摘では「国宝」や「重要文化財」というのも、「必ず尊重しなければならない」という気持ちを引き起こす価値体系の具現化、ということになる。であるから、国宝や重要文化財を教える歴史教育や美術教育も、「市民宗教」を内面化させる「隠されたカリキュラム」の一つと見なせるであろう。最近では、例えば石原千秋氏などによって、国語教育のイデオロギー性についての指摘もされている(石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書、2005)。確かに国語教科書などは「どのような物語を生徒に読ませたいか」という作成者側からの欲望がそのまま反映される科目である。ある意味、歴史教育より露骨な「道徳教育」である。繰り返しになるが、そのようなものとは離れた「宗教(知識)教育」の一層の充実、というのがパイ先生の提案だったと思う(ついでに言えば、このような宗教に関する知識の厚みが、悲惨なカルト事件などの「ワクチン」にならないだろうか、という話もあったと記憶している)。

先生の講演の後、質問時間となったのだが、数少ない日本人(しかも宗教学者)として、いくつかコメントを申し上げた。「宗教教育」については科研の研究会に何度が参加して、多少の知識はあるつもりなので。
1)まず、大学などの高等教育では、「他文化理解」の一環としての「宗教学」というのは模索しやすいが、高校以下の教育現場では、まだまだ課題が山積みであること。しかし、「宗教情報教育(この言葉は國學院大學の井上順孝先生から借用した)」の充実の必要性については、日本の宗教学界も充分認識していると思う。
2)パイ先生はイギリスやスウェーデンの宗教教育を一種の模範例としてあげられた。確かに北ヨーロッパの宗教教育は見聞きする限り、先進的であると思う。しかし、イギリス型の宗教教育が日本に根付きそうな気がしない。というのも、日本はまだイギリスのような移民社会ではなく、移民社会ゆえの宗教教育の必要性、という事態にはまだなっていないからだ(ついでに言うと、いわゆるCultural Studiesがいまいち日本でしっかりしたものにならないのも、同根だと僕は思う)。もちろん宗教的マイノリティの存在に気付かせるような教育は、日本でも必要であるけど。
3)宗教教育と政治の問題で言えば、保守的な政治家は、青少年の「心」の問題の解決策としての「宗教情操教育」には過剰な期待を寄せるが、宗教学者が主張するような「宗教情報教育」の充実には、緊急性がないとして顧みられない傾向がある。
大体上記のようなことを述べた。

今日は参加者が少なかったおかげで、講演が終わった後、パイ先生をはじめ色んな方から名刺をいただく。僕はまさか先生と直接話すようなことはなかろうと(100人くらいの講演かな、と思っていたので)名刺をろくに用意しておらず、パイ先生に手書きの名刺をお渡しするという失態。パイ先生の気さくなお人柄にも触れることができ、非常に充実した休日となった。

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November 23, 2005

「宗教」論と言うより「家族」論-『カナリア』感想

kanaria昨日あたりから風邪をひいてしまいましたが、休日であることを幸いに、のんびりDVD鑑賞をしていました。今日見ていたのは、オウム真理教をモチーフとした映画『カナリア』です。劇場に見に行こうと思っていたのですが、ついつい忘れてしまい、このたびDVD化されたので、購入しました。
というわけで、いつもの事ながら、ここより下はネタバレですので、お気をつけください。

まず第一印象は、「ここまで架空の教団をオウムそっくりに作っていいのか」と言うこと。この映画では、教団「ニルヴァーナ」が無差別テロを起こし、教団崩壊後、主人公の少年が施設に引き取られるという説明から始まるわけですが、彼の回想シーンの教団の様子は「良くもまあここまでサティアンっぽく作り込んだな」というものでした。信者たちの衣装も、オウムのサマナ服そのものですし(階級が上のものが濃い色、というもの、それっぽい)、ヘッドギアまで!!モチーフといっても、そのまま過ぎるだろ、と思わず画面につっこんでしまいましたが、それだけオウムの衝撃が強かったのも事実ですし、一から架空の教団を作り込むのも大変でしょうから、ここまで堂々とオウムっぽさを追求したことは、映画としてプラスだったと思います。そのおかげで、リアリティも確保できているわけですし。

ストーリーの骨格をかいつまんで話すと、「ニルヴァーナ」というカルト教団に母に連れられて妹と共に入らされていた主人公光一(石田法嗣)は、教団崩壊後、祖父母から引き取りを拒否され、妹だけ引き取られてしまいます。光一は施設を脱走し、東京の祖父母の家に行き、妹を「奪還」して、行方不明の母(テロ行為で指名手配中。配役は甲田益也子)を見つけて共に暮らすことを夢想します。その道中、「援助交際」中暴力を加えられそうになった少女由希(谷村美月)を光一は偶然助けることとなり、精神的に「ホームレス」な二人は共に東京を目指すことになります。

まずこの映画を語るときは、このともに1990年生まれの主人公二人の演技のすばらしさに触れないわけにはいきません。石田法嗣君も谷村美月ちゃんもうまい。美月ちゃんは文句なしの美少女ですし、石田君も感情のコントロールが利かない少年のナイーヴさが良かったです。
周りの俳優陣も、いい味出している人が多かったです。まずは主人公の母親役の甲田益也子さん。甲田さんは80年代にカリスマ的なモデルでしたが、なんなんですか、このアンチエイジングぶりは(笑)。マジで「年を取らない遺伝子」はあるんじゃないかと疑ってしまいますよ(ちなみに甲田さんは1960年生まれ)。甲田さんのクールな雰囲気が、こういう役にぴったりだと思いました。
主人公の二人が東京に向かう途中で出会う(恐らく)レズビアンのカップル、りょうつぐみ。この二人、もっとストーリーに絡むのかなあ、と思ったら、意外とあっけなかったのでもったいなかったです。存在感があるだけ余計に。
あと、光一少年の面倒を見る信者の役の西島秀俊氏。鋭い眼光の彼を見ると、どうしても思い出してしまう人物がいます。それは、オウム真理教幹部だった井上嘉浩(アーナンダ)氏です。ここからは自分の思い出話になりますが、今からちょうど13年前、1992年の東大の駒場祭では、オウム真理教のイヴェントがありました(確か「幸福の科学」のイヴェントもあり、ちょっとした「バトル」があったように記憶しています)。その時僕の同期の宗教学科の友人M君がそのイヴェントに参加し、冗談半分で連絡先を書き残したので、駒場祭の直後、早速M君に電話が掛かり、一度遊びに来ないかと誘われました。そこで、M君は僕と同じく宗教学科のK君を誘い、この3人で東大駒場裏のマンションの一室に向かいました。その時僕たちを「接待」してくれたのが井上さんだったのです。僕もその場で井上さんに「川瀬君は修行の見込みがある。恐らく前世でも修行をしてきた人だ」などと持ち上げられたのですが、僕は冗談にしか思えず、数冊の本をもらって帰宅し(この本は今も僕の研究室にあります)、それっきりでした(今から思えば、結構ギリギリのラインを歩いていたと言うことでしょう)。でも、あのとき僕たちを見すくめた井上さんの眼光はまだはっきりと覚えています。オウム事件はちょうど僕たちの少し上の世代に信者が多かったのですが、僕が宗教学なんて学問に手を染めようとしたきっかけの一つは、オウムのような当時台頭してきた新宗教群に興味を引かれたことであったのも確かで、やはり他人事とは思えない事件なんですね。

映画の話に戻ると、この映画は世俗の倫理とはかけ離れた「宗教」のあり方(このような宗教のあり方にどうしても惹かれてしまう、という気持ちも多少わかるつもりなので)と、当然それと軋轢を起こす「家族」のテーマという二つが中心をなしていると思ったのですが、後半からは宗教がずっと後景に退き、「家族」論が中心になるような気がします。よく「子供は親を選べない」と言いますが、今回のテーマも、まさにこれ。そしてその裏返しとして「大人の側は、子供を選べるのか」という問題が浮上してきます。こういうテーマは『誰も知らない』と共通ですね。もちろん、子供は親を選べない、という問題も大きいと思いますが、自分の子供が、信念故に「犯罪者」になってしまった親の気持ち、ということも考えてしまう、ちょっと年を取った僕です(主人公の祖父に、感情移入してしまう部分があったもので・・・)。
家族という空間では、加害者と被害者が世代ごとにその役割を入れ替えるので、その「救われ無さ」がこの映画のメインテーマだと言えるのかも知れません。主人公の母親は、自殺の直前に「結局お父さんの魂は救えなかった」と告げるわけですし。彼女は光一とその妹朝子に対しては「加害者」なわけですが、思うように育てられなかったと父親に見なされている点で被害者です。
またこの母親は、親子共々救済しようと考えた「善意」の人である点が重要だと思います。オウム事件で何度も語られたことですが、自己欺瞞といわれようが、彼らは自分自身をこの世を救う徹頭徹尾「善意」の人であると信じたがっていたのです。

まとめるなら、もっと宗教をメインテーマしているのかと思いきや、ちょっとはぐらかされた、という感じがしたもの確かです。ラストシーンも、ちょっと唐突。というか、「その後、本当にどうなるの?」とつっこみたくなってしまいました。
というわけで、ラストシーンにあまりカタルシスが得られなかった僕としては、この映画について、ちょっと点を厳しめにせざるを得ません。主人公二人の演技に免じて、5点満点で☆3つ、ってところですか。

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November 15, 2005

般若のような美しさ-「親切なクムジャさん」感想

2005_07_13_11_14_16_D14EF01C_c今日は非常勤先の帰り道、途中下車して、またまた映画館に行ってしまいました。二日連続、というのはさすがに珍しいです。今日見たのは、僕にとっての女神様の一人であらせられるイ・ヨンエ様主演の「親切なクムジャさん」です(余談ですが、韓国のファンサイトでも여신님、つまり女神様、と呼ばれていることがあり、思わず笑ってしまいました)。

この映画は、パク・チャヌク監督の「復讐三部作」のトリを飾るものであり(前二作は「復讐者に憐れみを」と「オールド・ボーイ」)、「あの清純派のイ・ヨンエが彼の映画に・・・」と公開前から結構話題になっていたものです。ヨンエ様は、そういう自分に付着しているイメージの打破の一環として、この映画の出演をお決めになったようですが。では、この映画の感想を少しばかり。

というわけで、いつものことですが、ここから先はネタバレを含みますので、それでもいいという方だけ読み進めてください。

1124440289_2今回ヨンエ様が演じるのは、少年誘拐殺人犯として13年間服役した「イ・クムジャ」という人物(でも実は彼女は真犯人ではなかった。ある事情から、彼女は罪をかぶって入獄する羽目に)。彼女はその美貌と、入所してからの「模範生」ぶりで(写真のように他の女囚に奉仕します。これも実は「親切」という仮面をかぶった復讐の一つなのですが)、「親切なクムジャさん」というあだ名を付けられるほどの人物。しかしその天使のような顔の影には、自分を入獄する羽目に陥らせた男(チェ・ミンシク演じる英語教師です)への復讐計画を練りあげるもう一人の「クムジャさん」がいた・・・というのが、大まかなストーリーラインです。
初っぱなからですが、この黄色い囚人服のヨンエ様、可愛すぎます。思わずスクリーンに向かって「ありがたや」と手を合わせましたよ(笑)。特に、前非を悔いて宗教的に改心した囚人たちの講演会のシーンでのヨンエ様は、反則的な可愛らしさでした。

あ、そうそう、先に言っておかねば。パク・チャヌク監督は前作品における残虐シーンが結構話題になりましたが(見た人間に聞くと「見た後は肉が食べられなかった」と言っていましたから、相当なものです)、今回も、やっぱ相変わらず悪趣味です(笑)。思わず「うひーっ」と何度言ってしまったことか(観客が少なくて助かりました)。
残酷なシーンはあまり見たくない、という人は、覚悟してみてください(これでも前作よりはましなようですが)。監督のインタビューでは「復讐を正当化するために真犯人の非道さを演出し、嫌なシーンも撮った」とか言い訳していますが、それにしても悪趣味すぎです。どういう悪趣味かは、さすがに言えません(言うと、究極のネタばらしになりますので)。

kumujasan_wall01_1024全体的なイメージですが、わざとらしいださいファッションや色彩感覚など(部屋の壁紙や、クムジャさんのメークなど)、この映画は良くも悪くもわざと「漫画的」に撮影しています。そうした演出で、多少和らいだ部分はありますね(逆に言うと、こんなものクソリアリズムで撮られたら堪りません)。例えば、周りの囚人に親切にしまくるクムジャさんには後光が差していたり(ホントに後光が差しているようにCGで作っているんですよ)、ポスターからして、わざとピエール&ジルのようなキッチュな造りのものにしているし(このポスターの涙のアイディアは恐らくはマン・レイの「ガラスの涙」でしょうね。ちょっとあからさますぎるほど。この壁紙は、公式ページでダウンロードできます)。

1124440353_3「漫画的演出」のとどめは、ヨンエ様の超レアな「女子高生姿」でしょう(笑)。ヨンエ様もまさかこんなコスプレ服装をするとは思っても見なかったそうですが、それでも通用してしまうところが恐ろしい。ヨンエ・・・恐ろしい子っ!!
ちなみに、ヨンエ様は僕と生まれ年が同じです(ヨンエ様が僕より10ヶ月ほど早くお生まれになっています)。ある意味、このシーンは、「宮廷女官チャングムの誓い」でヨンエ様のファンになった皆さんも必見。

さて、今回のエントリの「般若のような美しさ」というのは、実は彼女が復讐を終えたときに見せる、ある意味壮絶な表情を見て僕がとっさに連想したことです。ヴェネチア映画祭でのインタビューでヨンエ様はこの表情について

「復讐を遂げた後、クムジャの印象的なアップのシーンがありますが、脚本には“グロテスクに”という監督の指示が書き添えられていました。つまり、それまでのクムジャには見られなかった複雑な、まさにグロテスクな表情が必要だったわけです」(パンフレットより)

とおっしゃっていますが、冗談抜きで、この表情はこの映画の白眉のシーンです。ヨンエ様の演技者としての凄みを、ファンのひいき目無しでも実感できました。あ、でも「般若のような」というのは、僕の乏しい語彙から出たものですので、他の方がどういう表現をなさるのかが気になるところです。

血しぶきが苦手ではなく、イ・ヨンエ様の違う側面を見たいという方は是非劇場へ。

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November 14, 2005

まあ、中継ぎの作品だしね・・・

今日、授業が終わり、今夜は残業する気が失せたので、すぐに大学を飛び出し、バスで河原町に向かい、「機動戦士Z GUNDAMⅡ-恋人たち」を見てしまいました。バスで大学の同僚と偶然一緒になり「川瀬さん、何見に行くの?」と聞かれて、「いやあ、その」と口ごもる僕でした(笑)。まあそれはともかく、その感想を簡単にしたためたいと思います。

*この先はネタバレですので、未見の方はご覧にならないようにお願いします。

さて、映画版「Z」の2作目ですが、見所は、うーん、と考え込まざるを得ないものでした。ファーストの第2作「哀・戦士」編は、見所がたっぷりでしたけどねえ。ランバ・ラルのストーリーや、ミハルとカイの物語とか、ジャブローの戦闘というのがありましたし。今回のこの「恋人たち」には、そういう盛り上がるエピソードがない、というか、一応ニューホンコンでのカミーユとフォウの邂逅がそうなんでしょうけど、すっ飛ばしまくってて、余韻も何もあったもんじゃない。残念です。要するに、一つ一つのエピソードが大事にされていない、というのが全体的な印象です(期待していた分だけ、ちょっぴり辛口です)。ベン・ウッダーの特攻も必然性があるんだかないんだかよく判らなかったし。
僕は頑迷なファースト原理主義者ではありませんが、今回この作品を見て、ファーストの偉大さを改めて思い知らされ、思わず京都の夜空に向かって「ジーク・ジオン」と叫びたくなりました(嘘)。

あと、エウーゴも、ティターンズも、軍隊として、男女関係乱れすぎ。まあ、それが今回のメインテーマといえば言えるわけですがねえ。あなた達、こんな好き放題やってていいんですか、と僕が上官なら全員「修正」したくなります(笑)。

では、オタク的な感想も一くさり(まあ、僕なんてヌルヲタもいいところですが)。
まずは作画に関して。結構昔の作画って、頑張っていたんだなあ、というのが第一印象。恩田さん率いる新作画も、頑張ってはいるんですが、得意分野と不得意分野がはっきりしていたような気がします(得意分野だな、と思ったのはエマさん)。ベルトーチカやフォウの表情なんて、昔のフィルムの方が良かったシーンがいくつかありましたよ。特に、個人的な感想ですが、ベルトーチカは昔のフィルムの方が良かったなあ(Z屈指の美女なのに、見所が少なくて僕はかねがね残念に思っています。あの破綻した性格も結構気に入っているんですが・・・)。

で、声優陣に対してですが、まず色々噂が立った(真偽のほどは判りません、僕には)フォウ役のゆかなさんですが、まあいいんじゃないですか。声質が前にやっていた島津冴子さんと似ていると思いました。それほど違和感なし。ベルトーチカ役の川村万梨阿さんは、相変わらず良し。時々裏返る声がたまらん(笑)。サラ・ザビアロフ役に、女優の池脇千鶴さんが起用されているのですが、このあたりについては、時々このブログに書き込んでくださるo-tsukaさんの評を引用したいと思います。

問題はサラ。TV版の声優(水谷優子)は圧倒的に下手なのですが、逆に池脇千鶴の達者な演技が「神経質かつ無神経」という元のキャラクターに合わず、別人格になってしまいました。

いやあ、うまいこと言うなあ(笑)。思わず笑ってしまいました。あと、ハマーン様の榊原良子さん、迫力ありすぎ。毎週「ERⅨ」のエリザベス・コーディ役でお声を聞いてはいますが、今回はエリザベス先生の二倍ほどドスを利かせておいででした(当社比)。
シロッコ役の島田敏さん、昔よりも声が太くなった気がしますが、20年も経ちますもんね。仕方ないか。ヤザン役の大塚芳忠さん、相変わらず悪人の声がお似合いで(笑)。僕は島田さんと大塚さんの絡みというと、「機甲創世記モスピーダ」(タツノコプロ製作。僕は結構好きです)というアニメでのバトルを思い出します。島田さんは主人公(一応)のスティック役、大塚さんはラスボス的な敵のトップのバットラー役でしたから。ちょっとマニアックでしたね。済みません。

今回のこの「恋人たち」、映画としては正直あまり評価できませんが、ずっとニヤニヤしながら見ていたことも事実(特にカミーユ君がフォウやファといちゃいちゃしていますから、そのあたりでニヤニヤおっさんくさく笑っていました)。というわけで、来年3月の最終話への期待を高める序曲としては(まだ序曲かよ、というのはさておき)評価したいと思います。

追記:今回見ていて、「Zのヒロインたちって、ほとんどがツンデレなのでは」と思ってしまった僕って一体・・・。

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November 04, 2005

うまくコントロールすること

人の相談に乗ると、いろいろなことを、これまでうすうす感づいてはいたのだけど、直視しようとしなかったことを考えさせられるきっかけになることがある。

昨日、そういう体験をした。

具体的なことは書けないので、抽象的な言い方に終始することになるが、相談しに来た彼も、それに乗る僕も、色々語り合いながらも結局「ルサンチマン」やら「ナルシズム」をうまくコントロールできるかできないか、というところをぐるぐる回っていたような気がする。
彼は相談の原因となった「ルサンチマン」を吐露する。それに対して偉そうに訳知り顔で「説教」してしまった僕は、あのとき「ナルシズム(要するに、相談されるほど信頼されている自分、という自画像だ)」を制御できていなかったと思う。共感に先立って、自分の言いたいことを、彼を待つ間に用意していた、といえばいいか。それを思い出して、少しだけ自己嫌悪に陥っている。これじゃ、まるで脅迫的言辞を弄ぶ某占い師みたいだ。しかも偉そうに「説教」しながら、いつの間にが自分の愚痴まで聞いてもらっている始末。

例えば無能な上司がいる。話の合わない同僚がいる。自分のことをバカにする友人がいる。こんな事はどこにでも転がっている話で、別段取り上げるほどの価値もない。
しかし「どこにでもあること」として処理できる人間と、処理できない人間がいる。恐らく僕も彼も、後者のタイプだ。処理するには、恐らくプライドが高すぎるのだ。
そして当然、ルサンチマンは発生し、それをルサンチマンの原因になっている人間に向けることもできない気弱な僕(たち)は、結局その呪いを自分に向けて、胃を痛める結果となる。そしてそんな弱い自分に自己嫌悪を抱くという負のループ。しかも、その負のループに陥っていること自体を何かしら誇りに思わずにはいられないというナルシズム。出口無しだ。やれやれ。

自分のナルシズムをうまくコントロールして、ルサンチマンへの回路を簡単には開かないようにすること。これは恐らく僕(と彼)の課題だろう。今はそれしか言えない。

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