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November 26, 2005

マイケル・パイ先生の講演会

この週末は京都のいくつかの大学で、学園祭が繰り広げられたりしていて、にぎやか。僕の勤務校も、今どんちゃん騒ぎの最中だ。何でも京大では「唯一神又吉某」氏まで呼んで大騒ぎだとか。

そのような喧噪を遠く離れて、今日はアカデミックな講演会に出席した。
今日僕が聞きに行ったのは、ドイツのマールブルク大学名誉教授で、国際宗教学・宗教史会議(IAHR)の前会長だったマイケル・パイ(Michael Pye)先生の講演。要するに、僕にとっては「雲の上」の方だ(3月の東京でのIAHRで遠目に拝見した)。パイ先生は現在大谷大学の客員教授として日本にお住まいで、京都のNCC宗教研究所が今回講師としてお呼びしたのだ。僕の大学にその案内が送られてきたので、いそいそと参加。卒論で日本のキリスト教を調査する教え子Oさんも参加してくれた。

今日の先生の講演のタイトルは「宗教対話と宗教教育-宗教学から考える-」というもの。パイ先生は日本宗教研究の大家でいらっしゃるので(江戸時代の思想家富永仲基研究や大乗仏教研究が有名)、幸いご講演は全て日本語。でなければ、僕みたいに英語が苦手な人間が出席できるわけがない(笑)。でも、参加者は思いの外少なく(十数名)、その上参加者は外人の先生が過半数で、そんな中、日本語で講演してもらうのに少し恐縮してしまった。まあ、皆さん日本研究をなさっている方ばかりで、物凄く流暢な方ばかりだったが。

以下、僕なりに今回の先生の講演内容を要約してみる(以下の内容については、一切が僕の文責です)。

まず結論から言うと、先生の今回のお話の中心課題は「宗教学(もしくは宗教学者)」が果たすことのできる役割とは何か、ということだった。複数の宗教が対話する現場で、または教育の現場で宗教学は何ができるのか、という非常にプラクティカルな問題提起だった。先生は「このような現場に関わることが宗教学の責務」と言った、と思う。
例えば最初の「宗教対話」について話すと、この世界が「複数の宗教」で成り立っているのはもはや動かしがたい事実であり、その対話が今後ますます重要になるのは言うまでもない。偉大な宗教哲学者マルティン・ブーバーのように「我」と「汝」という二者間で話し合いをしたいところだが、残念ながらこのような二者間の対話は物別れに終わることが多い。それは歴史の示すところでもあろう。ではどうすればいいか。それは、両方の橋渡しをすることのできる(要するに、第三者的な立場から両方の言葉を「通訳」する)宗教学(者)の役割が期待されなくてはならない。つまり「媒介」としての宗教学(者)だ。

そして、その宗教対話と並んで、この世俗世界で宗教学(者)が果たす役割の一つが、教育現場における「宗教教育」であろう。他宗教を知る、というのは「他者理解(流行の言葉で言えば異文化理解)」の不可欠な要素であろうし、他国、他文化の宗教伝統を知らないでは済ませられない時代なのも明白である。しかし、日本の場合を考えると、憲法や教育基本法の縛りもさることながら、宗教についての知識も十分に与えられていない(高校までの歴史や地理、倫理の教科書の内容は、仕方ないこととはいえ、内容は薄く他文化理解にはほど遠い)。これからは、高校以下の公教育で、もっと厚みのある「宗教教育(できれば抽象的ではなく、具体的な事例中心の)」を模索しなければならないのではないか、というのがパイ先生の問題提起であった。

先生の話で面白かったのは、civil religion、すなわち「市民宗教」が、教育の現場で実は「隠れた宗教教育カリキュラム」を構成しているのではないか、という指摘だった。「市民宗教」とは、社会学の用語で、明確な輪郭を持った教団宗教とは違い、いわば「常識」という言葉でカヴァーされるような、その社会の価値体系を構成しているもの、といってよいと思うが(間違いや補足があればご指摘ください)、例えば日本の場合では「私は無宗教です」と言いながら初詣や墓参りは欠かさなかったりするのも、一種の「市民宗教」と言ってよいだろう。パイ先生の指摘では「国宝」や「重要文化財」というのも、「必ず尊重しなければならない」という気持ちを引き起こす価値体系の具現化、ということになる。であるから、国宝や重要文化財を教える歴史教育や美術教育も、「市民宗教」を内面化させる「隠されたカリキュラム」の一つと見なせるであろう。最近では、例えば石原千秋氏などによって、国語教育のイデオロギー性についての指摘もされている(石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書、2005)。確かに国語教科書などは「どのような物語を生徒に読ませたいか」という作成者側からの欲望がそのまま反映される科目である。ある意味、歴史教育より露骨な「道徳教育」である。繰り返しになるが、そのようなものとは離れた「宗教(知識)教育」の一層の充実、というのがパイ先生の提案だったと思う(ついでに言えば、このような宗教に関する知識の厚みが、悲惨なカルト事件などの「ワクチン」にならないだろうか、という話もあったと記憶している)。

先生の講演の後、質問時間となったのだが、数少ない日本人(しかも宗教学者)として、いくつかコメントを申し上げた。「宗教教育」については科研の研究会に何度が参加して、多少の知識はあるつもりなので。
1)まず、大学などの高等教育では、「他文化理解」の一環としての「宗教学」というのは模索しやすいが、高校以下の教育現場では、まだまだ課題が山積みであること。しかし、「宗教情報教育(この言葉は國學院大學の井上順孝先生から借用した)」の充実の必要性については、日本の宗教学界も充分認識していると思う。
2)パイ先生はイギリスやスウェーデンの宗教教育を一種の模範例としてあげられた。確かに北ヨーロッパの宗教教育は見聞きする限り、先進的であると思う。しかし、イギリス型の宗教教育が日本に根付きそうな気がしない。というのも、日本はまだイギリスのような移民社会ではなく、移民社会ゆえの宗教教育の必要性、という事態にはまだなっていないからだ(ついでに言うと、いわゆるCultural Studiesがいまいち日本でしっかりしたものにならないのも、同根だと僕は思う)。もちろん宗教的マイノリティの存在に気付かせるような教育は、日本でも必要であるけど。
3)宗教教育と政治の問題で言えば、保守的な政治家は、青少年の「心」の問題の解決策としての「宗教情操教育」には過剰な期待を寄せるが、宗教学者が主張するような「宗教情報教育」の充実には、緊急性がないとして顧みられない傾向がある。
大体上記のようなことを述べた。

今日は参加者が少なかったおかげで、講演が終わった後、パイ先生をはじめ色んな方から名刺をいただく。僕はまさか先生と直接話すようなことはなかろうと(100人くらいの講演かな、と思っていたので)名刺をろくに用意しておらず、パイ先生に手書きの名刺をお渡しするという失態。パイ先生の気さくなお人柄にも触れることができ、非常に充実した休日となった。

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Comments

こんにちは。
日本で「宗教教育」と言いますと、どうしても
「特定の宗教に基づいた教育」というイメージに
なってしまいますよね。
宗教とちょっと関わる部分を研究しておりますと、
実際は基本的な知識すら自分にないことに気が
ついてしまいます。
中等教育の段階でいわゆる「世界宗教」と呼ばれる
ものについては最低基本をおさえておきたいです。

Posted by: 虎哲 | November 27, 2005 at 10:40 AM

虎哲さん

>日本で「宗教教育」と言いますと、どうしても
>「特定の宗教に基づいた教育」というイメージに
>なってしまいますよね。

問題はそこですよね。今だって、宗教立の学校は独自の「宗教教育」をしているわけですが、もちろんここでの議論は、もっと汎用性のある宗教教育のことです。
それに、「国が率先してこういう教育をやっちゃうとどういう事になるか」の悲惨な実例は、日本の近代史そのものですしね。
あと、高校以下の学校で、まあまあ深い宗教教育ができる人材がどれぐらいいるか、というシビアな問題も横たわっています(この問題が一番大きいかも)。

Posted by: 川瀬 | November 27, 2005 at 02:22 PM

どうもお疲れ様です。 TBさせていただいたとおり、拙ブログにて ちょっとしたコメントをいたしました。 いかがでしょうか・・・?

Posted by: コンドウ | November 29, 2005 at 10:02 AM

コンドウさま
やっぱり、「市民宗教」って概念、難しいですね。僕もコメントいたしました。

Posted by: 川瀬 | November 29, 2005 at 11:48 AM

Dr. Kawase,

For the difference between "civil religion" and "public religion," see also Linell E. Cady's Religion, Theology, and American Public Life (New York: State University of New York, 1993.

日本語でも読めますよ。ケディの渡部正孝訳「アメリカの公共生活と宗教」(東京:玉川大学出版部、1997)は、カサノヴァと同じ時期に日本で訳書が同じ出版社から出たことになります。なお、訳書には原著にある「神学」が抜けています。きっと意図的なのでしょうね。日本だから。

Thank you for reading,

Mark W. Waterman, Ph.D.

Posted by: Dr. Waterman | August 09, 2006 at 03:18 AM

Dear Dr. Mark W. Waterman

Thank you for your suggestion. I haven't read Cady's book so I would like to try to read it as soon as possible (of course, in Japanese!).

In this summer, I often think about "civil religion" or "public religion" because Yasukuni Shrine and conservative politicians raise many problem.

KAWASE Takaya

Posted by: 川瀬 | August 09, 2006 at 10:30 AM

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