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June 19, 2006

「人」に群れるか、「場」に群れるか

土曜日と日曜日は、僕が日本側の運営委員の一人を仰せつかっている「日韓次世代学術フォーラム」の第3回国際大会が立命館大学であった(主幹は立命館大学文学部東西大学校日本研究センター)。

大学院生諸君の発表を聞いたり、夜は韓国側の先生、学生の皆さんと飲むことに忙しかったわけだが(笑)、二次会で、一緒に運営委員をしているI井先生からある話を聞いて、ちょっと考えさせられた。それは、一言で言うと関東と関西(もっと具体的に言うと、東京大学と京都大学)の学風の違いについての話だった。

もちろん、単純な二分法で語られる問題ではないが、I井先生の言うには「東京は人に群がり、関西は場に群がる」違いがあるという。これはどういう事か。かつて、ノーベル賞を東大出身者があまり取れず、京大出身者の方が多いことを「東大は官僚的だが京大は自由奔放な学風だからだ」などと説明をされたりもしたが、その「自由奔放」の内実を考えると、それが「場に群れる」ということだとI井先生はいう。東京は偉い先生のもとに弟子たちが「先生~」と集まるが、京都は、一種のサロンが機能していて、学部や専攻に関係なく「話の面白いやつはこっちへ来い」とばかりに学際的な雰囲気が醸成され(昔から、例えば京大人文研の共同研究は有名だ)、それが柔軟な発想の元になっているのではないか、というのである(まあ旧制高校的なホモソーシャルな側面はこの際敢えて無視)。

現在もそうであるかはともかくとして、かつての京都の学風にそういうものがあったのは、恐らく確かだろう。個別に見ていけば、東大でも「場に群れる」ことはあっただろうし、京大でも「人に群れる」ことは多かっただろうが、「場に群れる」ということの重要さは改めて考えてみるべきではないか。

以前「「素人の集まり」としてのゼミ」というエントリを書いたが、その時も「素人が集まるがゆえの生産性というのもあるのではないか」と書いた。今もその気持ちは変わらない。ただ、僕は単なる素人ではなく、「何か専門を持っている人間が集まること」に重きを置いている。

要するに、僕はI井先生の話を聞いて、またどこかでそういう集まりに参加したい、させてもらいたいと気付いたのだ。なかなか自分でそういう「場」を作って仕切るほどの力量はないけれど。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

お久しぶりです。エントリーの内容と直接関係ないのですが、そのシンポジウムにいった人から聞いた話ということでこういう内容のブログがありました。
http://blog.goo.ne.jp/divane/e/ab0e3d5823216fdd4ad60269f4045a59
よく2chネラーが使う言葉に「特定アジア」なるものがあります。日本の現在の外交に批判的な「左翼的メディア」が使う「アジア」は中韓朝三国である、と言う主張です。
まさかそういう傾向がアカデミズムの世界でもあるとは思いたくはないのですが、いかがなものだったのでしょうか。
ちなみに私も「東アジア共同体」には懐疑的です。それを主張している、廣松渉や弟子の宮台真司は楽天的すぎると思えるのですがどうでしょうか。EUは「コルプス・クリスチアヌム」という共通の土台があるからこそ成立した、日中にはそういうものはないという意見があります。

如月様
確かに、例の学会はある意味楽観的且つ、「日韓」が中心の催しでしたから、近視眼的になってしまったという点は否めなかったと思います。
アカデミズムで使う「アジア」は「特定アジア」か、といわれればもちろん「否」と答えますが、「東アジア」「北東アジア」という言葉は、地政学とかではよく使われています(外務省にも「北東アジアか」がありますしね)。

さて、「特定アジア」という言葉―僕はもちろん使いませんが―は、「東アジア共同体」という楽観的な言葉のまさに裏返しに過ぎないと思います。つまり「特定アジア」も「東アジア共同体」も、中国、朝鮮半島、日本を地政学的に不可分のものと見なすという視点では同じだと思います。まあ、僕はご存じの通り韓国研究者の端くれですし、ネガティヴに見るよりはポジティヴに「共同」の可能性(あくまで可能性です)を探る方が生産的だとは思います。
「共通の文明・文化があるから共同体が形成できる」という考えが楽天的なのはいうまでもありません(これはEUでも同様だと思います)。たとえフィクションでも、とりあえず「共通項」はある、というスタート地点をまず設定して、お互い近づくという不断の努力をすることこそ「共同体」のあり方だと思っています。

うーん。現実アセアン+日中韓かそれともインド、オセアニアを入れるかということで日中のせめぎあいが起こっている東アジア共同体と「特定云々」が表裏一体というのがもうひとつよく分からないのですが。
確かに、ポジティブな考えで共同の可能性を探るというのは大事なことですね。
いささか脱線になりますが、ある評論家が「我々は話し合えば分かり合える。」の精神でなく、「まず、我々は話し合っても分かり合えないこともある。」ということを分かり合えるべきだ、と言う言葉を述べたのが印象に残っています。

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