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August 09, 2006

祀られない自由

今日はある市民団体の集会に参加してきました。それは「アジアと靖国神社」と題された集会で、父親が靖国神社にいつの間にか勝手に祀られていることに気付いた韓国人女性李熙子(イ・ヒジャ)さんの「靖国神社合祀取り下げ訴訟」を中心に、韓国・台湾人軍人及び軍属の合祀問題を考えるというもので、僕も短い時間でしたが、朝鮮の植民地支配についての話をしました。
僕が一応植民地期朝鮮の専門家で、且つ靖国問題などにも多少は詳しいということで(大昔、卒論で政教分離裁判について少し調べたことがあります)、白羽の矢が立ったのだと思います。まずは以下に、僕が当日配ったレジュメを転載します。

「朝鮮植民地支配と靖国神社」
川瀬貴也(京都府立大学文学部)

1.植民地期朝鮮における「動員」及び「徴兵」
・総動員体制(戦時期)
国民徴用令施行(1939年)→強制連行問題
「内鮮一体」から「皇民化」へ (ex.)創氏改名開始(1940年)
・志願兵制度
1942年5月閣議決定、1944年実施。しかし本当に「志願」だったのか?(総督府の強制)
「差別からの脱出」というモチベーション(過剰な「日本人化」への志向)

2.植民地朝鮮における宗教
・「寺刹令(1911年)」「布教規則(1915年)」「神社寺院規則(1915年)」
・「内地」延長主義(神社政策)
朝鮮神宮(1925年創建)を頂点とする朝鮮神社界
「神社規則(1936年)」←「神社非宗教論」の徹底
・日本諸宗教の布教(仏教・キリスト教・新宗教)

3.「仕方がなかった」史観を超えて
・「植民地近代化論modernization in colony」と「植民地近代論colonial modernity」
・「慰霊」と「顕彰」
・「戦前」と「戦後」を結ぶ暴力への批判

【参考文献】
宮田節子『朝鮮民衆と「皇民化」政策』未来社、1985年。
宮田節子・金英達・梁泰昊『創氏改名』明石書店、1992年。
姜徳相『朝鮮人学徒出陣―もう一つのわだつみのこえ』岩波書店、1997年。
山田昭次・古庄正・樋口雄一『朝鮮人労働動員』岩波書店、2005年。
姜誠ほか『『マンガ嫌韓流』ここがデタラメ』コモンズ、2006年。
小笠原省三『海外神社史(上)』ゆまに書房、2004(1953)年。
辻子実『侵略神社―靖国思想を考えるために』新幹社、2003年。
菅浩二『日本統治下の海外神社―朝鮮神宮・台湾神社と祭神』弘文堂、2004年。
三土修平『靖国問題の原点』日本評論社、2005年。
板垣竜太「〈植民地近代〉をめぐって」、『歴史評論』654号、2004年10月号。
並木真人「植民地期朝鮮における「公共性」の検討」、三谷博編『東アジアの公論形成』東京大学出版会、2004年。
宮嶋博史他編『植民地近代の視座』岩波書店、2004年。
尹海東(藤井たけし訳)「植民地認識の「グレーゾーン」―日帝下の公共性と規律権力」、『現代思想』2002年5月号。


上記の走り書きのようなレジュメでは判りにくいかも知れませんが、簡単にまとめると、「植民地期朝鮮における総動員体制の実態」、「植民地期朝鮮における宗教政策(及び「国家神道システム」「神社非宗教論」という仕組み)」、そして現在の我々がどのような評価基準で過去を再検討すべきか、という大きく分けて三つの話題をお話ししたつもりです。

僕の後には、靖国裁判の訴訟に取り組んでいる菱木政晴先生から、今後の取り組みについてのお話がなされ(肉親を靖国に祀られたくない人々が集まる「靖国合祀イヤです訴訟」というものを立ち上げようとされています)、韓国の元日本軍人・軍属の裁判を支援して来られた古川雅基さんからもメッセージが述べられました。

まず僕のスタンスを簡単に述べておくと、僕は靖国神社に対する私人としての信仰、個人的な信仰はまったく否定しません。「あそこに戦友が眠っている」「靖国には父が、兄が祀られているのだ」というような感情は否定しようがないからです。しかし、靖国神社側が主張するような、いわば「公共宗教」としてのあり方にはまったく賛同できません。ですから、その流れで、あたかも靖国神社を一種の「公共宗教」と見なして政治家が参拝するのも、賛成できません。靖国の合祀基準については、昔から色々言われていますが、僕は端的にいって、「祀られない自由」を損ねているのが、靖国の最大の問題点だと思っています。「祀られたい人」及び「祀りたい人」だけが集うのが本来の「宗教」の基本的なあり方でしょうが、靖国自身が、一宗教法人でありながら、そのような「宗教」っぽいあり方は不満であるとの意思表示を続けているのですから、議論は平行線となってしまうのです。

さて、実は今回の集まりでも、89歳になられる方(この方は元海軍兵で、約300人いた仲間のほとんどが死んで、捕虜になって生き残った生還者の方です)から、
「死んだら靖国で会おう、というのはやはり合い言葉だった。だから私は、戦友のために靖国に赴く。私は現在の靖国神社のあり方にも賛同しないし、A級戦犯たちには頭を下げないが」
との発言があり、その言葉や思いというのは、非常に胸に迫ったのです。僕はこのような個人の靖国への思いを、もっと靖国側も汲み上げる努力をするべきだと思います。ある形式、ある思想を持たない限り寄せ付けないような態度を執りつつ「全国民的」であることはもはや不可能と思うからです(個人的には遊就館に代表されるような靖国の歴史観そのものが間違っていると思っていますが、それはさておき)。

戦争が終わって60年以上が経過しましたが、我々はまだ多くの「負債」を継承しているのだなあ、との思いを、今回の集まりで新たにしました。
好きなものだけ継承するわけにはいきません。負債も借金も相続しなければならないのです。つらいことですが。

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Comments

Dr. Kawase,

「祀られない自由」は、内容だけでなく的確な題(エントリーと言うのですか)で勉強になりました。また、貼られた卒論をみて一貫したテーマを追っていらっしゃる学者であることも知りました。

実は私は、先日、Buddhi Prakash 氏のトラックバックに関連してハーバード大学神学大学院(現アリゾナ州立大教授)のCady の本を紹介したのですが、原著の21-29ページ(和訳書36-46ページ)を見ると、いわゆる公共宗教には多くの問題が存在することが述べられています。ベラーや公共宗教という術語の先駆けであるJFウィルソンなどについても述べられていますが、面白いのは和訳書が「市民・公共・公衆」と訳し分けていることで、「市民」のみならずDr. Kawaseがおっしゃるように「公共」も極めて権威的であることがわかります。

公共宗教を「内心」の問題と「政治」の問題に二元化すると、「学」の問題が抜け落ちます。多分、宗教学者が「学」の部分を担うと言うかもしれませんが、広く浅くみんなの言い分を聞いてしまう物分りのいい宗教学者だと、最悪の公共宗教になるでしょう。この場合の「学」には、各宗教の深い歴史的(あるいは主体的)観点に立って、お互いを理解しようというスタンスの宗教学者が必要です。そうして初めて政治(譲歩と落とし所)が出てきます。

それぞれが身内の信仰の宣教者であることを一時控えることのできる、たとえば神道学者とキリスト教神学者の公開の議論はないのでしょうか。そういったことが可能なら、議論の土台として、Dr. Kawase の具体的な日韓(韓日)史は有益なデータに思えます。

もっとも、ヤスクニを意図的に政治問題にしたいだけの人(proヤスクニ、antiヤスクニ双方)には、始めから無駄なことですが。

Mark W. Waterman, Ph.D.

Dear Dr. Waterman
コメントありがとうございます。いただいたコメントで一番重要だと思ったのは

>公共宗教を「内心」の問題と「政治」の問題に二元化すると、「学」の問題が抜け落ちます。多分、宗教学者が「学」の部分を担うと言うかもしれませんが、広く浅くみんなの言い分を聞いてしまう物分りのいい宗教学者だと、最悪の公共宗教になるでしょう。

という部分です。マイケル・パイ先生の講演でも、「媒介者(仲介者)となる宗教学者」ということが言われていましたが、政治の側にふらっと寄ってしまうと、あっという間に権威主義的な「公共宗教論者」となってしまうと僕も思います。そのバランスが難しい。

pro靖国、anti靖国の「分かり易い」議論から離れて、「政治的な落としどころを模索する」と言うことは、僕も勿論賛成ですが、「A級戦犯の分祀」などを落としどころとは思いません。

Dr. Kawase,

確かに。同感です。
私の政治的落とし所は宗教対宗教の対話における落とし所のつもりでしたが、お説の通り、A級戦犯分祀は文字通りの政治そのものの解決の一つにすぎないと思います。宗教とは関係がありません。

たとえば私は、(日本政府が何と言おうと、自分の了解では)米国籍の(一応)クリスチャンのつもりでいますから、異教(過激ですみませんが、これはキリスト教徒の伝統的言い回し)の神社で、しかも英霊にされる(オーマイ!これは涜神の第一!!)のは困ります。

A級戦犯分祀は、確かに、朝鮮人の(たとえば)クリスチャンが祀られていることの解決にはなりません。

ありがとうございました。

Mark W. Waterman, Ph.D.

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