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May 18, 2007

戦慄する講義

先日、別ブログでパワポのプレゼンには向き不向きがあるよねとか書いたら、予想外の反響があったが(僕の意図を取り違えているのも見受けられたが、そういうのもネットの定め、仕方なし)、昨日東京大学出版会のPR誌『UP』5月号を読んでいると、我が意を得たりというエッセイがあった。

松浦寿輝先生の「かつて授業は「体験」であった」というエッセイである。

パワポを使った分かり易いプレゼンなどというのとは位相(というか次元)の違う「体験」の思い出話である(松浦先生は「最近は学生による授業評価も盛んで、パワポを使ってわかりやすい講義を、などという声も聞かれるけど・・・」という感じで話の枕にしている)。
その先生の喋ることが殆ど判らないのにもかかわらず何故か耳を傾けてしまう、そして震撼させられてしまうような体験。松浦先生が提示するのは、そのようなある意味「戦慄する講義」の体験談である。
具体的に松浦先生は東大駒場の哲学教師であった井上忠先生の講義でそのような「体験」をしたそうだ。

何かとてつもない大事な事柄が、他の誰にもできないような仕方で語られていることだけはわかる。この人の発する言葉一つ一つの背後には、恐ろしいほどの知的労力と時間の蓄積が潜んでおり、膨大な文化的記憶の層が畳みこまれていることもわかる。だが悲しい哉、無知と無学のゆえに、わたしにはその内容を具体的に理解することができない。彼がパルメニデスについて、ヘラクレイトスについて、アリストテレスについて語っていることを理解するには、結局、本を読まねばならないのだ。沢山の、沢山の、沢山の本を読まねばならず、その道には終わりというものがない。わたしはそのことだけは戦慄的に理解した。井上先生の講義から 何らかの知識なり情報なりを受け取ったわけではない。彼の講義は単に、或る決定的な「体験」だった。ほとんど理解できない言葉のシャワーを浴び続けるという、恐ろしくも爽やかな、それは「体験」だったのである。(p.44)

自分の教養部時代を振り返ってみると、「戦慄する」とまでいわないが、ぽかんと口を開けて「すごいなあ」と感じ入るしかない講義というのはいくつかあった(逆に、買わされた教科書を読めば済むような講義はバカにしてほとんど出なかった。僕はそういう意味で決して真面目な学生ではなかった。出席を取る語学と体育と、本当に気に入った般教にしか出ない、という平均的な学生だったわけだ)。指折り数えると、村上陽一郎先生の「科学史」、宮本久雄先生の「哲学史」、船曳建夫先生の「人類学」あたりか。
これらの講義の共通点は、上記の松浦先生と似たような感想になるが「敵わないなあ」という一言に尽きる。当時の僕が無知なのは仕方ないにしても、その無知な学生をして「この人はどこまでいろいろなことを知っているのか(せめてその一端にでも触れたいものだ)」と戦慄せざるを得ないような「何か」が発言の端々ににじみ出ていたのだ。ついでに言うと、この先生方の講義は決して難しくなかった。むしろ分かり易い部類にはいるだろう(特に船曳先生の「人類学」はあまりの面白さに、最終回の時は自然と拍手が湧き起こったくらいだ。退官記念講義以外で拍手が湧きあがったのは、今のところ僕が目撃したのはこれだけ)。ただ、その内実が、先生方の分かり易い説明から自然と「はみ出ている」のを未熟な僕たちは感じていたのである。そのはみ出た「余剰の部分」に戦慄していたわけだ。

この数年で、僕がこのような講義を今まで一度たりともできたなどとは勿論思わない(面白かった、という評価くらいは学生諸君の何人かからは頂いているが)。一生出来ないかも知れぬ。性格的にも、どちらかというと、難しいことをかみ砕いて説明する質だし。
でも、「学生がなかなか理解できないにもかかわらず、それでも感動する講義を聴く体験」というのはあるのだ。それは僕も体験済みである。単純な言い方をすれば「難しいけど、面白い、もっと聞きたい」と思う「体験」である。そういうものを体験できるかどうか、というのが大学では決定的に重要である。大学の教員からだけでなく、例えば同級生や先輩から自分の未熟ぶりを指摘され、たたきのめされるという「体験」も重要だと思う。例えば「パワポの説明が分かり易かったです」「プリントが多くて良かったです」というような感想は些末なことであって、学問的な「感動」というものとは縁遠いもの、というのが個人的な気持ちだ。

僕の考えは、今や「反時代的」な教養主義の一つであろう。それは重々自覚しているが、それでも大学はそのようなものを大事にするという「建前」を無くしたら終わりだと、密かに思っている。もう一つ松浦先生の言葉を借りて、僕の代弁としたい。

自分にはとうてい理解できないことが世の中に存在するということ、労力を傾け時間を費やせばそれに或る程度は接近できるということ、しかし「何か?」と問い続けるその道には果てしがなく、だから人間精神の栄光としての学問を前にして人は謙虚にこうべを垂れなければならないこと―それらを知ることこそ、教養にほかならない。実際、教養という言葉にはそれ以外の意味はないのである。(p.46)

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May 14, 2007

自民党の「強さ」

今朝の朝日新聞を読むと、滋賀県の自民党県連はこの前の県議選で大敗したのを受け、栗東市に建設予定だった新幹線新駅について、嘉田由紀子知事と県議会の「多数派」に合わせて、知事の示す建設中止の対応を支持すると決めたそうだ。少し引用する

滋賀県栗東市の新幹線新駅建設問題をめぐり、自民党県連は13日開いた定期大会で、嘉田由紀子知事が示す解決策を支持する、との方針を正式決定した。出席 した中川秀直・同党幹事長は、4月の県議選で自民が惨敗した敗因が新駅問題だったことを認め、今後は嘉田知事に対し、「抵抗勢力ではなく、対話勢力として 臨む」と述べた。これで新駅建設の中止が確実な情勢となった。

最初これを読んで「良かったなあ」という気持ちと「ざまあみろ」という意地の悪い考えが浮かんだのだが、よくよく考えるとだんだん腹が立ってきた。

じゃあ何、今まであれだけ強硬に反対していたのに「抵抗勢力と見なされて選挙に負けるから(中川幹事長)」という理由で、これまでの意見を簡単にすっこめちゃうの?「勝てば官軍」とはいうけど負けたからって簡単に「官軍」にしっぽ振るわけ?
こういう無節操振りが、まさに「自民党」の本質であり、「強さ」でもあることにも腹が立つ。そう、弱さではなく「強さ」なのだ。このような性質だからこそ、自民党が戦後殆どの時期「与党」であったのである。実は自民党の真骨頂は、その政治信条というより、身も蓋もない「現状肯定」である。
まあ、地方と中央では自民党の性質も違うだろうし、組織が一枚岩であった試しもない(現在歴史学でもトレンドなのは、かつて一枚岩と見られていた組織の中のグラデーションの解析である)。でも、今回の事例は、自民党のいう政党のあり方を改めて僕のような愚鈍な者に示してくれたものといえるだろう。

そして、そういう「どうとでも動く見解」しか持たないような人々が、あたかも不屈の意志でもって「改憲します」なんてことを言っているから腹も立つわけである。政治家の人には、信条とか座右の銘で「天道我にあらば百万人と雖も我行かん」なんていう言葉を挙げる人も多いけど、くだらない部分にだけこの信条を貫く人が多いようだ(現首相含む)。

あと、言わずもがななんだけど、「戦後レジーム」って、90数%自民党が作ったものだと思うんだけどね、それを否定するってどういう事?残念ながら、戦後日本の屋台骨だったのは、左翼政党でも労働組合でも、ましてや日教組などではなく、自民党のはずなんだけど、それを否定するのというのは恐らく、「今の世の中はおかしい、変えなくてはならない」という世の中の雰囲気をそのまま自民党という怪物が「追認」したからであろう(改憲は結党以来の党是、などという言葉に騙されてはいけない)。

そして、その雰囲気に乗っかった改憲の行き着く先は、内田樹先生がいみじくも解説しているとおり、「改憲で日本が手に入れるのは「アメリカ以外の国と、アメリカの許可があれば、戦争をする権利」であり、それだけ」にすぎない。

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May 02, 2007

新聞掲載エッセイ

このところ忙しくて、こちらのブログはご無沙汰しておりました。
さて、4月30日の『京都新聞』の「フォーラム京」というコーナーにエッセイを掲載してもらいましたので、こちらにも転載したいと思います。これは京都の大学教員が、自分の専門に絡めて色々語る、という趣旨のコーナーで、僕もひょんな事から紹介していただき、書かせていただきました。新聞ということで、ちょっと大きく一般的な話題にしましたが、改めて読んでみると「僕はどうして宗教学なんかやっているのか」という告白に近いものがありますね、こりゃ。

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「心の時代」にみえる宗教性

川瀬 貴也

「衣食足りて礼節を知る」というが、ある程度の豊かさを達成した日本社会で「これからは心の時代である」と唱えられてから久しい。これは単なるスローガンや世間の雰囲気の問題ではない。例えば教育現場では小・中学生に対して『心のノート』が配布され(この副読本の課題として、お子さんに突然深遠な質問を受けて、戸惑った方も多いのでは?)、教育行政上も、昨年末改訂された教育基本法の条文を改めて読むと、「豊かな情操」「道徳心」「我が国と郷土を愛する」「人格を磨き」「自立心」など、「心」に焦点が当たっている部分が多いことが判る。「教育再生会議」という首相の諮問機関においてもボランティア精神などが説かれている。その他には、ニートやいわゆる「引きこもり」の問題についても、「コミュニケーション能力」など当人の「心」のありようが問題視され(筆者はそういう側面ばかりが喧伝されることに違和感を持っているが)、そしてテレビをつければ、「スピリチュアル」と銘打った番組や、占い師に芸能人が説教されている番組も見ることができる。そして大学においても「臨床心理学」という科目は非常に人気のある科目であり、カウンセラーを目指す者も多い。医療現場においても「スピリチュアルなケア」の必要性が説かれている。比喩ではなく、現在の我々の社会はまさに「心のありよう」が日常生活において大きな比重を占める「心の時代」となっているのだ。

さて、宗教社会学においては、科学の進展や、かつての共同体の絆が弱まることによって「宗教」の力は衰えると考えられていた。これを「世俗化」と呼ぶが、現実の世界を見ると、それに反するような動き、例えば新宗教の発展や「原理主義」の台頭、いわゆるオカルトの流行などが目白押しで、世俗化理論は何度も修正を迫られてきた。その有力な修正案の一つが「宗教とは呼ばない(呼べない)宗教性」を人々は様々なルートから補給しているのではないか、というものである。つまり、かつての教団中心の「宗教」ではなく、個人的な霊性を高めようとする活動(これが昨今話題となる「スピリチュアリティ」である)や、臨床心理学のように「心」を扱う学術的言説、カウンセリング、そして占いなども、現代社会において失われた「宗教性」の補給源なのではないか、ということである。このような視点から見ると、現代社会は実は「心」や「スピリチュアル」という表現を取る「宗教の代替物」で溢れている時代と診断することも可能である。

また、思わぬ方向から「宗教性」が要請されることもある。例えば生命科学の発達によって、従来想像もできなかった技術が可能になったが、その倫理的な線引きをどうするかということも重要な現代的課題である。とりわけ先端医療の現場における脳死臓器移植、安楽死、遺伝子治療や余剰胚、ES細胞などをめぐる議論に、科学者のみならず宗教家も多数発言をしており、その是非に関して理由付けがなされている。特定宗教の立場からでなくとも、これらの問題に我々が感じているかすかな違和感、これこそが「現代人の宗教的感覚」と言って良いかもしれない。

いわゆる「宗教」離れは、1995年のオウム真理教の事件が非常に大きな影を落としている。既成宗教に対する不信感も、あの事件をきっかけに顕在化したと言ってよいだろう。しかし、ここまで述べてきたように、我々は実に「宗教的」なものに囲まれて日常生活を送っている。単に「宗教」を嫌うのではなく、言葉は悪いが宗教性を「飼い慣らす」方向を模索するときに来ているのではないだろうか。その「飼い慣らし方」によってはいわゆるカルトの「ワクチン」になるかも知れないし、「心の時代」と言いつつ人間性が疎外されていく情勢へのワクチンにもなるのではと、かすかにだが期待したい。

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