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May 02, 2007

新聞掲載エッセイ

このところ忙しくて、こちらのブログはご無沙汰しておりました。
さて、4月30日の『京都新聞』の「フォーラム京」というコーナーにエッセイを掲載してもらいましたので、こちらにも転載したいと思います。これは京都の大学教員が、自分の専門に絡めて色々語る、という趣旨のコーナーで、僕もひょんな事から紹介していただき、書かせていただきました。新聞ということで、ちょっと大きく一般的な話題にしましたが、改めて読んでみると「僕はどうして宗教学なんかやっているのか」という告白に近いものがありますね、こりゃ。

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「心の時代」にみえる宗教性

川瀬 貴也

「衣食足りて礼節を知る」というが、ある程度の豊かさを達成した日本社会で「これからは心の時代である」と唱えられてから久しい。これは単なるスローガンや世間の雰囲気の問題ではない。例えば教育現場では小・中学生に対して『心のノート』が配布され(この副読本の課題として、お子さんに突然深遠な質問を受けて、戸惑った方も多いのでは?)、教育行政上も、昨年末改訂された教育基本法の条文を改めて読むと、「豊かな情操」「道徳心」「我が国と郷土を愛する」「人格を磨き」「自立心」など、「心」に焦点が当たっている部分が多いことが判る。「教育再生会議」という首相の諮問機関においてもボランティア精神などが説かれている。その他には、ニートやいわゆる「引きこもり」の問題についても、「コミュニケーション能力」など当人の「心」のありようが問題視され(筆者はそういう側面ばかりが喧伝されることに違和感を持っているが)、そしてテレビをつければ、「スピリチュアル」と銘打った番組や、占い師に芸能人が説教されている番組も見ることができる。そして大学においても「臨床心理学」という科目は非常に人気のある科目であり、カウンセラーを目指す者も多い。医療現場においても「スピリチュアルなケア」の必要性が説かれている。比喩ではなく、現在の我々の社会はまさに「心のありよう」が日常生活において大きな比重を占める「心の時代」となっているのだ。

さて、宗教社会学においては、科学の進展や、かつての共同体の絆が弱まることによって「宗教」の力は衰えると考えられていた。これを「世俗化」と呼ぶが、現実の世界を見ると、それに反するような動き、例えば新宗教の発展や「原理主義」の台頭、いわゆるオカルトの流行などが目白押しで、世俗化理論は何度も修正を迫られてきた。その有力な修正案の一つが「宗教とは呼ばない(呼べない)宗教性」を人々は様々なルートから補給しているのではないか、というものである。つまり、かつての教団中心の「宗教」ではなく、個人的な霊性を高めようとする活動(これが昨今話題となる「スピリチュアリティ」である)や、臨床心理学のように「心」を扱う学術的言説、カウンセリング、そして占いなども、現代社会において失われた「宗教性」の補給源なのではないか、ということである。このような視点から見ると、現代社会は実は「心」や「スピリチュアル」という表現を取る「宗教の代替物」で溢れている時代と診断することも可能である。

また、思わぬ方向から「宗教性」が要請されることもある。例えば生命科学の発達によって、従来想像もできなかった技術が可能になったが、その倫理的な線引きをどうするかということも重要な現代的課題である。とりわけ先端医療の現場における脳死臓器移植、安楽死、遺伝子治療や余剰胚、ES細胞などをめぐる議論に、科学者のみならず宗教家も多数発言をしており、その是非に関して理由付けがなされている。特定宗教の立場からでなくとも、これらの問題に我々が感じているかすかな違和感、これこそが「現代人の宗教的感覚」と言って良いかもしれない。

いわゆる「宗教」離れは、1995年のオウム真理教の事件が非常に大きな影を落としている。既成宗教に対する不信感も、あの事件をきっかけに顕在化したと言ってよいだろう。しかし、ここまで述べてきたように、我々は実に「宗教的」なものに囲まれて日常生活を送っている。単に「宗教」を嫌うのではなく、言葉は悪いが宗教性を「飼い慣らす」方向を模索するときに来ているのではないだろうか。その「飼い慣らし方」によってはいわゆるカルトの「ワクチン」になるかも知れないし、「心の時代」と言いつつ人間性が疎外されていく情勢へのワクチンにもなるのではと、かすかにだが期待したい。

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Comments

宗教離れのもうひとつに、ビジネスとしての宗教にうんざりしているってのもあるのかもしれませんね。

結局、何やるにしても先立つものがないと出来ませんし、いいこと言ってる様で、裏で何でもやってしまう新興宗教とか、結局ビジネスライクになってしまって、本来の信心とか、心のよりどころって言う前に「じゃあ、まずお金払ってから聞きましょう」みたい、感じがあって、結局そこかよって感じでしょうしね。

ただ、人は何かにすがりたい、何か信じるものがあってこそ、力を発揮できる人も多いので、そういう人にとっては、宗教、信仰って、エネルギーの元なんでしょうね。まぁ、本来そうあるべきなんですけどね…。

まぁ、アタシは音楽「狂」なんで、あんまり知ったかぶってもたかが知れてるので、この辺で…
けど、健全な宗教って数少ないですよね…残念ですが…
結局みんな、自分が大事なんですよね…

アーパパさま、コメントありがとうございます。

>ビジネスとしての宗教

まあ、宗教家・聖職者も霞を喰って生きていけるわけではないので、どうしても経済的なものが絡んでしまいますが、その匙加減―というと関係者には怒られそうですが―で、もしかしたら「胡散臭さ」は結構解消できるのでは、と俗っぽい宗教学者としては考えちゃいます。
でも難しいのは、宗教は普通の商行為のようなお金のやりとり、つまり「対価」を扱っている商売ではない、ということなんですよね。ある人にとってはぼったくりと見えても、ある人にとっては「こんなの安いものだ」と思ってしまう。まあ、コンサートのチケットも似たようなものかも知れませんが(笑)、「宗教」や「芸術活動(大雑把に言ってしまいましょう)」は払ったお金以上の何かを期待しているもので、それでつい値がつり上がる、ということがあると思います(逆に言うと、払ったお金の分くらいしか喜ばせてくれたりしないものを、我々は宗教や芸術とは呼びません)。
僕としては、上記の文章で「飼い慣らす」という表現をしていますが、自分の「宗教的なものを消費する欲求」とでもいうべきものを意識すれば、そうそう「騙される」ということもなくなるんじゃないだろうか、という思いで書きました。

最近身内の葬式があったんですが、
猛烈に形が必要だなぁと実感しました。
なんとかしなきゃ、という切実な気持ちに自然となりました。
結婚式って、想像ですが、割と気軽に人前式とか考えると思うんですが、
葬式は宗教だと痛感。

だいだいさん

>猛烈に形が必要だなぁと実感しました。

僕もそう思います。自分らしく、葬式を設計することも考えてはいるのですが(ちなみに結婚式は人前式で行いました)、いざというときには「仏教式のお葬式でいいや」と遺言してしまいそうです、僕も。
宗教的な葬式が廃れないのにはそれなりの理由があるのだと思います(宗教学では、儀礼の象徴体系がどーらたこーたら、とか分析しますが、固いことは抜きで)。

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