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March 09, 2021

消去法だよ、人生は

東大文学部のサイトに「私の選択」という、先生方がなぜその専攻を選んで研究者となったのか、というのを回顧するエッセイコーナーがあります。僕も良く学生から「先生はなぜ宗教学(宗教研究)」をやることになったんですか?」という質問を受けることが多いので、ちょっとそのエッセイコーナーを真似して自分の来歴を振り返ることにしました。あと、こっちのブログはほとんど休眠状態なので、たまには記事を書いてみようかな、と思って書いてみました。ご笑覧ください。

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なぜ「宗教学」という学問に惹かれ、宗教学科(正確には宗教学宗教史学専修課程)を進学先に選んだのか。この問いに対しては、複数の回答を既に用意している。だが、こういう理由は要するに後知恵で、本当は何となく進学して、そのまま居座ったというのが真実に近い。だが、取り敢えず自分なりに過去を振り返ってみよう。
まず一つは父の存在。父は某銀行に勤めていたが、昭和一桁の父の働きぶりを見て僕がこんな「モーレツサラリーマン(死語)」に体力的にもなれないであろうことは、高校時代から見通せた。あと、父から時々講義のように聴く経済、株式、外国為替(円高、円安でどこが得して損するか、等)の話に興味が持てず、この時点で「経済学部(文Ⅱ)」は残念ながら、選択肢から除外。ついでに普通のサラリーマンを目指す、という選択肢も除外。高校卒業時には、漠然と研究者か教師かカウンセラー(医学部は無理だったので、心理職をとちょっと思っていた)になれればな、と思っていた。ここから「僕はこれがやりたい」と言うよりは「僕はこっち方面は無理だな」という「消去法」の人生選択がスタートした。
そして、ある意味大きなきっかけ、と後で振り返って思うのが、1980年代の「オカルトブーム」である。70年代から「超能力」や「こっくりさん」「心霊写真」などのオカルトのサブカルチャーはなじみ深いものだったし(規制の緩かったテレビでもよく特番があった)、例えばヒットした某少女マンガのせいで「私の前世は」云々という投稿が雑誌にあふれる、という現象をリアルタイムで見ていた。僕自身は前世を信じてもおらず、また霊感も皆無だったが、「彼岸の世界に此岸が左右される」という現象に興味を持ったのは確かだ。
高校時代は、姉や兄が大学の一般教養の講義で購入させられたであろう社会学、文化人類学、精神分析などの書籍を拝借して斜め読みし、自分の関心は要するに「人の心及びそれが社会的にどう表出されるか」というところに収斂するのだな、とぼんやり自覚し、文学部の社会学科や心理学科、法学部の政治学科への進学を考えた。そして私立大学はいくつか法学部政治学科を受験し(ちなみに全滅した)、東大は進学振り分け制度によって考える時間がある、ということで文科Ⅲ類を選択し、ここには何とか入学することが出来た。この時点では、東大の中に「宗教学宗教史学専修課程」というのがあるというのも知らなかった。というより「宗教学」という学問の存在自体、入学後に知ったのである。宗教に関することなら何をしたって良い、という妖しげな雰囲気にまずは惹かれた(こう考える時点で、いわゆる京大を中心とした宗教哲学方面は選択肢から排除されている)。
入学後、いまのようにCAP制だの、そういう規制がなかった時代なので、取り敢えず興味のある授業は大体登録することにしたが、村上陽一郎先生の「科学史」(村上先生を見て、「ロマンスグレー」という言葉を知る)、宮本久雄先生の「哲学史」(先生が美声すぎたので、昼過ぎの講義は睡魔との戦いだったが)、船曳建夫先生の「人類学」(マグカップにお茶を入れて、漫談のように喋る講義に魅了された)、見田宗介先生の「社会学」(先生はいつもタートルネックのセーターを着ていらした、という思い出)などを聴講しているうちに、次第に自分は「宗教社会学的なものをやりたいのだな」との自覚を深めていった。とは言え、他の専門分野にも未練はあったが、例えば駒場の文化人類学は点数が足りない、教育学部の教育心理学科は、僕がおしゃべりすぎて傾聴能力がないのでカウンセラーになるのは無理、文学部心理学科のネズミや短期記憶の実験には興味が持てず、社会学科はちょうど教員の入れ替えの時期で僕の面倒を見てくれそうな先生がいらっしゃらない、等と逡巡しているうちに、中国語選択クラスの親友T君に「川瀬、一緒に宗教学科行こうぜ」と言われ、そうだ、宗教学という高校時代は存在も知らなかった学問分野だけど、ここなら好き放題できそうだな、と思い、急遽第一志望を「社会学科」から「宗教学科」に書き換え、僕はめでたく進学することになった。ちなみに僕の年度は定員いっぱい(15名)まで希望者がいて、先生たちを慌てさせた(確か数名、落とされたはず。彼らの行方は杳として知れない)。なぜこんな大人数になったかといえば、僕同様「適当な自分でも、好きなことができる」と目論んだ不届き者が多かったのもさることながら、大学内でさまざまな新宗教が活発に動いていた、という時代相も見逃せないと思う。統一教会、手かざし系の教団、そしてオウム真理教・・・。
要するに僕自身としては、そういう時代の空気を吸い込み、最初からジャーナリスティックな視点から新宗教教団を研究してみたい、という希望が入学後どんどん大きくなり、ちょうど島薗進先生がスタッフにいらっしゃったというのが決定的な「ご縁」であった。ちなみに僕は、島薗先生の姪御さん(先生のお姉様の娘)と大学の体育の授業が一緒で知り合いだったが、2年生の秋に彼女とすれ違ったとき「川瀬君はどこに進学することになったの」と訊かれ、「いやあ、宗教学科っていうマイナーな学科、選んじゃったんだけどね」と韜晦を込めて言うと「そこの助教授、私の叔父さん」と言われ、そんな関係を知らない僕は焦りまくり、のちに進学後の飲み会で「川瀬君のことは、ちょっと姪のT子から聞いているんだけどね」と先生から言われ、冷汗三斗、悪事千里を走るということわざが脳裏をよぎることとなる。
その後は、宗教学科の雰囲気、先生方のお人柄に魅了され、そのまま大学院に進学して今に至る。宗教学科進学以降は一本道な人生を歩んで来たので、幸いなことに順調と言えば順調だし、あまり起伏のない人生だったとも言える(起伏と言えるのは結婚と、その後の京都への着任くらいか)。ただ、二十歳になるかならないかの時、あれこれ迷ったあげくの「直感」で、その後の人生が決まってしまったことに、宗教的に言えばまさに「ご縁」の不思議さをかみしめている。

March 25, 2011

はなむけの言葉

皆さん、ご卒業おめでとうございます。この二週間ほどは、震災のために、めでたい雰囲気とはほど遠い日本ですが、皆さんが4年間の学業を終えられ、社会に巣立つ日であることには変わりありません。もし、ご親戚、知り合いの方が被災されていたなら、まずはお見舞い申し上げます。

皆さんは、この京都府立大学文学部国際文化学科の最後の学年として入学され、そして今卒業されようとしています。この一年は後輩もいない環境でゼミをこなし、卒論を書き上げました。個人的なことをいうと、8年間行なってきた川瀬ゼミも今年度が最少人数で、これくらいの人数なら、もっといい個人指導ができたはずですが、僕は例年通りの放任・放牧主義を貫き通したいと思っていましたから、「求めよ、さすれば与えられん。探せ、さすれば見つからん。叩け、さすれば開かれん(マタイ福音書7章7節)」という姿勢を崩しませんでした。もしかしたら、そこに物足りなさ、もしかすると不満をお持ちの方もいたかも知れませんが(実際、君たちの先輩で「こんなに指導してくれないとは思いませんでした」と卒業式の時に言ってきた人もいました)、どうぞご了承ください。でも自己弁護的なことを言わせてもらえるなら、「自分から動かない限り、世間(人)は動いてくれない」というルールを教えたことだけが、僕が知識以外で皆さんに教えられたことかも知れません。あとは、ゼミの際の、皆さんのどんな発表にも適当にコメントするという「口から出任せ」というか、お筆先ならぬ「お口先」というか、そういうのもお見せしましたが、そちらは見習わないでほしいと思います。あれにはそこそこの知識と、僕程度の軽薄さが必要になりますから、恐らく君たちには無理です。

さて、僕はこの学科で丸9年教えてきましたが、毎年のように後悔しきりです。後悔の理由は簡単です。要するに、自分が納得するまで君たちと付き合うことができなかった、ということです。もっと大規模な大学なら、クールに振る舞うこともできたのでしょうが、幸い、というか残念ながら、うちのような小規模大学では、皆さん学生に対して、「あっしには関係ないこって」というわけにはいきません。それでも、後悔は残ります。教員というのは、このような後悔を常に感じながら生きていくタイプの職業なのですから、仕方ありません。もし充分に私は教えきった、自分の職務を果たした、と思っているような人間なら、その人は教師と呼ぶに値しません。教師の「聖職性」というと大袈裟ですが、教師の倫理性は「私は常に与え足りなかった」と思うところにあるのですから。

ただ、僕が大学教員としてのキャリアをスタートさせた僕の30代がこの学科とともにあったことは、本当に幸せだったと思います。そのことに関しては、全くの後悔がありません。君たちに感謝する一方です。君たちや君たちの先輩たちは、僕の予想を上回る成長を見せてくれたり、人間的なすばらしさを見せてくれました。
なお、言うまでもありませんが、大学時代の友人は、後々まで重要な存在です。君たちは、出会うべくしてこの大学であって友人同士となった。その縁を大切にしてください。我々教員のことは、それほど憶えていてくださらなくて結構です。学生は、常に「恩知らず」であっていいのです。ただ、僕の中には君たちが、そして君たちの中には、友人や我々教員の「欠片」が既に忍び込んでいるはずです。そういう意味では、人は過去に関わり合った人を「存在するとは別の仕方で(エマニュエル・レヴィナス)」常に感じ、生きていくしかありません。もし、皆さんが人生の困難にぶつかったとき、その「欠片」が何らかの効力を持っていたら、と願わずにはいられません。
以上、皆さんの前途を祝し、はなむけの言葉としたいと思います。改めて、おめでとう。君たちは素晴らしい学生たちでした。

March 24, 2010

はなむけの言葉

みなさん、ご卒業おめでとうございます。

「何とかここまで来たか」と4年以上大学にいたせいで感慨にふける人もいれば、「え、もう学生生活終わりなの?」と嬉しさ半分、とまどい半分の人もいることでしょう。送り出す側の我々教員も、君たちの学年がもう卒業かと、不思議且つどことなく寂しい気持ちになっています。この寂しさは、毎年感じているものです。僕はあと、この寂しさを何回感じることになるのかな、と考えていたら、ますます哀しくなったので、もう止めますが。

今日、学科ごとの学位記授与の場で、我々教員は一言ずつ皆さんにスピーチしました。もう内容は憶えていらっしゃらないかも知れませんが(僕自身も、自分で何を言ったかは既に忘れました。お腹も減っていたし、謝恩会もあるだろうしと、とにかく短くしたつもりです)、ある先生がおっしゃったように、皆さんは、我々教員および学科の仲間との繋がりというものを否応なく「獲得」なさったわけで、是非この「縁」を大事にしていただきたいと思っています。
もちろん、みんながみんないい人とか、相性が合うなんてことはなかったはずですし、僕も皆さん全てにいい顔をしたなどとは思っていません。でも、恐らく、僕の乏しい経験からも思いますが、余り損得とかを考えずにつきあえる人間関係、というのは年をとるほど(残念ながら)少なくなってくるものです。大学時代に培われた「縁」というのは、そういう意味で、今後の人生のある意味「根っこ」「ホームグラウンド」になってくれるものだと思います。
大学での学びについていえば、これは毎年言っていることですが、我々、特に文学部では「応用」よりも「基礎」的なことを皆さんにお伝えしたつもりです。つまり自分で調べ、確認し、まとめて、自分の言葉で言い直す、という作業の集大成が卒論だったわけですが、その出来不出来はともかく、これは社会に出てからも「やることは同じ」だと、社会に出たことのない我々大学教員も自信を持って断言できます。皆さんは、それを成し遂げたのですから、自信を持ってください。卒論を書き終えて「人生、何とかなるものだ」とか「人生は思った以上に甘い」と思えたら、我々の教育は「成功」したことになります。

これまた別の先生がおっしゃいましたが、卒業生がひょっこり大学を訪ねてくれることほど、我々教員にとって嬉しいことはありません。何かの折には、是非また我々の研究室をお訪ねください。君たちに対する扉はいつでも開いています。

それではいつまでもお元気で。
皆さんの前途を祝します。

March 24, 2009

はなむけの言葉

みなさん、ご卒業おめでとうございます。
早いもので、僕もこの大学に赴任して丸7年、つまり卒業式も7回見たということになります。皆さんにとっては一生で一度、我々教員にとってはある意味「ルーティーン」な出来事です。ですから、実は皆さんに申し上げる言葉もありきたりというか、毎年同じ事になります。

一つ目は、いかに我々教員が君たちの指導に苦労したか、ということ。幸いに、というか、不幸なことに、楽した学年なんてものは存在しませんでしたし、これからも存在しないでしょうから「あの時君は・・・」というネタは、いわば定番メニューです(毎年言っていますが、結婚式の時のスピーチを僕にやらせるときは、それ相応の覚悟をしておいてください)。
最近のことで言うと、勿論卒論の苦労がありましたね。今年も例年の如く指導に色々苦労しましたし、口頭試問で矢襖になって討ち死にした諸君も多く、僕まで巻き添えというか、いやはや大変でした。今年は特に「最後にはどうにかなる」と楽天的に考える僕の悪い癖を真似てしまう諸君が多かったのですが(僕を慕ってくれたのは嬉しかったのですが、こんな悪い癖まで真似しないで欲しかった)、社会に出たら、もう少し慎重になった方が良いかもしれません。

二つ目は、大学時代に学んだことを大事にし、大学時代の友人を大切にして欲しいということ。大学時代に学んだことは、社会に出てすぐに役に立つような「テクニック」ではありません。特に皆さんの学んだ文学部ではそうですが、根本的なことを学んだことは間違いありませんので、その点は自信をもってくださって結構です。資料を集めて、それを整理し、筋道を考えまとめる、という作業は卒論で(出来不出来はあっても)成し遂げたはずです。こういう事は、社会に出ても「やることは一緒」です。
友人を大切にしろ、なんて僕などから言われなくても、皆さんは実行なさると思います(特に、君たちの学年は仲良かったしね)。でも、年を取れば取るほど、若い時代の友人というのはありがたくなってきます。実は先日、大学時代の同級生が旅行の途中だと京都に立ち寄り、彼と久闊を叙したわけですが、会った瞬間に「俺・お前」「馬鹿言うんじゃねーよ」「お前も偉そうに」などとぞんざいな口をきける友人というのは、本当にありがたいです。社会に出たら、君たちも否応なく摩擦係数の小さな言葉を選んで生活しなければならないのですから(僕だって、同僚と喋るときは気を遣っていますよ。もしかしたら先生方で「あれで川瀬は気を遣っているの?」と目を剥く方がいらっしゃるかもしれませんが)。そうそう、自分を批判してくれる友人というのは、本当に一生の宝ですよ。大学というのはそういう友人を作る場所だと言っても過言ではありません。

三つ目は「元気でいてください」、ただこの一言です。もちろん、皆さんが社会に出て、第一線でご活躍なされば、「出藍の誉れ」と僕たち教員も鼻高々ですが、数年後に「最近調子はどう?」「まあまあです」という当たり前の会話が交わせられれば、充分です。

皆さんのご多幸をお祈りします。

November 19, 2008

誕生日ゼミコンリターンズ

20081119_seminar_001 さて、いきなりですが、今日は僕の誕生日でした。うーん、月日の流れるのは早い。
ということで、学部ゼミの諸君が企画してくれて、放課後に僕の誕生日会及びゼミコンパをやってしまおうという話になって、四条木屋町に向かいました。
もう30代の後半になってしまいましたが、目の前にいる諸君はそのほぼ半分くらい、と思うとクラクラしてしまいます。数年前までは「お兄さん」のつもりでしたが、これからは最早「父親」のような気持ちでないとまずいかも知れません。
それはともかくとして「先生、お誕生日おめでとうございます」と祝ってくれる学生諸君を持っ20081119_seminar_006て、僕は幸せだなあ、と加山雄三の口調で思っていたら、「では先生、お待ちかねのものを・・・」と言われ、目をやると、去年にもまして、やたらでかい袋、つまり僕の誕生日プレゼントが用意されていました。「舌切り雀」とかの昔話から言われているように「大きなものには福がない」のがこの世の定め、僕も覚悟を決めてそれを受け取り、同じ居酒屋の他のグループの皆さんも注目する中(これだけ大きな袋だと、注目せざるを得ないでしょう)、中を開けてみると、去年にも増して嫌がらせの度合いが高いドイヒーなブツが色々出てきました(「ドイヒー」とは「モヤモヤさまぁ~ず2」でよく使われる「ひどい」という言葉の業界用語調です)。一番大きいのが、写真にあるような、女性のボディラインをかたどったハンガー。何、これ。どうやって僕に使えというのか。隣のグループ(会社の仲間か、合コンか判然とせず)も思わず失笑。何でこんなものまでヴィレッジ・○ァンガードには売っているのかと、かの店を恨みたくもなります。

20081119_seminar_022 他にもらったものをまとめて紹介すると、エガちゃんこと江頭2:50の来年度のポスターカレンダー(これは研究室に貼るかも)、北海道のお下品おみやげとして名高い「まりもっこり」の「もっこりパワードリンク」(僕はそっちの心配まで学生にされているのか)、おしゃぶり型の飴(フロイト的には、既に僕は口唇期を過ぎているのだが)、以前受けを狙う予備校教師がよく使っていた指示棒(先っぽに手が付いている)などです。あと、ポストカードに寄せ書きをしてくれていて、これだけは素直に感謝&感動。

折角エガちゃんのカレンダーをいただいたので、その場でゼミ生諸君に「毎回の出席よりも、1回の伝説的発表を」と訓示を垂れました。まあ、本当にそんなことをされたら困りますが。

その後はいつものコースなのですが、河原町のROUND1に行き、プリクラを撮り(みんな、好きねえ)、ボウリングを少しして、その後ダーツ(これは僕の強い希望)と遊び倒してしまい、午前様で帰宅。

この企画を立ててくれた諸君には本当に感謝していますが、去年のブツといい、どうしよう・・・。

March 24, 2008

はなむけのことば

みなさん、ご卒業おめでとうございます。
何とか卒業に漕ぎ付きましたね。めでたしめでたしのハッピーエンドです。皆さんの学業の集大成たる個々人の卒論に関しては、何ともかんともここでは申し上げませんが、学年担任としてはとりあえず胸をなで下ろしております。早く忘れましょう。僕も忘れることにします。

さて、約4年前、僕は学年担任として皆さんと対峙し、今日この日を迎えたわけですが、この4年間、皆さんにとってはどういう年月だったでしょうか。残念ながら、君たちの卒業するこの国際文化学科は統廃合され、僕としても君たちがこの学科で受け持つ最初で最後の学年になってしまいました。
最後ですから正直に言いましょう。君たちの学年は、教師の僕にとって、扱いやすい学年ではありませんでした。一番それを自覚しているのはみなさんかも知れませんが。
まず、新入生合宿の時から大暴れしてくださいましたからね、君たちは(暴れたのはごく一部の人ですが、印象は強烈です)。あと、勉強は言われなければしない、提出物も急かされないと出さない、音信不通になる、事故を起こす、卒論は最後まで冷や冷やさせられるなど、何故僕はこの学年の担任なのか、などと思い、これは仏教用語でいえば「宿業」とでも言いましょうか、僕は前世で何をしたんだとか、はたまた君たちはもしかしたら僕にとってネガティヴな意味での「善智識」なのかも知れないなどと自分を慰めました(善智識、というのは、元々正しい信仰に導いてくれる人間や、そのきっかけを作ってくれる人の事です)。
まあ、逆の立場から見たら、何でこんなのが私たちの担任なの、という可能性もありますから、お互い「成長するために神様がくれた試金石のような存在だった」とお茶を濁しておきましょう。我々が出会う事を仕組んだのは、どこの神様かは判りません。そういう事は宗教学の教科書には書いていませんので。

さて、皆さんは悔いのない学生生活を送ったでしょうか。もしそうならば幸いですが、たいていの人は、一つか二つ、悔やんでも悔やみきれない出来事があったかと思います。
後悔、というのは2種類あります。「やってしまった事」を悔やむ場合と、「やれなかった事」を悔やむ場合の二つです。前者の「やってしまった後悔」というのは、誰しもが覚えがあるでしょう。僕も良く過去の過ちを突然布団の中で思い出して、足をジタバタさせて眠れなくなる、ということがあります。そして後者の「やれなかった事」を悔やむ場合は、実は足をジタバタさせるどころの話ではありません。ああすれば良かった、こうすれば良かったという未練は、静かに心の底に張り付いて、「あったかも知れない未来」にまで空想(妄想)は拡がり、「何でああしなかったんだろう」という思いは酸のように心を腐食させていきます。そうしてできた顔の翳りを見て人は「大人になった」というのです。ですから、皆さんがまだ大人の顔になりきれていないのは当然です。「青春」とは、そういう「大人」が、やらなかったことによって永遠に閉ざされてしまった「可能性」に対して後から名付けたものだからです。まあ、僕や他の先生方の顔が真に「大人」であるかは、皆さんが判断してください。年の割に老けている、という事ではありませんよ(大学教員は、若い皆さんのお相手をするせいか、年の割に子供っぽい人が多いのは、君たちが一番よくご存じでしょう)。
君たちはとりあえず今は「やってしまった(あんな卒論を書いてしまった、とか)」ことを後悔してください。「やらなかった事」に対する後悔は、もう少し後でも良いでしょう。僕などは君たちに対して「もっとちゃんとした授業をしてあげれば良かった」「もっとちゃんとした卒論指導をしてあげれば良かった」「もっと根性をたたき直してあげれば良かった」という「やらなかった事」に関する後悔で胸が一杯ですが。

最後に、もう一言だけ。最近の若い者は・・・という言葉を言い出したら年を取った証拠であるとか、この言葉はエジプトのヒエログリフにもあっただとか、色々言われていますが、「義務」と「権利」について、最近の若い者は「権利」ばかり言い募って、「義務」を果たさない、なんていう愚痴が、日本中の居酒屋でビールジョッキの数ほど語られてきた事でしょう。僕も、今回は敢えてそれに便乗します。君たちは「不幸になる権利」ばかり行使して、「幸福になる義務」を果たしていないと。人間は「幸福になる義務」があるって、知っていましたか?あるのです、そういう義務が。辛い義務ですけど。これからの人生、是非この義務を果たす事に邁進していただきたいと思います。これが僕のはなむけの言葉です。

November 22, 2007

「何故人はそう考えるのだろうか」という問い

今日は、大学で僕のゼミ(討論形式の授業)を取っている学生さんに向けての、ちょっと抽象的な「お説教」です。

最近、ようやくゼミや基礎ゼミ(基礎講読)で「自分の意見」というか、とにかく「声」が上がってきたのはよい傾向だと思います。僕は気が弱くて、ゼミでシーンと沈黙が一分以上続こうものなら、ついついおしゃべりを始めてその間を埋めようとしてしまいがちなのですが(僕の雑学が最も活かされる瞬間でもあります)、この頃はそういうことをしなくても良くなってきて、僕としては、少し楽になってきました。
当然君たちが口にするのは「私の意見」なわけですが、ちょっと皆さん、「私の意見」を言うのと同時に考えて欲しいことがあります。それは「他人の意見」というか、自分とは違う見解を持った人への想像力です。
「私はこう思います」、もちろんこれは重要です。ここから全ては始まりますが、「私は何故こう思うのだろう」という自己省察、そして「何故他の人は私と同じように考える(もしくは考えない)のだろう」というところまでいって、ようやく「学問的」になるのです。「私はこう思う」だけでは、残念ながらダメなのです。

例えば、現在2年生の基礎ゼミでは、明治以降の「天皇制」の問題の簡便な本を今読んでいます。そしてコメントとして「私は天皇(制)には関心がありません」「皇位継承なんかよりももっと大事なことがいくらでもあるだろう」と言うのは簡単ですが(僕だって、そうは思っています)、「何故、ある人にとっては、天皇の跡継ぎ問題があたかも日本の死活問題のように語られるか」「何故天皇制は昔あれほどの力を振るったのか」というところまで考えて欲しいわけです。「私の感覚」をとりあえず一旦棚に上げて、自分とはある意味対立するような意見にはどんな論理が隠されているか、というのを考えることも大事なのです(論破するのはその後です)。

自分の意見を言うのは第一段階、他人の意見を聞くのは第二段階、そして、その場にいないような人の意見をも忖度し、その上で自分の意見を述べる第三段階まで行って欲しいと僕は思うのです(別に「弁証法」とか、そういう言葉は覚えなくても良いから)。
要するに、せっかくの発言ですから、一方的なものではなくて、双方向的なものを目指して欲しいってだけの話なんですけどね。

November 19, 2007

ゼミコン兼誕生日会

071119birthday_004 今日は僕の誕生日でした。人生三度目の年男です。
そこで、主に三年生が中心となって、ゼミの後そのままお祝いの飲み会をしてくれるという事になりました。ありがたい事です。実は、今日の飲み会、今年初めてのゼミコンパでした。というのも前期は、ゼミの直後に組合のお仕事が毎週あったので、そのまま飲みに行くという事ができなかったんですよね。というわけで、本来は春先に自己紹介を兼ねて早めにすべきところでしたが、こんな冬直前に第一回目の川瀬ゼミコンをやる事になりました。
参加者は16名ほど。場所は四条木屋町の焼き肉屋(恐らく最近オープンした店だと思いま071119birthday_005 す)。焼き肉、というのは、僕がゼミ生の若さを考慮して選んだのです。コンパ幹事からどういう店が良いですか、といわれた時、皆さん若いから肉でもがつがつ食ったら、といいました。僕自身はもう油が抜けて、肉よりも魚や大豆製品を選ぶ大人になっていますが。
幹事のN山さんの発声で乾杯して、みんなに祝ってもらいます。こんなにも複数の方から祝っていただけるなんて、幸せ者ですね。数年前は母から「あんた、京都で独りの誕生日で寂しないん?」という電話が来て死亡しましたが(お母さん、気遣いありがとう)。
時間制限の食い放題、飲み放題の店なので、みんなハイペースで飲み食いをします。ホント、若いなあと思いましたね。あっという間に肉はなくなっていきます。まあ、僕もそこそこいただきましたが。
071119birthday_006 そして、宴もたけなわになった頃、学生諸君から僕に誕生日プレゼントが贈られました。実は、一緒にこの焼き肉屋に行く途中で、学生が持っているやたら大きな紙袋になにやら「やばい」ものを感じていたのですが、その予想は当たりました(できれば当たって欲しくはありませんでしたが)。
まずは、ゼミ生のみんなからの寄せ書き(ポストカードにでしたが)が贈られました。これには素直に泣かされました。先生稼業をやっていて良かったなあ、と思う瞬間ですね。ところが、紙袋の中から不穏なものが次々と取り出されます。上の写真から説明しますと、謎の「羽仮面」「キューティーハニー飴(一つだけ「ハニー」ではない味のが入っているロシアンルーレット飴、だそうです)」。この羽仮面を付けたり、どさくさに持ってこられていたカツラをかぶったりした僕の写真は、何人かの学生諸君の携帯電話に収められた事でしょう(このブログにおいては倫理上まずかろうと思い却下)。そういうアホな事をしているのを尻目に、表情も変えずに「カルビお待たせいたしました」と肉を持ってくる従業員のお姉さんにプロ意識を感じたのは、また別の話。そして、目玉親父が張り付いている「湯飲み」。まあ、これは071119birthday_007可愛いので、早速明日から研究室で使わせてもらいましょう。で、問題は、大きな紙袋の90%を占めていたブツでした。今更新婚さんでもないのに、ベルばら調の「イエス・ノー枕」が進呈されました。これらのブツは、大学近くのビレッジ・ヴァンガードで揃えてきたそうです。こんなのまで売ってやがったとは。思い切って、客人用の枕にしてやろうか、と血迷いかけました。というわけで、最初の寄せ書きで感涙させられ、他のプレゼントでは別の意味で泣かされたわけです。

一次会のあとは、一応解散という事になって、まだ時間のある人間だけで、近くのゲームセンターに行ってプリクラを撮りました。プリクラなんて、何年ぶりなんだか。そこで無駄に凝りまくったプリクラを撮影し(その写真を今は携帯に送れる時代になったんですね。驚き。今、僕の携帯の壁紙はそのプリクラ画像です)、久々にUFOキャッチャーやレースゲーム、クイズゲーム、「太鼓の達人」などに興じてしまいました。僕はUFOキャッチャーで、なんとお菓子の箱(ラムネやガム)を3ハコも取る大漁振りで、無駄な才能がある事を学生に見せつける結果となりました(来週のゼミで、みんなに配る予定)。

いやあ、今日は遊んだ遊んだ。今日は本当に楽しかったし、嬉しかったです。みんなありがとう。みんな良い学生で、先生、マジで感激しました。
将来羽仮面を付ける機会があるのかどうか判りませんが(週末の学園祭で使ってやろうか)、とりあえず大事にします(というか、押し入れの奥にしまうしかないだろ、枕と羽仮面は)。お休みなさい。

August 03, 2007

学歴ではなく「批判する友人」の有無

何か、安倍政権がダッチロール中である(もちろん、同情などしないが)。特に先日の赤城農水相の辞任はタイミングといい態度といい、政権与党にとっては考えられる最悪の「置きみやげ」だったといえるだろう。赤城さん、ニュースで知ったけど、東大法学部出て、官僚も経験した人だったんですね。やれやれ。

さて、安倍氏が首相になってから、ネットのあちこちで彼の「学歴」を云々する声を聞いた(というか、読んだ)。まあ、僕も彼のやり方や答弁があまりに稚拙なので、「安倍は所詮成蹊で(しかもエスカレーター)」というネット上の揶揄もそれほど気にとがめず聞き流して、時には「あの我妻栄と東大法学部の首席を争ったお祖父ちゃん(岸信介)を尊敬するのは良いけど、もうちょっとお祖父ちゃんを見習って(もしくはお父さんでも良いけど)お勉強しなかったのかね」と冷笑していたのも事実(念のため付け加えておきますが、僕は成蹊大学に対して含むところは全くありません。優れた卒業生は山ほどいるし、優れた先生もたくさんいらっしゃいます。僕の親戚もいたし)。

だが、そういう問題じゃないということが、この数ヶ月で明らかになったと思う。

そもそも学歴なんていうのは、十代の終わりに、ある「クイズ解答能力」の出来不出来を競っているだけの話であって、それだけで全てを語ろうとするのは勿論できない。日本人が過剰に学歴にこだわるのは、血筋や家柄を否定した近代国家の宿命だとは思うが、僕は学歴、というより大学というのはどのような場所かというのを考えて、一つ思い至った。
それは「自分を批判してくれるような友人に出会う場所」ということである(高校とかで出会う可能性もあるけど、やはり大学の方がそういう友人には出会いやすいだろう)。田舎で一番だった秀才が大学に入ってみたら、それこそ大学内偏差値が50くらいである自分に気付き落ち込む、というパターンは良くあることだが(実は、僕もそうだった)、そこで腐るか、めげずに友人から何かを吸収するかということで、その後の人生は大きく変わると思う。そういう友人(時には教員の場合もあるかも知れぬ)、自分をある意味知的に叩きのめしてくれる人に出会わなければ、大学に入った値打ちは半減すると僕は思っている。そういう人に出会えなかった人、そういうのはどんないい大学出ていようが実は「使えない人」であるとさえ僕は思う。

「僕は、あの人に、勝ちたい」とアムロ・レイのようにメラメラと闘争心を燃やすもよし、もうちょっと消極的に「あの人には、バカにされたくない」と見栄を張って難しい本にチャレンジするもよし、それが大学生活ってものです。この「見栄」っていうのは自分を高めるときに不可欠なもの。僕もそうしてサークルの先輩に「なかなかやるじゃない」といわれることを目標に成長したと自分で思っています。そういう意味で、「壁」になってくれた先輩や友人に感謝です。

で、安倍首相の話に戻るが、彼のあの「頑迷さ」は、それこそ大学で傾聴すべき意見を言う友人、現在なら自分の至らなさを批判してくれる人に、これまでの人生で恵まれなかったからではないか、と想像する。勿論、彼にも友人はいくらでもいるだろう。ただし、古諺にいうように「忠言、耳に逆らう」を体するような友人か否か、ということだ。安倍さんのこのところの言動を見るに、人から意見を聞き、自分を省みて自分を変えていくという「身構え」が、彼には欠落しているのではないかと疑いたくもなる。
恐らく赤城さんもそうではないか?つまり「人から見て自分はどのように見えているか」という視点を得る機会を逃し続けたなれの果てが、ああいうみっともない姿ではないのか、と失礼な推定をしたくもなるのだ。そういうのに、学歴もへったくれもない。

May 18, 2007

戦慄する講義

先日、別ブログでパワポのプレゼンには向き不向きがあるよねとか書いたら、予想外の反響があったが(僕の意図を取り違えているのも見受けられたが、そういうのもネットの定め、仕方なし)、昨日東京大学出版会のPR誌『UP』5月号を読んでいると、我が意を得たりというエッセイがあった。

松浦寿輝先生の「かつて授業は「体験」であった」というエッセイである。

パワポを使った分かり易いプレゼンなどというのとは位相(というか次元)の違う「体験」の思い出話である(松浦先生は「最近は学生による授業評価も盛んで、パワポを使ってわかりやすい講義を、などという声も聞かれるけど・・・」という感じで話の枕にしている)。
その先生の喋ることが殆ど判らないのにもかかわらず何故か耳を傾けてしまう、そして震撼させられてしまうような体験。松浦先生が提示するのは、そのようなある意味「戦慄する講義」の体験談である。
具体的に松浦先生は東大駒場の哲学教師であった井上忠先生の講義でそのような「体験」をしたそうだ。

何かとてつもない大事な事柄が、他の誰にもできないような仕方で語られていることだけはわかる。この人の発する言葉一つ一つの背後には、恐ろしいほどの知的労力と時間の蓄積が潜んでおり、膨大な文化的記憶の層が畳みこまれていることもわかる。だが悲しい哉、無知と無学のゆえに、わたしにはその内容を具体的に理解することができない。彼がパルメニデスについて、ヘラクレイトスについて、アリストテレスについて語っていることを理解するには、結局、本を読まねばならないのだ。沢山の、沢山の、沢山の本を読まねばならず、その道には終わりというものがない。わたしはそのことだけは戦慄的に理解した。井上先生の講義から 何らかの知識なり情報なりを受け取ったわけではない。彼の講義は単に、或る決定的な「体験」だった。ほとんど理解できない言葉のシャワーを浴び続けるという、恐ろしくも爽やかな、それは「体験」だったのである。(p.44)

自分の教養部時代を振り返ってみると、「戦慄する」とまでいわないが、ぽかんと口を開けて「すごいなあ」と感じ入るしかない講義というのはいくつかあった(逆に、買わされた教科書を読めば済むような講義はバカにしてほとんど出なかった。僕はそういう意味で決して真面目な学生ではなかった。出席を取る語学と体育と、本当に気に入った般教にしか出ない、という平均的な学生だったわけだ)。指折り数えると、村上陽一郎先生の「科学史」、宮本久雄先生の「哲学史」、船曳建夫先生の「人類学」あたりか。
これらの講義の共通点は、上記の松浦先生と似たような感想になるが「敵わないなあ」という一言に尽きる。当時の僕が無知なのは仕方ないにしても、その無知な学生をして「この人はどこまでいろいろなことを知っているのか(せめてその一端にでも触れたいものだ)」と戦慄せざるを得ないような「何か」が発言の端々ににじみ出ていたのだ。ついでに言うと、この先生方の講義は決して難しくなかった。むしろ分かり易い部類にはいるだろう(特に船曳先生の「人類学」はあまりの面白さに、最終回の時は自然と拍手が湧き起こったくらいだ。退官記念講義以外で拍手が湧きあがったのは、今のところ僕が目撃したのはこれだけ)。ただ、その内実が、先生方の分かり易い説明から自然と「はみ出ている」のを未熟な僕たちは感じていたのである。そのはみ出た「余剰の部分」に戦慄していたわけだ。

この数年で、僕がこのような講義を今まで一度たりともできたなどとは勿論思わない(面白かった、という評価くらいは学生諸君の何人かからは頂いているが)。一生出来ないかも知れぬ。性格的にも、どちらかというと、難しいことをかみ砕いて説明する質だし。
でも、「学生がなかなか理解できないにもかかわらず、それでも感動する講義を聴く体験」というのはあるのだ。それは僕も体験済みである。単純な言い方をすれば「難しいけど、面白い、もっと聞きたい」と思う「体験」である。そういうものを体験できるかどうか、というのが大学では決定的に重要である。大学の教員からだけでなく、例えば同級生や先輩から自分の未熟ぶりを指摘され、たたきのめされるという「体験」も重要だと思う。例えば「パワポの説明が分かり易かったです」「プリントが多くて良かったです」というような感想は些末なことであって、学問的な「感動」というものとは縁遠いもの、というのが個人的な気持ちだ。

僕の考えは、今や「反時代的」な教養主義の一つであろう。それは重々自覚しているが、それでも大学はそのようなものを大事にするという「建前」を無くしたら終わりだと、密かに思っている。もう一つ松浦先生の言葉を借りて、僕の代弁としたい。

自分にはとうてい理解できないことが世の中に存在するということ、労力を傾け時間を費やせばそれに或る程度は接近できるということ、しかし「何か?」と問い続けるその道には果てしがなく、だから人間精神の栄光としての学問を前にして人は謙虚にこうべを垂れなければならないこと―それらを知ることこそ、教養にほかならない。実際、教養という言葉にはそれ以外の意味はないのである。(p.46)