March 24, 2008

はなむけのことば

みなさん、ご卒業おめでとうございます。
何とか卒業に漕ぎ付きましたね。めでたしめでたしのハッピーエンドです。皆さんの学業の集大成たる個々人の卒論に関しては、何ともかんともここでは申し上げませんが、学年担任としてはとりあえず胸をなで下ろしております。早く忘れましょう。僕も忘れることにします。

さて、約4年前、僕は学年担任として皆さんと対峙し、今日この日を迎えたわけですが、この4年間、皆さんにとってはどういう年月だったでしょうか。残念ながら、君たちの卒業するこの国際文化学科は統廃合され、僕としても君たちがこの学科で受け持つ最初で最後の学年になってしまいました。
最後ですから正直に言いましょう。君たちの学年は、教師の僕にとって、扱いやすい学年ではありませんでした。一番それを自覚しているのはみなさんかも知れませんが。
まず、新入生合宿の時から大暴れしてくださいましたからね、君たちは(暴れたのはごく一部の人ですが、印象は強烈です)。あと、勉強は言われなければしない、提出物も急かされないと出さない、音信不通になる、事故を起こす、卒論は最後まで冷や冷やさせられるなど、何故僕はこの学年の担任なのか、などと思い、これは仏教用語でいえば「宿業」とでも言いましょうか、僕は前世で何をしたんだとか、はたまた君たちはもしかしたら僕にとってネガティヴな意味での「善智識」なのかも知れないなどと自分を慰めました(善智識、というのは、元々正しい信仰に導いてくれる人間や、そのきっかけを作ってくれる人の事です)。
まあ、逆の立場から見たら、何でこんなのが私たちの担任なの、という可能性もありますから、お互い「成長するために神様がくれた試金石のような存在だった」とお茶を濁しておきましょう。我々が出会う事を仕組んだのは、どこの神様かは判りません。そういう事は宗教学の教科書には書いていませんので。

さて、皆さんは悔いのない学生生活を送ったでしょうか。もしそうならば幸いですが、たいていの人は、一つか二つ、悔やんでも悔やみきれない出来事があったかと思います。
後悔、というのは2種類あります。「やってしまった事」を悔やむ場合と、「やれなかった事」を悔やむ場合の二つです。前者の「やってしまった後悔」というのは、誰しもが覚えがあるでしょう。僕も良く過去の過ちを突然布団の中で思い出して、足をジタバタさせて眠れなくなる、ということがあります。そして後者の「やれなかった事」を悔やむ場合は、実は足をジタバタさせるどころの話ではありません。ああすれば良かった、こうすれば良かったという未練は、静かに心の底に張り付いて、「あったかも知れない未来」にまで空想(妄想)は拡がり、「何でああしなかったんだろう」という思いは酸のように心を腐食させていきます。そうしてできた顔の翳りを見て人は「大人になった」というのです。ですから、皆さんがまだ大人の顔になりきれていないのは当然です。「青春」とは、そういう「大人」が、やらなかったことによって永遠に閉ざされてしまった「可能性」に対して後から名付けたものだからです。まあ、僕や他の先生方の顔が真に「大人」であるかは、皆さんが判断してください。年の割に老けている、という事ではありませんよ(大学教員は、若い皆さんのお相手をするせいか、年の割に子供っぽい人が多いのは、君たちが一番よくご存じでしょう)。
君たちはとりあえず今は「やってしまった(あんな卒論を書いてしまった、とか)」ことを後悔してください。「やらなかった事」に対する後悔は、もう少し後でも良いでしょう。僕などは君たちに対して「もっとちゃんとした授業をしてあげれば良かった」「もっとちゃんとした卒論指導をしてあげれば良かった」「もっと根性をたたき直してあげれば良かった」という「やらなかった事」に関する後悔で胸が一杯ですが。

最後に、もう一言だけ。最近の若い者は・・・という言葉を言い出したら年を取った証拠であるとか、この言葉はエジプトのヒエログリフにもあっただとか、色々言われていますが、「義務」と「権利」について、最近の若い者は「権利」ばかり言い募って、「義務」を果たさない、なんていう愚痴が、日本中の居酒屋でビールジョッキの数ほど語られてきた事でしょう。僕も、今回は敢えてそれに便乗します。君たちは「不幸になる権利」ばかり行使して、「幸福になる義務」を果たしていないと。人間は「幸福になる義務」があるって、知っていましたか?あるのです、そういう義務が。辛い義務ですけど。これからの人生、是非この義務を果たす事に邁進していただきたいと思います。これが僕のはなむけの言葉です。

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November 22, 2007

「何故人はそう考えるのだろうか」という問い

今日は、大学で僕のゼミ(討論形式の授業)を取っている学生さんに向けての、ちょっと抽象的な「お説教」です。

最近、ようやくゼミや基礎ゼミ(基礎講読)で「自分の意見」というか、とにかく「声」が上がってきたのはよい傾向だと思います。僕は気が弱くて、ゼミでシーンと沈黙が一分以上続こうものなら、ついついおしゃべりを始めてその間を埋めようとしてしまいがちなのですが(僕の雑学が最も活かされる瞬間でもあります)、この頃はそういうことをしなくても良くなってきて、僕としては、少し楽になってきました。
当然君たちが口にするのは「私の意見」なわけですが、ちょっと皆さん、「私の意見」を言うのと同時に考えて欲しいことがあります。それは「他人の意見」というか、自分とは違う見解を持った人への想像力です。
「私はこう思います」、もちろんこれは重要です。ここから全ては始まりますが、「私は何故こう思うのだろう」という自己省察、そして「何故他の人は私と同じように考える(もしくは考えない)のだろう」というところまでいって、ようやく「学問的」になるのです。「私はこう思う」だけでは、残念ながらダメなのです。

例えば、現在2年生の基礎ゼミでは、明治以降の「天皇制」の問題の簡便な本を今読んでいます。そしてコメントとして「私は天皇(制)には関心がありません」「皇位継承なんかよりももっと大事なことがいくらでもあるだろう」と言うのは簡単ですが(僕だって、そうは思っています)、「何故、ある人にとっては、天皇の跡継ぎ問題があたかも日本の死活問題のように語られるか」「何故天皇制は昔あれほどの力を振るったのか」というところまで考えて欲しいわけです。「私の感覚」をとりあえず一旦棚に上げて、自分とはある意味対立するような意見にはどんな論理が隠されているか、というのを考えることも大事なのです(論破するのはその後です)。

自分の意見を言うのは第一段階、他人の意見を聞くのは第二段階、そして、その場にいないような人の意見をも忖度し、その上で自分の意見を述べる第三段階まで行って欲しいと僕は思うのです(別に「弁証法」とか、そういう言葉は覚えなくても良いから)。
要するに、せっかくの発言ですから、一方的なものではなくて、双方向的なものを目指して欲しいってだけの話なんですけどね。

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November 19, 2007

ゼミコン兼誕生日会

071119birthday_004 今日は僕の誕生日でした。人生三度目の年男です。
そこで、主に三年生が中心となって、ゼミの後そのままお祝いの飲み会をしてくれるという事になりました。ありがたい事です。実は、今日の飲み会、今年初めてのゼミコンパでした。というのも前期は、ゼミの直後に組合のお仕事が毎週あったので、そのまま飲みに行くという事ができなかったんですよね。というわけで、本来は春先に自己紹介を兼ねて早めにすべきところでしたが、こんな冬直前に第一回目の川瀬ゼミコンをやる事になりました。
参加者は16名ほど。場所は四条木屋町の焼き肉屋(恐らく最近オープンした店だと思いま071119birthday_005 す)。焼き肉、というのは、僕がゼミ生の若さを考慮して選んだのです。コンパ幹事からどういう店が良いですか、といわれた時、皆さん若いから肉でもがつがつ食ったら、といいました。僕自身はもう油が抜けて、肉よりも魚や大豆製品を選ぶ大人になっていますが。
幹事のN山さんの発声で乾杯して、みんなに祝ってもらいます。こんなにも複数の方から祝っていただけるなんて、幸せ者ですね。数年前は母から「あんた、京都で独りの誕生日で寂しないん?」という電話が来て死亡しましたが(お母さん、気遣いありがとう)。
時間制限の食い放題、飲み放題の店なので、みんなハイペースで飲み食いをします。ホント、若いなあと思いましたね。あっという間に肉はなくなっていきます。まあ、僕もそこそこいただきましたが。
071119birthday_006 そして、宴もたけなわになった頃、学生諸君から僕に誕生日プレゼントが贈られました。実は、一緒にこの焼き肉屋に行く途中で、学生が持っているやたら大きな紙袋になにやら「やばい」ものを感じていたのですが、その予想は当たりました(できれば当たって欲しくはありませんでしたが)。
まずは、ゼミ生のみんなからの寄せ書き(ポストカードにでしたが)が贈られました。これには素直に泣かされました。先生稼業をやっていて良かったなあ、と思う瞬間ですね。ところが、紙袋の中から不穏なものが次々と取り出されます。上の写真から説明しますと、謎の「羽仮面」「キューティーハニー飴(一つだけ「ハニー」ではない味のが入っているロシアンルーレット飴、だそうです)」。この羽仮面を付けたり、どさくさに持ってこられていたカツラをかぶったりした僕の写真は、何人かの学生諸君の携帯電話に収められた事でしょう(このブログにおいては倫理上まずかろうと思い却下)。そういうアホな事をしているのを尻目に、表情も変えずに「カルビお待たせいたしました」と肉を持ってくる従業員のお姉さんにプロ意識を感じたのは、また別の話。そして、目玉親父が張り付いている「湯飲み」。まあ、これは071119birthday_007可愛いので、早速明日から研究室で使わせてもらいましょう。で、問題は、大きな紙袋の90%を占めていたブツでした。今更新婚さんでもないのに、ベルばら調の「イエス・ノー枕」が進呈されました。これらのブツは、大学近くのビレッジ・ヴァンガードで揃えてきたそうです。こんなのまで売ってやがったとは。思い切って、客人用の枕にしてやろうか、と血迷いかけました。というわけで、最初の寄せ書きで感涙させられ、他のプレゼントでは別の意味で泣かされたわけです。

一次会のあとは、一応解散という事になって、まだ時間のある人間だけで、近くのゲームセンターに行ってプリクラを撮りました。プリクラなんて、何年ぶりなんだか。そこで無駄に凝りまくったプリクラを撮影し(その写真を今は携帯に送れる時代になったんですね。驚き。今、僕の携帯の壁紙はそのプリクラ画像です)、久々にUFOキャッチャーやレースゲーム、クイズゲーム、「太鼓の達人」などに興じてしまいました。僕はUFOキャッチャーで、なんとお菓子の箱(ラムネやガム)を3ハコも取る大漁振りで、無駄な才能がある事を学生に見せつける結果となりました(来週のゼミで、みんなに配る予定)。

いやあ、今日は遊んだ遊んだ。今日は本当に楽しかったし、嬉しかったです。みんなありがとう。みんな良い学生で、先生、マジで感激しました。
将来羽仮面を付ける機会があるのかどうか判りませんが(週末の学園祭で使ってやろうか)、とりあえず大事にします(というか、押し入れの奥にしまうしかないだろ、枕と羽仮面は)。お休みなさい。

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August 03, 2007

学歴ではなく「批判する友人」の有無

何か、安倍政権がダッチロール中である(もちろん、同情などしないが)。特に先日の赤城農水相の辞任はタイミングといい態度といい、政権与党にとっては考えられる最悪の「置きみやげ」だったといえるだろう。赤城さん、ニュースで知ったけど、東大法学部出て、官僚も経験した人だったんですね。やれやれ。

さて、安倍氏が首相になってから、ネットのあちこちで彼の「学歴」を云々する声を聞いた(というか、読んだ)。まあ、僕も彼のやり方や答弁があまりに稚拙なので、「安倍は所詮成蹊で(しかもエスカレーター)」というネット上の揶揄もそれほど気にとがめず聞き流して、時には「あの我妻栄と東大法学部の首席を争ったお祖父ちゃん(岸信介)を尊敬するのは良いけど、もうちょっとお祖父ちゃんを見習って(もしくはお父さんでも良いけど)お勉強しなかったのかね」と冷笑していたのも事実(念のため付け加えておきますが、僕は成蹊大学に対して含むところは全くありません。優れた卒業生は山ほどいるし、優れた先生もたくさんいらっしゃいます。僕の親戚もいたし)。

だが、そういう問題じゃないということが、この数ヶ月で明らかになったと思う。

そもそも学歴なんていうのは、十代の終わりに、ある「クイズ解答能力」の出来不出来を競っているだけの話であって、それだけで全てを語ろうとするのは勿論できない。日本人が過剰に学歴にこだわるのは、血筋や家柄を否定した近代国家の宿命だとは思うが、僕は学歴、というより大学というのはどのような場所かというのを考えて、一つ思い至った。
それは「自分を批判してくれるような友人に出会う場所」ということである(高校とかで出会う可能性もあるけど、やはり大学の方がそういう友人には出会いやすいだろう)。田舎で一番だった秀才が大学に入ってみたら、それこそ大学内偏差値が50くらいである自分に気付き落ち込む、というパターンは良くあることだが(実は、僕もそうだった)、そこで腐るか、めげずに友人から何かを吸収するかということで、その後の人生は大きく変わると思う。そういう友人(時には教員の場合もあるかも知れぬ)、自分をある意味知的に叩きのめしてくれる人に出会わなければ、大学に入った値打ちは半減すると僕は思っている。そういう人に出会えなかった人、そういうのはどんないい大学出ていようが実は「使えない人」であるとさえ僕は思う。

「僕は、あの人に、勝ちたい」とアムロ・レイのようにメラメラと闘争心を燃やすもよし、もうちょっと消極的に「あの人には、バカにされたくない」と見栄を張って難しい本にチャレンジするもよし、それが大学生活ってものです。この「見栄」っていうのは自分を高めるときに不可欠なもの。僕もそうしてサークルの先輩に「なかなかやるじゃない」といわれることを目標に成長したと自分で思っています。そういう意味で、「壁」になってくれた先輩や友人に感謝です。

で、安倍首相の話に戻るが、彼のあの「頑迷さ」は、それこそ大学で傾聴すべき意見を言う友人、現在なら自分の至らなさを批判してくれる人に、これまでの人生で恵まれなかったからではないか、と想像する。勿論、彼にも友人はいくらでもいるだろう。ただし、古諺にいうように「忠言、耳に逆らう」を体するような友人か否か、ということだ。安倍さんのこのところの言動を見るに、人から意見を聞き、自分を省みて自分を変えていくという「身構え」が、彼には欠落しているのではないかと疑いたくもなる。
恐らく赤城さんもそうではないか?つまり「人から見て自分はどのように見えているか」という視点を得る機会を逃し続けたなれの果てが、ああいうみっともない姿ではないのか、と失礼な推定をしたくもなるのだ。そういうのに、学歴もへったくれもない。

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May 18, 2007

戦慄する講義

先日、別ブログでパワポのプレゼンには向き不向きがあるよねとか書いたら、予想外の反響があったが(僕の意図を取り違えているのも見受けられたが、そういうのもネットの定め、仕方なし)、昨日東京大学出版会のPR誌『UP』5月号を読んでいると、我が意を得たりというエッセイがあった。

松浦寿輝先生の「かつて授業は「体験」であった」というエッセイである。

パワポを使った分かり易いプレゼンなどというのとは位相(というか次元)の違う「体験」の思い出話である(松浦先生は「最近は学生による授業評価も盛んで、パワポを使ってわかりやすい講義を、などという声も聞かれるけど・・・」という感じで話の枕にしている)。
その先生の喋ることが殆ど判らないのにもかかわらず何故か耳を傾けてしまう、そして震撼させられてしまうような体験。松浦先生が提示するのは、そのようなある意味「戦慄する講義」の体験談である。
具体的に松浦先生は東大駒場の哲学教師であった井上忠先生の講義でそのような「体験」をしたそうだ。

何かとてつもない大事な事柄が、他の誰にもできないような仕方で語られていることだけはわかる。この人の発する言葉一つ一つの背後には、恐ろしいほどの知的労力と時間の蓄積が潜んでおり、膨大な文化的記憶の層が畳みこまれていることもわかる。だが悲しい哉、無知と無学のゆえに、わたしにはその内容を具体的に理解することができない。彼がパルメニデスについて、ヘラクレイトスについて、アリストテレスについて語っていることを理解するには、結局、本を読まねばならないのだ。沢山の、沢山の、沢山の本を読まねばならず、その道には終わりというものがない。わたしはそのことだけは戦慄的に理解した。井上先生の講義から 何らかの知識なり情報なりを受け取ったわけではない。彼の講義は単に、或る決定的な「体験」だった。ほとんど理解できない言葉のシャワーを浴び続けるという、恐ろしくも爽やかな、それは「体験」だったのである。(p.44)

自分の教養部時代を振り返ってみると、「戦慄する」とまでいわないが、ぽかんと口を開けて「すごいなあ」と感じ入るしかない講義というのはいくつかあった(逆に、買わされた教科書を読めば済むような講義はバカにしてほとんど出なかった。僕はそういう意味で決して真面目な学生ではなかった。出席を取る語学と体育と、本当に気に入った般教にしか出ない、という平均的な学生だったわけだ)。指折り数えると、村上陽一郎先生の「科学史」、宮本久雄先生の「哲学史」、船曳建夫先生の「人類学」あたりか。
これらの講義の共通点は、上記の松浦先生と似たような感想になるが「敵わないなあ」という一言に尽きる。当時の僕が無知なのは仕方ないにしても、その無知な学生をして「この人はどこまでいろいろなことを知っているのか(せめてその一端にでも触れたいものだ)」と戦慄せざるを得ないような「何か」が発言の端々ににじみ出ていたのだ。ついでに言うと、この先生方の講義は決して難しくなかった。むしろ分かり易い部類にはいるだろう(特に船曳先生の「人類学」はあまりの面白さに、最終回の時は自然と拍手が湧き起こったくらいだ。退官記念講義以外で拍手が湧きあがったのは、今のところ僕が目撃したのはこれだけ)。ただ、その内実が、先生方の分かり易い説明から自然と「はみ出ている」のを未熟な僕たちは感じていたのである。そのはみ出た「余剰の部分」に戦慄していたわけだ。

この数年で、僕がこのような講義を今まで一度たりともできたなどとは勿論思わない(面白かった、という評価くらいは学生諸君の何人かからは頂いているが)。一生出来ないかも知れぬ。性格的にも、どちらかというと、難しいことをかみ砕いて説明する質だし。
でも、「学生がなかなか理解できないにもかかわらず、それでも感動する講義を聴く体験」というのはあるのだ。それは僕も体験済みである。単純な言い方をすれば「難しいけど、面白い、もっと聞きたい」と思う「体験」である。そういうものを体験できるかどうか、というのが大学では決定的に重要である。大学の教員からだけでなく、例えば同級生や先輩から自分の未熟ぶりを指摘され、たたきのめされるという「体験」も重要だと思う。例えば「パワポの説明が分かり易かったです」「プリントが多くて良かったです」というような感想は些末なことであって、学問的な「感動」というものとは縁遠いもの、というのが個人的な気持ちだ。

僕の考えは、今や「反時代的」な教養主義の一つであろう。それは重々自覚しているが、それでも大学はそのようなものを大事にするという「建前」を無くしたら終わりだと、密かに思っている。もう一つ松浦先生の言葉を借りて、僕の代弁としたい。

自分にはとうてい理解できないことが世の中に存在するということ、労力を傾け時間を費やせばそれに或る程度は接近できるということ、しかし「何か?」と問い続けるその道には果てしがなく、だから人間精神の栄光としての学問を前にして人は謙虚にこうべを垂れなければならないこと―それらを知ることこそ、教養にほかならない。実際、教養という言葉にはそれ以外の意味はないのである。(p.46)

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March 23, 2007

はなむけの言葉

 みなさん、ご卒業おめでとうございます。皆さんにとって、この大学での4年間(ないしそれ以上の人もいらっしゃいますが)は、どのような時間だったでしょうか。
 自分の記憶を辿ると、例えば一人暮らしを始めて、様々な地方からやってくる友人と出会い、そこそこ勉強もし、あんな事もこんな事もあったりで(詳細は伏せます。『人間失格』同様、恥の多い人生を歩んできました)、それなりに濃密であった4年間だった気がします。君たちの学生生活も、それなりに濃密であったなら幸いだと思います。その「濃密さ」ということに我々の講義やゼミなどが入っていればなお幸いです。

 さて、これは毎年言っていることなのですが、君たちの卒論指導も、なかなかに大変でした。毎年同じようなことをやっているから、いい加減我々教員も慣れて良さそうなものですが、毎年その大変さの度合いが増していっているように思うのは僕だけでしょうか。まあ、慣れるといっても、君たちは毎年それぞれ違うネタで卒論を書くわけですから、ルーティーンワークのようにはいきません。でもそれが我々教員の楽しみでもあります。そして今年の君たちは、去年の先輩達が我々教員にこっぴどくやられたのを見て、ちょっと過剰防衛気味でしたね。卒論中間発表の前、君たちが何人も「これで良いでしょうか」と聴きに来たのを覚えています。僕は叩かれるのも修行のうち、と思っていましたから、結構「これで良いんじゃないの」と生返事というか、心のこもっていない返事を敢えてしましたが。

 ともかく、無事に卒論を書き上げ、単位も揃えてこの場にいる君たちにとっては、もはや書いた卒論やレポートの内容などはどうでも良いことでしょう。僕も忘れることにします。意地悪して、君たちの結婚式の日まで取っておくというようなことはしないと思いますので、ご安心ください。

 君たちのほとんどはこれから社会に巣立っていきます。社会に巣立つことに関しては、我々教員は偉そうなことは何も言えません。というのも、大学教員というのは、大学という狭い社会しか知らない、文字通りの世間知らずだからです。昨年から就職活動をし、就職先が決まっている皆さんは、我々より余程「社会性」を持っていらっしゃることは保証できます。それくらいしか保証できないのは心苦しいですが、仕方ありません。
 君たちは4月から、我々教員が体験したこともないような世界に飛び込まねばなりません。その世界が、大学同様ぬるま湯であることを心から祈っています。「人生、思った以上に甘い」というポジティヴな気持ちでお互い乗り切っていきましょう。数年後、もしくは数十年後に笑顔で再会できればいいですね。では、さようなら。

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February 25, 2007

ウィキペディアの使い方

最近大学で話題となったことに、アメリカの大学におけるウィキペディアの引用の禁止措置、というのがあった。新聞記事を一部を引用すると、

米バーモント州にある名門ミドルベリー大学の史学部が、オンラインで一定の利用者が書き込んだり修正したりできる百科事典「ウィキペディア」を学生がテス トやリポートで引用することを認めない措置を1月に決めた。日本史の講義をもつ同大教授がテストでの共通の間違いをたどったところ、ウィキペディア(英語 版)の「島原の乱」(1637~38)をめぐる記述にたどり着いたことが措置導入の一つのきっかけになった。
日本史を教えるニール・ウオーターズ教授(61)は昨年12月の学期末テストで、二十数人のクラスで数人が島原の乱について「イエズス会が反乱勢力を支援 した」と記述したことに気づいた。「イエズス会が九州でおおっぴらに活動できる状態になかった」と不思議に思って間違いのもとをたどったところ、ウィキペ ディアの「島原の乱」の項目に行き着いた。

とのことである。これについて、とりあえず「本当はイエズス会がからんでいたのかも」と想像力をたくましくすることは慎んでおくが、この問題は、いわゆる「レポートのコピペ問題」と同根のものである。学術情報のデータベース化、アーカイヴ化が進んでいたアメリカでは、いわゆる一般教養科目のレポートをネットのその類からコピペすることの問題性が、7、8年前から言われていたと記憶している(一時期一緒に仕事をしていたハーヴァード大出身のM田さんから聞いた話だが)。

僕の結論は非常に簡単。ウィキペディアだけ調べて、全て調べたつもりになるのは禁止。ただそれだけである。というのも、僕も結構参考にしているから言うのだが、ウィキペディアの記述は良いものとダメなものの落差が激しすぎる。

僕が結構参考にして、それなりに信頼しているのは、漫画家、アニメ、芸能人、ミュージシャンなど、いわゆるポピュラー・カルチャー、サブ・カルチャーに関する項目とその記述だ。特にアニメなどは、どうもすごいマニアの人が多く書いているらしく、「ほほう、これは知らなかった」というものが多いし、非常に勉強になる。たまにリンクを次々と辿って、数時間が経ってしまうこともあるくらいで、その恩恵に浴していることは間違いないし、感謝もしているが、学術的な項目については、先ほど述べたように粗密の差が激しいし、一種の匿名で次々と書き換えられてしまうものに、引用の最終的な信を置くわけにはいかない。例えば僕がある間違いに気付いて書き換えても、僕と意見を異にする者、というか、はっきり言えばリヴィジョニスト的な連中に数時間後に書き換えられて・・・といういたちごっこは容易に想像できるし、いくつかの項目では既にそういう事態になっているのは周知の通りである(はてなダイアリーのはてなキーワードも、規模は小さいが同様の問題を抱えている)。
紙に印刷されているものがネット上のものに比べて全て優れていて間違いがない、とはもちろん言えないが、大きな辞書、事典を編集するときは大体その項目を書く学者・研究者は複数の文献を照らし合わせてその項目を書き(一つだけしか参考にしないと「盗作」扱いを受けかねないし、学問的な良心からして複数のソースにあたることは当然)、編集・監修する役目の学者(大体大御所の先生がなる)が最低限のチェックを施し、出版社の編集者もチェックする、という二重、三重のチェック体制があることは間違いない。このチェック体制が、とりあえずの「信の置き場」なのである。
要するに、ウィキペディアのような「同業者の目(peer review)」というものが機能していない記述は、やはり「眉に唾つけて」見るべきなのだ。それに記事の最後にあったのだが、

ウィキペディアの創始者のジミー・ウェルズさん(40)は「慈善的に人間の知識を集める事業であり、ブリタニカと同様以上の質をめざして努力している。ただ、百科事典の引用は学術研究の文書には適切でないと言い続けてきた」と話す。

さすが創業者はよく判っている。その通りだ。

というわけで、このブログをご覧になっている少なくない僕の学生さんへ。
僕のレポートに関しては、ウィキペディアの引用だけで済ましているようなレポートは不可、ということにします(きっかけにしては良いけど、結論にしてはダメ、ということです)。

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January 31, 2007

これは「犯罪」である

さっきネットをウロウロしていて、とんでもないサイトの存在を知ったので、怒りにまかせてエントリを書きます。

明治学院大学の稲葉振一郎先生のブログ経由で知ったのですが、レポートや卒論を代わりに書きます、というサイトを知ってしまったのだ。なんてことしやがる。
今までも、みんなからレポートを集めて、それをアーカイヴ化して「知的財産」をみんなで共有、などという聞こえの良い言葉で言いくるめているサイトの存在は知っていたのだが、代わりに書きます、というサイトの出現は、さすがに衝撃的だった。

まず、「Web Teacher」とかいうこのサイト、何でも「東大生」が関わっているらしい。マジかよ。「大学院入試の支援」というのはまだ許せるが(これも業務の一つだそうです)、単位がかかっている卒論やレポートの代行ですよ。全部書かなくても、雛形の提供だけとしても、充分ひどい。利用規約

「WebTeacherは、あくまで学習支援を目的としたサービスなので、明白な怠慢に基づく依頼(「前期のレポートを全部やってください」など)は、勉強法の提案をした上でお断りすることもございます。」

なんて書いてあるけど、取って付けたように「我々は教育者として配慮していますよ」という態度をとっているのが却って醜い。こういう事は極力言いたくはないけど、東大OBとして死ぬほど恥ずかしいです。死んでしまえ。あ、一言申し添えると、東大生だからって、遵法精神があるなんて、ちっとも僕は思っていません。東大法学部卒業していても、汚職とかに手を染める手合いはワラワラいます。
あと、謎なのがこの団体の名乗る「有限責任事業組合」というやつ(この経済産業省へのリンクは、このWeb Teacherのページにありました)。もしかして、お上のお墨付きなの?それともそういう風に見せかけている詐欺?前者であっても後者であってもサイテーなのは変わりませんが。

もう一つは、その名もずばり「卒論・レポート代行所」というやつ。こっちの方が羞恥心がありません。どういう連中が運営しているのかは知りませんが、なんたって表玄関に堂々と

「当代行所の社員は学生時代に必要最低限の勉強量でAを取ってきた精鋭ぞろいです。」

なんて書いちゃっている時点で、神経が疑われる。これも死んでしまえ。何が「必要最低限の勉強量」の「精鋭」だよ。

こういうのは、もしかしたら探せばもっとあるのかも知れませんが、そういう気力もないので、この二つをとりあえず晒し者にしますが、これは明々白々に「犯罪」ですよ。試験で言うと、受験票や学生証の写真を入れ替えて、代わりに受けてもらうのと一緒。もし、こういうサイトの利用が発覚したら、単位剥奪は生ぬるい、僕は退学に値すると思います。
学生にとっての教養とは何か、なんていう高尚な話題じゃありません。ズルしちゃダメっていう、世間様のルールです。

でも、やはり一番腹を立てているのは、恐らくこのサイトの利用者に対してではなく、運営者に対してです。お前さんたちは恐らく高学歴なんだろうが(見知らぬ学生の代行ができるくらいだから、そこそこお利口さんなんでしょう)、ゴミクズだよ(人間性も書いたレポートも)。お前さんたちは、自分たちの行為で自分が出た大学のことも冒涜しているんだぜ。こういうくだらないことをこなせるようになるために、高学歴になったとでも言うのか?高学歴者は、難関校に入ったことが偉いんじゃなくて、出てから大層な仕事をするであろうということで世間様から甘やかされているわけだろうが。それが判っているのか?もし、「このようにして、レポートや卒論を無価値にすることが、俺たちの大学に対しての復讐なのだ」なんていう高尚なこと(あくまで皮肉だよ)を考えているんなら、話は別だが。

最後は怒りのあまり口調がひどくなっちゃいました。お詫びします。

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December 30, 2006

お正月は遊ぶように

さて、このエントリは、僕が一応指導している卒論・修論を抱えた学生の皆さんに向けてのものです。
以前「25メートル泳ぎ切ってくれ」などという偉そうなことも書きましたが、今回は、ある意味逆のことを皆さんにアドヴァイスしたいと思います。
簡単にいうと、この大晦日とお正月の二日間ぐらい、論文のことをすっぱり忘れて、ご家族や親戚、友人と楽しい時間を過ごしなさい、というアドヴァイスです。

まず、この所、何人かの書きかけの論文を拝見していると、論文のテーマに没頭・熱中するあまり、論旨の繰り返しや引用の重複、もしくは逆に自分では判っているせいか説明不足の部分が目立ちます(目立つところには朱を入れて返したはずです)。こういう事を防ぐためにも、一旦自分の脳味噌をクールダウンする必要があります。そのために数日間、敢えて論文に手を触れないことをお勧めしたいのです。
もう一つ、非常に冷たい言い方をすれば、〆切間近の今となっては、どうあがこうと、その論文の出来は、今までの頑張りに比例してほぼ決まってしまっているという冷徹な事実があります。もちろん、手を抜けと言っているわけではありませんが、劇的な変化というものは、学問においては、余程の集中力と運の良さ(偶然決定的な資料や論文にぶち当たるとか)がない限り無理ですし、そういう「運の良さ」は今まで色々調べた人に(時々ご褒美として)降ってくるものだと思います。

というわけで、正月に頑張る姿も美しいと言えば言えるのですが、そんなことよりも親しい人と初詣に行って、学業成就をお祈りしましょう。

よいお年を。

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October 22, 2006

軽侮と期待

このところ忙しい。
授業準備の「貯金」が無くて、自分の首を絞めているのは文字通り「自業自得」だが、それ以外にも細々とした書類仕事がこのところ多く、それを一つ一つこなしているうちに時間が過ぎ去ってしまう。

さて、実は今日も休日出勤をしていて、文部科学省に出す某書類の作成などに勤しんでいたのだが、ふと休憩中に内田樹先生のブログを読み、ちょうど文部科学省がらみの書類をしていたこともあって、「なんじゃこりゃー。文部科学省めーっ」と怒りが爆発してしまった(ちょっと逆恨みが入っているけど)。幸い、今日は大学の研究棟にほとんど人がおらず、僕の叫び声を聞いたのは殆どいないと思う。もしいたら、脅かしてしまい済みませんでした。ごめんなさい。
ではまず、内田先生のエントリの元になった新聞報道から少し引用すると、

文部科学省は大学・短大教員の講義のレベルアップのため、全大学に教員への研修を義務付ける方針を固めた。来年度に大学設置基準と短期大学設置基準を改正し、早ければ08年4月にも義務化する。研究中心と言われる日本の大学で、学生への教育にも力点を置く必要があると判断したもので、「大学全入時代」を迎え、学生の質の低下を懸念する経済界からの要請も背景にある。具体的な研修内容などは今後、中央教育審議会で検討する。

とのことである。これを読んで「何これ」と思わない大学教員は殆どいないであろう(いるとしたら、それこそトップダウンの「改革」を思う存分振るいたがるようなメンタリティのお方だけだろう。誰とは言わないが)。

まあ、僕自身が大学の中でなんとか「適合」できているかどうかはさておき(僕自身、企業向けの人間じゃないと自覚したからこそ、大学院に「入院」したんだけど)、僕が怒り心頭に発したのは、余りに文部科学省が「大学教育」というものを「なめている」からだ。これまで大学教育に対して、ほとんど顧慮することさえしなかった経済界が今更「アホな学生ばかり輩出されても困る」とばかりに「ちゃんとした教育をやってよね」と要請してきたわけだ。そしてその尻馬に乗る形で、文部科学省が教員全員に対する「タコ焼き」(タコ焼き云々の比喩は、もう一つの内田先生のエントリから借用した)を作るかのような研修まで構想している。病膏肓に入るとはこのことだ。このような「研修」という発想が、大学という場から最も遠いことは、内田先生が既におっしゃっているので、ここでは贅言を控える。

もし企業側が本当に大学教育に期待しているのなら、まず現役学生の勉学に支障をきたすような「就職活動」を強いる仕組みから改めるべきであろう(一所懸命準備した講義を「就活です」の一言で否定されるこっちの身にもなって欲しい。そして、それを聞きたがっている学生の権利を奪っているという事にも思いを馳せて欲しい)。これは最近僕が見た例だが、某金融機関に内定が決まったゼミ生のI田さんが、図書室で難しそうな本とにらめっこしているのを見つけて「何読んでいるの?」と聞いたら、「内定先から、4月までに読んでおけって言われたものなんです」と銀行業務に関する何やら難しそうな本と、それにまつわる資格試験についての本を見せてくれた。こういうのは、それこそ入社後に企業側が行うべき教育であろう。学生の(最後かも知れない)貴重な学業の時間を、このようなことで奪って欲しくはない。

さて、「大学でもっとちゃんとした教育を」と言っている経済界と、「じゃあ、大学教員に、研修をさせましょうか」と応じる文部科学省の官僚たちの双方にお聞きしたい。あなた達は、ご自身の大学生活を振り返って、そのような思い出がありますか。サークルとか部活以外の、学業においての思い出だ。恐らく、勝手な想像だが、このような提言ができるその神経を見るに、学問に感動したとか、ゼミで熱心に討論に加わったとか、徹夜でやった実験が成功してみんなで喜びを分かち合ったとか、そういう経験をろくにお持ちじゃないのではないか。大学なんて結局、まさに就職の際のパスポートに過ぎないと思っているような人が行いそうな提言ではある。
要するに、僕が怒ったのは、この提言の裏に、拭いがたい大学教育への軽侮が潜んでいることを感じたからだ。大学教育を軽侮するものが大学教育に期待するという矛盾。教員を馬鹿にしているくせに、教員に対して「子どもをしつけてください」と言える神経。そういう馬鹿な親のレベルに文部科学省がなってどうする。
最後に、内田先生の言葉を引用して、僕もこれに唱和したいと思う。

お願いだから学校のことは放っておいて欲しい。
あなたがたが口を出すたびに、そのつど事態は悪化しているのである。
そろそろその歴史的経験から学習してはくれないだろうか。

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May 08, 2006

「法人化」の本音は一体・・・

昨日、朝日新聞社の『論座』(6月号)を購入しました。
というのも、特集記事に、国立大学の法人化問題があったからです。国立大学が法人化されて約2年経ちますが、この号では、東日本の国立大学を中心に、学長に「法人化して良かったか」と功罪を問い、「プラス面」「マイナス面」「悩み・国への要望」を答えてもらうアンケート調査をしていて、僕の勤務校(公立大学です)はまだ正式には法人化されていませんが、決して他人事ではないので、ついつい買ってしまったというわけです。

先ほど、ざっと読み終えたのですが、僕からすれば意外なことに、結構「どちらかといえば法人化して良かった」と答えた学長が多いのですね。もうちょっと「マイナスだった」と答える学長がいるかと予想していたのですが、これは、僕の「希望的観測」でした(以前「公立大学を「効率」大学にすべきか」というエントリを書いたこともあります)。

マイナスだった、と答えているのは、地方の比較的小さめの大学と、教員養成が中心の大学でしたね。あと、東京芸大もマイナス、と答えていました。このあたりの大学は、理工医薬系のように外部資金調達ということがおぼつきませんからね。僕の勤務する文学部も、外部との産学提携などが望むべくもないところなので、教育学部中心の大学の「悲鳴」は、まさに我が事のように感じます。

工学系や医学系中心の大学は、多くが「法人化して良かった」と単科大学ですら答えていますが、元々大きな旧帝国大学と急に「同じ土俵」で闘わされる羽目になったこと(事務をサポートする職員の数からして少ないのに、事務量は膨大になって首が回らない、など)については、これまた一様に不満と不安の声を上げていました。

しかしよーく見ると、「法人化してどちらかといえば良かった」と答えている学長の中に、「プラス面」より「マイナス面」を長々と書いている人がいたり、もしかして本音は「マイナスなんだけど、法人化してプラスっていわないと、それこそ責任論が浮上してやばいしなあ」などと思っておいでの学長がいらっしゃるのではないかと思わず穿った見方をしてしまいました(笑)。さすがに諸手を挙げて法人化万歳といっている人はおらず、国の予算削減に関して(大雑把に言って、「自分で努力しなさい」ということで、年々削られていきます)「何とかならないか」と多くの学長が愚痴っています。

さて、僕なりに今回のアンケートを強引にまとめると、「マイナス面」もしくは「不安」「不満」は要するに「長期的な展望を描けない。描こうにも目の前の仕事で忙殺されてしまう」という事に尽きると思います。国からのお金は徐々に減る、仕事(事務作業)は増えるという状況では、、腰を据えての研究というのができなくなっていくでしょう。それはボディブローのように、数十年後の日本の「屋台骨」を軋ませはしないか、という不安が異口同音に語られているように思います。僕も同感です。ある学長の言葉を借りれば「国の財政負担はほんのわずかに軽くなるだけなのに、教育・研究の質は確実に低下していくことは間違いない」のです(ちなみにこの学長は、「法人化自体にマイナスはない」と答えているのです)。
構造改革で無駄を削った、と政府が豪語するなら(実際は大したことがないらしいですが、それはさておき)、大学をはじめ、高校以下の教育の方にもうちょっと、その余った分のお金を投資してくれればいいのにと、ちゃんとした人材を養成するしかない「資源小国」の国民の一員として思います。そういえば、「公務員削減」の大きな部分って、国立大学の教職員なんですよね・・・。

追記:特集記事で、東大教育学部の広田照幸先生の文章も興味深かったです(「危機に瀕する研究者養成の場―人文・社会科学系大学院の現在」)。でも、この文章で一番びっくりしたのは、東大院生の態度。曰く「内輪の研究会のレジュメの右肩に「引用禁止」の文字を入れてきた(仲間に研究成果を奪われたくない)」「共同研究の仕事を任され損をした、と愚痴ってきた(共同研究で様々な交わりから学ぶより、自分の仕事を優先させたかった)」「基礎・基本を教えて欲しい、と懇願してきた」とのことで、もしかしたら「知の共同体参加モデル」の最後の方の住人だったかも知れない僕は「さすがにこれは・・・」と思ってしまいました。東大でこれなのだから、あとは推して知るべしでしょう。広田先生もショックだったとか、。僕もショックです。
でも、これらの現象は、文部科学省の無定見(と僕には思えます)な大学院拡充策の「果実」なのです。

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March 23, 2006

贈る言葉

 皆さん、ご卒業おめでとうございます。めでたいのか、おめでたいのかよく判りませんが、とにかくおめでとうございます。

 さて、君たちの学年は、僕にとっては忘れられない学年になりそうです。と言うのも、僕はこの大学に4年前に着任しましたが、それと同時に入学したのが君たちだったからです。つまり、1年生の時から卒業までを見送った、最初の学年ということになります。これは僕の教員生活で、最初で最後のもの、ワン&オンリーですので、忘れがたい、と思っているわけです。もちろん忘れがたい理由は他にも色々ありますが、差し障りがあるので、この場では申しません。

 君たちを見ていると「人間は4年間でここまで成長するものか」と非常に驚いた面もあります。特に、卒論に取り組んだこの半年間で驚くほど見違えた人もいます。逆に、それまでの3年半は何をしていたのか、ということも言えるのですが。

 ちょっと話はそれますが、僕などはよく、夜、布団の中で学生時代の恥ずかしい思い出が突然湧いてきて、その恥ずかしさに身悶えすることがあるのですが、君たちを見ていると「学部生って、こんなもんだったっけ」とホッと一安心して心の平安を得たこともありました。特にゼミ合宿や飲み会で君たちがお酒の勢いでばらしてくれたことを聞くにつけ、僕の若い頃はそんなに間違っていなかったんだと確信が持てました。ありがとうございます。つまり、成長しても、してくれなくても、どちらにしても、僕の心にとって君たちは「有り難い存在」でした。

 今、卒論の話をしましたが、数ヶ月前まで、君たちも苦しみ、教員側も苦しんだ卒業論文の思い出が、これまた思い出したくもないのに走馬燈のように駆けめぐります。これも一種のPTSDによるフラッシュ・バックでしょうか。

 去年の卒業生、つまり君たちの一つ上の学年の諸君も、「個性的」な学生が多く、その指導には結構苦労しました。皆さん、先輩の顔を思い浮かべて、思い当たる節があるでしょう。特にそこで笑っている人。  去年の今頃は「ここまで指導に苦しむ学年はないだろう」と思っていたのですが、あに図らんや、その読みは甘かったです。次の学年たる君たちにこれほど苦労させられるとは、神ならぬ僕には見通すことはできませんでした。君たちで心当たりのある人は、しっかり反省して、社会人になってもその気持ちを忘れないでください。僕も「人を見る眼の甘さ(無さ)」を虚心坦懐に反省しなければなりませんが。

 さて、卒論の「効能」ということを考えてみますと、論理的思考をこれで養えた、という効能を声高に主張するのは、君たちの卒論の出来を考えるとちょっと躊躇してしまいますが、一つ確実なものがあります。それは「自信」です。社会に出られても、「私ですら、卒論、どうにかなったんだから」というポジティヴな方向で考え、何事にも立ち向かうようにしてください。もしかしたら、卒論の効用は、そういうポジティヴ・シンキングの元になってくれることだけなのかもしれません。

 さて、君たちが卒業式の後開催してくれる「謝恩会」というものがあります。今年もしてくださるそうですね。ありがとうございます。去年まで僕は「謝恩だなんて、そんなにたいしたことはしていないのに」と申し訳ない気持ちでしたが、今年からは「謝恩してくれ」という気持ちで一杯です。しっかり謝恩されたいと思います。

 今後の君たちの人生が素晴らしいものであるようにお祈りいたします。これだけは冗談ではありません。皆さんの前途を祝します。

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January 06, 2006

25メートル泳ぎ切ってくれ

卒論を抱えた皆さんへ

最近は僕がどこに行こうが逃げようが、メールという素晴らしいもののおかげで(当然、僕が皆さんと同じくらいの時は、こんな便利なものはありませんでした)、書きかけの卒論を送りつけられるようになり(皆さんにとっては可能形、僕にとっては受動形)、お正月から今日までで、およそ6本の書きかけの卒論を読む羽目となりました。さすがに疲弊してきました。

個々人には、朱を入れたものを渡して個別指導をしていますので、ここでは、皆さん全体にちょっと抽象的な「お説教」をしたいと思います。

皆さんの論文は、なかなか良くまとまっているのもありますし、目の付け所が鋭いものもあります。僕も君たちを指導しながら、全く知らないことを吸収させてもらっています。

でも、全般的に言えるのは、君たち、ちょっと諦めのいい人が多いと思います。どういう事かというと、「ま、この程度で良いよね」という感じで止めてしまって、せっかくの着眼点が生かされていなかったり、細かいミスが結構あったり(注でページ数を示していないとか、誤字脱字は言うまでもありません)、もうちょっとで良いのが・・・というのが今の段階では多いのです。まだ〆切まで一週間ちょっとある段階でここまで、という言い方もできますが、僕としては、水泳で喩えると、25メートル泳ぎなさい、とこっちは言っているのに、20メートルほど泳いでプールの真ん中で足をついて「もう結構泳いだんだから、このあたりで良いでしょう」と僕を振り返って見ている、という感じがするのです。非常にもったいないことです。あと2掻き、3掻きでゴールなのに。

提出日ギリギリまでやってしまうという諦めの悪さはもちろん論外ですが(毎年いるんだ、こういうのが。そうならぬように)、もうちょっとディフェンシヴに振る舞ってください。具体的には、達成できない目標などを「はじめに」で打ち立てるな、ということです(笑)。そういう「最初の宣言(看板)に偽りあり」というのを我々は見逃しません。「ディフェンシヴに」というのは、ちょっと小ずるく立ち回れ、という意味です。提出日の前日にプリントアウトと製本が終わっているくらいの「諦めの程々の悪さ」と要領を期待しています。

僕個人が君たちに行っている指導は、基本的には「論文の形式」のことだけです(もっとこの辺りを深くつっこめ、という類の指導は行っていますが)。内容については、個々人の努力と能力に委せています(そこそこ委ねられるのですから、君たちは優秀なのです。自信を持ってください)。ですから脚注とか、章立て、段落、誤字・脱字、そういうことばかりチェックしています。でも、こういう形式上の基本的な事を疎かにしていると、本文でなかなか良いことを言っていても、僕たち教員は「20メートルだな」と判断せざるを得ません。そう思われたくないなら、僕たち教員の意地悪そうな顔(笑)一人一人を思い浮かべながら、「先生に突っ込ませてなんか、やるものか」という気持ちで書いてください(僕も最近、君たちへの個人指導で「口頭試問の時、○○先生ならこう突っ込んでくるかも知れないよ」と脅しを掛けているでしょ?あれはディフェンスのシミュレーションです)。形式上のしょーもないことでケチを付けられても、つまらないでしょ?そういうミスをなくす姿勢が「ディフェンシヴ」であり「25メートル泳ぎ切ること」でもあるのです。
内容についての突っ込みなんて、我々のような「プロ」だろうが、突っ込まれるときは突っ込まれます(学者って、そういう商売です)。僕もこの前、偉い先生数名に囲まれて満身創痍で帰ってきたこともあります(笑)。内容への突っ込みは、当たり前のことですから、それは恐れずに(もちろん、手を抜けといっているのではありません)、まずは細かいミスを徹底的になくしてみてください。

ご健闘を祈ります。

追記:TBを送ってくださった弓山先生も、似たような思いでいるらしい。難しいよなあ、「要領良く」とは思うけど、あまりにも要領が良いと(「これくらい叱られるのは想定内」と想定しちゃうことも含めて)ちょっとだけ腹立たしいだなんて、教員側の勝手な思いなんだけどね。

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December 18, 2005

「試みない」教師

今日は某学会の会議があり、夜は親しい先生と4人ほどで会食。「昨日飲み過ぎた」なんて言っていたKJ先生も、韓国からのL先生も、なんだかんだで結構お飲みになり、予定より2時間ほど延長してだらだら飲んでしまった。
四方山話の中で、今現在の学生指導や、自分の昔の指導教官の思い出話(苦労話)となった。その時つらつら思ったこと、思い出したことを少しメモしてみたい。

まず、先生の中には最初にガツンと強烈なジャブを打ち込んできて、倒れなかった者だけを弟子と認める、という人がいる。こういうタイプの先生は、結構昔は多かったと思う。KJ先生が昔からお世話になり尊敬している(僕も学問的には尊敬している)KY先生なんかが、どうもそういうタイプだったようだ。実は、昔僕も某研究会で初対面にもかかわらずこのKY先生に怒鳴られた経験があり、その様子は想像がつく(後述)。
昔から親しいSS先生は、留学先でそういう指導教官にぶち当たり、最初は大変苦労されたとのこと。そりゃ、留学していきなりそんな先生では、へこむに決まっている。でも、SS先生は思い切って彼の下に何度も足を運んで、個人的な悩みなども打ち明けるうち、逆に可愛がってくれたとのこと。「災い転じて」何とやらだ。
この手の先生は、その「洗礼」というか、「通過儀礼」を乗り越えて自分の下に残った者、要するに「その懐」に飛び込んできた人間には急に親身になる、というのがその共通項のようだ。「味方にすると心強いが、敵にすると怖い」という典型的なキャラクターでもあるわけだ。親分肌、と言っても良い。美少女なら「ツンデレ」と笑って済ませられるかも知れないが、僕はこのように学生をいきなり試みて、イエスかノーかを突きつけるようなやり方は、教師が執るべき態度ではないと、個人的には思っている。
「神よ、我々を試みに遭わせませぬよう」と祈るクリスチャンというわけではないが、最初は寛大にとりあえず受け入れて、その後徐々に接して人となりをお互い観察し、合わなければ去りたまえ、という態度こそが、本来大学教師が執るべき姿ではないかと思う。それは大学という場で学生と対峙する際の最低限の礼儀ではないか。僕のような能力の乏しい若造なら、なおさらである(僕の場合、いきなり学生を怒鳴るなんて、性格からしてできないけど)。

さて、先ほど少し触れた大御所のKY先生に怒鳴られた件だが、先生と僕の名誉のために付け加えておくと、まずKY先生はお年のせいで少し耳が遠く、僕の発言を聞き違えた可能性がある(事実、僕の発言ではなく、僕がコメント中に引用したある発言に対して「何を言うとるのか!」という一喝だったのだから)。でも、僕はその場で硬直してしまった。そして慌てて「ちょっと先生、それは誤解です」と僕は弁明したが、それには聞く耳持たない、という感じの態度をとられた。でも、本当の問題はその後に起こったのだ。KY先生の「高弟」(敢えてこのような表現を使う)のお一人のMG先生という方が、夜の懇親会の時に僕のところに近づいてきて
「川瀬さん、KY先生はああいう方だから(気を悪くしないでくれ)。でも、彼は一度認めた人間は、とことん面倒を見てくれる人だから」
と言ってきたのだ。怒鳴られてショックを受けている僕を気遣って言ってくれたのであろうMG先生には申し訳ないが、その時僕は敢えてKY先生を嫌いになることに決めた。もっと言えば、カリスマとその取り巻きたる高弟たち、という世界に入っていけないものを感じてしまったのである。学生が先生を甘やかしている例が、眼前に現出してしまったのだ。僕は、そういうのは、端的に節度がないと思う。

僕は幸い指導教官のSZ先生が大変温厚な方だったので(厳しくなかったということではない。実は大変厳しい方だと僕は感じていた)、先生から一喝されてショボン、という経験がない。他に大学院でお世話になったKZ先生や、C先生、YN先生からも可愛がっていただいた。まあ、僕がそういうところには嗅覚が利く質で(笑)、危険な香りがする先生(別にちょい悪オヤジ、という意味ではありません)には極力近づかなかっただけの話である。でも、同じような薫陶を受けるのなら、別に歯を食いしばって頑張らなくても、人柄の良い先生に付けば良い(そっちの方が合理的ですらある)と考えたことも確かだ。

自戒を込めて言うが、教師と学生の距離感というのは、本当に難しい。突き放さず、密着しすぎず、程よい距離を共同作業で築き上げていきたいと個人的には願っている。少なくとも、いきなり学生を試み、一喝でもって学生を支配下に置くような教師(そしてその後学生に甘やかされるような教師)にはなりたくはない、と思っている。ですから、勝手なお願いなんですが、学生の皆さんは、僕にそういう気配が見えたら、僕を傷つけないように遠回しに忠告してください(笑)。

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December 08, 2005

講義と教師はあくまで触媒

毎週授業準備に追われているうちに、ふと「大学の講義や教師っていうのは、あくまでも触媒だな」と思う。

もちろん、役立つ知識や、ものの考え方もある程度提供しているつもりだが、大事なのはその講義やゼミで与えられる「よりものを深く考えるようになるきっかけ」だと思う。つまり講義や教師は、学生個々人が成長するための触媒だと思う(触媒に過ぎない、と言っても良い)。僕自身、ちゃんと触媒の役目が果たせているかは甚だ心許ないのだが。

単なる技術や能力を引き上げることは、ある意味方法がかっちりしていれば難しくはない。極端な話、ある教科書を与えて「全部暗記してテストに合格しなければ不可」と言えばいいのだから。そのような教育もある程度必要なのは承知しているが(特に初級の語学はそのようなトレーニングが必要だろう)、大学、特に人文系の学問なら、そういうトレーニング的なお勉強から一歩踏み出して然るべきであろう。

話を戻せば、つらつら僕が受けてきた講義やゼミを思い出すに、実は個々の授業やゼミの内容は結構忘れているが(先生方、申し訳ありません)、
「あの先生の話は面白かったなあ」
「あの本を読むきっかけにはなったよな」
「ゼミのあとの飲み会が毎回盛り上がったよな」
という形で記憶していることが多い。であるから、僕の講義も学生の皆さんから
「川瀬先生の授業って、何となく面白かったよね」
「卒論には役に立たなかったけど、刺激になったよね」
と数年後同窓会で思い出してもらえるような講義をしたい、というのが、目下の野望である(笑)。逆に言えば、それ以上は望んではいない。

なお、僕のゼミでは個人発表(自分が選んだテーマで一時間ほど人前でプレゼンする)をさせているのだが、これはお互いに知らないことを教えあって学び合う(出来れば高め合う)という経験をしたいからである。僕のゼミは、各人がお土産を持ち寄ってみんなに振る舞う「ポトラック・パーティー」を目指しているわけだ。
もちろん、僕も学生に「高めて」もらっている。僕の雑学振りは、結構学生諸君、以前なら大学院での学友に支えられた部分が大きい。
また、僕は有益な「耳学問」を彼らに要求するずるい教師でもある(僕は学生から聞いた知識を翌日の教員同士の飲み会で披露したりする軽薄な男だ)。だから僕は学生に具体的には「僕の知らない本を読んできて、僕をびびらせろ」という要求をしている。

僕はやはり教えるというよりも、彼らが自身の興味を自分で深めるように促す「触媒」でありたい。そして何人かの学生は僕の期待以上のことをしてくれて、僕は果報者だと思っている(先日ゼミ合宿に行って数名の発表を聞いたのだが、やりとりも含めて結構感心・感動した。このエントリはその感動に触発されたものである)。

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September 06, 2005

人生で大事なことはネットからだけでは学べない

ネットをうろうろしていたら、大学の講義の情報(楽勝度が最重要項目だろうが)を収集するサイトやら、中には、レポートを集積して、「さあ、皆さんの元ネタにしてください」という主旨のサイトまであって驚く。探せば、類似のサイトはたくさん出てくるだろうし、これからも生まれるだろう。今日は「講義」の評価をするサイトについて、ちょっと考えたことをメモしたい。

こういうサイトができるのは、時代の趨勢だろう。インターネットという便利なツールが目の前にあるのだから、それを利用するのは、ある意味当然だろう。ネットは、不特定多数の人から情報を得ることができるし、情報提供者の心理的負担も少なかろう。しかし、教育する立場の者として、敢えて古くさいことをいいますが、こういうサイトの情報を鵜呑みにしたら、やっぱだめですよ。メディア・リテラシーという流行りの言葉を使っても良いが、要するに、「人の話を「話半分」に聞くことができること」がメディア・リテラシーなのだから。もう少し、疑う心も持ちましょう。

もちろん、僕も学生時代には先輩や同級生から、大学の色んな講義の情報を入手し、参考にしていた。先輩からもらった「オリエンテーション・パンフレット」(そういうのもあったんです)には、ちゃんと教官の「鬼・仏表」なるものもあったと思う。しかし、僕たちは、その情報を発する人間の「人柄」を勘案して、その「鬼・仏表」を判断していたと思う。つまり、信用できる人間からの情報か否か、ということだ。だから、「口コミ」は当たり外れが少なかったと