「Z GUNDAM Ⅲ 星の鼓動は愛」感想
今日は休日らしく過ごそうと思い、買い物と映画に行ってきました。
最初は「ミュンヘン」とか「ホテル・ルワンダ」とかを見ようかと思ったのですが、まだ病み上がりで体力が回復していないので、ちょっと日和って、公開されたばかりの劇場版Zガンダム(以下「ゼータ」)の最終作「星の鼓動は愛」を見に行きました。前の二作も既に見ていますしね、もはや義務と思い新京極のMOVIX京都に行ってしまいました。
ということで、以下は物凄くネタバレのおそれがありますので、未見の方はご注意願います。
さて、まず初っぱなから申し上げますと、一番びっくりしたのはやはり何と言ってもエンディングでした。だって「ハッピーエンド」なんですよ、奥さん!!(文字を反転させました)劇場で配られたアンケート用紙で「エンディングはいかがでしたか」という項目があったのも、むべなるかな。これには本当にびっくりして、思わず「うっそー」と呟いてしまいました。
テレビの本放送があった頃、僕は中学生でしたが、ビデオに撮った最終話を繰り返し見ておりました。最終の二話は、非常に緊張感がある演出で、しかもその悲劇的なラストが僕のトラウマとなり、忘れがたい作品になっていたのでした(僕の一世代上の人なら、恐らく「イデオン発動編」がトラウマになっていると思います)。ですから、この映画は僕のゼータ観をひっくり返すものとなりました。僕なんか「いつカミーユが狂うのか」と最後の最後までハラハラしていたら、肩すかしを食らって、先ほど言ったように「うっそー」と呟いてしまったわけです。
以下、見ながら思いついたことを箇条書きにしたいと思います。
1)シロッコが「教祖」のように描かれていることに今更ながら気付きました。サラは教祖を崇拝する信者のようなふるまいを見せますし(死に方もまさに殉死)、「時代を変える」ということが、ジュピトリス・カルト(勝手に命名)の信念のようですし。
2)カツが本当に邪魔。子供心にも、こいつはダメだなあ、と思っていたんですが、大人になってから見ると、カミーユでなくても撃ち殺したくなるくらい邪魔です(笑)。
3)シロッコのエリート意識が強調され(歴史を動かしてきたのは、限られた天才達だけ」とか言ってたっけな)、それが「叩くべき悪」として描かれていて、分かり易かったのですが、基本的にハマーンもシャアも、それほど遠いところにはいないよなあ、とも思いました(みんなお互いを「俗物」扱いしているんですもんね)。みんなけっこう「愚民観」を前面に押し出すもんなあ。「愚民どもが」なんて榊原良子様の声で言われた日には、もう、萌えますけど。
4)良くガンダムは「リアル・ロボット」ものの元祖だとか、政治的なものや軍隊というものを描いた先駆とされています。もちろん、これは間違いではないのですが、実は、すごく非合理なオカルト的なものもガンダム、特にこのゼータにはあります。「ファースト」までの「ニュータイプ」概念は、簡単に要約すれば、宇宙で人類が活動するようになって、知覚が発達して、人同士が理解し合える可能性が高まってきた(戦場においては、その能力が有利になる)、というものでしたが、もはやゼータにおけるニュータイプは、それを超えて、完全に超能力になっています。だって、気合いでビーム跳ね返したり、モビルスーツを金縛りに遭わせたりするんですよ(笑)。もう一つ言うと、「幽霊」の話にもなっていますね。「ファースト」でも、死んだはずのララァとアムロは喋ったりしていますが、ゼータでは死者からエネルギーをもらうまでに「進化(?)」しています。
で、ちょっと宗教学者として真面目に考えたのは、こういうガンダムでの「死者との交流(幾分かシャーマニック)」というモチーフは、日本では案外すんなり受け入れられるかも知れないけど、外国ではどうなんだろう、という疑問です(ご存じの方がいらっしゃれば、ご教示願います)。
5)実は、今回見て、僕が一番考えさせられたのは、レコア・ロンドというキャラクターについてです。彼女のようなキャラクターを見ると、やはりガンダムを一度ジェンダー的な視点から分析する必要性を感じますね。まだ僕には用意が無くて、ちゃんとはできませんが。
二十年前に見ていたとき、彼女の行動や性格が判らず混乱したのですが、そこそこ「大人」になってみると、子供っぽい我が儘さとは違う彼女の衝動というものが、何となく理解できてしまったような気がします。ここで問題になるのは、「女として」ということです。レコアは、戦争ばかりして自分を省みないエウーゴの男性(具体的にはシャア)を見限って、これまた女性を道具としてしか見ないシロッコという男の下に居着くことになります。そこで彼女は妙な「安定」を感じるわけですが、その理由を「女として生きている実感を感じさせてくれる」というものだと告白するわけです。ここで唐突に思い出したのが、これまた富野監督の「イデオン発動編」のキャラクター、ハルル・アジバとカララ・アジバです。ストーリーを掻い摘んで言うと、二人は敵味方に分かれて、結局ハルルは妹カララを撃ち殺すのですが(すげー凄惨な話だよな、やっぱり)、その殺害の理由が、女として生きたカララにハルルが嫉妬した、というものでした。愛する人と一緒になり、その子供を身ごもったカララに、それが叶わなかったハルルが感情を爆発させたのです。富野監督の作品では、「女として生きようとする」業の深い女と、それをたしなめる女性(ゼータならエマ)が手ひどい扱いを受けているような気がしますね・・・。「女として(その裏返しで「男として」)」、ちょっと考えてみたいテーマです。
さて、衝撃のエンディングの後、劇場に灯りが点り、帰り支度をしているとき、僕の後ろにいた男の子の集団が感想を言い合っているのを耳にしました。曰く
「これ、要するにファ・ユイリィ・エンドってこと?」
思わず「うまいこというなあ」と思って笑ってしまいました。今まで富野監督の作品では、何度も「バッド・エンド」を繰り返し見てきたからね、たまにはこういうのも良いでしょう。
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