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March 05, 2006

「Z GUNDAM Ⅲ 星の鼓動は愛」感想

今日は休日らしく過ごそうと思い、買い物と映画に行ってきました。
最初は「ミュンヘン」とか「ホテル・ルワンダ」とかを見ようかと思ったのですが、まだ病み上がりで体力が回復していないので、ちょっと日和って、公開されたばかりの劇場版Zガンダム(以下「ゼータ」)の最終作「星の鼓動は愛」を見に行きました。前の二作も既に見ていますしね、もはや義務と思い新京極のMOVIX京都に行ってしまいました。

ということで、以下は物凄くネタバレのおそれがありますので、未見の方はご注意願います。

さて、まず初っぱなから申し上げますと、一番びっくりしたのはやはり何と言ってもエンディングでした。だって「ハッピーエンド」なんですよ、奥さん!!(文字を反転させました)劇場で配られたアンケート用紙で「エンディングはいかがでしたか」という項目があったのも、むべなるかな。これには本当にびっくりして、思わず「うっそー」と呟いてしまいました。
テレビの本放送があった頃、僕は中学生でしたが、ビデオに撮った最終話を繰り返し見ておりました。最終の二話は、非常に緊張感がある演出で、しかもその悲劇的なラストが僕のトラウマとなり、忘れがたい作品になっていたのでした(僕の一世代上の人なら、恐らく「イデオン発動編」がトラウマになっていると思います)。ですから、この映画は僕のゼータ観をひっくり返すものとなりました。僕なんか「いつカミーユが狂うのか」と最後の最後までハラハラしていたら、肩すかしを食らって、先ほど言ったように「うっそー」と呟いてしまったわけです。

以下、見ながら思いついたことを箇条書きにしたいと思います。

1)シロッコが「教祖」のように描かれていることに今更ながら気付きました。サラは教祖を崇拝する信者のようなふるまいを見せますし(死に方もまさに殉死)、「時代を変える」ということが、ジュピトリス・カルト(勝手に命名)の信念のようですし。

2)カツが本当に邪魔。子供心にも、こいつはダメだなあ、と思っていたんですが、大人になってから見ると、カミーユでなくても撃ち殺したくなるくらい邪魔です(笑)。

3)シロッコのエリート意識が強調され(歴史を動かしてきたのは、限られた天才達だけ」とか言ってたっけな)、それが「叩くべき悪」として描かれていて、分かり易かったのですが、基本的にハマーンもシャアも、それほど遠いところにはいないよなあ、とも思いました(みんなお互いを「俗物」扱いしているんですもんね)。みんなけっこう「愚民観」を前面に押し出すもんなあ。「愚民どもが」なんて榊原良子様の声で言われた日には、もう、萌えますけど。

4)良くガンダムは「リアル・ロボット」ものの元祖だとか、政治的なものや軍隊というものを描いた先駆とされています。もちろん、これは間違いではないのですが、実は、すごく非合理なオカルト的なものもガンダム、特にこのゼータにはあります。「ファースト」までの「ニュータイプ」概念は、簡単に要約すれば、宇宙で人類が活動するようになって、知覚が発達して、人同士が理解し合える可能性が高まってきた(戦場においては、その能力が有利になる)、というものでしたが、もはやゼータにおけるニュータイプは、それを超えて、完全に超能力になっています。だって、気合いでビーム跳ね返したりモビルスーツを金縛りに遭わせたりするんですよ(笑)。もう一つ言うと、「幽霊」の話にもなっていますね。「ファースト」でも、死んだはずのララァとアムロは喋ったりしていますが、ゼータでは死者からエネルギーをもらうまでに「進化(?)」しています。
で、ちょっと宗教学者として真面目に考えたのは、こういうガンダムでの「死者との交流(幾分かシャーマニック)」というモチーフは、日本では案外すんなり受け入れられるかも知れないけど、外国ではどうなんだろう、という疑問です(ご存じの方がいらっしゃれば、ご教示願います)。

5)実は、今回見て、僕が一番考えさせられたのは、レコア・ロンドというキャラクターについてです。彼女のようなキャラクターを見ると、やはりガンダムを一度ジェンダー的な視点から分析する必要性を感じますね。まだ僕には用意が無くて、ちゃんとはできませんが。
二十年前に見ていたとき、彼女の行動や性格が判らず混乱したのですが、そこそこ「大人」になってみると、子供っぽい我が儘さとは違う彼女の衝動というものが、何となく理解できてしまったような気がします。ここで問題になるのは、「女として」ということです。レコアは、戦争ばかりして自分を省みないエウーゴの男性(具体的にはシャア)を見限って、これまた女性を道具としてしか見ないシロッコという男の下に居着くことになります。そこで彼女は妙な「安定」を感じるわけですが、その理由を「女として生きている実感を感じさせてくれる」というものだと告白するわけです。ここで唐突に思い出したのが、これまた富野監督の「イデオン発動編」のキャラクター、ハルル・アジバとカララ・アジバです。ストーリーを掻い摘んで言うと、二人は敵味方に分かれて、結局ハルルは妹カララを撃ち殺すのですが(すげー凄惨な話だよな、やっぱり)、その殺害の理由が、女として生きたカララにハルルが嫉妬した、というものでした。愛する人と一緒になり、その子供を身ごもったカララに、それが叶わなかったハルルが感情を爆発させたのです。富野監督の作品では、「女として生きようとする」業の深い女と、それをたしなめる女性(ゼータならエマ)が手ひどい扱いを受けているような気がしますね・・・。「女として(その裏返しで「男として」)」、ちょっと考えてみたいテーマです。

さて、衝撃のエンディングの後、劇場に灯りが点り、帰り支度をしているとき、僕の後ろにいた男の子の集団が感想を言い合っているのを耳にしました。曰く

「これ、要するにファ・ユイリィ・エンドってこと?」

思わず「うまいこというなあ」と思って笑ってしまいました。今まで富野監督の作品では、何度も「バッド・エンド」を繰り返し見てきたからね、たまにはこういうのも良いでしょう。

January 15, 2006

正しく哀しみ、正しく快復すること―須藤真澄『長い長いさんぽ』

nagainagaisampo今日、本屋に寄ってみたら、空色の表紙が目に入りました。僕が昔から愛読している、須藤真澄先生の新刊『長い長いさんぽ』でした。
須藤先生の愛猫「ゆず」が昨年亡くなりました。須藤先生はゆず君を熱愛していて(まさに猫可愛がりです)、長らくショックだったようですが、このたびその想いをこのような素晴らしい作品にして昇華して、届けてくれました。
実は僕、この作品を自分の研究室で息抜きに読んでいたのですが、思わず目頭が熱くなり、危うく学生に泣き顔を見られるところでした(学生がなかなか書きかけの卒論を持ってきてくれないので、却って助かりました)。

さて、精神分析の祖であるフロイトは、愛する対象を亡くしたとき、人はどのようなプロセスを経て快復するか、ということを考えました。一般に「喪の仕事(mourning work, Trauer arbeit)」と呼ばれるものです。思い出すだけで胸が苦しくなる、そんな時期が「喪の仕事」の初期過程であるわけですが、それを乗り越えないと、次のプロセスに進んだように見えても、また「ぶり返す」ことをフロイトは指摘しています(喪の仕事を先延ばししたり、ごまかしたりすると、それが「抑圧」となって心の奥に澱のように溜まり、神経症を引き起こすとフロイトは考えました)。要するに、精神分析の教えるところの重要な点は「人間は正しく哀しめば、正しく快復する」ということだと思います。僕は精神分析の知見で最も重要な点はここにあると個人的には思っています。
この作品は、まさに須藤先生の「喪の仕事」そのものだと思います。そして、哀しみをここまでの作品に仕立て上げる須藤先生の強靱さにも打たれました。

一読をおすすめします。

May 07, 2005

休日最後の

皆さん、この大型連休はどうお過ごしでしたか?
なんだかんだで、あっという間に終わってしまいますね。

で、僕は今日、休日の最終日となる明日の過ごし方を、決めてしまいました。
それは・・・

garasunokamen

とうとうやってしまいました。美内すずえ先生の『ガラスの仮面』の文庫版の大人買いを!!ひーっ。

実は、今まで友人や先輩に借りたりして読んでしまっていたので、自分では買っていなかったんですよね。これだけ中毒性が強い漫画は体に悪いとも思っていましたし、自制していたのですが、もう我慢できなくなりました。大人って、ちょっぴりお金を持っているから、却って自制心が効かなくなります。僕が人生で一番忍耐強かったのは、風呂無しアパートで一人暮らしをしていた大学時代でしょう。そのときに比べたら、僕はすごく忍耐力が摩耗しています。「こんな贅沢しちゃダメだ」とも思うのですが、いつも

「ブランド品などを買う人に比べれば、こんなのちっとも贅沢じゃない」
→「故に、この程度の大人買いは許されて当然だ」

という、ものすごく自分に都合のいい二段論法(三段にも達さない)が頭の中を駆けめぐる昨今です。

レジにこれだけどっさり持って行くとき(二十数冊)、思わず自分に「タカヤ・・・恐ろしい子・・・」とつっこみを入れずにはいられませんでした。いや、店員さんが思ったに違いありません。

というわけで、今晩から明日にかけてこれを貪り読んで、休み明けの月曜日には、水城さんを心配させる真澄様のような表情をしているかもしれませんが、自業自得ですので、ご心配無用です。

それでは皆様、素晴らしい休日の最終日を。

April 07, 2005

また一人の「天才」が消えてしまった

vol1 さきほど、僕が入っているSNSのmixiで知ったのですが、マンガ家の岡田史子先生が、今月三日に心不全でお亡くなりになったそうです。享年55歳。mixiでこの訃報を知らせてくれた方は、岡田先生の息子さんとお友達なのだそうです。

まずは、ご冥福をお祈りするとともに、日本漫画界がかけがえのない「天才」をまた一人失ったことを惜しみます。明日、所沢の小手指にある所沢教会で本葬だそうです(11:00~)。

岡田史子さんは、一部でまさに「天才」と絶賛されていましたが(岡田さんの一番の賛美者は、萩尾望都先生でしょう)、はっきりいってその作品は一般受けする性質のものではなかったと思います。これほど読む人を選ぶマンガも少ないのでは、と個人的には思っているほどです。

実は僕も、最初それほど良いとは思いませんでした。いや、正確にいえば、読む度につらくなるので、なるべく目に触れないようにしていたのです。

彼女の代表作であった『ガラス玉』(朝日ソノラマ)も、ラッキーにも古本屋で入手したのに(古本屋でこれを買ったとき、店長が「いい買い物したね」とニヤッと笑ったことを覚えています)、繰り返し読むのがつらくて、結婚して引っ越すときに売ってしまったのですが、結局、画像で示したアンソロジーを買い直してしまいました(飛鳥新社から出ています。入手可)。

彼女の作品は、こういう言い方をすると誤解されるかも知れませんが、人に訴えたり、人を癒すというよりは、「読む人を傷つける」ことを意図して描かれたのではないか、とさえ僕は思っています(こんなことを言うと、もしかしたら岡田先生はお笑いになるかも知れませんが)。僕はこのような製作態度を否定しません。読む人、見る人のトラウマを目指す創作活動は「あり」だと思います(映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーも、同様のことを言っていたと記憶しています)。それが僕が彼女の作品を一時避けていた原因であり、それと同時に、再び購入させた原動力だと思います。別の言い方をすれば、僕はいつの間にか、まさに「トラウマ」というものが言語化できないのにその人のアイデンティティに決定的な影響を与えているのと同様に、岡田先生の作品に「傷つけられ」、それ故に再び求めざるを得なくなった、ということを言いたかったのです。

最後にもう一度、ご冥福をお祈りいたします。

修辞ではなく、魂の平安あらんことを。

March 09, 2005

吾妻ひでお『失踪日記』を読む

いつも拝読している竹熊健太郎先生のブログで、吾妻ひでおの新作『失踪日記』(イースト・プレス、\1140)が取り上げられており売り切れ書店続出、という続きの記事にあおられ、昨日の帰り道に本屋によって探したら、京都駅の旭●書店では見つかりませんでしたが、何のことはない、近所の本屋であっけなく発見、即購入(ネットで購入をお考えの方は、是非竹熊先生のブログ経由でお求めください。竹熊先生はアマゾンのアフィリエイトでこの本を推薦していますので)。

内容はですねえ、読んで貰うのが一番手っ取り早いんですが、解説者の方々がおっしゃるように、吾妻さんの自分を見つめる視線は、これは唯一無二、とまでは言わないにしても、かなり希有な例ですよ。恐ろしく悲惨な状況を淡々と明るさ、ギャグも含めて書けるこの「精神力」には、本当に恐れ入ります。ナルシズムや韜晦がほとんど見られない、というのは、自意識過剰な僕みたいな人間からすれば、奇跡のようにすら思えます。

あと、印象深かったのが、アル中治療の章です(「アル中病棟」)。吾妻さんはもともとお酒はそれほど強くない人だったのに、どんどん深みにはまっていくのが判って、空恐ろしくなりました。
それと、「AA(アルコホリックス・アノニマス)」の集会に出席した(させられた)吾妻さんの観察も秀逸(pp.181-2)。AAはよくその集会のあり方や、集会の最後に唱えられる「祈り」などが着目されて、その「スピリチュアリティ」が宗教社会学者の研究対象になったりするのだが(僕のAAに関する知識も、AAを研究している先輩の論文からの受け売り)、吾妻さんはどうもこれに馴染めなかったらしく、後書き対談(表紙の裏にこっそりあります)で、「ミーティングでは受ける小咄をしてた」とギャグマンガ家として満点のお答え(笑)。

というわけで、「私小説」ならぬ「私漫画」の極北の一つであることは間違いないこの作品、おすすめです。

February 02, 2005

こうの史代『夕凪の街桜の国』を読む

yuunagi忙中閑あり、と申しますが、「無理矢理でもリフレッシュの時間を作らないと、人間壊れるよね」、という自分勝手で都合の良い言い訳を自分にかましながら、大体深夜は「漫画(or 深夜番組)」タイムなのですが、昨晩、各方面で話題になっている

こうの史代『夕凪の街桜の国』双葉社、2004、\800

を読みました。
表紙を見て判るように、穏やかな絵柄の人ですが、実は内容はけっこうハードです。
ネタばれしない程度に内容を掻い摘んでお話しすると、この物語は広島の被爆者の家族(祖母から孫まで)の物語です。広島の原爆に対する漫画といえば、ご存じ『はだしのゲン』がありますが、こうのさんの作品は、敢えて「直接的」な糾弾や表現を避けつつ、何故か生き残ってしまった私たち(これは原爆を直接体験していない孫の世代にも関わるのですが)が、何十年も経つのに「外傷(体と心両方)」として残っている原爆にどう向かい合っていかざるを得ないか、ということを語っていると思います。

アウシュビッツの生き残りたちも「どうして我々だけが生き残ってしまったのだろうか」と、却ってその不条理さに苛まれたことが様々な本に書いていますが、それと同様に、まさに「トラウマ」として原爆が穏やかな日常に突然割り込んでくるわけです。

僕の賢しらな解説よりも、まずは皆さんに読んでいただきたいと思います。
「記憶」「トラウマ」そして「回復」というものを改めて考えさせてくれる漫画です。おすすめ。

January 23, 2005

かっぱえびせん漫画

皆さんこんにちは。このところ、〆切の近づきつつある原稿に追われて、休日出勤の川瀬です(ですから、この1月と2月は更新頻度が少し落ちると思いますので、ご了承ください)。

まあ、研究室では小難しい本やら資料を眺めていますので、家に帰るとどうしてもリラックスできる漫画とか、頭を余り使わなくても良いような深夜番組とかに走りがちです。
しかし、リラックスしようと漫画を手にしたら、その漫画のドラマのエネルギーが強すぎて、次々と読んでしまい止まらなくなる漫画ってありますよね。評論家の竹熊健太郎先生は、的確にも「かっぱえびせん漫画」と名付けていますが(そして、その筆頭として『ガラスの仮面』と『野望の王国』を挙げていらっしゃいます。このチョイスに文句のある人は恐らくいないでしょう、『野望の王国』を読んでいない人以外では)、僕も昨日、ついうっかりして、そのような「かっぱえびせん漫画」の一つに手を出してしまい、おかげで昼過ぎに起きてしまうという体たらくです。

それは、言わずもがなの超名作、池田理代子先生『ベルサイユのばら』です。何でこれを読み返そうかと思ったかというと、昨日偶然このようなサイトを発見してしまい、不覚にも大爆笑してしまったからです。このサイトの「ベルサイユの時事録♪」というのをご覧ください。要するに、『ベルばら』のコラージュパロディなんですが、ついつい本家の方を読み返したくなる面白さでした。

あ、そうだ。もしかして、このブログを読んでくださっている皆さんの中には若すぎて池田理代子先生のことも、『ベルばら』のことも知らないようなお嬢ちゃんお坊ちゃんがいるかも知れませんから言っておきますが、『ベルサイユのばら』を読んでいないのは、夏目漱石の『こころ』を読んでいないのと同じくらい、いやそれ以上に恥ずかしいことですから、速やかに読みなさい。以上。
今は文庫化されて入手も容易ですし、もしかしたら、皆さんのお母さんが「嫁入り道具」の一つとして、夫に黙ってこっそり実家から持ってきている可能性も大です。お母さんに尋ねてみたら、ボロボロになるまで読み込まれたマーガレットコミックス(全10巻)をそっと部屋の奥から出してくれるかも知れませんよ。

今書いている論文が終わったら、僕は自分へのご褒美として、こういう「かっぱえびせん漫画」を一気に大人買いする予定です。候補としては、『ガラスの仮面』と『北斗の拳』です。両方とも、過去に友人に借りてしまって自分では買っていなかったんですよね。

さて、論文に戻ります・・・。

December 19, 2004

三宅乱丈はすごいかも・・・

この週末は、疲れた体を休めることに決定。冬休み直前で息切れしてきたことに加えて、忘年会やらで体力が削れていることを自覚したからだ。
あ、今卒論を抱えている学生の皆さん、疲れたヘロヘロの体と脳みそでは、ろくな文章になっていませんから、一度ゆっくり寝ることをお薦めします。今まで君たちが寝すぎである、ということはとりあえず棚上げします。そろそろ精神的に追いつめられ始めているかも知れませんが、いざ追いつめられれば不思議なことに人間、自分でも思いがけないようなエネルギーが湧いてきて(人によっては神が降りた、と表現する人もいます。実は、僕も今「言霊様」のご降臨を平井和正先生のように待っているところです)、何とかなるものです。頑張ってください。

閑話休題。ということで、近所の本屋さんに行って、何冊か息抜きになりそうなマンガを物色して読みふける。
で、そのうちの一冊が、久々に僕をして「何じゃこりゃー」と叫ばせた代物で、作者は三宅乱丈先生(excite booksでのインタビュー記事です)。今まで名前は知っていたんですが、何となく読まずに過ごしてきたんですよね。僕の大学の同期のT澤嬢が「『ぶっせん』、すげー面白いよー」と奨めてはくれていたのですが、『ぶっせん』(講談社モーニングワイドコミックス)を数ページパラパラ読んで、「何かピンと来ないなあ」とその時は思い、そのままにしていたのですが、何故か今回は吸い込まれるように、三宅先生の最新作『大漁!まちこ船』(講談社モーニングワイドコミックス)を購入してしまいました。表紙の迫力に押されてしまったので・・・。

このマンガ、何と言っても、バカバカしい設定を大まじめに書いていて、強引に独特の世界に引きずる力が半端じゃない!!こんな不条理な世界に連れて行かれたのは久々です。倉橋由美子や川上弘美に勝るとも劣らない(当社比)力業だと思いました。

えー、簡単にこの物語を説明しますと、舞台は港町で、「マグロのエサ」が職業のまちこと、脱サラしてスローライフの実践として漁師を始めた小川さんが、紆余曲折があったあとで、まちこが産んだ卵に放精してほのぼのとした子だくさんの家庭を築くという、愛の物語です。大丈夫ですか?ついてきてくれてますか?僕もこのように強引に物語をまとめてみましたが、改めてこの世界の「ものすごさ」に戦慄しております。
よくもまあ、こんな設定を考えつくものだ。多分、三宅先生は実は「何にも考えていなさそう(正確に言うならば、設定はすごく思いつきっぽくて、ディテールは非常に細かいです。そのせいで地引き網に引っかかったようにこの世界に引きずり込まれたわけですが)」な雰囲気もあるのですが、「これは愛の寓話として読み替えなければ」という変な義務感を読者に感じさせます。

というわけで、これから遡って三宅先生の作品を読みあさるかも知れません。今までちゃんと読んでこなかった不明を恥じております。

November 30, 2004

『よつばと!』3巻感想

今日、講義が終わってパンをかじっていたら、卒業生のH君がいきなりやってきて、某公務員試験に受かったとの朗報を持ってきてくれた。おめでとう、H君。来年あたり、在学生への「就職活動に関する講演」をお願いすると思いますので、宜しく。

彼とはひとしきり色々話したのだが(彼は小説、マンガなどにも造詣が深いので話題が豊富)、そこで僕が話題に出したのが、あずまきよひこ『よつばと!』の新刊のこと(現在3巻まで)。Hくんはあずまきよひこの大ヒット作あずまんが大王は読んでいたが、『よつばと!』は未読とのことだったので、とりあえず薦める。

yotsubato3.jpg
(こんな表紙です)

この作品は、「小岩井よつば」という女の子が主人公の、まったり進む物語です。よつばとその「父ちゃん(パンツ一丁でパソコンに向かう翻訳家。よつばの血縁上の父ではなさそう)」、その父ちゃんの親友である背がやたら高い花屋さんの「ジャンボ」氏(トールマンではありません。念のため。ちなみにこのトールマン氏は僕の大学の先輩)、おとなり綾瀬家の三姉妹(あさぎ、風香、恵那)を中心とした物語が淡々と進んでいくだけ・・・なのですが、ついつい顔がにやけてしまう作品です。ホント、どんどん話の運びかたがうまくなっている・・・。僕の親友の(福)君も太鼓判を押す巧さ。あずまきよひこ、恐るべし。
昨今、これだけ誰も傷つけない、ハートウォーミングな話は珍しいと思います。ほんわかしたい方にお薦め。前作『あずまんが大王』同様、再読性に優れております。

さて、このような癒し系マンガ『よつばと!』を愛読する僕ですが、それとは正反対のものも実は愛読してしまう傾向があります。例えば『野望の王国』とか(笑)。
で、帰り道に出井康博『松下政経塾とは何か』(新潮新書、2004年)という新書を買ったのですが、これを買ったのは、もちろん数々の政治家を輩出しているこの組織に興味があったし、僕の知り合い(大学時代の先輩)も一人「入塾」しているからなのですが、決定打は、何と言っても担当編集者の売り文句

「松下政経塾」は実録版『野望の王国』だ!

ええーっ、『野望の王国』ですか?僕はことあるごとに、この雁屋哲先生原作、由起賢二先生作画の超絶ヴァイオレンス劇画を薦めて「野望メイト」(笑)を増やそうと画策しているのですが、まさかこんなところでそのタイトルにお目にかかるとは・・・。この担当者も恐るべし。
この煽り文句はどういうところに由来しているのかは未だ読んでいないので何とも言えませんが、僕の読む気を起こしてくれたのは確かです。しらなかった、松下政経塾の皆さんがそれほど「野望」に燃えているとは・・・。

November 26, 2004

やまだ紫さんの新作

ふと立ち寄った本屋で、ぱっと目に付いた青い表紙の本があった。
あ、やまだ紫さんの新作じゃないか!昔からのやまだファンの僕は当然即購入。こういう作品集は『夢の迷子たち』(翔泳社、1995)以来じゃないかな。

新作のタイトルは、復帰第一作だからか非常にシンプル。その名も『愛のかたち』(PHP、\1400)。早速読んでみました。

aino_katachi.jpg
(すてきな表紙です)

さて、僕の方からちょっとだけ(僭越ながら)ご紹介すると、やまだ紫さんは、昔青林堂の『ガロ』に良く描いていた漫画家(エッセイストとしてもご活躍中)で、僕は確か高校生の時にその存在を知ったのだと思う。高校時代、通学路に、マニア向けのマンガ専門店(「わんだ~らんど」という店。泉北の深井駅の前にあった。堺では希有なマンガ専門店だった)があって、僕は足繁くこの店に通い、様々なマンガを買いあさっていたのだが、やまだ紫さんとの出会いもこの店(ついでに言うと、近藤ようこさんや、津野裕子さんなどガロ系の女性マンガ家は全てこの店で教えてもらったようなもの。感謝しています)。彼女の代表作といえる『しんきらり』(青林堂、現在筑摩書房)がこの「わんだ~らんど」に置いてあって、それをパラパラ読んで、「衝撃」(としか言いようがない)を受けたのだ。そこに描かれていた世界は、高校生のケツの青い僕にはまるで「判らない」、だけど「ものすごく胸に迫る」ものだったから。夫婦と二人の娘が構成する家庭とそこでの心の移ろい、などと書くと陳腐になってしまうので贅言は控えるが、「夫婦が穏やかに過ごすこと(その穏やかさを維持すること)」が「ささやかな夢」どころか実は「激しい夢」であることを教えてくれたのは、間違いなくこの作品だ(こういう台詞が本編に出てくるのです。興味ある方は探して是非お読みください)。この『しんきらり』以来、僕はやまだ紫さんのファンを続けている(今自宅にある『続しんきらり』は偶然手に入ったサイン本です。ちょっとした自慢)。

で、今回の新作はマンガとエッセイが半々(エッセイの方が量は多いが)。全体的な印象だが、穏やかに日常に立ち現れる問題を提示するスタイルや、恋人や夫婦の愛のありようについての言及など、やまだ作品としての「手触り」は昔から変わっていないと思うが、今回、大病を乗り越えた後だからか、それともお孫さんができたという変化もあってのことだろうか、エッセイにも明言しておられるように「人間性善説」を前面に押し出し、あえて「常識」とでも呼ぶべき「心配り」を提言しているような印象を受けた。これは、奇抜な発想でも提案でもない。しかし、強靱な「常識」であり「良識」だと思う。「渡る世間は鬼ばかり」と思いたくもなるような昨今だからこそ、この「常識」を再度強調することに意味が出てくると思う。当たり前のことを当たり前にこなすこと、これは『しんきらり』で描かれていた夫婦生活の穏やかさの維持と同じく、実は大変な困難と伴うことだと思う。『愛のかたち』は、僕にとっては、もちろん新しい要素もたくさんあるのだけど、僕が初めて読んだやまだ作品の『しんきらり』を彷彿とさせる作品集だった(エッセイは驚くくらいご自身の心情を吐露しておられたので少し驚いたが)。

この新刊のついでに、前述の近藤ようこさんの初のエッセイ集も偶然見つけ、これも購入(『後には脱兎の如し』晶文社、2004、\1800)。僕の掲示板で以前教えていただいた、たかみようこさんの『ソウルで新婚生活』(大和書房、2004、\1300)も購入(掲示板で教えていただいたのは韓国語版だったが、日本語版がこうしてすぐに出たのだ)。今晩は近藤さんのエッセイからかな。たかみさんのは、確かに韓国語のレッスンにもなる良い出来の本(マンガ&イラストで読みやすい)。韓国に興味ある人、もしくは韓国人とつきあっている女性にはお勧め(笑)。