August 07, 2009

鈴木祥子「無言歌Romances sans Paroles」@渋谷UPLINK

090807_gundam_shoko_009 今日から、僕はちょっとした「夏休み」。今回上京したのは、鈴木祥子さんのドキュメントフィルム「無言歌Romances sans Paroles」が渋谷のUPLINKでレイトショー上演されていて、日によっては祥子さんのミニライヴやトークショーがあり、なかなか身動きが取れなくてやきもきしていたのですが、ようやく休みとなり、千秋楽の今日だけは参加することができたのでした。
ただ、レイトショーということで昼間は時間がありますので、鈴木祥子さんのライヴでよくご一緒しているみなさんと計4名でお台場に設置されている「実物大ガンダム」を見てから会場に向かおうということになりました。この「お台場ガンダム」は、さすがに夏休みだけあって、お子さん連れや、我々のようなアラフォー及びアラサー世代も加わり、人波がすごい。木陰に見える機体に向かって駆け足で駆けより、写真を撮りまくります。妙にテンションあがっちゃいましたね。ここまでの大きさになると、もはや大仏とかと同じように「拝みたくなる対象」に。でもすでに会場限定のグッズも売り切れていたので、写真を撮りまくり、その周りを一周して堪能した我々は、そのまま「りんかい線」に乗って、今日の本来の目的地である渋谷に向かいました。
090807_gundam_shoko_023 レイトショーとは言え、開場1時間前に整理券を配り始めるイヴェントでしたので、それよりも早めに渋谷に着いておかねば、と思ったのです。りんかい線で乗り換えなしで渋谷に到着。まだ時間があるということで、軽くおなかに入れようと東急本店近くのカフェでケーキセットなどを食していると、突然集中豪雨が!!「バケツをひっくり返したような」という常套句がぴったりな凄さ。しばらく閉じ込められましたが、小雨になってきたときに店を出て、整理券をもらうための列に加わることにします。早めに行ったおかげで、列の先の方に並ぶことはできたのですが、雨上がりの湿気がものすごい!UPLINKの狭い廊下に延々と並ぶ我々。噴き出す汗。結局汗だくになりながら1時間弱ならんで、整理券をゲット。まだ上映まで一時間弱あるので、行列で汗をかいた我々はたまらず、1階にあるレストランで生ビールなどで乾杯。ひとここちついて、改めて開場前に戻り、開場時間となりました。今日はこれまでと違い、映画上映の後にミニライヴ、というスケジュール(昨日までは逆で、カッチリ時間が決まっていたそうです。どっちにせよ、僕は行けなかったわけですが)。

さて、映画本編が始まりました。僕は最前列に座っていたのですが、このフィルムはSANYOのXACTIで祥子さんがセルフ撮りをしている場面が多く、細かい「揺れ」がどうしてもあるので、結構目が疲れちゃいました(笑)。
で、内容ですが、これがまとめるのが難しい。というのも、ストーリーはある意味あってなきがごとしだからです。祥子さんの「自分語り」と、コンサートのリハーサル光景、亡くなったお父さん(写真を初めて拝見しましたが、似ているなあ、と思いました)ゆかりの地を訪ね歩く祥子さんの映像、ライヴ映像が細切れに配置されていて、ある結論に向かって収斂されていくような、一貫したストーリーを持つ性質のものではなかったからです。もしかしたら、地方で公開、もしくはDVD化された暁に未見の方は見ていただくということで、あえてこの映画で語られた祥子さんの言葉の断片を載せることは避けたいと思います。
でも評論家っぽく少しだけ言及するとすれば、これはまさしく「鈴木祥子」というアーティストそのものの記録であり、このような映像ができるのは、祥子さんのパーソナリティに負うところが大だ、ということです。というのは、この映画の大半は、祥子さんが自宅などで「音楽」「女であること」「父」などについて思うところを述べている、という映像なのですが、彼女が率直すぎるほどに語ってしまっているので(性格的に、そういう人だとは長年ファンをやっている僕にも想像がつきますが)、どのように編集しようが(編集に苦労なさったはずの井上監督には申し訳ないですけど)、それ以上のものにも、それ以下のものにもなりようがないのです。これは、例えば同じ「ドキュメント」と言ってもウソをつきまくる人を撮ろうとした原一男監督の「全身小説家」と比較すれば一目瞭然だと思います(この映画は「うそつきみっちゃん」と呼ばれた井上光晴を主人公に据えたドキュメントの傑作です)。

090807_gundam_shoko_021 さて、映画本編が終わり、いよいよ千秋楽のミニライヴの始まりです。祥子さんは真っ白のノースリーブのロングドレス。映画を観た直後にご本人を観たせいかもしれませんが、特に今日の祥子さんは僕の眼には凄絶な美しさに見えました。祥子さんは登場して開口一番「この2週間、私は幸せでした(笑)」。いや、この2週間、ミニライヴのある日を通い詰めた友人(あえて名を秘す)も十分すぎるほど幸せだったと思います(笑)。ミニライヴは毎日テーマを換えて行われてきたのですが、千秋楽の今日は「迷いの30代を振り返るDAY」といテーマ。
「30代の時、『Candy Apple Red』『私小説』『あたらしい愛の詩』『Love, painful love』というようなアルバムを作ったのですが、今日はそのあたりからやりたいと思います」とおっしゃり、以下の曲からスタートです(Gはエレキギター、Wはウーリッツァー)。

1)苦しい恋
(G、『Candy Apple Red』)
これを荒々しいギターで奏でる、なんていうのはレアでは?ディストーション気味の音。これを歌い終わった後祥子さんは「女の人は30代でひどい目にあった方がいいと思います(笑)」などといって、映画本編に負けず劣らずの問題発言。

2)破局(G、『あたらしい愛の詩』)
これはレア、というか「ライヴでやるのは初めて」とのこと。で、一番驚いたのは、この曲のタイトルを決める時、たまたま当時の芸能ニュースで話題になっていた「羽賀研二・梅宮アンナ破局」というところからつけたということ。えー、祥子さん、そんなのがきっかけだったんですか?(笑)

3)この愛を(G、『あたらしい愛の詩』)
祥子さんは「最近は何かギターをかき鳴らしたいモードに入っている」ので、最初の3曲は立て続けにギターで弾いたとのこと。

4)恋人たちの月(W、『あたしの旅路』)
「自分でも気に入っている曲なんですが、ドラマのタイアップの曲をアルバムに入れたせいで、この曲がアルバムから押し出される形になって、ベスト盤にしか入っていません」とのこと。

5)いつかまた逢う日まで (W、『あたらしい愛の詩』)
2曲連続、ウーリッツアーでロマンティックモード。

6)Gimmie Some Life (G、『Love, painful love』)
祥子さん曰く「元々アルバムでは一人多重録音をして、この曲はギターを除いて、ドラム、ベース、ピアノだけでロックっぽさを出そうという試み、まあ、若気の至りですが(笑)、でも今日はエレキギターで弾いている私(会場爆笑)」

7)忘却 (G、『鈴木祥子』)
リクエストに応えて。

8)そしてなお永遠に (G、『私小説』)
やっぱ、ドラマティックな曲だよなあ、これ。
いったんここで祥子さんは退場しますが、我々はもちろんアンコールを促す拍手・手拍子。すぐに踵を返して戻る祥子さん。

e1)道 (W、『鈴木祥子』)
これもリクエスト。今日のリクエストはともに女性の声。にしても、暗い曲を(笑)。この曲の時、ウーリッツァーがちょっと音程が狂って、祥子さんは無理やりいろいろ運指を工夫してやりきってしまいました。すごい。

e2)I'LL GET WHAT I WANT 超・強気な女 (W、『Romance Sans Paroles』)
これまたリクエスト(これだけ男性)。祥子さんも「そうね、明るくこの曲で終わりましょうか(笑)」。予告通り、明るくこの曲で終了。
レイトショーの後のこの「大盤振る舞い」でしたので、終わった時間は11時をとうに超えていました。慌ててグッズ(ポストカード数枚)を買った後、渋谷駅に戻り、遠征している人の宿舎近くということで、新宿で途中下車して、7名で軽く(?)飲み会。当然のように終電を逃し、タクシーで午前様。会場で会った皆さま、どうもありがとうございました。今度は9月の「Billboard Tokyo」で何人かの方とはお会いすることになるでしょう。その時はまたよろしくお願いします。

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July 25, 2009

観察映画「精神」@京都シネマ

090725_seishin_001 本日は、京都シネマに、想田和弘監督の観察映画第2弾「精神」を見に行きました。このブログでは以前、想田監督の「観察映画」第1弾の「選挙」の感想を書いたことがあります(これもかつて京都シネマで上映されたのでした。これも傑作。DVDもあります。未見の方は是非)。

前も書きましたが、想田さんは、僕の大学時代のゼミの先輩で(そのゼミの指導教官だった島薗進先生が、今回のこの「精神」に推薦の辞とエッセイをパンフレットに寄せていらっしゃいます)、今回の映画も、ずっと楽しみにしていたのでした。何人かに声を掛けたのですが、みんななかなか忙しく、結局僕に付きあってくれたのは、元僕のゼミ生のT野さんとそのお友達、そしてmixiで知り合っていたkijiqさんの3名。この映画は現在全国にどんどん広がって上映されつつありますが、各マスコミにも取り上げられ、前評判も高く、公開初日の今日と二日目は監督の上映後の「ティーチ・イン(質疑応答)」もあるというので、大盛況でした(「選挙」の時と比べて、若い人たちが予想以上に多かった、というのは、この映画の内容のせいでしょうね)。僕も用心して、早めに行ってチケットは確保。二回目の上映を拝見しました。以下ではその感想を述べますので、「ネタバレ」になりますのでご了承ください(といっても、細かい内容には触れません)。

さて、この映画はタイトル通り「精神」を焦点にしたものです。しかし「精神病」ではないことに注意すべきでしょう。確かに、扱われているのは、精神を病んだ人たちが集う施設の中の出来事なのですが、その世界は、驚くほど「健常者(本当の完全な健常者など、この世にはいませんが)」の「隣」にあることがこの映画を見ると判ります。そのような意味も込めてのタイトルなのだと僕は納得しました。そして、そのような「隣」にある世界なのに、カーテンを引いたかのように見えなくなっている世界。この映画は、そのカーテンをそっとよけて、その隣の世界で繰り広げられている「共苦共感世界」を覗かせてくれるものになっていると思いました。「共苦共感世界」とは宗教やセラピー、カウンセリングの現場で「癒し」に向かうために形成される状況を指しますが、想田さんのカメラは、一見冷徹そうに見えて(事実、冷徹な部分もあるのですが)、その世界をしっかり記録していたと思います。

そしてこの映画が扱った「こらーる岡山(コラールとは「合唱の意味」)」は、この施設を作った山本昌知先生の個性(カリスマ、といっても良いかもしれませんが、押しつけがましいところがないところが却って凄みを感じさせます)もさることながら、古い民家を改造したその開放的な佇まいといい、それ自体が現代の精神医療のあり方を鋭く告発しているようにも思えました。パンフレットに辻信一先生が書いている「あの老医師のいる古民家の懐かしい病の風景が、きっと、まともな世界への入り口だ」という言葉は、本当に的確な言葉だと思いました。

そして、特筆されることは、想田さんが「モザイク」やテロップ、ナレーションなどを排除した方法で撮影していることです。この手法は第1作目の「選挙」から徹底しており、ご本人もそれを「観察映画」と名付けていますが、いわば、想田さんのカメラが切りとった、未調理の生肉のような素材を目の前に差し出されて「さあ、ご自身で調理してみてください」と観客たる我々は迫られることになります。これは、ある意味観客に非常に緊張を強いるもので、内容も内容だけに、僕自身も見終わったとき、ぐったり疲れました(笑)。しかし、この方法こそが想田さんの映像の「肝」でもあります。

さて、僕と想田さんはともに宗教学という学問を学びましたが、それから少し話を広げたいと思います。宗教学や社会学、文化人類学などには「参与観察」とか「フィールドワーク」というものがあって、要するに「現場」に取材しに行き、論文を書くということがよくあります。この「現場」というのも千差万別で、「どうぞどうぞ」というところから、よそ者はシャットアウトというところまであり、時には自分の身分を偽って潜入する、ということも過去には行われました(最近は滅多にないですけど)。そこで重要なのは、「対象に入れ込みすぎず、とは言っても突き放しすぎず」という関係性をどう保つか、ということです。これがなかなか難しく、いつまで経ってもこの手の学問の方法論上の難点になっています(最近は自分の立場性positionalityに自覚的であれ、というところで何とか落ち着いていますが)。

090725_seishin_006s 想田さんの御著書『精神病とモザイク―タブーの世界にカメラを向ける』(とりあえずamazonへのリンク)に書いてありますが、想田さんは、まさに「参与観察」で卒論を書いていているんですよね(p.78)。僕などは前回の「選挙」の時も、「想田さんは素晴らしいフィールドワーカーだなあ」と感心して見ていましたが、想田さんが述懐しているように「実際、『選挙』で被写体になってくれた人々は、僕が驚くくらい、カメラの存在を無視、あるいは無視しているかのように振る舞ってくれた(p.73)」とあるように、想田さんは自分をほとんど消して、被写体に過剰に肩入れなどをせず、突き放した撮影ができたと思うのですが(一番僕が「選挙」で感心したのは、車の後部座席から淡々と、主人公夫婦のケンカの様子を撮影したシーンです。あれを見て「想田さん、ひどいなあ(笑)」と思ったものです)、さすがに今回のこの「精神」ではそうはいかなかった(先に、患者さんの語りに感情移入して精神的に参ったのは、撮影の補助をしていた奥様の方だったそうですが)。そこが第一作と第二作の最大の違いだと思います。同じ「観察映画」といっても、今回の「精神」はどうしても想田さんと患者さんたちとの相互作用(interaction)がにじみ出てしまう。想田さんに「フライ・オン・ザ・ウォール(p.73)」であることを、撮られている側が許さない。でも、想田さんの映像はいわゆる「お涙ちょうだい」というような方向には決して流れず、我々観客をある意味ずっと「居心地」の悪い気分にし続けることに「成功」しています。そこが、この映画の最大のポイントだと思います(特に、ラストシーンの「居心地」の悪さったら!)。ということで、僕と同行した皆さんも、良い意味で「モヤモヤ」を抱えたまま帰宅することになりました。「勉強になりました」とか「感動しました」というような安易な言語化を許さない作品であったことは間違いありません。

090725_seishin_004s 上映後の質疑応答でも、あらかじめ大体のストーリーを考えて組み立てるテレビの報道番組とは違うのだ、ということを想田さんは強調していました。そのやりとりを聞いて、あらかじめ練られたストーリーやテロップのある通常のテレビ番組は、なんて「飲み込みやすく加工してくれているんだろう」との思いを新たにしました(その努力が全て悪いというわけではないんですよ。でも、感動や感想はどうしても水路づけられてしまうのは避けられません)。質疑応答のあとは、本やパンフへのサイン会。僕も当然並んで、あらかじめ買って読んでいた御著書にサインをしてもらいました。想田さんは僕の顔を見るなり「変わってないねえ」と言ってくださいましたが、僕から見れば、想田さんの変わらなさも驚異的(笑)。想田さんが卒業して以来の再会ですから、何と16年ぶり。長蛇の列なので、落ち着いて話すことはできませんでしたが、しっかり記念撮影。その後同行してくれた皆さんと一杯飲んで色々感想を語り合い、帰路につきました。

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August 11, 2007

生き残った者と語り継ぐ者―「夕凪の街桜の国」

今日、妻と二人で「夕凪の街桜の国」を見に行きました。これはこうの史代先生のマンガが原作で、以前このブログでもこの作品(文句なしに大傑作)を取り上げましたが、映画化されたということで見に行ったわけです。

今から簡単な感想を書きたいと思いますが、基本的にネタバレですので、白紙状態でこの映画をご覧になりたい方は以下を読まないでください

まず、この映画は、大変原作に忠実に作られています。原作がそれだけ素晴らしかったということでもあるでしょうが、原作のマンガ、構成も大変カッチリとできていますので、動かしづらかったのだと思います。
はじめに「夕凪の街」編がはじまります。戦後13年(昭和33年)の広島の「原爆スラム」で暮らす平野皆実(みなみ)という女性が主人公で、演じるのは麻生久美子さん。僕のツボの「薄幸系美女」の一人ですね(僕は他にこの系統としては、木村多江様とか石田ゆり子様を偏愛しています)。彼女は母と二人暮らしで、原爆で父と妹を亡くしたという設定です(原作では姉と妹が原爆で死ぬのですが、映画では二人を合わせて妹一人で代弁させています)。その妹に何もしてやれなかったということが彼女のトラウマとなり「何故自分は生き残ってしまったのか」という感情に苛まれています。前にも書いたのですが、戦争や大災害の被害者には、「何故あの人が死んで自分が生き残ったのか」というまさに不条理としか思えない事態を目の当たりにして、生き残ってしまったこと自体に罪悪感を抱くということが多々報告されています(一番このトラウマの存在を見せつけたのは、ナチスのホロコーストの生き残りです)。皆実もまさにこの感情に囚われているわけです。彼女はその感情を「お前の住む世界はここではないと誰かの声がする」と表現しています。それ故、会社の同僚に告白され、彼女もそれを受け入れようとしつつも、自分がそのように幸せになっても良いのかという自責の念が離れないわけです。この作品(マンガも原作も)では、その同僚が「生きとってくれてありがとう」と彼女の存在を丸ごと祝福する言葉を投げかけて、彼女のトラウマは一旦解除されるのですが、本当の悲劇はその後に起きます。というのは、原爆症が彼女の体を徐々にむしばんでいたからです。そして、僕が原作で最も戦慄し、映画でも絶対削って欲しくないと思っていた台詞が入ります。

嬉しい?十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て「やった、また一人殺せた」とちゃんと思うてくれとる?(映画は微妙に「13年後」としていますので、この部分も「13年」となっていましたが)

彼女はそのまま亡くなります。しかし、その直後に原作同様「このお話はまだ終わりません。何度夕凪が終わっても終わっていません」と、現代の「語り継ぐ者達」の物語、すなわち「桜の国」編に突入します(この映画はいわば二部構成を取っています)。

この「桜の国」の主人公は七波(田中麗奈)。「夕凪の街」のヒロイン皆実の姪という設定です。彼女は定年退職した父(堺正章)がこのところやたら長距離電話をしたり、ふらっと数日いなくなることを怪しんで、一度尾行してみることにします。その道中で偶然小学校時代の同級生東子(中越典子)と出会い、そのまま二人で尾行することになったのですが、父の行き先は何と広島。そこで父は、姉である皆実の痕跡を辿り、彼女と縁のあった人を回って色々話を聞いていたのでした・・・。
「桜の国」はその他、七波の母親も被爆者で早く死んでしまったこと、弟の凪生と友人の東子が実は恋人同士だったことなども重要ですが、それはマンガを読むかこの映画を見ていただくこととして、やはり泣かされたのは、原作のラストシーンの七波の独白です(初めて読んだとき「こうの先生、ひどい、こんな泣かせに走りやがって」と八つ当たりしたくなったくらいです)。これもいわば「生まれてきたことの全面的な肯定」です。この作品を貫いているテーマはまさにこれだと思います。存在そのものへの祝福と言い換えても良いでしょう。凄絶な物語でありながら、ある種の明るさを感じるのは、このテーマが背骨として機能しているからでしょう。桜が咲き乱れる歩道橋でのラストシーンは是非各自でご覧ください。

というわけでとにかく、時間のある人はマンガと映画を、ない方は原作のマンガだけでもご覧になっていただきたいと思います。

追記:原作のマンガに関しての優れたレビューとして、野々村禎彦氏の紙屋研究所さんのを挙げておきます。

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July 24, 2007

面白うてやがて哀しき・・・―『映画 選挙』鑑賞―

Senkyo 本日、『映画 選挙』を見に行ってまいりました。
この映画はその名の通り「選挙」をひたすら観察して撮っているもので(「観察映画observational film」、と冒頭に字幕にありました)、監督は想田和弘さん。実は奇縁ですが、想田さんは僕の学部時代の先輩で、ゼミで一年間ご一緒した仲なのです。その想田さんの撮られた映画ですから、これは早く見に行かねばとずっと思っていたのですが、ようやく昨日正規の授業が全て終了しまして、本日学生を連れて見に行くことができました(cocon烏丸の京都シネマにて)。

奇縁といえば、この映画の主人公、山内和彦さんは想田さんの大学時代の同級生で、この映画の撮影もまさにある意味「偶然の産物」だった側面があるそうです。山内さんは自民党の立候補者の公募に応じて、落下傘候補として川崎市市議選に立候補します。落下傘なわけですから、元々の地盤が無く、その地域の自民党の組織に手取り足取り、お辞儀の仕方までたたき込まれていくわけです。この映画はその選挙戦の2週間をそのまま切り取ったものです。

映画の内容などは公式サイトを見ていただくとして(詳しく説明したいところですが、この映画はそういうディテールを楽しむ映画ですので、僕などがこういう場でベラベラ喋るのは興ざめでしょう)、僕が感じたことを少し書いてみたいと思います。
確かに、この映画は文句なく面白かったです(これだけ笑えたドキュメントフィルムは久しぶりです)。会場も何度か笑い声に包まれましたが、ふと「これを面白がるってどういう事だろう」という思いが去来しました。典型的な「どぶ板選挙」の模様を赤裸々に描いたこの映画、確かに日本の「民主主義」の実態を白日の下に晒したわけですが、我々はまさにこういう社会に生きているわけで、他人事のように笑いものにするだけでは済まないはずです。例えば山内さんの選挙事務所にいた自民党支持者たちの「オヤジ臭さ」だとか、ジェンダー感覚の無さをあげつらうのは簡単です(山内さんの奥さんを巡ってのジェンダー的「攻防」は、この映画の見所の一つでもあります)。もちろんそれは正しいのですが、では彼らにはどういう言葉でものを言えばいいか、別の選挙の方法があるのか、といわれるとはたと困ってしまうわけです。これではいけないと思いながら、代替案を出すこともなかなかできないもどかしさ。「面白うてやがて哀しき・・・」というのが、この映画を見た直後の感触でした。

この映画を、まさに本当の「選挙前」に見ることになったのも奇縁かも知れません(会期延長した政府のせいですが)。そして、選挙前に、いや選挙後もこの映画が一人でも多くの方の目に触れることを祈っております。

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June 03, 2007

「日本の青空」鑑賞

今日は、「日本の青空」という映画を見に行きました。これは一言で言うと「護憲映画」と呼べるもので、僕も組合から割引券を購入して、護憲派の「たしなみ」(笑)として見に行ったわけです。場所は同志社大学寒梅館の立派なホールでした。

以下、ネタバレ注意です。

内容などについては、公式サイトをご覧くださればいいと思うのですが、簡単に言うと、ある出版社の派遣社員がひょんな事から雑誌の「憲法問題」の特集に関わっていき、そこで鈴木安蔵(やすぞう)なる民間の憲法学者が描いた「憲法草案」がGHQに影響を与えたという事実を発掘する・・・という筋書きです。
映画での描写は、ちょっと僕でも気恥ずかしくなるような、典型的な「左」っぽい描写があったりして、少し閉口したのですけど(つまり、あまりにもベタだったのです。もうちょっと間口を拡げた方が・・・とお節介ながら思ってしまいました)、これはそのようなベタな表現を取らざるを得ない監督をはじめとする制作者側の危機感の表れだと捉えました。僕がここで「危機感」といったのは、つい先日、内容が「偏向」しているということで東京都調布市の教育委員会がこの映画の上映会の後援を拒否したというニュースを見たからです。まあ、これは恐らくどこからからやってくる「ゴタゴタ」を恐れるお役所体質からでしょうけど(最近、ちょっと「左」っぽいイベントや、在日コリアン関連のイヴェントを公民館が拒否、などというニュースをいくつか聞きますし)、とにかく、この程度の穏健な映画に対しても神経をピリピリせざるを得ない世の中であることは確かなのです。

映画についていうと、この映画の肝である「終戦直後の憲法委員会の再現ドラマ」がやはり出色でした。終戦直後、かつて治安維持法などで辛酸を舐めた学者や文化人が集まった会合で、鈴木が活動する「憲法研究会」が結成されるのですが、その他にも熱に浮かされたように全国のあちこちで多くの人々(政党も含めて)が憲法を考えた、という事実は、やはり忘れてはならないものでしょう。
キャストに関して印象をいうと、「再現ドラマ編」主役の高橋和也も、なかなか味のある男闘呼男になったなあ、と思いました。妻役の藤谷美紀も、いい年の取り方していると思いました。あと、白洲次郎役の宍戸開は、「あ、彼はこうして白髪にしてみると格好いい」と思ってしまいました。まあ、美味しい役柄だからそう思ったかも知れないですけど(なんたって白洲次郎だし)。
で、「現代編」の主役の田丸真紀は、スタイル良過ぎ(笑)。やっぱ、元モデルは違います。でも編集長役の伊藤克信の大袈裟な芝居を含めて、抑え気味の「再現ドラマ編」とのコントラストがちょっときつかった、と思ってしまいました。

さて、この映画では、鈴木たちの構想がGHQの憲法草案に決定的な影響を与えた、つまり現行憲法はアメリカからの「押しつけ」ではなく、日本側の意向も大いに反映されているのだ、ということを論じています。勿論、僕は「なるほど」とも思い、GHQに感心されるくらいの草案を書いた鈴木たちの努力と能力に対し、敬意を表しますが、いわゆる今論じられている「押しつけ憲法論」に対してどれだけ有効か、疑問だなあと思いながら見ていました。押しつけ憲法論(改憲論)者は、「鈴木たちのを参考にしたといっても、短時間でそれを翻訳してGHQが押しつけてきたというのは変わらない」というでしょうから(まさか鈴木たちを「非国民」だから日本人が考えたものとはいえない、とはいわないでしょうけど)。
でも、映画の中ではもう一つ重要な描写がありました。それは、最初GHQから命令されて、大日本帝国憲法を改訂するようにと言われていた松本烝治大臣(この人は元東大教授で法学博士なんですよね、実は。ちょっと前に読んだ丸山眞男の回顧談でも、憲法制定時の東大法学部の教授たちの動向が語られていたのを思い出しました)をはじめとする政府首脳部の「頭の固さ」です。いわゆる「欽定憲法」における天皇の地位について、頑として譲らず、これがGHQとの溝になったことがしっかり描かれています。僕は実はこちらが重要ではないか、と思っています。一言で言うと、「押しつけられるような事態を招いた責任」ということです。この辺りについて、英文学者の中野好夫が既に40年前、こう指摘しています。

とにかくこんなふうに、まことに情けない、いわゆる「押しつけ」ということになったわけです。が、わたしはもう一度申し上げたいのです。もしあのとき、松本さんだけでなく、日本の支配層の人たちが、なんとか現状維持にキュウキュウとする上層の声ではなく、むしろ明治憲法の乱用によって大きな犠牲を強いられたほんとうの国民の声に耳を傾けていたならば、まさかあんな松本案というものはできなかったでしょうし、またそうであれば、いろいろめんどうな折衝、修正はあったかもしれませんが、まさかかれらとても欲しなかった「押しつけ」などにはならなかったろうと思えるのです。くりかえし申しますが、事情はどうあれ、「押しつけ」みたいなことになったのは、ほんとうに残念でもあり、情けないことだと思います。だが、それには「押しつけ」たアメリカを責めるのもいいが、それよりも前に、まずそうした情けない事態に立ち入らせた、敗戦によって何物も学ばず、何物も忘れようとしなかったわたしたち自身の支配層のものの考え方に、まず責任の尻をもっていかなければならないのではないでしょうか。(中野好夫「私の憲法勉強」、『中野好夫集 Ⅲ』筑摩書房、1985年、p.182。原著は1965年発行)

全く同感。ついでに言うと、僕は「いい物を押しつけてくれてありがとう」と考える「押しつけ憲法論者」ではありますが(笑)、この60年、この憲法は常に有効に働き、そしてそれを国民も認め続けてきた重みがあると考えています(押しつけ憲法が日本の国情に合わないのでしたら、とっくに改憲されていて然るべきでしょう)。今のところ、まあまあうまくいっているものを無理に変える必要性をまず感じませんし、そもそも憲法のせいで日本人の「品性」が悪くなった云々というのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」くらいの信憑性しかないと思ってもいます。
というわけで、ベタな描写にちょっと照れつつも、改めてベタに戦争放棄条項は「護持」すべきと思いました。今やこれこそが日本の「国体」なのですから。

(追記)
この映画の大澤豊監督って、「GAMA―月桃の花」の監督でもあったんですね。僕はこの映画、まだ見たことがないのですが、沖縄研究者の佐藤壮広さんからこの映画を教えられて、チャンスがあれば見ようと心にとめていたのでした(余談ながら、昨年12月末の出張の夜、僕が佐藤さんに連れて行かれた那覇の飲み屋で、この映画に関わった方が偶然いらして名刺を交換する、というハプニングがありました。これもあって憶えていたのです)。

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September 03, 2006

「ガーダ パレスチナの詩」を見る

今日は、ある市民団体の主催する上映会に行き、ジャーナリストの古居みずえ監督のドキュメント映画「ガーダ パレスチナの詩」を見ました(ちなみに、書籍にもなっています)。
これは、自分の取材の通訳をしてくれた女性ガーダを、古居監督が12年の間ずっと撮ったフィルムで構成されたもので、比較的平穏な時期に結婚したガーダが、2000年の第二次インティファーダ(パレスチナ側の抵抗)を経て、一人の知的で開明的なパレスチナ女性が、自分のなしえる「戦い」とは何か、ということを考える過程を追いかけたもの、と要約できるかと思います。

以下は、内容紹介を含みますので、これから白紙状態で見に行きたい方はごらんにならないようにお願いします。

さて、まずガーダ、という希有なキャラクターに古居監督が出会った、という幸運を、観客たる我々は感謝しなければならないと思います。
ガーダは、リベラルな父親や親戚に囲まれ、比較的自由な雰囲気のもとで勉強に励み、イスラエルによるガザ地区の封鎖により大学には進学できませんでしたが、教員養成学校を出て、教師として働きつつ、堪能な英語で通訳もこなすという女性です。
そのような彼女ですから、古い因襲、とりわけ女性を抑圧する習慣には真っ向から反対し、この映画は、彼女の結婚式をめぐって家族、姑と衝突するところから始まります。彼女は伝統的な結婚式や、初夜のシーツという「処女の証拠」を見せびらかすような儀礼は「人の作ったものは変えられるはず」と拒否します。
彼女は理解ある夫に恵まれ、二人の子を授かり、大学に入り直すなど「新しい女性」としての生活するのですが、2000年の第二次インティファーダにおいて、親戚筋の13歳の男の子が射殺されるという事件に遭い、彼女は非常にショックを受けます。それまで、パレスチナ社会の内部で、古い因襲と戦ってきた彼女は、1948年(いうまでもなく、イスラエルの建国年です)に故郷を追われた自分の祖母世代の女性たちの聞き取り調査をして、パレスチナ難民の苦難の歴史を書き記すことを、「新たな自分なりの戦い(字幕では「戦い」とありましたが、使われていた単語はstruggleでした)」と位置付け、その作業に没頭していくことになります。古居監督も彼女に同行し、ガーダの祖母や、インティファーダ後に家や農地を破壊された老女たちに話を聞きに行きます。
この映画は、女性である古居監督が、ガーダの実家の台所から撮影をスタートさせたように、パレスチナのいわば私的な空間を撮ったものです。そこでの女性たちは、日本人が想像する以上にたくましく、笑い、歌い、快闊です。そして、その女たちが笑いさざめく台所の壁に向かって、イスラエルの監視塔からの威嚇斉射がおこなわれたりもするのです。その「日常」(子どもたちは、銃声くらいではびくともしなくなります。そして、その機関銃の音が響く中で、彼らは祈りを捧げます)を思うと、何もできない極東の住民である僕も、胸が痛みます。
この映画のガーダ以外の登場人物で、一番僕の印象に残ったのは、自分の農地を根こそぎイスラエル軍に破壊され奪われる夫婦(アブー・バーシムさんとウンム・バーシムさん)です。このおしどり夫婦は、互いの愛情を表現する詩を交わし合い、客人であるガーダや監督に鳥料理を振る舞ってくれるような、親切な「隣人」。そのような「普通の人」の生活の一切を破壊して、「神に約束された地」の領域を広げようとするイスラエル。もちろんイスラエル側の言い分はあるでしょう。でも、イスラエルはこれ以上、パレスチナの占領を推し進めるべきではありません。恨みの連鎖、虐殺の連鎖をどこかで止めなければなりません。いま、イスラエルは自らが作り出した「敵」の影の大きさに怯えている状態なのだと思います。
ガーダは最後に、「私が祖母たちの記録を取ることも、祖母たちが歌うことも、インティファーダで投石することも、それそれの戦い(struggle)なのだ」というような言葉を述べます。僕は、例えばこの日本において、どんな「それぞれの戦い」をしているのか、考えさせられました。

なお、古居監督は上映会に来る予定だったのですが、レバノンへ取材に行くことになり、急遽ビデオレターでの出演となってしまいました。僕の友人である綿井健陽君も、この前何とか無事にレバノンから帰ってきてくれました。綿井君も「Little Birds」という映画を撮りましたが(僕の感想はこちら)、古居監督もこのような素晴らしい作品を届けてくれました。近くで上映があるときは是非ご覧ください。

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March 07, 2006

「殺す側」にならないことは可能か?―ホテル・ルワンダの問い

ネット上での署名活動がもとで日本公開が決まった映画「ホテル・ルワンダ」を見てきました(実は、僕も及ばずながら、ネット署名した一人です。)。

昨日同僚のA先生(アフリカをフィールドとする文化人類学者)が「日曜日に夫婦で見てきたんだけど、あれはすごい映画だよ。僕なんか、モデルになったあのホテルに泊まったこともあるから、感情移入してしまってねえ」と熱くおっしゃっていたので、これは急いで見なければと思い、京都みなみ会館に行きました。

この映画の内容及び、素になった凄惨な実話については、公式サイト及び、「ホテル・ルワンダ」公開に一役買った映画評論家の町山智浩氏のこのエントリをご覧ください。

『ホテル・ルワンダ』は現実版『ドーン・オブ・ザ・デッド』だ

以下では、僕がこの映画を見て思ったことを箇条書きにしてみたいと思います。

1)普通の人ができる「抵抗」
まず感動したのは、主人公のポールの人柄でした。彼は決してスーパーマンではありません。彼は高級ホテルのマネージャーで、軍上層部や外国人など様々なコネクションをもっていたのですが、生き延びるために、彼らに電話を掛け、時には賄賂を送り、様々に知恵を働かせて、あくまでも「加害者側」に加担することを拒否し続けます。果たして我々の何人が、彼のように、多数派かつ加害者側の「特権」を捨てることができるでしょうか(ポールは虐殺を実行した多数派のフツ族の出自でした。妻はツチ族でした)。一番考えさせられたのは、このことです。そしてこのことが、この映画を貫く問題意識だと思います。「自分さえ助かればいい」と決して考えなかった点で、ポールは英雄なのです。

2)「恥」ということ
これを見た人、特に先進国の人間は、映画の中でホアキン・フェニックスが演じるカメラマンのように「恥じ入る」しかないでしょう。ポールは「国連も来ているし、あなた方が全世界に情報を流してくれているんですから、国際社会も我々を見捨てるなんてことはないでしょう?」と問うと、カメラマンは「いや、映像を見て、まあ怖い、といってそのまま食事を続けるだけさ」と自嘲気味に答え、事実、先進国(ツチとフツの対立の基礎を作ったのも植民地政策でした)はルワンダを完全に見殺しにします。
我々はルワンダを見殺しにした、ということをもはや忘れられません。では次にどうするべきか。
上にも書きましたが、ポールのように普通の人として、隣人を殺す側に回らないこと。その決意をするしか、我々の「恥」を雪ぐ方策はないと思います。

なお、前述の町山智浩氏がパンフレットに書いた文章も秀逸です。その全文は、このサイトをご覧ください

とにかく、重たいテーマの映画ではあります。2時間、見るのがこれほど辛い映画も久しぶりでした。しかし、ご覧になることをお勧めします。

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March 05, 2006

「Z GUNDAM Ⅲ 星の鼓動は愛」感想

今日は休日らしく過ごそうと思い、買い物と映画に行ってきました。
最初は「ミュンヘン」とか「ホテル・ルワンダ」とかを見ようかと思ったのですが、まだ病み上がりで体力が回復していないので、ちょっと日和って、公開されたばかりの劇場版Zガンダム(以下「ゼータ」)の最終作「星の鼓動は愛」を見に行きました。前の二作も既に見ていますしね、もはや義務と思い新京極のMOVIX京都に行ってしまいました。

ということで、以下は物凄くネタバレのおそれがありますので、未見の方はご注意願います。

さて、まず初っぱなから申し上げますと、一番びっくりしたのはやはり何と言ってもエンディングでした。だって「ハッピーエンド」なんですよ、奥さん!!(文字を反転させました)劇場で配られたアンケート用紙で「エンディングはいかがでしたか」という項目があったのも、むべなるかな。これには本当にびっくりして、思わず「うっそー」と呟いてしまいました。
テレビの本放送があった頃、僕は中学生でしたが、ビデオに撮った最終話を繰り返し見ておりました。最終の二話は、非常に緊張感がある演出で、しかもその悲劇的なラストが僕のトラウマとなり、忘れがたい作品になっていたのでした(僕の一世代上の人なら、恐らく「イデオン発動編」がトラウマになっていると思います)。ですから、この映画は僕のゼータ観をひっくり返すものとなりました。僕なんか「いつカミーユが狂うのか」と最後の最後までハラハラしていたら、肩すかしを食らって、先ほど言ったように「うっそー」と呟いてしまったわけです。

以下、見ながら思いついたことを箇条書きにしたいと思います。

1)シロッコが「教祖」のように描かれていることに今更ながら気付きました。サラは教祖を崇拝する信者のようなふるまいを見せますし(死に方もまさに殉死)、「時代を変える」ということが、ジュピトリス・カルト(勝手に命名)の信念のようですし。

2)カツが本当に邪魔。子供心にも、こいつはダメだなあ、と思っていたんですが、大人になってから見ると、カミーユでなくても撃ち殺したくなるくらい邪魔です(笑)。

3)シロッコのエリート意識が強調され(歴史を動かしてきたのは、限られた天才達だけ」とか言ってたっけな)、それが「叩くべき悪」として描かれていて、分かり易かったのですが、基本的にハマーンもシャアも、それほど遠いところにはいないよなあ、とも思いました(みんなお互いを「俗物」扱いしているんですもんね)。みんなけっこう「愚民観」を前面に押し出すもんなあ。「愚民どもが」なんて榊原良子様の声で言われた日には、もう、萌えますけど。

4)良くガンダムは「リアル・ロボット」ものの元祖だとか、政治的なものや軍隊というものを描いた先駆とされています。もちろん、これは間違いではないのですが、実は、すごく非合理なオカルト的なものもガンダム、特にこのゼータにはあります。「ファースト」までの「ニュータイプ」概念は、簡単に要約すれば、宇宙で人類が活動するようになって、知覚が発達して、人同士が理解し合える可能性が高まってきた(戦場においては、その能力が有利になる)、というものでしたが、もはやゼータにおけるニュータイプは、それを超えて、完全に超能力になっています。だって、気合いでビーム跳ね返したりモビルスーツを金縛りに遭わせたりするんですよ(笑)。もう一つ言うと、「幽霊」の話にもなっていますね。「ファースト」でも、死んだはずのララァとアムロは喋ったりしていますが、ゼータでは死者からエネルギーをもらうまでに「進化(?)」しています。
で、ちょっと宗教学者として真面目に考えたのは、こういうガンダムでの「死者との交流(幾分かシャーマニック)」というモチーフは、日本では案外すんなり受け入れられるかも知れないけど、外国ではどうなんだろう、という疑問です(ご存じの方がいらっしゃれば、ご教示願います)。

5)実は、今回見て、僕が一番考えさせられたのは、レコア・ロンドというキャラクターについてです。彼女のようなキャラクターを見ると、やはりガンダムを一度ジェンダー的な視点から分析する必要性を感じますね。まだ僕には用意が無くて、ちゃんとはできませんが。
二十年前に見ていたとき、彼女の行動や性格が判らず混乱したのですが、そこそこ「大人」になってみると、子供っぽい我が儘さとは違う彼女の衝動というものが、何となく理解できてしまったような気がします。ここで問題になるのは、「女として」ということです。レコアは、戦争ばかりして自分を省みないエウーゴの男性(具体的にはシャア)を見限って、これまた女性を道具としてしか見ないシロッコという男の下に居着くことになります。そこで彼女は妙な「安定」を感じるわけですが、その理由を「女として生きている実感を感じさせてくれる」というものだと告白するわけです。ここで唐突に思い出したのが、これまた富野監督の「イデオン発動編」のキャラクター、ハルル・アジバとカララ・アジバです。ストーリーを掻い摘んで言うと、二人は敵味方に分かれて、結局ハルルは妹カララを撃ち殺すのですが(すげー凄惨な話だよな、やっぱり)、その殺害の理由が、女として生きたカララにハルルが嫉妬した、というものでした。愛する人と一緒になり、その子供を身ごもったカララに、それが叶わなかったハルルが感情を爆発させたのです。富野監督の作品では、「女として生きようとする」業の深い女と、それをたしなめる女性(ゼータならエマ)が手ひどい扱いを受けているような気がしますね・・・。「女として(その裏返しで「男として」)」、ちょっと考えてみたいテーマです。

さて、衝撃のエンディングの後、劇場に灯りが点り、帰り支度をしているとき、僕の後ろにいた男の子の集団が感想を言い合っているのを耳にしました。曰く

「これ、要するにファ・ユイリィ・エンドってこと?」

思わず「うまいこというなあ」と思って笑ってしまいました。今まで富野監督の作品では、何度も「バッド・エンド」を繰り返し見てきたからね、たまにはこういうのも良いでしょう。

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February 02, 2006

今は既にない「懐かしい」場所へ―『博士の愛した数式』

のっけからお恥ずかしい話ですが、久しぶりに、小説を読んで(その後映画を見て)、涙を落としてしまいました。それは小川洋子さんの『博士の愛した数式』です。

僕は感激屋のつもりですが、「泣く」ことは滅多にないです。一番びっくりしたのは、自分自身です。何が僕の「泣きツボ」だったのか、それを考えつつ、この文章を書いています(最初に申し上げますが、「すごく泣けます」と皆さんにこの作品を推薦するつもりはありません。僕がたまたま泣けただけで、他の方がどう感じるかは判りません。ただの自己分析です)。

これ以降は、ネタバレを含みますので、小説及び映画を白紙で見たい方は読まないでください。

さて実は、僕、昔けっこう小川洋子さんの熱心な読者だったんですが(芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』のサイン本を買ったほどです。あれは神田の三省堂だったな。端正な字でした)、その「甘い」世界からわざと距離をおくべく、この10年ほどは読んでいませんでした。

しかし、映画化もされたということだし(僕の好きな深津絵里が主演だし)、まあたまにはと思って手に取ってみたら、ぐいぐい読んでしまって、今日のテスト監督中(自分が担当している「宗教学」という講義のテストでした)に読み終えて、そのまま夕方に映画まで見に行ってしまいました。実は、テスト監督中読んでいるとき、目頭が熱くなり、焦りました。学生は気付いていなかったでしょうけど、鼻をすする音くらいは気付いたかな。

小川洋子さんの世界って、いつも何らかの濃密で、内閉的な(でも居心地は良い)一種の「共同体」が崩れた後、「私」がそれを一人称で回顧する、というモチーフが多いと思うのですが、この本も、その例に漏れませんでした。特に今回は数学者という設定が奏功しています。物語の端々で出てくる数式の完全な「美しさ(友愛数や完全数の美しさといったら!!)」は、家政婦である「私」と息子の「ルート」と「博士」の3人で形成される「共同体」をより美しくする効果があったと思います。

ストーリーは他のところでも色々書かれているので、簡単に説明すると、天才的数学者だった「博士」は交通事故の後遺症により、80分しか記憶が保てません。そこに、身の回りの世話をする家政婦として「私」が派遣されます。「私」は幼い息子「ルート(この呼び名は、後に博士が付けた)」と二人暮らし。何故か数学と子供を愛する「博士」は、「ルート」をまっすぐに愛し、3人の奇妙で暖かな生活がぎこちなく始まるが・・・というのが骨子です。

で、何で僕はこの作品に涙したのか、とずっと考えていました。
まずは、博士の「記憶」のはかなさという「道具立て」に参った、というのはあるでしょう。若年性アルツハイマーを扱った『私の頭の中の消しゴム』はヒットしましたし、長期連載のマンガには記憶喪失がつきものです(笑)。普段の生活でも、こっちは覚えているけど、向こうは覚えていない、という体験だって、けっこう哀しいものがあります。しかもこの博士の場合は、同じところをグルグル回るだけです(原作の小説では、その「80分のテープ」すら、最後に壊れていきます)。その博士の苦悩(目の前の事態が飲み込めないこと)が伝わってくるシーンがあり、小説でも映画でも、それは白眉のシーンでした。

もう一つは、先日のエントリで早世した同世代の研究者について触れましたが、この博士も、人生の途中で、志半ばで諦めざるを得なかった境遇です。そこにも、僕なども研究者の端くれですし、ついつい感情移入してしまった可能性があります。

そして最後に考えついたのは、この小説(映画もほぼ原作を忠実になぞっているので同じです)、この物語の登場人物が、全て互いをいたわり合っていることを、そしてその関係がいずれ失われていくことも含めて、とても切なく感じたのだと思います(一人称の回顧は、回顧すべきものが既に失われていることを最初から示唆しています)。3人の世界は、あまりにも美しいから。

映画では、深津ちゃんが良いのは当然として(ファンの贔屓目)、やはり博士役の寺尾聰さんが素晴らしいですね。

人によっては物足りない、という人もいるでしょうが、僕はこの小説の終わり方が好きです(映画の方が少しドラマティックに作っています)。

というわけで、久々に読んだ小川洋子さんですが、やっぱうまいです。帰り道で、その書店にある彼女の文庫を全部買ってしまいました・・・(昔読んだものは買いませんでしたが)。この『博士の愛した数式』は、恐らく読み返すこととなるでしょう。

追記:映画の中で「あれ、あれは小川先生では?」と思ったら、やはりそうでした。ある場面でカメオ出演なさっています。僕は小川先生の目の前にいた高村薫似の女性に気を取られていて、思わず見落とすところでした。

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November 23, 2005

「宗教」論と言うより「家族」論-『カナリア』感想

kanaria昨日あたりから風邪をひいてしまいましたが、休日であることを幸いに、のんびりDVD鑑賞をしていました。今日見ていたのは、オウム真理教をモチーフとした映画『カナリア』です。劇場に見に行こうと思っていたのですが、ついつい忘れてしまい、このたびDVD化されたので、購入しました。
というわけで、いつもの事ながら、ここより下はネタバレですので、お気をつけください。

まず第一印象は、「ここまで架空の教団をオウムそっくりに作っていいのか」と言うこと。この映画では、教団「ニルヴァーナ」が無差別テロを起こし、教団崩壊後、主人公の少年が施設に引き取られるという説明から始まるわけですが、彼の回想シーンの教団の様子は「良くもまあここまでサティアンっぽく作り込んだな」というものでした。信者たちの衣装も、オウムのサマナ服そのものですし(階級が上のものが濃い色、というもの、それっぽい)、ヘッドギアまで!!モチーフといっても、そのまま過ぎるだろ、と思わず画面につっこんでしまいましたが、それだけオウムの衝撃が強かったのも事実ですし、一から架空の教団を作り込むのも大変でしょうから、ここまで堂々とオウムっぽさを追求したことは、映画としてプラスだったと思います。そのおかげで、リアリティも確保できているわけですし。

ストーリーの骨格をかいつまんで話すと、「ニルヴァーナ」というカルト教団に母に連れられて妹と共に入らされていた主人公光一(石田法嗣)は、教団崩壊後、祖父母から引き取りを拒否され、妹だけ引き取られてしまいます。光一は施設を脱走し、東京の祖父母の家に行き、妹を「奪還」して、行方不明の母(テロ行為で指名手配中。配役は甲田益也子)を見つけて共に暮らすことを夢想します。その道中、「援助交際」中暴力を加えられそうになった少女由希(谷村美月)を光一は偶然助けることとなり、精神的に「ホームレス」な二人は共に東京を目指すことになります。

まずこの映画を語るときは、このともに1990年生まれの主人公二人の演技のすばらしさに触れないわけにはいきません。石田法嗣君も谷村美月ちゃんもうまい。美月ちゃんは文句なしの美少女ですし、石田君も感情のコントロールが利かない少年のナイーヴさが良かったです。
周りの俳優陣も、いい味出している人が多かったです。まずは主人公の母親役の甲田益也子さん。甲田さんは80年代にカリスマ的なモデルでしたが、なんなんですか、このアンチエイジングぶりは(笑)。マジで「年を取らない遺伝子」はあるんじゃないかと疑ってしまいますよ(ちなみに甲田さんは1960年生まれ)。甲田さんのクールな雰囲気が、こういう役にぴったりだと思いました。
主人公の二人が東京に向かう途中で出会う(恐らく)レズビアンのカップル、りょうつぐみ。この二人、もっとストーリーに絡むのかなあ、と思ったら、意外とあっけなかったのでもったいなかったです。存在感があるだけ余計に。
あと、光一少年の面倒を見る信者の役の西島秀俊氏。鋭い眼光の彼を見ると、どうしても思い出してしまう人物がいます。それは、オウム真理教幹部だった井上嘉浩(アーナンダ)氏です。ここからは自分の思い出話になりますが、今からちょうど13年前、1992年の東大の駒場祭では、オウム真理教のイヴェントがありました(確か「幸福の科学」のイヴェントもあり、ちょっとした「バトル」があったように記憶しています)。その時僕の同期の宗教学科の友人M君がそのイヴェントに参加し、冗談半分で連絡先を書き残したので、駒場祭の直後、早速M君に電話が掛かり、一度遊びに来ないかと誘われました。そこで、M君は僕と同じく宗教学科のK君を誘い、この3人で東大駒場裏のマンションの一室に向かいました。その時僕たちを「接待」してくれたのが井上さんだったのです。僕もその場で井上さんに「川瀬君は修行の見込みがある。恐らく前世でも修行をしてきた人だ」などと持ち上げられたのですが、僕は冗談にしか思えず、数冊の本をもらって帰宅し(この本は今も僕の研究室にあります)、それっきりでした(今から思えば、結構ギリギリのラインを歩いていたと言うことでしょう)。でも、あのとき僕たちを見すくめた井上さんの眼光はまだはっきりと覚えています。オウム事件はちょうど僕たちの少し上の世代に信者が多かったのですが、僕が宗教学なんて学問に手を染めようとしたきっかけの一つは、オウムのような当時台頭してきた新宗教群に興味を引かれたことであったのも確かで、やはり他人事とは思えない事件なんですね。

映画の話に戻ると、この映画は世俗の倫理とはかけ離れた「宗教」のあり方(このような宗教のあり方にどうしても惹かれてしまう、という気持ちも多少わかるつもりなので)と、当然それと軋轢を起こす「家族」のテーマという二つが中心をなしていると思ったのですが、後半からは宗教がずっと後景に退き、「家族」論が中心になるような気がします。よく「子供は親を選べない」と言いますが、今回のテーマも、まさにこれ。そしてその裏返しとして「大人の側は、子供を選べるのか」という問題が浮上してきます。こういうテーマは『誰も知らない』と共通ですね。もちろん、子供は親を選べない、という問題も大きいと思いますが、自分の子供が、信念故に「犯罪者」になってしまった親の気持ち、ということも考えてしまう、ちょっと年を取った僕です(主人公の祖父に、感情移入してしまう部分があったもので・・・)。
家族という空間では、加害者と被害者が世代ごとにその役割を入れ替えるので、その「救われ無さ」がこの映画のメインテーマだと言えるのかも知れません。主人公の母親は、自殺の直前に「結局お父さんの魂は救えなかった」と告げるわけですし。彼女は光一とその妹朝子に対しては「加害者」なわけですが、思うように育てられなかったと父親に見なされている点で被害者です。
またこの母親は、親子共々救済しようと考えた「善意」の人である点が重要だと思います。オウム事件で何度も語られたことですが、自己欺瞞といわれようが、彼らは自分自身をこの世を救う徹頭徹尾「善意」の人であると信じたがっていたのです。

まとめるなら、もっと宗教をメインテーマしているのかと思いきや、ちょっとはぐらかされた、という感じがしたもの確かです。ラストシーンも、ちょっと唐突。というか、「その後、本当にどうなるの?」とつっこみたくなってしまいました。
というわけで、ラストシーンにあまりカタルシスが得られなかった僕としては、この映画について、ちょっと点を厳しめにせざるを得ません。主人公二人の演技に免じて、5点満点で☆3つ、ってところですか。

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