August 11, 2007

生き残った者と語り継ぐ者―「夕凪の街桜の国」

今日、妻と二人で「夕凪の街桜の国」を見に行きました。これはこうの史代先生のマンガが原作で、以前このブログでもこの作品(文句なしに大傑作)を取り上げましたが、映画化されたということで見に行ったわけです。

今から簡単な感想を書きたいと思いますが、基本的にネタバレですので、白紙状態でこの映画をご覧になりたい方は以下を読まないでください

まず、この映画は、大変原作に忠実に作られています。原作がそれだけ素晴らしかったということでもあるでしょうが、原作のマンガ、構成も大変カッチリとできていますので、動かしづらかったのだと思います。
はじめに「夕凪の街」編がはじまります。戦後13年(昭和33年)の広島の「原爆スラム」で暮らす平野皆実(みなみ)という女性が主人公で、演じるのは麻生久美子さん。僕のツボの「薄幸系美女」の一人ですね(僕は他にこの系統としては、木村多江様とか石田ゆり子様を偏愛しています)。彼女は母と二人暮らしで、原爆で父と妹を亡くしたという設定です(原作では姉と妹が原爆で死ぬのですが、映画では二人を合わせて妹一人で代弁させています)。その妹に何もしてやれなかったということが彼女のトラウマとなり「何故自分は生き残ってしまったのか」という感情に苛まれています。前にも書いたのですが、戦争や大災害の被害者には、「何故あの人が死んで自分が生き残ったのか」というまさに不条理としか思えない事態を目の当たりにして、生き残ってしまったこと自体に罪悪感を抱くということが多々報告されています(一番このトラウマの存在を見せつけたのは、ナチスのホロコーストの生き残りです)。皆実もまさにこの感情に囚われているわけです。彼女はその感情を「お前の住む世界はここではないと誰かの声がする」と表現しています。それ故、会社の同僚に告白され、彼女もそれを受け入れようとしつつも、自分がそのように幸せになっても良いのかという自責の念が離れないわけです。この作品(マンガも原作も)では、その同僚が「生きとってくれてありがとう」と彼女の存在を丸ごと祝福する言葉を投げかけて、彼女のトラウマは一旦解除されるのですが、本当の悲劇はその後に起きます。というのは、原爆症が彼女の体を徐々にむしばんでいたからです。そして、僕が原作で最も戦慄し、映画でも絶対削って欲しくないと思っていた台詞が入ります。

嬉しい?十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て「やった、また一人殺せた」とちゃんと思うてくれとる?(映画は微妙に「13年後」としていますので、この部分も「13年」となっていましたが)

彼女はそのまま亡くなります。しかし、その直後に原作同様「このお話はまだ終わりません。何度夕凪が終わっても終わっていません」と、現代の「語り継ぐ者達」の物語、すなわち「桜の国」編に突入します(この映画はいわば二部構成を取っています)。

この「桜の国」の主人公は七波(田中麗奈)。「夕凪の街」のヒロイン皆実の姪という設定です。彼女は定年退職した父(堺正章)がこのところやたら長距離電話をしたり、ふらっと数日いなくなることを怪しんで、一度尾行してみることにします。その道中で偶然小学校時代の同級生東子(中越典子)と出会い、そのまま二人で尾行することになったのですが、父の行き先は何と広島。そこで父は、姉である皆実の痕跡を辿り、彼女と縁のあった人を回って色々話を聞いていたのでした・・・。
「桜の国」はその他、七波の母親も被爆者で早く死んでしまったこと、弟の凪生と友人の東子が実は恋人同士だったことなども重要ですが、それはマンガを読むかこの映画を見ていただくこととして、やはり泣かされたのは、原作のラストシーンの七波の独白です(初めて読んだとき「こうの先生、ひどい、こんな泣かせに走りやがって」と八つ当たりしたくなったくらいです)。これもいわば「生まれてきたことの全面的な肯定」です。この作品を貫いているテーマはまさにこれだと思います。存在そのものへの祝福と言い換えても良いでしょう。凄絶な物語でありながら、ある種の明るさを感じるのは、このテーマが背骨として機能しているからでしょう。桜が咲き乱れる歩道橋でのラストシーンは是非各自でご覧ください。

というわけでとにかく、時間のある人はマンガと映画を、ない方は原作のマンガだけでもご覧になっていただきたいと思います。

追記:原作のマンガに関しての優れたレビューとして、野々村禎彦氏の紙屋研究所さんのを挙げておきます。

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July 24, 2007

面白うてやがて哀しき・・・―『映画 選挙』鑑賞―

Senkyo 本日、『映画 選挙』を見に行ってまいりました。
この映画はその名の通り「選挙」をひたすら観察して撮っているもので(「観察映画observational film」、と冒頭に字幕にありました)、監督は想田和弘さん。実は奇縁ですが、想田さんは僕の学部時代の先輩で、ゼミで一年間ご一緒した仲なのです。その想田さんの撮られた映画ですから、これは早く見に行かねばとずっと思っていたのですが、ようやく昨日正規の授業が全て終了しまして、本日学生を連れて見に行くことができました(cocon烏丸の京都シネマにて)。

奇縁といえば、この映画の主人公、山内和彦さんは想田さんの大学時代の同級生で、この映画の撮影もまさにある意味「偶然の産物」だった側面があるそうです。山内さんは自民党の立候補者の公募に応じて、落下傘候補として川崎市市議選に立候補します。落下傘なわけですから、元々の地盤が無く、その地域の自民党の組織に手取り足取り、お辞儀の仕方までたたき込まれていくわけです。この映画はその選挙戦の2週間をそのまま切り取ったものです。

映画の内容などは公式サイトを見ていただくとして(詳しく説明したいところですが、この映画はそういうディテールを楽しむ映画ですので、僕などがこういう場でベラベラ喋るのは興ざめでしょう)、僕が感じたことを少し書いてみたいと思います。
確かに、この映画は文句なく面白かったです(これだけ笑えたドキュメントフィルムは久しぶりです)。会場も何度か笑い声に包まれましたが、ふと「これを面白がるってどういう事だろう」という思いが去来しました。典型的な「どぶ板選挙」の模様を赤裸々に描いたこの映画、確かに日本の「民主主義」の実態を白日の下に晒したわけですが、我々はまさにこういう社会に生きているわけで、他人事のように笑いものにするだけでは済まないはずです。例えば山内さんの選挙事務所にいた自民党支持者たちの「オヤジ臭さ」だとか、ジェンダー感覚の無さをあげつらうのは簡単です(山内さんの奥さんを巡ってのジェンダー的「攻防」は、この映画の見所の一つでもあります)。もちろんそれは正しいのですが、では彼らにはどういう言葉でものを言えばいいか、別の選挙の方法があるのか、といわれるとはたと困ってしまうわけです。これではいけないと思いながら、代替案を出すこともなかなかできないもどかしさ。「面白うてやがて哀しき・・・」というのが、この映画を見た直後の感触でした。

この映画を、まさに本当の「選挙前」に見ることになったのも奇縁かも知れません(会期延長した政府のせいですが)。そして、選挙前に、いや選挙後もこの映画が一人でも多くの方の目に触れることを祈っております。

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June 03, 2007

「日本の青空」鑑賞

今日は、「日本の青空」という映画を見に行きました。これは一言で言うと「護憲映画」と呼べるもので、僕も組合から割引券を購入して、護憲派の「たしなみ」(笑)として見に行ったわけです。場所は同志社大学寒梅館の立派なホールでした。

以下、ネタバレ注意です。

内容などについては、公式サイトをご覧くださればいいと思うのですが、簡単に言うと、ある出版社の派遣社員がひょんな事から雑誌の「憲法問題」の特集に関わっていき、そこで鈴木安蔵(やすぞう)なる民間の憲法学者が描いた「憲法草案」がGHQに影響を与えたという事実を発掘する・・・という筋書きです。
映画での描写は、ちょっと僕でも気恥ずかしくなるような、典型的な「左」っぽい描写があったりして、少し閉口したのですけど(つまり、あまりにもベタだったのです。もうちょっと間口を拡げた方が・・・とお節介ながら思ってしまいました)、これはそのようなベタな表現を取らざるを得ない監督をはじめとする制作者側の危機感の表れだと捉えました。僕がここで「危機感」といったのは、つい先日、内容が「偏向」しているということで東京都調布市の教育委員会がこの映画の上映会の後援を拒否したというニュースを見たからです。まあ、これは恐らくどこからからやってくる「ゴタゴタ」を恐れるお役所体質からでしょうけど(最近、ちょっと「左」っぽいイベントや、在日コリアン関連のイヴェントを公民館が拒否、などというニュースをいくつか聞きますし)、とにかく、この程度の穏健な映画に対しても神経をピリピリせざるを得ない世の中であることは確かなのです。

映画についていうと、この映画の肝である「終戦直後の憲法委員会の再現ドラマ」がやはり出色でした。終戦直後、かつて治安維持法などで辛酸を舐めた学者や文化人が集まった会合で、鈴木が活動する「憲法研究会」が結成されるのですが、その他にも熱に浮かされたように全国のあちこちで多くの人々(政党も含めて)が憲法を考えた、という事実は、やはり忘れてはならないものでしょう。
キャストに関して印象をいうと、「再現ドラマ編」主役の高橋和也も、なかなか味のある男闘呼男になったなあ、と思いました。妻役の藤谷美紀も、いい年の取り方していると思いました。あと、白洲次郎役の宍戸開は、「あ、彼はこうして白髪にしてみると格好いい」と思ってしまいました。まあ、美味しい役柄だからそう思ったかも知れないですけど(なんたって白洲次郎だし)。
で、「現代編」の主役の田丸真紀は、スタイル良過ぎ(笑)。やっぱ、元モデルは違います。でも編集長役の伊藤克信の大袈裟な芝居を含めて、抑え気味の「再現ドラマ編」とのコントラストがちょっときつかった、と思ってしまいました。

さて、この映画では、鈴木たちの構想がGHQの憲法草案に決定的な影響を与えた、つまり現行憲法はアメリカからの「押しつけ」ではなく、日本側の意向も大いに反映されているのだ、ということを論じています。勿論、僕は「なるほど」とも思い、GHQに感心されるくらいの草案を書いた鈴木たちの努力と能力に対し、敬意を表しますが、いわゆる今論じられている「押しつけ憲法論」に対してどれだけ有効か、疑問だなあと思いながら見ていました。押しつけ憲法論(改憲論)者は、「鈴木たちのを参考にしたといっても、短時間でそれを翻訳してGHQが押しつけてきたというのは変わらない」というでしょうから(まさか鈴木たちを「非国民」だから日本人が考えたものとはいえない、とはいわないでしょうけど)。
でも、映画の中ではもう一つ重要な描写がありました。それは、最初GHQから命令されて、大日本帝国憲法を改訂するようにと言われていた松本烝治大臣(この人は元東大教授で法学博士なんですよね、実は。ちょっと前に読んだ丸山眞男の回顧談でも、憲法制定時の東大法学部の教授たちの動向が語られていたのを思い出しました)をはじめとする政府首脳部の「頭の固さ」です。いわゆる「欽定憲法」における天皇の地位について、頑として譲らず、これがGHQとの溝になったことがしっかり描かれています。僕は実はこちらが重要ではないか、と思っています。一言で言うと、「押しつけられるような事態を招いた責任」ということです。この辺りについて、英文学者の中野好夫が既に40年前、こう指摘しています。

とにかくこんなふうに、まことに情けない、いわゆる「押しつけ」ということになったわけです。が、わたしはもう一度申し上げたいのです。もしあのとき、松本さんだけでなく、日本の支配層の人たちが、なんとか現状維持にキュウキュウとする上層の声ではなく、むしろ明治憲法の乱用によって大きな犠牲を強いられたほんとうの国民の声に耳を傾けていたならば、まさかあんな松本案というものはできなかったでしょうし、またそうであれば、いろいろめんどうな折衝、修正はあったかもしれませんが、まさかかれらとても欲しなかった「押しつけ」などにはならなかったろうと思えるのです。くりかえし申しますが、事情はどうあれ、「押しつけ」みたいなことになったのは、ほんとうに残念でもあり、情けないことだと思います。だが、それには「押しつけ」たアメリカを責めるのもいいが、それよりも前に、まずそうした情けない事態に立ち入らせた、敗戦によって何物も学ばず、何物も忘れようとしなかったわたしたち自身の支配層のものの考え方に、まず責任の尻をもっていかなければならないのではないでしょうか。(中野好夫「私の憲法勉強」、『中野好夫集 Ⅲ』筑摩書房、1985年、p.182。原著は1965年発行)

全く同感。ついでに言うと、僕は「いい物を押しつけてくれてありがとう」と考える「押しつけ憲法論者」ではありますが(笑)、この60年、この憲法は常に有効に働き、そしてそれを国民も認め続けてきた重みがあると考えています(押しつけ憲法が日本の国情に合わないのでしたら、とっくに改憲されていて然るべきでしょう)。今のところ、まあまあうまくいっているものを無理に変える必要性をまず感じませんし、そもそも憲法のせいで日本人の「品性」が悪くなった云々というのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」くらいの信憑性しかないと思ってもいます。
というわけで、ベタな描写にちょっと照れつつも、改めてベタに戦争放棄条項は「護持」すべきと思いました。今やこれこそが日本の「国体」なのですから。

(追記)
この映画の大澤豊監督って、「GAMA―月桃の花」の監督でもあったんですね。僕はこの映画、まだ見たことがないのですが、沖縄研究者の佐藤壮広さんからこの映画を教えられて、チャンスがあれば見ようと心にとめていたのでした(余談ながら、昨年12月末の出張の夜、僕が佐藤さんに連れて行かれた那覇の飲み屋で、この映画に関わった方が偶然いらして名刺を交換する、というハプニングがありました。これもあって憶えていたのです)。

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September 03, 2006

「ガーダ パレスチナの詩」を見る

今日は、ある市民団体の主催する上映会に行き、ジャーナリストの古居みずえ監督のドキュメント映画「ガーダ パレスチナの詩」を見ました(ちなみに、書籍にもなっています)。
これは、自分の取材の通訳をしてくれた女性ガーダを、古居監督が12年の間ずっと撮ったフィルムで構成されたもので、比較的平穏な時期に結婚したガーダが、2000年の第二次インティファーダ(パレスチナ側の抵抗)を経て、一人の知的で開明的なパレスチナ女性が、自分のなしえる「戦い」とは何か、ということを考える過程を追いかけたもの、と要約できるかと思います。

以下は、内容紹介を含みますので、これから白紙状態で見に行きたい方はごらんにならないようにお願いします。

さて、まずガーダ、という希有なキャラクターに古居監督が出会った、という幸運を、観客たる我々は感謝しなければならないと思います。
ガーダは、リベラルな父親や親戚に囲まれ、比較的自由な雰囲気のもとで勉強に励み、イスラエルによるガザ地区の封鎖により大学には進学できませんでしたが、教員養成学校を出て、教師として働きつつ、堪能な英語で通訳もこなすという女性です。
そのような彼女ですから、古い因襲、とりわけ女性を抑圧する習慣には真っ向から反対し、この映画は、彼女の結婚式をめぐって家族、姑と衝突するところから始まります。彼女は伝統的な結婚式や、初夜のシーツという「処女の証拠」を見せびらかすような儀礼は「人の作ったものは変えられるはず」と拒否します。
彼女は理解ある夫に恵まれ、二人の子を授かり、大学に入り直すなど「新しい女性」としての生活するのですが、2000年の第二次インティファーダにおいて、親戚筋の13歳の男の子が射殺されるという事件に遭い、彼女は非常にショックを受けます。それまで、パレスチナ社会の内部で、古い因襲と戦ってきた彼女は、1948年(いうまでもなく、イスラエルの建国年です)に故郷を追われた自分の祖母世代の女性たちの聞き取り調査をして、パレスチナ難民の苦難の歴史を書き記すことを、「新たな自分なりの戦い(字幕では「戦い」とありましたが、使われていた単語はstruggleでした)」と位置付け、その作業に没頭していくことになります。古居監督も彼女に同行し、ガーダの祖母や、インティファーダ後に家や農地を破壊された老女たちに話を聞きに行きます。
この映画は、女性である古居監督が、ガーダの実家の台所から撮影をスタートさせたように、パレスチナのいわば私的な空間を撮ったものです。そこでの女性たちは、日本人が想像する以上にたくましく、笑い、歌い、快闊です。そして、その女たちが笑いさざめく台所の壁に向かって、イスラエルの監視塔からの威嚇斉射がおこなわれたりもするのです。その「日常」(子どもたちは、銃声くらいではびくともしなくなります。そして、その機関銃の音が響く中で、彼らは祈りを捧げます)を思うと、何もできない極東の住民である僕も、胸が痛みます。
この映画のガーダ以外の登場人物で、一番僕の印象に残ったのは、自分の農地を根こそぎイスラエル軍に破壊され奪われる夫婦(アブー・バーシムさんとウンム・バーシムさん)です。このおしどり夫婦は、互いの愛情を表現する詩を交わし合い、客人であるガーダや監督に鳥料理を振る舞ってくれるような、親切な「隣人」。そのような「普通の人」の生活の一切を破壊して、「神に約束された地」の領域を広げようとするイスラエル。もちろんイスラエル側の言い分はあるでしょう。でも、イスラエルはこれ以上、パレスチナの占領を推し進めるべきではありません。恨みの連鎖、虐殺の連鎖をどこかで止めなければなりません。いま、イスラエルは自らが作り出した「敵」の影の大きさに怯えている状態なのだと思います。
ガーダは最後に、「私が祖母たちの記録を取ることも、祖母たちが歌うことも、インティファーダで投石することも、それそれの戦い(struggle)なのだ」というような言葉を述べます。僕は、例えばこの日本において、どんな「それぞれの戦い」をしているのか、考えさせられました。

なお、古居監督は上映会に来る予定だったのですが、レバノンへ取材に行くことになり、急遽ビデオレターでの出演となってしまいました。僕の友人である綿井健陽君も、この前何とか無事にレバノンから帰ってきてくれました。綿井君も「Little Birds」という映画を撮りましたが(僕の感想はこちら)、古居監督もこのような素晴らしい作品を届けてくれました。近くで上映があるときは是非ご覧ください。

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March 07, 2006

「殺す側」にならないことは可能か?―ホテル・ルワンダの問い

ネット上での署名活動がもとで日本公開が決まった映画「ホテル・ルワンダ」を見てきました(実は、僕も及ばずながら、ネット署名した一人です。)。

昨日同僚のA先生(アフリカをフィールドとする文化人類学者)が「日曜日に夫婦で見てきたんだけど、あれはすごい映画だよ。僕なんか、モデルになったあのホテルに泊まったこともあるから、感情移入してしまってねえ」と熱くおっしゃっていたので、これは急いで見なければと思い、京都みなみ会館に行きました。

この映画の内容及び、素になった凄惨な実話については、公式サイト及び、「ホテル・ルワンダ」公開に一役買った映画評論家の町山智浩氏のこのエントリをご覧ください。

『ホテル・ルワンダ』は現実版『ドーン・オブ・ザ・デッド』だ

以下では、僕がこの映画を見て思ったことを箇条書きにしてみたいと思います。

1)普通の人ができる「抵抗」
まず感動したのは、主人公のポールの人柄でした。彼は決してスーパーマンではありません。彼は高級ホテルのマネージャーで、軍上層部や外国人など様々なコネクションをもっていたのですが、生き延びるために、彼らに電話を掛け、時には賄賂を送り、様々に知恵を働かせて、あくまでも「加害者側」に加担することを拒否し続けます。果たして我々の何人が、彼のように、多数派かつ加害者側の「特権」を捨てることができるでしょうか(ポールは虐殺を実行した多数派のフツ族の出自でした。妻はツチ族でした)。一番考えさせられたのは、このことです。そしてこのことが、この映画を貫く問題意識だと思います。「自分さえ助かればいい」と決して考えなかった点で、ポールは英雄なのです。

2)「恥」ということ
これを見た人、特に先進国の人間は、映画の中でホアキン・フェニックスが演じるカメラマンのように「恥じ入る」しかないでしょう。ポールは「国連も来ているし、あなた方が全世界に情報を流してくれているんですから、国際社会も我々を見捨てるなんてことはないでしょう?」と問うと、カメラマンは「いや、映像を見て、まあ怖い、といってそのまま食事を続けるだけさ」と自嘲気味に答え、事実、先進国(ツチとフツの対立の基礎を作ったのも植民地政策でした)はルワンダを完全に見殺しにします。
我々はルワンダを見殺しにした、ということをもはや忘れられません。では次にどうするべきか。
上にも書きましたが、ポールのように普通の人として、隣人を殺す側に回らないこと。その決意をするしか、我々の「恥」を雪ぐ方策はないと思います。

なお、前述の町山智浩氏がパンフレットに書いた文章も秀逸です。その全文は、このサイトをご覧ください

とにかく、重たいテーマの映画ではあります。2時間、見るのがこれほど辛い映画も久しぶりでした。しかし、ご覧になることをお勧めします。

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March 05, 2006

「Z GUNDAM Ⅲ 星の鼓動は愛」感想

今日は休日らしく過ごそうと思い、買い物と映画に行ってきました。
最初は「ミュンヘン」とか「ホテル・ルワンダ」とかを見ようかと思ったのですが、まだ病み上がりで体力が回復していないので、ちょっと日和って、公開されたばかりの劇場版Zガンダム(以下「ゼータ」)の最終作「星の鼓動は愛」を見に行きました。前の二作も既に見ていますしね、もはや義務と思い新京極のMOVIX京都に行ってしまいました。

ということで、以下は物凄くネタバレのおそれがありますので、未見の方はご注意願います。

さて、まず初っぱなから申し上げますと、一番びっくりしたのはやはり何と言ってもエンディングでした。だって「ハッピーエンド」なんですよ、奥さん!!(文字を反転させました)劇場で配られたアンケート用紙で「エンディングはいかがでしたか」という項目があったのも、むべなるかな。これには本当にびっくりして、思わず「うっそー」と呟いてしまいました。
テレビの本放送があった頃、僕は中学生でしたが、ビデオに撮った最終話を繰り返し見ておりました。最終の二話は、非常に緊張感がある演出で、しかもその悲劇的なラストが僕のトラウマとなり、忘れがたい作品になっていたのでした(僕の一世代上の人なら、恐らく「イデオン発動編」がトラウマになっていると思います)。ですから、この映画は僕のゼータ観をひっくり返すものとなりました。僕なんか「いつカミーユが狂うのか」と最後の最後までハラハラしていたら、肩すかしを食らって、先ほど言ったように「うっそー」と呟いてしまったわけです。

以下、見ながら思いついたことを箇条書きにしたいと思います。

1)シロッコが「教祖」のように描かれていることに今更ながら気付きました。サラは教祖を崇拝する信者のようなふるまいを見せますし(死に方もまさに殉死)、「時代を変える」ということが、ジュピトリス・カルト(勝手に命名)の信念のようですし。

2)カツが本当に邪魔。子供心にも、こいつはダメだなあ、と思っていたんですが、大人になってから見ると、カミーユでなくても撃ち殺したくなるくらい邪魔です(笑)。

3)シロッコのエリート意識が強調され(歴史を動かしてきたのは、限られた天才達だけ」とか言ってたっけな)、それが「叩くべき悪」として描かれていて、分かり易かったのですが、基本的にハマーンもシャアも、それほど遠いところにはいないよなあ、とも思いました(みんなお互いを「俗物」扱いしているんですもんね)。みんなけっこう「愚民観」を前面に押し出すもんなあ。「愚民どもが」なんて榊原良子様の声で言われた日には、もう、萌えますけど。

4)良くガンダムは「リアル・ロボット」ものの元祖だとか、政治的なものや軍隊というものを描いた先駆とされています。もちろん、これは間違いではないのですが、実は、すごく非合理なオカルト的なものもガンダム、特にこのゼータにはあります。「ファースト」までの「ニュータイプ」概念は、簡単に要約すれば、宇宙で人類が活動するようになって、知覚が発達して、人同士が理解し合える可能性が高まってきた(戦場においては、その能力が有利になる)、というものでしたが、もはやゼータにおけるニュータイプは、それを超えて、完全に超能力になっています。だって、気合いでビーム跳ね返したりモビルスーツを金縛りに遭わせたりするんですよ(笑)。もう一つ言うと、「幽霊」の話にもなっていますね。「ファースト」でも、死んだはずのララァとアムロは喋ったりしていますが、ゼータでは死者からエネルギーをもらうまでに「進化(?)」しています。
で、ちょっと宗教学者として真面目に考えたのは、こういうガンダムでの「死者との交流(幾分かシャーマニック)」というモチーフは、日本では案外すんなり受け入れられるかも知れないけど、外国ではどうなんだろう、という疑問です(ご存じの方がいらっしゃれば、ご教示願います)。

5)実は、今回見て、僕が一番考えさせられたのは、レコア・ロンドというキャラクターについてです。彼女のようなキャラクターを見ると、やはりガンダムを一度ジェンダー的な視点から分析する必要性を感じますね。まだ僕には用意が無くて、ちゃんとはできませんが。
二十年前に見ていたとき、彼女の行動や性格が判らず混乱したのですが、そこそこ「大人」になってみると、子供っぽい我が儘さとは違う彼女の衝動というものが、何となく理解できてしまったような気がします。ここで問題になるのは、「女として」ということです。レコアは、戦争ばかりして自分を省みないエウーゴの男性(具体的にはシャア)を見限って、これまた女性を道具としてしか見ないシロッコという男の下に居着くことになります。そこで彼女は妙な「安定」を感じるわけですが、その理由を「女として生きている実感を感じさせてくれる」というものだと告白するわけです。ここで唐突に思い出したのが、これまた富野監督の「イデオン発動編」のキャラクター、ハルル・アジバとカララ・アジバです。ストーリーを掻い摘んで言うと、二人は敵味方に分かれて、結局ハルルは妹カララを撃ち殺すのですが(すげー凄惨な話だよな、やっぱり)、その殺害の理由が、女として生きたカララにハルルが嫉妬した、というものでした。愛する人と一緒になり、その子供を身ごもったカララに、それが叶わなかったハルルが感情を爆発させたのです。富野監督の作品では、「女として生きようとする」業の深い女と、それをたしなめる女性(ゼータならエマ)が手ひどい扱いを受けているような気がしますね・・・。「女として(その裏返しで「男として」)」、ちょっと考えてみたいテーマです。

さて、衝撃のエンディングの後、劇場に灯りが点り、帰り支度をしているとき、僕の後ろにいた男の子の集団が感想を言い合っているのを耳にしました。曰く

「これ、要するにファ・ユイリィ・エンドってこと?」

思わず「うまいこというなあ」と思って笑ってしまいました。今まで富野監督の作品では、何度も「バッド・エンド」を繰り返し見てきたからね、たまにはこういうのも良いでしょう。

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February 02, 2006

今は既にない「懐かしい」場所へ―『博士の愛した数式』

のっけからお恥ずかしい話ですが、久しぶりに、小説を読んで(その後映画を見て)、涙を落としてしまいました。それは小川洋子さんの『博士の愛した数式』です。

僕は感激屋のつもりですが、「泣く」ことは滅多にないです。一番びっくりしたのは、自分自身です。何が僕の「泣きツボ」だったのか、それを考えつつ、この文章を書いています(最初に申し上げますが、「すごく泣けます」と皆さんにこの作品を推薦するつもりはありません。僕がたまたま泣けただけで、他の方がどう感じるかは判りません。ただの自己分析です)。

これ以降は、ネタバレを含みますので、小説及び映画を白紙で見たい方は読まないでください。

さて実は、僕、昔けっこう小川洋子さんの熱心な読者だったんですが(芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』のサイン本を買ったほどです。あれは神田の三省堂だったな。端正な字でした)、その「甘い」世界からわざと距離をおくべく、この10年ほどは読んでいませんでした。

しかし、映画化もされたということだし(僕の好きな深津絵里が主演だし)、まあたまにはと思って手に取ってみたら、ぐいぐい読んでしまって、今日のテスト監督中(自分が担当している「宗教学」という講義のテストでした)に読み終えて、そのまま夕方に映画まで見に行ってしまいました。実は、テスト監督中読んでいるとき、目頭が熱くなり、焦りました。学生は気付いていなかったでしょうけど、鼻をすする音くらいは気付いたかな。

小川洋子さんの世界って、いつも何らかの濃密で、内閉的な(でも居心地は良い)一種の「共同体」が崩れた後、「私」がそれを一人称で回顧する、というモチーフが多いと思うのですが、この本も、その例に漏れませんでした。特に今回は数学者という設定が奏功しています。物語の端々で出てくる数式の完全な「美しさ(友愛数や完全数の美しさといったら!!)」は、家政婦である「私」と息子の「ルート」と「博士」の3人で形成される「共同体」をより美しくする効果があったと思います。

ストーリーは他のところでも色々書かれているので、簡単に説明すると、天才的数学者だった「博士」は交通事故の後遺症により、80分しか記憶が保てません。そこに、身の回りの世話をする家政婦として「私」が派遣されます。「私」は幼い息子「ルート(この呼び名は、後に博士が付けた)」と二人暮らし。何故か数学と子供を愛する「博士」は、「ルート」をまっすぐに愛し、3人の奇妙で暖かな生活がぎこちなく始まるが・・・というのが骨子です。

で、何で僕はこの作品に涙したのか、とずっと考えていました。
まずは、博士の「記憶」のはかなさという「道具立て」に参った、というのはあるでしょう。若年性アルツハイマーを扱った『私の頭の中の消しゴム』はヒットしましたし、長期連載のマンガには記憶喪失がつきものです(笑)。普段の生活でも、こっちは覚えているけど、向こうは覚えていない、という体験だって、けっこう哀しいものがあります。しかもこの博士の場合は、同じところをグルグル回るだけです(原作の小説では、その「80分のテープ」すら、最後に壊れていきます)。その博士の苦悩(目の前の事態が飲み込めないこと)が伝わってくるシーンがあり、小説でも映画でも、それは白眉のシーンでした。

もう一つは、先日のエントリで早世した同世代の研究者について触れましたが、この博士も、人生の途中で、志半ばで諦めざるを得なかった境遇です。そこにも、僕なども研究者の端くれですし、ついつい感情移入してしまった可能性があります。

そして最後に考えついたのは、この小説(映画もほぼ原作を忠実になぞっているので同じです)、この物語の登場人物が、全て互いをいたわり合っていることを、そしてその関係がいずれ失われていくことも含めて、とても切なく感じたのだと思います(一人称の回顧は、回顧すべきものが既に失われていることを最初から示唆しています)。3人の世界は、あまりにも美しいから。

映画では、深津ちゃんが良いのは当然として(ファンの贔屓目)、やはり博士役の寺尾聰さんが素晴らしいですね。

人によっては物足りない、という人もいるでしょうが、僕はこの小説の終わり方が好きです(映画の方が少しドラマティックに作っています)。

というわけで、久々に読んだ小川洋子さんですが、やっぱうまいです。帰り道で、その書店にある彼女の文庫を全部買ってしまいました・・・(昔読んだものは買いませんでしたが)。この『博士の愛した数式』は、恐らく読み返すこととなるでしょう。

追記:映画の中で「あれ、あれは小川先生では?」と思ったら、やはりそうでした。ある場面でカメオ出演なさっています。僕は小川先生の目の前にいた高村薫似の女性に気を取られていて、思わず見落とすところでした。

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November 23, 2005

「宗教」論と言うより「家族」論-『カナリア』感想

kanaria昨日あたりから風邪をひいてしまいましたが、休日であることを幸いに、のんびりDVD鑑賞をしていました。今日見ていたのは、オウム真理教をモチーフとした映画『カナリア』です。劇場に見に行こうと思っていたのですが、ついつい忘れてしまい、このたびDVD化されたので、購入しました。
というわけで、いつもの事ながら、ここより下はネタバレですので、お気をつけください。

まず第一印象は、「ここまで架空の教団をオウムそっくりに作っていいのか」と言うこと。この映画では、教団「ニルヴァーナ」が無差別テロを起こし、教団崩壊後、主人公の少年が施設に引き取られるという説明から始まるわけですが、彼の回想シーンの教団の様子は「良くもまあここまでサティアンっぽく作り込んだな」というものでした。信者たちの衣装も、オウムのサマナ服そのものですし(階級が上のものが濃い色、というもの、それっぽい)、ヘッドギアまで!!モチーフといっても、そのまま過ぎるだろ、と思わず画面につっこんでしまいましたが、それだけオウムの衝撃が強かったのも事実ですし、一から架空の教団を作り込むのも大変でしょうから、ここまで堂々とオウムっぽさを追求したことは、映画としてプラスだったと思います。そのおかげで、リアリティも確保できているわけですし。

ストーリーの骨格をかいつまんで話すと、「ニルヴァーナ」というカルト教団に母に連れられて妹と共に入らされていた主人公光一(石田法嗣)は、教団崩壊後、祖父母から引き取りを拒否され、妹だけ引き取られてしまいます。光一は施設を脱走し、東京の祖父母の家に行き、妹を「奪還」して、行方不明の母(テロ行為で指名手配中。配役は甲田益也子)を見つけて共に暮らすことを夢想します。その道中、「援助交際」中暴力を加えられそうになった少女由希(谷村美月)を光一は偶然助けることとなり、精神的に「ホームレス」な二人は共に東京を目指すことになります。

まずこの映画を語るときは、このともに1990年生まれの主人公二人の演技のすばらしさに触れないわけにはいきません。石田法嗣君も谷村美月ちゃんもうまい。美月ちゃんは文句なしの美少女ですし、石田君も感情のコントロールが利かない少年のナイーヴさが良かったです。
周りの俳優陣も、いい味出している人が多かったです。まずは主人公の母親役の甲田益也子さん。甲田さんは80年代にカリスマ的なモデルでしたが、なんなんですか、このアンチエイジングぶりは(笑)。マジで「年を取らない遺伝子」はあるんじゃないかと疑ってしまいますよ(ちなみに甲田さんは1960年生まれ)。甲田さんのクールな雰囲気が、こういう役にぴったりだと思いました。
主人公の二人が東京に向かう途中で出会う(恐らく)レズビアンのカップル、りょうつぐみ。この二人、もっとストーリーに絡むのかなあ、と思ったら、意外とあっけなかったのでもったいなかったです。存在感があるだけ余計に。
あと、光一少年の面倒を見る信者の役の西島秀俊氏。鋭い眼光の彼を見ると、どうしても思い出してしまう人物がいます。それは、オウム真理教幹部だった井上嘉浩(アーナンダ)氏です。ここからは自分の思い出話になりますが、今からちょうど13年前、1992年の東大の駒場祭では、オウム真理教のイヴェントがありました(確か「幸福の科学」のイヴェントもあり、ちょっとした「バトル」があったように記憶しています)。その時僕の同期の宗教学科の友人M君がそのイヴェントに参加し、冗談半分で連絡先を書き残したので、駒場祭の直後、早速M君に電話が掛かり、一度遊びに来ないかと誘われました。そこで、M君は僕と同じく宗教学科のK君を誘い、この3人で東大駒場裏のマンションの一室に向かいました。その時僕たちを「接待」してくれたのが井上さんだったのです。僕もその場で井上さんに「川瀬君は修行の見込みがある。恐らく前世でも修行をしてきた人だ」などと持ち上げられたのですが、僕は冗談にしか思えず、数冊の本をもらって帰宅し(この本は今も僕の研究室にあります)、それっきりでした(今から思えば、結構ギリギリのラインを歩いていたと言うことでしょう)。でも、あのとき僕たちを見すくめた井上さんの眼光はまだはっきりと覚えています。オウム事件はちょうど僕たちの少し上の世代に信者が多かったのですが、僕が宗教学なんて学問に手を染めようとしたきっかけの一つは、オウムのような当時台頭してきた新宗教群に興味を引かれたことであったのも確かで、やはり他人事とは思えない事件なんですね。

映画の話に戻ると、この映画は世俗の倫理とはかけ離れた「宗教」のあり方(このような宗教のあり方にどうしても惹かれてしまう、という気持ちも多少わかるつもりなので)と、当然それと軋轢を起こす「家族」のテーマという二つが中心をなしていると思ったのですが、後半からは宗教がずっと後景に退き、「家族」論が中心になるような気がします。よく「子供は親を選べない」と言いますが、今回のテーマも、まさにこれ。そしてその裏返しとして「大人の側は、子供を選べるのか」という問題が浮上してきます。こういうテーマは『誰も知らない』と共通ですね。もちろん、子供は親を選べない、という問題も大きいと思いますが、自分の子供が、信念故に「犯罪者」になってしまった親の気持ち、ということも考えてしまう、ちょっと年を取った僕です(主人公の祖父に、感情移入してしまう部分があったもので・・・)。
家族という空間では、加害者と被害者が世代ごとにその役割を入れ替えるので、その「救われ無さ」がこの映画のメインテーマだと言えるのかも知れません。主人公の母親は、自殺の直前に「結局お父さんの魂は救えなかった」と告げるわけですし。彼女は光一とその妹朝子に対しては「加害者」なわけですが、思うように育てられなかったと父親に見なされている点で被害者です。
またこの母親は、親子共々救済しようと考えた「善意」の人である点が重要だと思います。オウム事件で何度も語られたことですが、自己欺瞞といわれようが、彼らは自分自身をこの世を救う徹頭徹尾「善意」の人であると信じたがっていたのです。

まとめるなら、もっと宗教をメインテーマしているのかと思いきや、ちょっとはぐらかされた、という感じがしたもの確かです。ラストシーンも、ちょっと唐突。というか、「その後、本当にどうなるの?」とつっこみたくなってしまいました。
というわけで、ラストシーンにあまりカタルシスが得られなかった僕としては、この映画について、ちょっと点を厳しめにせざるを得ません。主人公二人の演技に免じて、5点満点で☆3つ、ってところですか。

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November 15, 2005

般若のような美しさ-「親切なクムジャさん」感想

2005_07_13_11_14_16_D14EF01C_c今日は非常勤先の帰り道、途中下車して、またまた映画館に行ってしまいました。二日連続、というのはさすがに珍しいです。今日見たのは、僕にとっての女神様の一人であらせられるイ・ヨンエ様主演の「親切なクムジャさん」です(余談ですが、韓国のファンサイトでも여신님、つまり女神様、と呼ばれていることがあり、思わず笑ってしまいました)。

この映画は、パク・チャヌク監督の「復讐三部作」のトリを飾るものであり(前二作は「復讐者に憐れみを」と「オールド・ボーイ」)、「あの清純派のイ・ヨンエが彼の映画に・・・」と公開前から結構話題になっていたものです。ヨンエ様は、そういう自分に付着しているイメージの打破の一環として、この映画の出演をお決めになったようですが。では、この映画の感想を少しばかり。

というわけで、いつものことですが、ここから先はネタバレを含みますので、それでもいいという方だけ読み進めてください。

1124440289_2今回ヨンエ様が演じるのは、少年誘拐殺人犯として13年間服役した「イ・クムジャ」という人物(でも実は彼女は真犯人ではなかった。ある事情から、彼女は罪をかぶって入獄する羽目に)。彼女はその美貌と、入所してからの「模範生」ぶりで(写真のように他の女囚に奉仕します。これも実は「親切」という仮面をかぶった復讐の一つなのですが)、「親切なクムジャさん」というあだ名を付けられるほどの人物。しかしその天使のような顔の影には、自分を入獄する羽目に陥らせた男(チェ・ミンシク演じる英語教師です)への復讐計画を練りあげるもう一人の「クムジャさん」がいた・・・というのが、大まかなストーリーラインです。
初っぱなからですが、この黄色い囚人服のヨンエ様、可愛すぎます。思わずスクリーンに向かって「ありがたや」と手を合わせましたよ(笑)。特に、前非を悔いて宗教的に改心した囚人たちの講演会のシーンでのヨンエ様は、反則的な可愛らしさでした。

あ、そうそう、先に言っておかねば。パク・チャヌク監督は前作品における残虐シーンが結構話題になりましたが(見た人間に聞くと「見た後は肉が食べられなかった」と言っていましたから、相当なものです)、今回も、やっぱ相変わらず悪趣味です(笑)。思わず「うひーっ」と何度言ってしまったことか(観客が少なくて助かりました)。
残酷なシーンはあまり見たくない、という人は、覚悟してみてください(これでも前作よりはましなようですが)。監督のインタビューでは「復讐を正当化するために真犯人の非道さを演出し、嫌なシーンも撮った」とか言い訳していますが、それにしても悪趣味すぎです。どういう悪趣味かは、さすがに言えません(言うと、究極のネタばらしになりますので)。

kumujasan_wall01_1024全体的なイメージですが、わざとらしいださいファッションや色彩感覚など(部屋の壁紙や、クムジャさんのメークなど)、この映画は良くも悪くもわざと「漫画的」に撮影しています。そうした演出で、多少和らいだ部分はありますね(逆に言うと、こんなものクソリアリズムで撮られたら堪りません)。例えば、周りの囚人に親切にしまくるクムジャさんには後光が差していたり(ホントに後光が差しているようにCGで作っているんですよ)、ポスターからして、わざとピエール&ジルのようなキッチュな造りのものにしているし(このポスターの涙のアイディアは恐らくはマン・レイの「ガラスの涙」でしょうね。ちょっとあからさますぎるほど。この壁紙は、公式ページでダウンロードできます)。

1124440353_3「漫画的演出」のとどめは、ヨンエ様の超レアな「女子高生姿」でしょう(笑)。ヨンエ様もまさかこんなコスプレ服装をするとは思っても見なかったそうですが、それでも通用してしまうところが恐ろしい。ヨンエ・・・恐ろしい子っ!!
ちなみに、ヨンエ様は僕と生まれ年が同じです(ヨンエ様が僕より10ヶ月ほど早くお生まれになっています)。ある意味、このシーンは、「宮廷女官チャングムの誓い」でヨンエ様のファンになった皆さんも必見。

さて、今回のエントリの「般若のような美しさ」というのは、実は彼女が復讐を終えたときに見せる、ある意味壮絶な表情を見て僕がとっさに連想したことです。ヴェネチア映画祭でのインタビューでヨンエ様はこの表情について

「復讐を遂げた後、クムジャの印象的なアップのシーンがありますが、脚本には“グロテスクに”という監督の指示が書き添えられていました。つまり、それまでのクムジャには見られなかった複雑な、まさにグロテスクな表情が必要だったわけです」(パンフレットより)

とおっしゃっていますが、冗談抜きで、この表情はこの映画の白眉のシーンです。ヨンエ様の演技者としての凄みを、ファンのひいき目無しでも実感できました。あ、でも「般若のような」というのは、僕の乏しい語彙から出たものですので、他の方がどういう表現をなさるのかが気になるところです。

血しぶきが苦手ではなく、イ・ヨンエ様の違う側面を見たいという方は是非劇場へ。

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November 14, 2005

まあ、中継ぎの作品だしね・・・

今日、授業が終わり、今夜は残業する気が失せたので、すぐに大学を飛び出し、バスで河原町に向かい、「機動戦士Z GUNDAMⅡ-恋人たち」を見てしまいました。バスで大学の同僚と偶然一緒になり「川瀬さん、何見に行くの?」と聞かれて、「いやあ、その」と口ごもる僕でした(笑)。まあそれはともかく、その感想を簡単にしたためたいと思います。

*この先はネタバレですので、未見の方はご覧にならないようにお願いします。

さて、映画版「Z」の2作目ですが、見所は、うーん、と考え込まざるを得ないものでした。ファーストの第2作「哀・戦士」編は、見所がたっぷりでしたけどねえ。ランバ・ラルのストーリーや、ミハルとカイの物語とか、ジャブローの戦闘というのがありましたし。今回のこの「恋人たち」には、そういう盛り上がるエピソードがない、というか、一応ニューホンコンでのカミーユとフォウの邂逅がそうなんでしょうけど、すっ飛ばしまくってて、余韻も何もあったもんじゃない。残念です。要するに、一つ一つのエピソードが大事にされていない、というのが全体的な印象です(期待していた分だけ、ちょっぴり辛口です)。ベン・ウッダーの特攻も必然性があるんだかないんだかよく判らなかったし。
僕は頑迷なファースト原理主義者ではありませんが、今回この作品を見て、ファーストの偉大さを改めて思い知らされ、思わず京都の夜空に向かって「ジーク・ジオン」と叫びたくなりました(嘘)。

あと、エウーゴも、ティターンズも、軍隊として、男女関係乱れすぎ。まあ、それが今回のメインテーマといえば言えるわけですがねえ。あなた達、こんな好き放題やってていいんですか、と僕が上官なら全員「修正」したくなります(笑)。

では、オタク的な感想も一くさり(まあ、僕なんてヌルヲタもいいところですが)。
まずは作画に関して。結構昔の作画って、頑張っていたんだなあ、というのが第一印象。恩田さん率いる新作画も、頑張ってはいるんですが、得意分野と不得意分野がはっきりしていたような気がします(得意分野だな、と思ったのはエマさん)。ベルトーチカやフォウの表情なんて、昔のフィルムの方が良かったシーンがいくつかありましたよ。特に、個人的な感想ですが、ベルトーチカは昔のフィルムの方が良かったなあ(Z屈指の美女なのに、見所が少なくて僕はかねがね残念に思っています。あの破綻した性格も結構気に入っているんですが・・・)。

で、声優陣に対してですが、まず色々噂が立った(真偽のほどは判りません、僕には)フォウ役のゆかなさんですが、まあいいんじゃないですか。声質が前にやっていた島津冴子さんと似ていると思いました。それほど違和感なし。ベルトーチカ役の川村万梨阿さんは、相変わらず良し。時々裏返る声がたまらん(笑)。サラ・ザビアロフ役に、女優の池脇千鶴さんが起用されているのですが、このあたりについては、時々このブログに書き込んでくださるo-tsukaさんの評を引用したいと思います。

問題はサラ。TV版の声優(水谷優子)は圧倒的に下手なのですが、逆に池脇千鶴の達者な演技が「神経質かつ無神経」という元のキャラクターに合わず、別人格になってしまいました。

いやあ、うまいこと言うなあ(笑)。思わず笑ってしまいました。あと、ハマーン様の榊原良子さん、迫力ありすぎ。毎週「ERⅨ」のエリザベス・コーディ役でお声を聞いてはいますが、今回はエリザベス先生の二倍ほどドスを利かせておいででした(当社比)。
シロッコ役の島田敏さん、昔よりも声が太くなった気がしますが、20年も経ちますもんね。仕方ないか。ヤザン役の大塚芳忠さん、相変わらず悪人の声がお似合いで(笑)。僕は島田さんと大塚さんの絡みというと、「機甲創世記モスピーダ」(タツノコプロ製作。僕は結構好きです)というアニメでのバトルを思い出します。島田さんは主人公(一応)のスティック役、大塚さんはラスボス的な敵のトップのバットラー役でしたから。ちょっとマニアックでしたね。済みません。

今回のこの「恋人たち」、映画としては正直あまり評価できませんが、ずっとニヤニヤしながら見ていたことも事実(特にカミーユ君がフォウやファといちゃいちゃしていますから、そのあたりでニヤニヤおっさんくさく笑っていました)。というわけで、来年3月の最終話への期待を高める序曲としては(まだ序曲かよ、というのはさておき)評価したいと思います。

追記:今回見ていて、「Zのヒロインたちって、ほとんどがツンデレなのでは」と思ってしまった僕って一体・・・。

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August 01, 2005

「Little Birds」再び

今日は、学生たちとジャーナリスト綿井健陽氏の「Little Birds」を、見に行きました。僕にとっては、二度目の鑑賞です(詳しい内容は、以前の僕のエントリをご覧ください)。

現在京都では東寺横の「みなみ会館」というミニシアターで、一日一回上映しているのですが(5日まで)、運の悪いことに、京都での公開期間が、僕の勤務校の試験期間とちょうど重なっておりまして、大っぴらに学生諸君に「試験勉強を投げ捨ててでも見に行きなさい」と薦められないのが残念です(本音としては、試験勉強を適当に終えて、2時間この映画に費やして欲しいところですが)。
ということで、今日つきあってくれたのは、試験が少ない3、4年生の諸君。現地集合にして、会場に着いたら、今日は「1日」ということで、金額が1000円ぽっきりでした。すっかり忘れていました。何となく得した気持ちになって、会場に入り、画面に見入りました。これは、何度でも見るべき映像だと、改めて確認。

ということで皆様、もう一度アナウンスさせていただきます。

お近くで「Little Birds」が上映されている、もしくは上映予定でしたら、万障お繰り合わせの上ご覧ください。

今日、改めて思ったのは、「戦争による死とは、犬死にに他ならないのだ」ということ。「大義」のため、「お国」のため、「家族」のため、そして「平和」のため。そんな言葉は全て大嘘だと思います。生きていれば、もっとその人は国にも、家族にも、そして平和にも役に立っていたはずです。戦争は何故いけないか。それは「戦死」とは、「犬死に」だからです(それ故、その「無意味」さに耐えられないから、顕彰施設が必要とされるのです)。僕は敢えて単純にそう思います。

追伸:綿井君のブログによると、彼は先週サマワを取材し、現在帰国の途についているようです。何はともあれ、無事で良かった。

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June 01, 2005

オタクの血が久々に萌え上がる-「Z GUNDAM-星を継ぐ者」感想

さて、今日はただいま公開中のアニメ機動戦士Zガンダム-星を継ぐ者年甲斐もなく見てきちゃいましたので、その感想をしたためたいと思います。

僕と一緒に見に行ってくれたのは、我が忠勇なるジオン軍兵士去年僕のゼミにいた大学院生のO君。彼も結構ガンダムマニアで、いい大人が独りで行くのも何だし、見終わったら絶対誰かに語りたくて仕方なくなることが目に見えていたので(オタクの習性で)、利害が一致し、一緒に行くことになりました。

僕は、テレビ版の「Z GUNDAM(以下Z)」が放映されていたとき、ちょうど中学生で、アニメ雑誌などを一番ちゃんと買って読んでいた時期とも重なるので、ついつい昨晩は、押し入れの奥に秘匿している今やなきアニメ雑誌『月刊OUT』のバックナンバーを読んで(1985年の9月号から11月号を主に)、「Z」の復習をしちゃいました、授業案の予習をさぼって。あのときから、すでに20年が経過していることを改めて思い知らされ、軽いめまいが起きました。

で、京都は新京極の「MOVIX 京都」に、空いているであろうといそいそと平日に出かけていったわけですが、確かに空いてはいたんですが、何ですかこの大人の群れは。君たち仕事や学校は?どう見ても平均年齢20歳超えているだろう。自分がその平均年齢を押し上げている側に立っていることなど棚に上げつつ、ついつい観客批判に走る狭量な僕です。
それに、この男比率の高さはただごとではない!!まあ、僕らも男の二人連れという組み合わせですが(男二人、という組み合わせがすごく目に付きました)、会場全体が、「そこそこ大人」で、「ファーストガンダムは台詞を暗記するほど見ていて」、「メカに萌える」という雰囲気なわけです。女性の観客も、全体の5%くらい(目算)いらっしゃいましたが、その半分は、なんか彼氏に無理矢理連れてこられた感じ、そして残りの半分は、まあ「筋金入り」の(以下自粛)。

で、ここから簡単な感想ですが、ネタバレがイヤな方は、以下を読まないようお願いします

僕の「ガンダム」シリーズ全体に対する政治的立場は、一言で言うと「ファーストガンダム(一年戦争)のキャラクターが出てくるものまでは許容」というものです。言ってみれば「穏健右派」というか「中道左派」というか、昔なら「新党さきがけ」的なスタンスというか、よけい判りづらいですね。失礼しました。ただ、いわゆる「ファーストガンダム原理主義者」ではありません。というわけで、もちろん「Z」は許容範囲なわけで、それどころか、幸か不幸か、さっき言ったように僕の思春期と重なっているので、忘れられない作品になっているので、これは見に行かざるを得ません。

で、まず「作画面」から感想を述べると、作画監督の恩田尚之さんのカラーが非常に濃厚で、ここでもしかしたら、好き嫌い(もしくは違和感)が起こる人がいるかも知れません。僕も、実は、「うーん、恩田さんかあ。悪くはないんだけど、北爪さんはハマーン・カーンの例の漫画のせいで無理ともかく、梅津泰臣さん(テレビシリーズのオープニングの原画をしていたアニメーター。梅津さんの描く骨太なクワトロとかが僕好み)を加えられなかったのかなあ」と、脳内で年寄りの繰り言をつぶやいてしまいました。でも、最後のテロップで、原画マンに土器手司さんの名前を見つけて感慨にふける僕でありました。

次にストーリーですが、今回の映画は、三部作の最初ということで、クライマックスはこれからですから、物語的にどうこう評価するものではないですね。でも、一言で言えば、ジェリドが悲惨。以上。でも、これだけですと何なので、主人公のカミーユ・ビダンについて。カミーユのキャラは、今思えば、当時(85年ごろ)最先端を行っていたような気がします。何故って、今見てもしっくり来たから、というより、今見た方が「こういう奴っているよな」「判るなあ、その気持ち」というように、20年前より感情移入しやすくなっている自分を発見して、インド人もびっくりです。

富野監督、相変わらずの荒技で、ストーリーをコンパクトに、テンポよくまとめる手腕はさすがでございました。でも、もしかしたら、僕などは「ファーストガンダム」、そして「イデオン(特に発動編)」の無茶なまとめ方に慣れているものだから、しっくり来ただけかも知れません。これは「富野マジック」と呼んでも良いかも。付け加えるなら、僕の場合、もちろん昨晩の復習が役に立ちました。でも、全く知らない人が見る映画ではないですよね・・・。当たり前かも知れませんが。

あと、声優陣について。ほぼ、20年前の声優さんたちが起用されていますが、所々別の声優さんが起用されています。でも、懐かしい声を聞くだけで、僕のようなオールドタイプファンは嬉しくなっちゃいますね。
三枝成章氏の音楽も懐かしいです。僕は、実はサントラ、レコードで全部持っています。まだ、実家の押し入れの中に(捨てられていなければ)残っているはず。

で、最後に次回作の「予告編」なわけですが、副題が「恋人たち(Lovers)」って・・・。「カミーユとフォウ」「アムロとベルトーチカ」という組み合わせを中心に据えると思いますが、一瞬チャン・ツィイーが頭の中で踊ってしまいました。そんで、その予告編では、フォウばかりが出ていました。ベルトーチカファン(こっちのBeltorchiccaも好きですが)の僕としては、「予告編に、もっとベルトーチカを出さんかい(川村万里阿の裏返った声を聞かさんかい)」という気持ちでいっぱいです。昔、ベルトーチカってキャラクターがよくわからなかったんですが、あれっておじさんから見れば、すごく(都合の)いい女かも知れないです。彼女が好きっていうのは、僕がおっさん化した証拠かも。

というわけで、要するに僕は、この作品、全部最後までおつきあいしますよ、と決心して帰ってきました。久々に、作画やら声優やらに目を向ける、オタクの血が騒いじゃいました。映画館でアニメって、「エヴァ」か「もののけ姫」以来だな・・・。

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May 21, 2005

「想像力」の回復-Little Birds感想

先日、このブログで宣伝したドキュメント映画『Little Birds』の特別先行上演会に行って参りましたので、その様子と映画の感想を書き留めておこうと思います。ドキュメント映画ですから、多少のネタバレは許してください(もちろん、白紙状態で見に行きたい方は、以下を読まないでください)。

会場は、大阪市福島区民ホール。大阪環状線の野田駅に下車。僕は、ここで降りるのは初めて。
どれくらい人が来るかな、と思っていたが、新聞にも掲載されたせいだろう、始まる五分前には用意された座席は満杯になっていた。

最初に、監督である綿井健陽さんの挨拶(以下、もと同級生の特権ということで、綿井君と呼ばせてもらいます)があり、綿井君は一言、
「つらい映像もあるかもしれませんが、見ておくべきものだと思います」
と端的に自分の映画の本質を語り、上映が始まった。
この映画は、綿井君が足かけ一年半ほどイラクで撮影した取材フィルムを元に構成されている。しかし、単なるニュース映像ではない。意図的に、テロップやBGM、ナレーションは排され、「生の雰囲気」をそのまま伝えてくれている(現在のテレビ映像は、たとえニュースであっても、いやニュースだからこそ、様々な「脚色」がなされていることに、この映画を見た人は気づくだろう)。

映像は、今から約二年前の(フセイン政権が倒されて、もう二年もの月日が経っているのだ!まずそのことを思い出して、驚く)、アメリカの対イラク戦争開始の二日前から始まる。もはや、アメリカとの戦いは、避けられないという見通しのもと、イラクの市井の人々の声を綿井君は拾う。その中の一人は「日本は良い国、日本人は良い連中だ。でもなぜアメリカと一緒なんだ?」と。また「日本は、アメリカに二つの爆弾を落とされた(当然、ヒロシマ・ナガサキのことだ)。その日本が今度はアメリカと一緒にやってくるのか?」日本への好意をもったいないくらい表現してくれるイラクの街の人々。しかし、その最後には「なぜアメリカと一緒に」という疑問文が付くのだ。このことは、数日後、開戦のあと、家を燃やされ、負傷したイラクの人に綿井君が実際に投げかけられた言葉に凝縮されている。

「ブッシュとおまえたちが!!」「アメリカとおまえたちが!!」

「おまえたち you」、そう、日本人はイラクに「侵攻する側」に入っているのだ。この「事実」を決して忘れてはならないし、もう一度、いや繰り返し我々は思い出す必要がある。
アメリカ軍は戦車で「凱旋軍」としてバグダッドに入城する。そのアメリカ兵に対して、人間の盾の一人だった女性は(パキスタン系イギリス人)、「何人子どもを殺したの?病院に行って、死にゆく人々を見に行け!!」と叫ぶ。アメリカ兵は、わざと「聞こえない」振りをしたり、だんまりを決め込んだり、高圧的に「向こうへ行け」というばかりだ。ビデオを回していた綿井君もたまらず駆け寄って「もうこれ以上、罪のない人を殺すのはやめてくれ」と叫ぶ。僕はこの綿井君の勇敢(無謀)すぎる行為を見て、冗談抜きで戦慄した。肩にライフルを引っかけているアメリカ兵に、そこまで言う綿井君を尊敬し、彼のこれまでの取材と、これからの取材は信じるに足るものだと確信した。友人のひいき目など無しで、同時代に綿井健陽というジャーナリストがいることを、本当に誇りに思う。シャイな綿井君は「褒められるのは苦手」と今日の舞台の上でもはにかんでいたが、君はそれに値する行動をしてきているのだ。ということで、もっと褒めることにします(笑)。

さて、この映画には主人公といえる人物がいる。アリ・サクバンという若い父親だ。彼は突然「天から降ってきた」爆弾で、一気に上から七歳、五歳、三歳の三人の子どもを亡くす。もちろん、子どもは何もしていない。だが、「厄災」なのではない。この災いをもたらしたのは、アメリカ軍の爆弾なのだ。
もう一人の主人公は、クラスター爆弾の破片を右目に受けた少女ハディールだ。綿井君のサイトで、眼帯をつけているかわいらしい少女が彼女だ(この映画のポスターのモデルも彼女)。彼女の右目は大がかりな手術が必要だが、それも困難だ。
綿井君が映しているアリ・サクバン氏の一家や、ハディールの一家を見ても、あまりの「普通さ」に却って愕然とする。子煩悩な父親、おしゃまでやんちゃな子どもたち。そのまま日本に移し替えたら、ホームドラマの題材にすらならないくらい平凡な風景だが、その風景の背後には「イラク戦争」が横たわっているのだ。この映画の白眉は、こういう家庭のシーンだと僕は思っている。その「平凡」の持つ重みと意味の彼我の差に唖然とし、「恥ずかしい」