April 26, 2008

『思想地図』vol.1発売!!

Shisochizu_001_2 こちらのブログはご無沙汰になってしまいましたが、今回は「営業モード」で書かせていただきます。
編者の東浩紀さんも、執筆者の増田聡さん高原基彰さんも既にブログでお書きですが、NHK出版から、思想雑誌『思想地図』の第1号が出ましたので、お知らせいたします(出版社の予定としては、もうちょっと先なのですが、もう色んなところで流通し始めているらしいので、フライング気味に宣伝いたします)。僕も縁あって、一本論文を書かせてもらいました。本は写真をご覧ください(amazonbk1)。

全体がオレンジの、非常に特徴のある本です。多分、書店で平積みされていたら、結構目立つと思います(人文系の新刊コーナーやNHKブックスの並びに置いてあると思います)。
僕は数日前、執筆者として見本をいただいたのですが、思った以上にボリュームがあり、実はまだ全部ちゃんと読み切れていないのですが、僕以外の執筆者の皆さん方は、非常に面白い論考をお書きになっていることは保証しますので、どうぞ本屋で見かけたら、この「オレンジ色の憎いヤツ」(このキャッチコピーを知っている人は、相当年を食っていることでしょう)をお手に取ってください(できればそのままレジに行って、1575円ほどを差し出してくださると、なお嬉しいです)。
では、この号の目次を以下に示します(副題やページ数は省略)。

・創刊に寄せて          東浩紀+北田暁大
・国家・暴力・ナショナリズム      東浩紀+萱野稔人+北田暁大+白井聡+中島岳志
・日本右翼再考     中島岳志
・日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯     高原基彰
・マンガのグローバリゼーション     伊藤剛
・データベース、パクリ、初音ミク     増田聡
・物語の見る夢     福嶋亮大
・中国における日本のサブカルチャーとジェンダー     呉咏梅
・日本論とナショナリズム     東浩紀+萱野稔人+北田暁大
・ブックガイド「日本論」     斎藤哲也
・「まつろわぬもの」としての宗教     川瀬貴也
・〈生への配慮〉が枯渇した社会     芹沢一也
・社会的関係と身体的コミュニケーション     韓東賢
・共和制は可能か?     白田秀彰
・死者への気づき     黒宮一太
・キャラクターが、見ている。     黒瀬陽平

執筆者の一人として言うのも何ですが、素材的にも硬軟が上手い具合に混じっていると思います(これは編集の東・北田両氏のお力によると思いますが)。
あと、特筆すべきは、表紙及び各チャプターの扉のイラストが、僕の尊敬する榎本俊二先生であること。榎本先生と一緒の本に載れただなんて、本当に嬉しいサプライズ。NHK出版編集のOさんも、このことは教えてくださってなかったから、驚きもひとしおです。思わずこの表紙を見た時、「ロールミー、ロールミー」と叫びそうになりました
あと、何と言っても、僕は恥ずかしながら、一般書店でも売っているような本に書かせていただくのって、実は初めてなんですよね(学術雑誌、報告書、学会誌、事典、出版社のPR誌とかにはこれまでも書いてきましたけど)。
もし拙稿のご感想などをコメント及びメールなどでいただければ、幸いです(友人のK池くんからは「やっぱり君のは、S薗(僕の指導教官)チックな論文だねえ」と苦笑されると思いますが・・・)。

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November 22, 2007

「何故人はそう考えるのだろうか」という問い

今日は、大学で僕のゼミ(討論形式の授業)を取っている学生さんに向けての、ちょっと抽象的な「お説教」です。

最近、ようやくゼミや基礎ゼミ(基礎講読)で「自分の意見」というか、とにかく「声」が上がってきたのはよい傾向だと思います。僕は気が弱くて、ゼミでシーンと沈黙が一分以上続こうものなら、ついついおしゃべりを始めてその間を埋めようとしてしまいがちなのですが(僕の雑学が最も活かされる瞬間でもあります)、この頃はそういうことをしなくても良くなってきて、僕としては、少し楽になってきました。
当然君たちが口にするのは「私の意見」なわけですが、ちょっと皆さん、「私の意見」を言うのと同時に考えて欲しいことがあります。それは「他人の意見」というか、自分とは違う見解を持った人への想像力です。
「私はこう思います」、もちろんこれは重要です。ここから全ては始まりますが、「私は何故こう思うのだろう」という自己省察、そして「何故他の人は私と同じように考える(もしくは考えない)のだろう」というところまでいって、ようやく「学問的」になるのです。「私はこう思う」だけでは、残念ながらダメなのです。

例えば、現在2年生の基礎ゼミでは、明治以降の「天皇制」の問題の簡便な本を今読んでいます。そしてコメントとして「私は天皇(制)には関心がありません」「皇位継承なんかよりももっと大事なことがいくらでもあるだろう」と言うのは簡単ですが(僕だって、そうは思っています)、「何故、ある人にとっては、天皇の跡継ぎ問題があたかも日本の死活問題のように語られるか」「何故天皇制は昔あれほどの力を振るったのか」というところまで考えて欲しいわけです。「私の感覚」をとりあえず一旦棚に上げて、自分とはある意味対立するような意見にはどんな論理が隠されているか、というのを考えることも大事なのです(論破するのはその後です)。

自分の意見を言うのは第一段階、他人の意見を聞くのは第二段階、そして、その場にいないような人の意見をも忖度し、その上で自分の意見を述べる第三段階まで行って欲しいと僕は思うのです(別に「弁証法」とか、そういう言葉は覚えなくても良いから)。
要するに、せっかくの発言ですから、一方的なものではなくて、双方向的なものを目指して欲しいってだけの話なんですけどね。

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March 31, 2007

「武士道」に悖る

今回の教科書検定において、沖縄戦における住民の「集団自決」について「軍が強制したとは必ずしも言えない」などと物言いが付き、修正させられた。修正された字句を見ると「追いつめられた」という表現は残っているが、住民を追いつめた「主語」から日本軍を外したりぼやかしたりしていることが判る。従軍慰安婦の次はとうとうここまで来たか、という思いをぬぐいきれない。でも「追いつめた」という言葉が残っているということは、さすがに検定側も、今流行の言葉を使えば、「広義の強制性はあった」とは認めているわけだ。

まずはっきりさせておきたいのは、無数の証言によって日本軍が沖縄住民に「いざという時には」と手榴弾を渡したり、軍が隠れるために洞窟から住民を追い払ったりしたということは否定しようがない事実ということだ。こんな事はこんな場末のブログで力説することでもない(以前、沖縄に関する本を読んだときも、この問題について語っていますが)。実際は軍による「狭義の強制性」もありまくりだったのだ。
最近ヘタレ気味で腹の立っていた朝日新聞の社説だが、今日(3月31日付)の社説は全面的に賛成。その通り。

このところ、日本の過去の「悪行」について、なるべく低めに査定したい勢力が力を持ちつつある。「新しい教科書をつくる会」、すなわち自由主義史観と名乗る人々もそのような傾向がある(色々内紛もあるようだが、最近の動向は知らぬ)。時には開き直って「自国の都合の悪いことを子供に教えないというのが普通。アメリカだって原住民の虐殺には触れていないし、韓国や中国も同様」などと言っていたのが思い出される。なるほど、確かにそうかも知れない。でも、僕みたいな単純な人間からすると「それって武士道に悖るんじゃないの?」と思う。他人が悪いことをしていても、自分は正しいことをするのだ。こういうやせ我慢を僕は「武士道」と呼んでいる。「向こうが自国の子供に都合の悪いことを教えない、という卑怯なことをしているなら、こっちはそうしない」ということにならないのか、と素朴に思う。

向こうがやるならこっちもやってやれ、という理屈は、確かに「相互的」ではあるが、自分を一切高めない論理である。「不均衡こそが倫理の源」と思う僕は、そういう相互性には与しない。

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August 09, 2006

祀られない自由

今日はある市民団体の集会に参加してきました。それは「アジアと靖国神社」と題された集会で、父親が靖国神社にいつの間にか勝手に祀られていることに気付いた韓国人女性李熙子(イ・ヒジャ)さんの「靖国神社合祀取り下げ訴訟」を中心に、韓国・台湾人軍人及び軍属の合祀問題を考えるというもので、僕も短い時間でしたが、朝鮮の植民地支配についての話をしました。
僕が一応植民地期朝鮮の専門家で、且つ靖国問題などにも多少は詳しいということで(大昔、卒論で政教分離裁判について少し調べたことがあります)、白羽の矢が立ったのだと思います。まずは以下に、僕が当日配ったレジュメを転載します。

「朝鮮植民地支配と靖国神社」
川瀬貴也(京都府立大学文学部)

1.植民地期朝鮮における「動員」及び「徴兵」
・総動員体制(戦時期)
国民徴用令施行(1939年)→強制連行問題
「内鮮一体」から「皇民化」へ (ex.)創氏改名開始(1940年)
・志願兵制度
1942年5月閣議決定、1944年実施。しかし本当に「志願」だったのか?(総督府の強制)
「差別からの脱出」というモチベーション(過剰な「日本人化」への志向)

2.植民地朝鮮における宗教
・「寺刹令(1911年)」「布教規則(1915年)」「神社寺院規則(1915年)」
・「内地」延長主義(神社政策)
朝鮮神宮(1925年創建)を頂点とする朝鮮神社界
「神社規則(1936年)」←「神社非宗教論」の徹底
・日本諸宗教の布教(仏教・キリスト教・新宗教)

3.「仕方がなかった」史観を超えて
・「植民地近代化論modernization in colony」と「植民地近代論colonial modernity」
・「慰霊」と「顕彰」
・「戦前」と「戦後」を結ぶ暴力への批判

【参考文献】
宮田節子『朝鮮民衆と「皇民化」政策』未来社、1985年。
宮田節子・金英達・梁泰昊『創氏改名』明石書店、1992年。
姜徳相『朝鮮人学徒出陣―もう一つのわだつみのこえ』岩波書店、1997年。
山田昭次・古庄正・樋口雄一『朝鮮人労働動員』岩波書店、2005年。
姜誠ほか『『マンガ嫌韓流』ここがデタラメ』コモンズ、2006年。
小笠原省三『海外神社史(上)』ゆまに書房、2004(1953)年。
辻子実『侵略神社―靖国思想を考えるために』新幹社、2003年。
菅浩二『日本統治下の海外神社―朝鮮神宮・台湾神社と祭神』弘文堂、2004年。
三土修平『靖国問題の原点』日本評論社、2005年。
板垣竜太「〈植民地近代〉をめぐって」、『歴史評論』654号、2004年10月号。
並木真人「植民地期朝鮮における「公共性」の検討」、三谷博編『東アジアの公論形成』東京大学出版会、2004年。
宮嶋博史他編『植民地近代の視座』岩波書店、2004年。
尹海東(藤井たけし訳)「植民地認識の「グレーゾーン」―日帝下の公共性と規律権力」、『現代思想』2002年5月号。


上記の走り書きのようなレジュメでは判りにくいかも知れませんが、簡単にまとめると、「植民地期朝鮮における総動員体制の実態」、「植民地期朝鮮における宗教政策(及び「国家神道システム」「神社非宗教論」という仕組み)」、そして現在の我々がどのような評価基準で過去を再検討すべきか、という大きく分けて三つの話題をお話ししたつもりです。

僕の後には、靖国裁判の訴訟に取り組んでいる菱木政晴先生から、今後の取り組みについてのお話がなされ(肉親を靖国に祀られたくない人々が集まる「靖国合祀イヤです訴訟」というものを立ち上げようとされています)、韓国の元日本軍人・軍属の裁判を支援して来られた古川雅基さんからもメッセージが述べられました。

まず僕のスタンスを簡単に述べておくと、僕は靖国神社に対する私人としての信仰、個人的な信仰はまったく否定しません。「あそこに戦友が眠っている」「靖国には父が、兄が祀られているのだ」というような感情は否定しようがないからです。しかし、靖国神社側が主張するような、いわば「公共宗教」としてのあり方にはまったく賛同できません。ですから、その流れで、あたかも靖国神社を一種の「公共宗教」と見なして政治家が参拝するのも、賛成できません。靖国の合祀基準については、昔から色々言われていますが、僕は端的にいって、「祀られない自由」を損ねているのが、靖国の最大の問題点だと思っています。「祀られたい人」及び「祀りたい人」だけが集うのが本来の「宗教」の基本的なあり方でしょうが、靖国自身が、一宗教法人でありながら、そのような「宗教」っぽいあり方は不満であるとの意思表示を続けているのですから、議論は平行線となってしまうのです。

さて、実は今回の集まりでも、89歳になられる方(この方は元海軍兵で、約300人いた仲間のほとんどが死んで、捕虜になって生き残った生還者の方です)から、
「死んだら靖国で会おう、というのはやはり合い言葉だった。だから私は、戦友のために靖国に赴く。私は現在の靖国神社のあり方にも賛同しないし、A級戦犯たちには頭を下げないが」
との発言があり、その言葉や思いというのは、非常に胸に迫ったのです。僕はこのような個人の靖国への思いを、もっと靖国側も汲み上げる努力をするべきだと思います。ある形式、ある思想を持たない限り寄せ付けないような態度を執りつつ「全国民的」であることはもはや不可能と思うからです(個人的には遊就館に代表されるような靖国の歴史観そのものが間違っていると思っていますが、それはさておき)。

戦争が終わって60年以上が経過しましたが、我々はまだ多くの「負債」を継承しているのだなあ、との思いを、今回の集まりで新たにしました。
好きなものだけ継承するわけにはいきません。負債も借金も相続しなければならないのです。つらいことですが。

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June 03, 2006

洛北史学会にて

本日は、「洛北史学会」という学会で、コメンテーターを務めました。この学会は、僕の勤務校の史学科の先生方が設立した学会で、同僚ということで、僕にも声をかけてくださったのでした。今回の大会テーマはずばり「宗教」。というわけで、一応宗教学者の僕にコメンテーターの白羽の矢が立ったのでした。
大会の内容は以下の通りでした。

【テーマ】     「信仰」の「力」-その可能性をめぐって
【日程】    2006年6月3日(土)
【報告者と題目】
内田鉄平氏(専修大学社会知性開発研究センター任期制助手)
「信仰から見る庶民の旅行」
守川知子氏(北海道大学、イラン・イスラム史)
「聖なるものを求めて
-シーア派イスラームの聖地巡礼-」
橋川裕之氏(日本学術振興会、中世ビザンツ史)
「魂を穢す平和-ビザンツの信仰とリヨン教会合同-」

【コメンテーター】川瀬貴也氏(京都府立大学、日本・朝鮮近代宗教史)

宗教学というのは、昔からよく「ゲリラ」と言われ(というか、主張していました)、他分野の成果を借りて、あちこちに滑り込むことを元々得意技にしておりますが、時代も地域も違う今回の諸発表に、とりあえずコメントをつけられるのは宗教学者でしょう、と今回の大会の企画委員におだてられ、のこのこコメンテーターをお引き受けして、結果死亡しました(笑)。
確かに、宗教学科に在学中の時は、まさに時空を超えて「とにかく宗教の研究ならば、なんでもいい」というアナーキーな環境で揉まれてきたという自負がありますが、今回は、いきなり三つ、それもよく知らない固有名詞がバンバン飛び交う濃い発表を立て続けに拝聴して、後は自分の憑依体質を信じて、口から出任せのコメントでその場を凌ぎました(お筆先状態ならぬ、お口先状態と自分では言っています)。今回のご発表は、「巡礼」「正統と異端」というテーマが交錯していたので、そこを足がかりに、古典的な人類学者の説を援用して、コメントしました。
コメントでも言ったのですが、いわゆる歴史学系の学会で、これだけ様々な地域の発表を一度に聞くということは珍しいです。時代区分、地域区分が厳密になりがちな業界ですから。僕みたいな、もともと様々な事例から共通性を見つけたがる志向性を持つ宗教学者にとっては、ある意味居心地の良い学会でした。次回以降もこういう形態になるかは判りませんが、とりあえず役目は果たしてホッと一安心です。
発表者の先生方、そしてお誘いくださった先生方、ありがとうございました。

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May 20, 2006

「韓流」は何をもたらしたか?

5月20日に大阪市立大学で行われた国際高麗学会のシンポジウムに参加してきました。僕はこの学会、参加するのは初めてでした。
シンポのテーマは「どうなる日韓関係:韓流と嫌韓流、二つの潮流を読む」というもの。パネラーとして、以前からの知り合いの先生方が参加していたので、そのお顔を拝見しに行ったのでした。

シンポジウム「どうなる日韓関係:韓流と嫌韓流、二つの潮流を読む」
コーディネーター 朴 一(大阪市立大学)
第1報告 姜誠(ノンフィクションライター)
第2報告 綛谷智雄(第一福祉大学)
コメンテーター:藤永壯(大阪産業大学)、高吉美(兵庫部落解放人権研究所)

コメンテーターを務められた藤永先生とはもともとの知り合い(僕から見れば、朝鮮近代史研究のの先達です)、綛谷先生とは、ネット上でやりとりをしていたのですが、実際にお会いするのは初めてでした。実は、このシンポは、『まじめな反論 『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ』(コモンズ)という本の出版に合わせたもので、パネラー、コメンテーターの先生方は、この本の執筆者でした。
シンポジウムでは、様々な問題提起がなされましたが、印象深かったのは、以下に挙げる点でした(以下のまとめの文責は僕に帰します)。

Antikenkan まず、姜誠さんの発表とコメントですが、「嫌韓」は、様々な要因が組み合わさっているとの指摘が印象的でした。まず、「嫌韓」と対をなす「韓流」ブームですが、その担い手となった「冬ソナ」支持者の実年女性に対するバッシングというのも、ちょっと前の男性向け雑誌には顕著だったそうです。これなど、racismとsexismの組み合わせといえるでしょう(この話を聞いて、僕は大袈裟かも知れませんが、例えば金子文子や、「日本人妻」の問題を思い出しました)。「嫌韓」の発露は韓国と日本の外交問題(戦後補償問題、靖国問題、従軍慰安婦問題など)や、北朝鮮の拉致問題などが勿論引き金になっていますが、国内的な要因も大きいのでは、という指摘もありました。よく言われることですが、「勝ち組」「負け組」という残忍な二分法で人々を分ける発想など、新自由主義的な社会でのストレスを、叩きやすい「敵」を見つけて晴らす、という一つの運動が「嫌韓流」ではないか、ということです。そして、国外を見ると、911テロやイラク侵攻などへのアメリカの対応を見て、「力が全て」「対話は不可能」という一種のシニシズムが蔓延し、それも「嫌韓」の流れに棹さしているのではないか、という指摘は興味深いものでした。このシニシズムは「営業右翼」と呼ばれる「強い言説(実際きつい調子での論説を載せると、雑誌は売れるそうです)」への傾斜を促していると、僕も思います。
綛谷さんは、「嫌韓」というのは急に湧きあがったものではなく、戦後日本にずっと伏流していた「本音」が形をかえて現れたものではないか、と指摘していました。簡単に言えば「戦前の日本はそれほど悪くなかった」「植民地では良いこともした」というような「本音」です。これは別に新しい考えでもなんでもなく、戦後から一貫して、ある層が保持してきた考えだと僕も思います。そして、良く「嫌韓」的な人が指摘するように、いわゆる「反日」的な作品(小説・ドラマ・マンガ)が韓国で製作されているのは残念ながら事実ですが、それには「反省しない日本」という像(イメージ)が反映しているのではないか、とも指摘されていました。そして、これまた重要なのですが、そのような「頭でっかちのイメージ」で造られた日本像はおかしい、といっている「知日派」の知識人も、韓国にはどんどん出てきているのです。要するに、向こうを一枚岩と捉えて十把一絡げに批判しても、意味がないということです。
あと、司会者を務めていた朴一先生がおっしゃっていたのですが、「韓流」は在日コリアンの上を素通りしていったが、「嫌韓」には巻き込まれてしまったという感が強い、とのコメントも、僕には印象深かったです。確かに、「韓流」は韓国への興味を増大させた(特に今まで韓国に無関心か、漠然と悪感情を持っていた層の興味をかき立てた)という功績は否定できませんが、それが自分の「隣人」たる在日コリアンへの興味などへ向かったか、といえば、やはり疑問とせざるを得ません。でも、「近所づきあい」のレベルでは確実に前進した面も存在することも指摘されましたし、「韓流」のドラマを輸入するときにその「仲立ち」をしたのは在日コリアンの人々でもありました。そういう「プラス」の面も評価するべきだとの声もあり、これにも僕は大きく頷きました。「嫌韓流」という潮流も、無視できないとは思いますが、実際は「韓流」もしくは「知韓」「好韓」(裏返せば韓国側の「知日」「好日」)の傾向が着実に根を張っているのだから、そちらに希望を託したいとのまとめで、今回のシンポは幕を閉じました。

さて、休憩時間や懇親会で、色んな先生と雑談したのですが、実際若い世代は、果たしてどれだけ『マンガ嫌韓流』を読んだり知ったりしているのか、という話題で、ある先生曰く「僕の教えている1年生では、98%は知らなかった」とのこと。僕も、大体そんなものかな、という気がします。ただ、ネットにどっぷり浸かっている層では、その比率が上がるかも、という気はします。ネット上は、自分と意見を同じくする(もしくは敵対する)言説を一気にまとめ読みできるメディアですからね(mixiのレビューでも、噴飯もののがたくさんありました)。
あと、ちょっと気になる傾向として、けっこう「勉強熱心」な学生が、「歴史の真実」というようなあおり文句に惹かれて、『マンガ嫌韓流』のような本を読むのではないか、という指摘がありました(でも「勉強熱心」と言ったって、あのマンガとかを読んで「目が開いた」と言っているレベルですから「もうちょっとお勉強してきてね」としか言えないのですが)。僕自身は、まともに僕に例の本のような意見をぶつけてくる学生には(幸い)当たったことがないのですが、民主党前代表の前原さんの選挙事務所でバイトしていた学生が僕に「(民主党右派的な)改憲論」をぶってきたのには微苦笑させられた、という経験はあります。ともかく、「嫌韓」的な物言いをする学生に「とにかくこれを読んでご覧。読んでから韓国のことを語ってご覧」と手渡せる本が出版されたことは嬉しいことです。
この本がネットにうごめく嫌韓厨の「心」に届くとは、残念ながら考えにくいですが(でも、100人中数名は「転向」してくれないかな、と期待していますが)、この本の執筆者は「俺がやらねば誰がやる」との義侠心で執筆なさったと思います。僕ももちろん、その心意気を支持します。

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February 15, 2006

とんぼ返りの沖縄出張

okinawa_archives 昨日と今日、一泊二日の日程で沖縄那覇に行って参りました。こんな強行日程は僕の本意ではもちろんないんですが、「大人の都合」です。
実は、僕も「研究分担者」として関わっている科研(「科研」っていうのは文部科学省及び日本学術振興会が「君たちの研究にお金を出してあげる」といってくれる研究のことです)がありまして、その見学旅行だったのです。見学先は沖縄県公文書館沖縄県立図書館です。僕の関わっている科研は、京都府立総合資料館が所蔵する京都府近代行政文書(重文指定)の調査がメインテーマなのですが、他県の行政文書の保存状態や管理なども参考にするということで、いろいろなところを見学に行っているのです。

朝早くに伊丹空港に集合して、科研のメンバーとご一緒に一路那覇に向かいました。実は僕、沖縄は二回目です。でも、一回目というのが実は修学旅行だったんですね・・・(もう17年も前)。ですから、今回が初めてといっても良いくらいです。実際、僕は韓国には行き馴れているのですが、沖縄の那覇空港に降りたって、南国の暖かい空気を吸ったときの方が、よっぽど「異国感」がありました。この季節、沖縄は暑くもなく、もちろん寒くもなく、本当に良い季候なんですよ。来た途端「帰りたくない」と思いました。ほんと、仕事抜きじゃないのが辛かったですね。
訪ねていった沖縄県公文書館は、首里城と同じような朱瓦が目立つ面白い形の建築物でした。この公文書館の最大の特徴は、沖縄戦のために戦前の行政文書が徹底的に消失、散逸していることです(琉球王国のものは多少残っているようですが)。今更ながら、沖縄戦の凄まじさを感じます。ですから、資料としては米国占領下の琉球政府文書から保存されています。非常に綺麗な建物で、感動したのですが、やはり沖縄は亜熱帯、日差し、湿気、潮風、虫害と、資料を保存するのは一苦労というお話も伺いました。
okinawan_music 初日はここの見学だけで、夜は公文書館の皆さんとの会食。その後は、ミーハーに観光客らしく、国際通りを練り歩き、おみやげ屋さんを冷やかしたりしつつ、二次会に突入。科研のメンバーであるI先生(沖縄通)に、「沖縄民謡をライブで見せてくれるお店があるから行こう」と誘われ、もちろん参加しました。僕たちは「大人」ですから、大人しく泡盛を飲んでいたのですが(一杯だけ滋養強壮に効くといわれる「ハブ酒」を飲みました。味はすっきりしていました。驚き)、僕たちの隣の、恐らく大学生あたりのグループが合いの手を入れたり騒いだりと非常にノリが良く(地元の子たちかと思ったら、後で聞いたら、サッポロの学生たちで驚きました)、このライブの最後には、いつの間にやら、我々いい大人も踊ってしまいました。okinawan_danceでも、 こういう「狂乱状態」のときにも、冷静に第三者の視線を確保してしまうのは、哀しい宗教学者の性です(嘘)。実は写真撮りながら、僕も踊っていたんですけどね。だって、参与観察、というのも宗教学者の性ですから。
明日もあるし、ということで、このお店でこの夜は締めて、宿に帰り大浴場で一汗流して、岡崎朋美選手(同い年なので応援しています)の走りを見ながらいつの間にか寝ちゃいました。

okinawa_lib 二日目は、午前中は沖縄県立図書館にお邪魔して、同じく資料の保存、修復、複製、所蔵されている資料の特質などをお伺いしました。さすがに沖縄に関する資料や本の多さには驚きました。今友人で、「琉球空手(唐手)」とかの研究に手を染めようとしているのがいるんですが、彼なんか、ここで資料見せてもらったら良いんじゃないかな、と思いました。
一応、予定の日程はここで終了。

060214okinawa_026 午後は短い時間ですが自由行動、ということで、沖縄初体験のメンバーと一緒に首里城とその隣の県立博物館を巡りました。修学旅行生(17年前の僕を見ているようでいやでした)で一杯でしたね・・・。
その後、短い時間ですが、沖縄を研究フィールドにしているメンバーのS君に古本屋に連れて行ってもらって、沖縄宗教に関するレアな本を数冊手に入れて、今回の旅行は終わりました。
今回は出張という形で行ったわけですが、「お仕事」の割には疲れを感じませんでした。これは恐らく沖縄の空気(もしくはハブ酒)のせいだと思います。空港について、空気を吸い込んだだけで顔がほころびましたもん、僕。完全にリゾートで行ったならば・・・と想像はふくらみます。今度は是非そういう旅行でやって来たいです。

追記:沖縄県公文書館の広報冊子に、敗戦直前の沖縄県知事島田叡(あきら)氏のそばにいた方のインタビューが載っていました。現在御年88歳。その方も島田知事を大変褒めていたので、帰宅後、中野好夫の「最後の沖縄県知事」(『中野好夫集』Ⅷ、筑摩書房、1985年に所収)を再読。うーん、また感動してしまった。

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November 26, 2005

マイケル・パイ先生の講演会

この週末は京都のいくつかの大学で、学園祭が繰り広げられたりしていて、にぎやか。僕の勤務校も、今どんちゃん騒ぎの最中だ。何でも京大では「唯一神又吉某」氏まで呼んで大騒ぎだとか。

そのような喧噪を遠く離れて、今日はアカデミックな講演会に出席した。
今日僕が聞きに行ったのは、ドイツのマールブルク大学名誉教授で、国際宗教学・宗教史会議(IAHR)の前会長だったマイケル・パイ(Michael Pye)先生の講演。要するに、僕にとっては「雲の上」の方だ(3月の東京でのIAHRで遠目に拝見した)。パイ先生は現在大谷大学の客員教授として日本にお住まいで、京都のNCC宗教研究所が今回講師としてお呼びしたのだ。僕の大学にその案内が送られてきたので、いそいそと参加。卒論で日本のキリスト教を調査する教え子Oさんも参加してくれた。

今日の先生の講演のタイトルは「宗教対話と宗教教育-宗教学から考える-」というもの。パイ先生は日本宗教研究の大家でいらっしゃるので(江戸時代の思想家富永仲基研究や大乗仏教研究が有名)、幸いご講演は全て日本語。でなければ、僕みたいに英語が苦手な人間が出席できるわけがない(笑)。でも、参加者は思いの外少なく(十数名)、その上参加者は外人の先生が過半数で、そんな中、日本語で講演してもらうのに少し恐縮してしまった。まあ、皆さん日本研究をなさっている方ばかりで、物凄く流暢な方ばかりだったが。

以下、僕なりに今回の先生の講演内容を要約してみる(以下の内容については、一切が僕の文責です)。

まず結論から言うと、先生の今回のお話の中心課題は「宗教学(もしくは宗教学者)」が果たすことのできる役割とは何か、ということだった。複数の宗教が対話する現場で、または教育の現場で宗教学は何ができるのか、という非常にプラクティカルな問題提起だった。先生は「このような現場に関わることが宗教学の責務」と言った、と思う。
例えば最初の「宗教対話」について話すと、この世界が「複数の宗教」で成り立っているのはもはや動かしがたい事実であり、その対話が今後ますます重要になるのは言うまでもない。偉大な宗教哲学者マルティン・ブーバーのように「我」と「汝」という二者間で話し合いをしたいところだが、残念ながらこのような二者間の対話は物別れに終わることが多い。それは歴史の示すところでもあろう。ではどうすればいいか。それは、両方の橋渡しをすることのできる(要するに、第三者的な立場から両方の言葉を「通訳」する)宗教学(者)の役割が期待されなくてはならない。つまり「媒介」としての宗教学(者)だ。

そして、その宗教対話と並んで、この世俗世界で宗教学(者)が果たす役割の一つが、教育現場における「宗教教育」であろう。他宗教を知る、というのは「他者理解(流行の言葉で言えば異文化理解)」の不可欠な要素であろうし、他国、他文化の宗教伝統を知らないでは済ませられない時代なのも明白である。しかし、日本の場合を考えると、憲法や教育基本法の縛りもさることながら、宗教についての知識も十分に与えられていない(高校までの歴史や地理、倫理の教科書の内容は、仕方ないこととはいえ、内容は薄く他文化理解にはほど遠い)。これからは、高校以下の公教育で、もっと厚みのある「宗教教育(できれば抽象的ではなく、具体的な事例中心の)」を模索しなければならないのではないか、というのがパイ先生の問題提起であった。

先生の話で面白かったのは、civil religion、すなわち「市民宗教」が、教育の現場で実は「隠れた宗教教育カリキュラム」を構成しているのではないか、という指摘だった。「市民宗教」とは、社会学の用語で、明確な輪郭を持った教団宗教とは違い、いわば「常識」という言葉でカヴァーされるような、その社会の価値体系を構成しているもの、といってよいと思うが(間違いや補足があればご指摘ください)、例えば日本の場合では「私は無宗教です」と言いながら初詣や墓参りは欠かさなかったりするのも、一種の「市民宗教」と言ってよいだろう。パイ先生の指摘では「国宝」や「重要文化財」というのも、「必ず尊重しなければならない」という気持ちを引き起こす価値体系の具現化、ということになる。であるから、国宝や重要文化財を教える歴史教育や美術教育も、「市民宗教」を内面化させる「隠されたカリキュラム」の一つと見なせるであろう。最近では、例えば石原千秋氏などによって、国語教育のイデオロギー性についての指摘もされている(石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書、2005)。確かに国語教科書などは「どのような物語を生徒に読ませたいか」という作成者側からの欲望がそのまま反映される科目である。ある意味、歴史教育より露骨な「道徳教育」である。繰り返しになるが、そのようなものとは離れた「宗教(知識)教育」の一層の充実、というのがパイ先生の提案だったと思う(ついでに言えば、このような宗教に関する知識の厚みが、悲惨なカルト事件などの「ワクチン」にならないだろうか、という話もあったと記憶している)。

先生の講演の後、質問時間となったのだが、数少ない日本人(しかも宗教学者)として、いくつかコメントを申し上げた。「宗教教育」については科研の研究会に何度が参加して、多少の知識はあるつもりなので。
1)まず、大学などの高等教育では、「他文化理解」の一環としての「宗教学」というのは模索しやすいが、高校以下の教育現場では、まだまだ課題が山積みであること。しかし、「宗教情報教育(この言葉は國學院大學の井上順孝先生から借用した)」の充実の必要性については、日本の宗教学界も充分認識していると思う。
2)パイ先生はイギリスやスウェーデンの宗教教育を一種の模範例としてあげられた。確かに北ヨーロッパの宗教教育は見聞きする限り、先進的であると思う。しかし、イギリス型の宗教教育が日本に根付きそうな気がしない。というのも、日本はまだイギリスのような移民社会ではなく、移民社会ゆえの宗教教育の必要性、という事態にはまだなっていないからだ(ついでに言うと、いわゆるCultural Studiesがいまいち日本でしっかりしたものにならないのも、同根だと僕は思う)。もちろん宗教的マイノリティの存在に気付かせるような教育は、日本でも必要であるけど。
3)宗教教育と政治の問題で言えば、保守的な政治家は、青少年の「心」の問題の解決策としての「宗教情操教育」には過剰な期待を寄せるが、宗教学者が主張するような「宗教情報教育」の充実には、緊急性がないとして顧みられない傾向がある。
大体上記のようなことを述べた。

今日は参加者が少なかったおかげで、講演が終わった後、パイ先生をはじめ色んな方から名刺をいただく。僕はまさか先生と直接話すようなことはなかろうと(100人くらいの講演かな、と思っていたので)名刺をろくに用意しておらず、パイ先生に手書きの名刺をお渡しするという失態。パイ先生の気さくなお人柄にも触れることができ、非常に充実した休日となった。

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September 02, 2005

「飽きさせない」言い方を模索する

先日、某高校が「ひめゆり学徒の体験談は退屈」、という意味を盛り込んだ英文を入試問題にして、問題化したことがあった。今朝の朝日新聞に、その後日談が書かれた記事が載っていた。それに触発されたことをメモしておきたい。

確かに、「戦争体験談」を退屈、といってしまうことは、倫理的にも良くないように思われる。折角語ってくださっている方に、失礼であるのは間違いなかろう。しかし、その「決まり切った口調」に退屈を感じてしまうことはないだろうか。内容には関係なく、その「話形」がこの場合重要になる。「はじめ」を聞けば、最後まで聞かなくとも、その結論が分かってしまうような話。落としどころが、既に決定されているような語り。そのような話は、端的に「飽きられて」しまう(残念だけれども)。話の内容が正しければ正しいほど、もしかしたら「飽きられる」スピードも速いのかもしれない。

例えば、内田樹先生は、上記のような意味で「フェミニズム(の話形)は、その歴史的役目を終えた」とおっしゃっている。僕は、この内田先生の意見にそのまま同意することはできないが(まだ、ファミニズムの話形を「飽きる」資格は、僕らにはないと思っているので)、学問において、フェミニズム以外にも、昨今の例えば「ポストコロニアル」や「カルチュラル・スタディーズ」は、その一端を担っているつもりの僕から言うのも何だが、例外を除き、ほとんど「落としどころ」が判る話形になっているのは、否めない事実だと思う。つまり、自動化された「同じ話」をしてしまっているのだ。

生の声ならば、思わず体験を思い出して、声を詰まらせて嗚咽してしまう、なんていう「現場」を目の当たりにして、思いがけない感動をするということもあろうが、文字となってしまったものは、型にはまってしまい、勢い「飽きられてしまう」確率が高い。

だからこそ、自戒を込めていうが(そう、これは告発ではなく、自戒である)、僕たちは様々な話形を模索せねばならない。それは、僕たちの声を聞いてもらう努力であると同時に、少しでも共通項がありそうな人を巻き込む、という戦略的な意味もある。白か黒か、ではなく、灰色、しかも濃淡の違う灰色を様々に提示して、様々な人とつながる「回路」を確保していく努力を、惜しんではならないと思う。「平和」「フェミニズム」「ポストコロニアル」「カルチュラル・スタディーズ」「(アンチ)グローバリゼーション」etc.にまつわる複数の「話形」・・・。
昨今、ネット上に広がる「リベラル派批判」は、その内容のほとんどは僕には論評にも値しない噴飯ものに見えるが、そのようなシニカルな人々(彼らは「決まり文句」に飽き飽きしている人たちだろう)のメンタリティについては、どうしても考えざるを得ない。彼らに届く(もしくは、彼らを「ギャフン」といわせる)「ことば」は、一体どのようなものなのか。

同じような話を、様々に言い換えつつ、その幅を広げていくこと。これはある意味、僕にとっての「一生」の宿題となるだろう。

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August 23, 2005

水雲教見学

フォーラムの二日目は、午前中に、それぞれの部会での議論を司会者が全員に紹介し、総合討論。第三部会は、何故か若輩者の僕が諸先生方をさしおいて昨日行われた議論をまとめて紹介する羽目に(若輩者だから押しつけられた、という意見はさておき)。

2005nikkan_049昼食後、バスに乗って、大田(テジョン)の郊外にある鶏龍山(ケリョンサン)という聖地に向かう。ここは何故か韓国新宗教の本部が集まる「メッカ」で(って変な表現だな)、その理由は風水とかから説明されたりもしますが、実際のところ、よくわかりません。日本でも、富士山の周りに新宗教の施設が多いことも連想されます(オウム真理教だって、実はそうでした・・・)。
今回は、その中でも「水雲教」という教団を見学させていただく。

2005nikkan_056これは、東学の流れをくむ新宗教で(そもそも「水雲」とは、東学教祖の崔済愚の号)、僕も名前だけは聞いていたが、実際見るのは初めて。この教団の名前は、植民地時代の資料である『朝鮮の類似宗教』(村山智順著、朝鮮総督府、1935)という報告書にも見えるが、後に、真宗大谷派に半強制的に吸収合併された。

2005nikkan_058現在の教団は、その流れを汲みつつ、話によると最近また大きくなりつつあるそうで、手元にある『韓国新宗教実態調査報告書』(円光大学校宗教問題研究所編、1997)によれば、信徒数はおよそ6万人ほどなのだそう。この教団の教祖は李象龍(1822-1938)という人物で、教団では「水雲天師」と呼ばれている。先述の通り、「水雲」とは東学教祖の号であり、彼はその一種の「生まれ変わり」というか、魂の継承者として位置づけられているようだ(いわゆる「ダライ・ラマ方式」ですね←今、勝手に名付けた)。

2005nikkan_077今回は特別に、朝夕行う儀礼を見せていただく。いただいた儀礼の説明書(今回の学会テーマが「宗教と儀礼」なので、韓国側運営委員が、儀礼を重視するこの教団を見学先に選んでくれたのだ)を書き写すと、以下の通りである。
1 開式宣言・打鐘、2 明燭焚香、3 礼参奉告、4 呪文奉頌、5 祝願文告由、6 神衆壇礼、7 四方拝礼、8 説教、9 互相拝礼、10 閉式
呪文は、著しく仏教色が強い(4番目の呪文は、東学の当初からある本呪文だが、その他はほとんどが仏教っぽい呪文)。東学も「儒・仏・道」の三教を統一した教え、と自らを規定していたが、この水雲教は、その中でも特に仏教色を前面に押し出して、他の教団との違いを押し出そうとしたのだろうか・・・。そして、この儀式の後は、この教団の「パラチュム」という踊りを見せていただく(「パラ」とは小さな銅鑼のこと。「チュム」とは踊りという意味)。 

2005nikkan_093他の堂内を見せていただくと、中には「釈迦」「孔子」「老師」「檀君(朝鮮の始祖神)」「教祖」が祀られている。そして、写真にあるような立派な仏は、実は植民地時代に東本願寺から送られ、今まで大事に保管されているものだそうだ。東本願寺は、数年前まで、植民地時代に奪ったこの教団の石塔を倉庫にしまっており、ようやく数年前にそれを返還、正式に謝罪し、仏像を保管していた教団本部に代表団が訪れたそうだ。いやはや。
天気も良く、暖かく迎え入れてくださった教団に感謝。

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August 22, 2005

日韓宗教研究フォーラム参加

hanshin_univさて、このたび、「第三回日韓宗教研究フォーラム」という学会に参加してきました。これはその名の通り、日本と韓国の宗教研究者の有志が集う催しで、隔年で2001年から行っており、今回が三回目となります(一回目の会場は韓国学中央研究院、二回目の会場は大谷大学)。実は、この集まりの原型となるシンポジウムが、1993年から六年連続で行われてきており(6回に及ぶこのシンポジウムの成果は、柳炳徳・安丸良夫・鄭鎮弘・島薗進編『宗教から東アジアの近代を問う-日韓の対話を通して』ぺりかん社、2002年、にまとめられました)、この集まりはそれを継承するものです。僕は、その前身のシンポジウムの第二回目から関わっており(あのときは、まだ修士でした・・・)、現在は日本側運営委員の末席におりますので、参加してきたわけです。
今回の会場は、ソウル郊外(といっても結構遠いけど)にあるHanshin大学校。別に、関西人が好きなチームとはなんのゆかりもなく、元々「韓(国)神(学)大学校」というミッション系の学校だったのですが、一種のUI(University Identity)といえばいいでしょうか、名称をアルファベットにしたそうです。写真は、会場になった建物と、大学が作ってくださった横断幕です。韓国は、何かあるとこうして横断幕を作ります。
今回のフォーラムは、総合テーマを、横断幕にあるように「宗教と儀礼」と定め、三つの分科会に分かれ、またそれぞれテーマを設定し、各分科会6人ずつ、計18人の方に発表していただきました(日韓半分ずつ)。僕は第三分科会の司会でした。他の部会はちゃんと参加できませんでしたので、自分が司会をした第三分科会についてだけ、少しメモします。
この分科会のテーマは「国家と死亡者儀礼」というものでした(ちなみに、他の分科会のテーマは「近世社会と宗教儀礼」「儀礼の調査方法論」)。これは主に近現代がターゲットになる分科会で、非常にポレミカルなテーマだったと思います。日本においては靖国問題はもちろんのこと、広島・長崎、沖縄、空襲による死者と、日中戦争・太平洋戦争時の死者たちをどう弔うかは、いまだに大問題なのはいうまでもありません。お隣の韓国では、使い古された表現ですが、「激動の戦後史」を簡単に振り返るだけでも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、「済州島4・3事件」(1948年に済州島で起きた虐殺事件)、数々の民主化闘争の頂点に位置する「光州事件」など、弔うべき死者たちの魂の行方は、日本同様色々難しい問題があります。「誰が」「誰を」「どのような目的で」祀るか、というのは、どうしても単純な一つの物語には収めることができない問題です。これは、追悼の方法の複数制、という議論にもつながっていきます(僕が思うに、靖国神社の最大の問題点は、この「追悼の方法の複数制」の事実上の否定にあります。事実、幾つかの発表で紹介されたのは、国家や自治体の主催ではない慰霊のあり方でした)。
そして、特に戦争死亡者という存在は、どうしても「一国の問題」を越えてしまう広がりを持つことが確認できたと思います。靖国に祀られている朝鮮・台湾出身者の問題はもちろんですし、非戦闘員の犠牲者、日本がアジアで殺した様々な人々。そして戦後の韓国においても、加害者としての軍という存在が、現代史のあちこちに足跡を残しているのは、紛れもない事実です。つまり、皮肉なことですが、日本と韓国は、戦前・戦後を、まるでリレーするかのように「軍人顕彰」のシステムを温存してきたと思います。そして、それを温存せしめたのは、戦後東アジアを覆った、「冷戦」という暴力システムでした。
このような問題は、当然ながら、単なる宗教研究の枠を越えて、政治的なイシューを色々想起せざるを得ませんでした。そういう意味で、手前味噌ですが、まあまあ成功だったかな、と思います。ホント、この問題って、ポストコロニアルな問題なんだなあ、と改めて確認した次第です。

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August 05, 2005

戦前と戦後を結ぶもの

今日、一つ簡単な講演をしました。

8月2日から7日まで、京都の立命館大学国際平和ミュージアムにおいて、第二十五回「平和のための京都の戦争展」という展示が、市民団体によって行われています。そのプログラムの一つに、日本史研究会主催シンポジウム「植民地・戦争と問いなおす-知の暴力と可能性」という催しがあり、僕がお話をすることになりました(もう一人、京大院生の小林敦子さんが高見順を中心に、戦時期の日本知識人についての問題をお話しなさいました)。

自由に話してくれて良い、ということで、僕は、ちょっと敢えてポレミカルな話題として、「親日派」という問題を語りました(タイトルは「いわゆる「親日派」問題について」)。ポレミカル、というのは、このところの「教科書問題」に代表されるような「歴史認識問題」において、避けて通れない部分を敢えて「つつく」という意味でです。親日派、というのは字義通りに取れば、日本に親しい人を指すわけですが、韓国においては、歴史的な意味が付与されて使われる言葉で、有り体に申せば、「日本に媚びを売った売国奴」というようなニュアンスの、ほとんど罵倒語に近い響きがあります。これは過去の話ではなく、今現在も「親日」をめぐって、例えば選挙の際にその候補の父親が過去に植民地権力に協力していたか、つまり「親日」だったか否か、というのが問われたりもします。以下、講演の内容をかいつまんでお伝えします。

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今回の講演で僕が取り上げたのは、李容九(이용구、1868~1912)と、玄永爕(현영섭、1907?~没年不詳)という人物です。共に、植民地時代の代表的な「親日派」と目されている人です。

李容九は、東学(韓国の新宗教の嚆矢)信者で、1894年の甲午農民戦争にも参加した人です。この人は後に、「一進会」という団体を造り、その団体が日露戦争時に日本軍を助ける活動をしたり、玄洋社の内田良平と交友を結び「日韓合邦請願書(合邦上奏文)」というものを提出したりして、非常に評判の悪い人です。

もう一方の玄永爕は、1930・40年代に、「朝鮮人は努力して、日本人以上の日本人となるべきだ」という主張をして、極端な「親日」言論活動を繰り広げた、朝鮮人エリートの一人です。

僕の話を簡単にまとめると、こういう「親日派」を単に糾弾するだけでは、片手落ちだということです。彼らが何故、そこまでの「親日」活動に走らざるを得なかったのか、ということを、特に日本人の側は考えねばならないと思います。要するに、当時の日本側から、朝鮮人に掛けられたプレッシャーへの「想像力」の必要性です。
これは、国レベルでも同じ事が言えて、例えば日露戦争後に、当時の大韓帝国と結んだ「第二次日韓協約」「韓国併合条約」についてですが、このところ、ある会社の教科書―どこの会社か、ということは面倒くさいので省略しますが―では、この条約は国際社会から認められた「合法的」なものであった、なんていうような主旨のことを主張したりしております(ネット上でも、このような意見をお持ちの方が多いようですね)。でも、これは僕から言わせれば、まさに「想像力」の欠如だと思います。まず、当時、日本政府が韓国政府にどのような「脅し」をかけていたのか、ということを考えねばなりません。確かに、はんこを押した条約は「合法的」でしょうけど、これはいわば、ヤクザに監禁されて「ここにハンコ押せば、楽になるでえ」と言われて押さざるを得なかったようなものだと思います。韓国においては、無茶な形で結ばされた条約だからそもそも無効であるという意見もあるのですが(ソウル大学の李泰鎮教授の意見です)、僕はちょっと違って、第二次日韓協約や韓国併合条約などは、「合法だけど非道」という見方を取っています。そもそも、国際社会に認められていた「合法性」というのは、列強、つまり帝国主義国家間の「紳士協定」であったことも見逃してはならないでしょう。イギリスもフランスもアメリカも、自分が植民地を持つがゆえに、日本の行動を「合法」としたに過ぎません。ここで僕が申し上げたいことは、違う立場から、特に「やられた側」から立ってものを考えてみる、という想像力の必要性です。「合法」ゆえに正しいのではなく、「合法」ゆえに非道な場合もあるのです。

また、二人の「親日派」の問題に戻ると、彼らの「親日活動」の背後には、凄まじいばかりの日本人による朝鮮人差別と、その境遇から何とかして逃れたいともがいていた様子がうかがえます。裏返せば、彼らの活動は、朝鮮人が日本人化することによって「差別の克服」という目標を果たそうとしたもの、と見ることも可能だと思います。要するに、親日的な人士の多さをもってしても、日本の統治のすばらしさの証明には、何らならないのです。
また、彼ら自身の自国観、即ち朝鮮観ですが、これは、日本人の朝鮮観が多分に内面化されたものだと思います。「オリエンタリズム」という議論は、エドワード・サイードという人が広めたものですが、僕は、彼らのように、宗主国の差別的な眼差しを、植民地の人々が内面化してしまうこともオリエンタリズムの重要な問題だと思っています。テリー・イーグルトンというイギリスの学者は、次のようにコンパクトにこの問題を指摘しています。

女性や植民地主体を抑圧するには、女性であること、植民地の人間であることが低級な生活様式であると定義するだけでは不十分である。彼らには、積極的にこの定義を教えつづけないといけない。そうこうするうちに、この教えを身につけた優秀なる卒業生が生まれ、自分のことを自信をもって低級であると立証することになろう。(テリー・イーグルトン(大橋洋一訳)『イデオロギーとは何か』平凡社ライブラリー、1999年、17頁。)

日本人は、韓国における「親日派」問題を、対岸の火事と見るのではなく、この問題を構成するメンバーの一人として考えるべきなのではないか、といって、この講演を終えました。

発表後に、在日コリアンの方々(お年からして恐らく一世と二世の方でしょう)から、次々と質問およびコメントが。その中で、一番印象的だったのは、恐らく在日二世の方だと思いますが、

「自殺した国会議員の新井将敬なども、植民地時代と同様、『日本人以上の日本人』になろうとした悲劇なのではないか。我々は今も名前も自由に名乗れず、民族教育もできず、その扱いは戦前と実は大きく隔たっていない」

というご指摘でした。つまり、戦後60年経っても、朝鮮人・韓国人に対する差別の「力学」は、思いの外変化していないのではないか、という鋭い問題提起です。「ポストコロニアリズム」という言葉が思想界で流行っていますが、これは、植民地支配は終わったはずなのに、植民地の負の遺産ともいうべきものがまだそこかしこに残っている状態に苛立っている状態を指すと、僕は思っています。ややこしいですが、「ポスト」つまり「後」なのにも拘わらず、本当に「ポスト」になっていない状態を批判する立場だと思ってくだされば結構だと思いますが、上記のご指摘などは、まさに「ポストコロニアル」な問題提起なわけです。ということで、講演が終わった後、もう一度「ポストコロニアル」ということを噛み締めました。僕がお教えしたというより、幸いなことに、この在日コリアンの方など、参加してくださった方から教えられることが多かった催しでした。

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June 29, 2005

「素人の集まり」としてのゼミ

先ほど、内田樹先生のブログを見ていたら、またまた考えさせられるエントリが。実は、僕もゼミや講義のやり方に対して常々考えることが多いのだが、今回の内田先生のエントリは、耳が痛いというか、身につまされる内容だった。
現在内田先生は、中国研究者が一人もいない環境で中国を語る、というゼミを大学院でなさっている。ところが、これが先生が言うには、非常に「生産的」なのだという。何故か。教師と学生の知識に水位差がないと、教師も泰然と構えてはおられず、きわめてスリリングな展開が待ちかまえており、その緊張感がゼミを活性化させるからだということだろう。

しかし、この「全員シロート」体制というのは教育的にはきわめて効果的なものであることが三ヶ月やってきてよくわかった。
教師がその主題についての専門的知識を独占的に所有しているということになると、聴講生たちは教師が誘導しようとする結論に誰も的確には反論することができない。
「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」ということになってしまう。
しかるに、教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると話がまるで変わってくる。
発表者によってその日にあらたに与えられた情報を、これまでのゼミ発表で仕込んだ情報と組み合わせて、「ということは…こういうことじゃないの?」という仮説を立てる権利は全員にほぼ平等に分かち与えられている。
つまり、ここから先は「知識量」の勝負ではなくて、断片的知見をどのような整合的な文脈のうちに落とし込むかを競う「文脈構成力」の勝負になる。
誰も正解を知らないクイズ番組みたいなものである。

僕などはまだまだ「若く」「未熟」な教師ゆえに、学生に対して知識量の差を何とか作り出し(もちろん、長年研鑽を積まれた先生に比べれば、鼻くそみたいなものだが)、その水位差から生じる「勢い」で、講義やゼミをおこなっている傾向があると思う(このやり方は、自己弁護になるが、きわめて「普通」の大学教育である。僕が受けてきたゼミも、そもそも僕とは比較にならない知の巨人の後塵を拝して「自分でつかみ取る」という類の、修行めいたゼミがほとんどだった)。
内田先生がよく使う表現に則れば、僕はまだ「劫を経たおじさん」ではないので、却ってその「水位差」に頼ろうとしてあがいているのだと思う。昨日初めて読んで知った知識を、あたかも数年前から知っていて自家薬籠中のものにしている振りをする事だけは、まあまあ上手くなりつつある今日この頃だ。
そして、「なに、君たち、こんなことも知らんのかね。まあ、知識がないところからは、何も始まらないわな」とばかりに、ゼミで僕が学生を睥睨するものだから、学生は益々発言しなくなり、僕はといえば「これだけヒントを教えてやっているのに、発言する奴がどうしてこうも少ないのか」と不満に思う、という悪循環をいつのまにやら、やってしまっていたようだ。

内田先生のゼミは、言うまでもなく内田先生ご自身の博覧強記ぶり、「オールマイティ」さ加減と、やる気のある社会人も一緒にゼミに参加しているというモチヴェーションの高さが際だっており、「川瀬先生のゼミは、他の先生より楽そうだから」という理由で学生が集まることも多い僕のゼミとでは、そもそも比べるのが間違いなのだが、先生の「シロートの集まり」という部分には、僕も思い当たる節があるので、ちょっと思い出話をしてみたい。

僕は学部生時代、あるサークルに参加していた。それは「KAOS」という名前のサークルで、残念ながら、今はもう消滅してしまった。これは「Komaba Academic Optimist Society」という名称の省略だが、もちろん先に「カオス」という言葉があって、語呂合わせで考えた英語名称だったわけだが、このサークルは一種の茶話会で、様々な分野の人間が集い(大学も色々)、大体毎月一回会合を開いていた。そしてその会合では、一人が自分の「専門」に関する発表を行い、それに対して、基本的にその分野に素人の連中がつっこみ議論する、というのが活動内容だった。例えば僕が宗教学に関する議論をみんなの前で発表すれば、法学、生物学、化学、医学、物理学etc.の分野の連中がそれを聞いて、つっこんでくれた。これは今から思えば、自分の専門を他分野にも通じる話に鍛え上げようとするものだった、と格好良く回想できるかもしれない(実態はどうだったかは保証の限りではないが)。ちなみにこのサークルは、一度『AERA』に取り上げられたことがあります。1992年8月18日号で、ジャック・デリダが表紙のやつです。この号は「哲学」が特集されており、大学のある先生が、僕たちを朝日新聞社に紹介してくださったのです。お暇な方はバックナンバーを探してください。「宗教学 川瀬貴也」という文字が初めて全国紙に載ったのが、これです(笑)。まあそれはさておき、僕はこのサークルで、他分野の人に揉まれること、もっと言えば「素人目の生産性」、というのを身にしみて感じたのだ。でも、これにも条件があって、ある分野に関してはちゃんとした「専門」を持っていることが、生産性につながるのだと思う。この時に得たものは大きく、物理的な交流の広がりも、知識の幅も、自分の卑小さの自覚も、全てこのサークルで与えられたと思っている。

あと、大学院に入ってから、朝鮮・台湾・「満州」など、日本の旧植民地を様々な分野で研究する若手が集まった自主ゼミ「植民地勉強会」(そのまんまの名前ですな)というのに僕も参加して、その仲間たち個々人の能力の高さもさることながら(僕を除く)、やはりここでも、「KAOS」で感じたようなもの-特にこれは学際的な広がりを最初からある程度狙った集まりだったので-を感じた。身内褒めをしてしまうが、本当にこの自主ゼミでは様々な意見や知識が得られて、吸収する一方の僕には、大変有意義なものだった。この自主ゼミは素人と言うよりは「セミプロ」の集まりだったわけだが、他分野の話を聞くことの生産性は、やはり味わわせてもらったと思う。
僕が考えている「素人の生産性」は、正確に言うと、上記で述べたように、何か一つ、ある専門(得意分野)を持った上で、他の分野の専門的な話に「つっこみ」を入れること、ということだ。

さて、内田先生はこう締めくくる。

ふつう私たちは「専門的知識を備えた人間が指導しなければ教育は成立しない」と考えがちだが、そういうものではない。
仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリーさえいれば、どのような分野の主題についても学生たちは実に多くのことを学ぶことができる。
逆に、知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている限り、学生はたぶん何も身に付けることができない。

いやはや、耳の痛い言葉だ。まるで僕のことを言われているような気さえする(学生から「先生は物知りだけど、時々その話は何のために話しているのかが、わからなくなるときがあります」とやんわり批判されたこともあります。彼女は鋭い。その通りだ)。

ゼミで取り扱うテーマに関して全く知識がない、というのは論外としても(それじゃ、あまりに学生に失礼だし、内田先生ほどの広がりがない僕が下手に真似したら、独りで撃沈だ)、あまり知らないことを一緒に考えたり読んでいくようなゼミは、もう少し「劫を経たら」やってみたいと思った。

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