今日、一つ簡単な講演をしました。
8月2日から7日まで、京都の立命館大学国際平和ミュージアムにおいて、第二十五回「平和のための京都の戦争展」という展示が、市民団体によって行われています。そのプログラムの一つに、日本史研究会主催シンポジウム「植民地・戦争と問いなおす-知の暴力と可能性」という催しがあり、僕がお話をすることになりました(もう一人、京大院生の小林敦子さんが高見順を中心に、戦時期の日本知識人についての問題をお話しなさいました)。
自由に話してくれて良い、ということで、僕は、ちょっと敢えてポレミカルな話題として、「親日派」という問題を語りました(タイトルは「いわゆる「親日派」問題について」)。ポレミカル、というのは、このところの「教科書問題」に代表されるような「歴史認識問題」において、避けて通れない部分を敢えて「つつく」という意味でです。親日派、というのは字義通りに取れば、日本に親しい人を指すわけですが、韓国においては、歴史的な意味が付与されて使われる言葉で、有り体に申せば、「日本に媚びを売った売国奴」というようなニュアンスの、ほとんど罵倒語に近い響きがあります。これは過去の話ではなく、今現在も「親日」をめぐって、例えば選挙の際にその候補の父親が過去に植民地権力に協力していたか、つまり「親日」だったか否か、というのが問われたりもします。以下、講演の内容をかいつまんでお伝えします。
今回の講演で僕が取り上げたのは、李容九(이용구、1868~1912)と、玄永爕(현영섭、1907?~没年不詳)という人物です。共に、植民地時代の代表的な「親日派」と目されている人です。
李容九は、東学(韓国の新宗教の嚆矢)信者で、1894年の甲午農民戦争にも参加した人です。この人は後に、「一進会」という団体を造り、その団体が日露戦争時に日本軍を助ける活動をしたり、玄洋社の内田良平と交友を結び「日韓合邦請願書(合邦上奏文)」というものを提出したりして、非常に評判の悪い人です。
もう一方の玄永爕は、1930・40年代に、「朝鮮人は努力して、日本人以上の日本人となるべきだ」という主張をして、極端な「親日」言論活動を繰り広げた、朝鮮人エリートの一人です。
僕の話を簡単にまとめると、こういう「親日派」を単に糾弾するだけでは、片手落ちだということです。彼らが何故、そこまでの「親日」活動に走らざるを得なかったのか、ということを、特に日本人の側は考えねばならないと思います。要するに、当時の日本側から、朝鮮人に掛けられたプレッシャーへの「想像力」の必要性です。
これは、国レベルでも同じ事が言えて、例えば日露戦争後に、当時の大韓帝国と結んだ「第二次日韓協約」「韓国併合条約」についてですが、このところ、ある会社の教科書―どこの会社か、ということは面倒くさいので省略しますが―では、この条約は国際社会から認められた「合法的」なものであった、なんていうような主旨のことを主張したりしております(ネット上でも、このような意見をお持ちの方が多いようですね)。でも、これは僕から言わせれば、まさに「想像力」の欠如だと思います。まず、当時、日本政府が韓国政府にどのような「脅し」をかけていたのか、ということを考えねばなりません。確かに、はんこを押した条約は「合法的」でしょうけど、これはいわば、ヤクザに監禁されて「ここにハンコ押せば、楽になるでえ」と言われて押さざるを得なかったようなものだと思います。韓国においては、無茶な形で結ばされた条約だからそもそも無効であるという意見もあるのですが(ソウル大学の李泰鎮教授の意見です)、僕はちょっと違って、第二次日韓協約や韓国併合条約などは、「合法だけど非道」という見方を取っています。そもそも、国際社会に認められていた「合法性」というのは、列強、つまり帝国主義国家間の「紳士協定」であったことも見逃してはならないでしょう。イギリスもフランスもアメリカも、自分が植民地を持つがゆえに、日本の行動を「合法」としたに過ぎません。ここで僕が申し上げたいことは、違う立場から、特に「やられた側」から立ってものを考えてみる、という想像力の必要性です。「合法」ゆえに正しいのではなく、「合法」ゆえに非道な場合もあるのです。
また、二人の「親日派」の問題に戻ると、彼らの「親日活動」の背後には、凄まじいばかりの日本人による朝鮮人差別と、その境遇から何とかして逃れたいともがいていた様子がうかがえます。裏返せば、彼らの活動は、朝鮮人が日本人化することによって「差別の克服」という目標を果たそうとしたもの、と見ることも可能だと思います。要するに、親日的な人士の多さをもってしても、日本の統治のすばらしさの証明には、何らならないのです。
また、彼ら自身の自国観、即ち朝鮮観ですが、これは、日本人の朝鮮観が多分に内面化されたものだと思います。「オリエンタリズム」という議論は、エドワード・サイードという人が広めたものですが、僕は、彼らのように、宗主国の差別的な眼差しを、植民地の人々が内面化してしまうこともオリエンタリズムの重要な問題だと思っています。テリー・イーグルトンというイギリスの学者は、次のようにコンパクトにこの問題を指摘しています。
女性や植民地主体を抑圧するには、女性であること、植民地の人間であることが低級な生活様式であると定義するだけでは不十分である。彼らには、積極的にこの定義を教えつづけないといけない。そうこうするうちに、この教えを身につけた優秀なる卒業生が生まれ、自分のことを自信をもって低級であると立証することになろう。(テリー・イーグルトン(大橋洋一訳)『イデオロギーとは何か』平凡社ライブラリー、1999年、17頁。)
日本人は、韓国における「親日派」問題を、対岸の火事と見るのではなく、この問題を構成するメンバーの一人として考えるべきなのではないか、といって、この講演を終えました。
発表後に、在日コリアンの方々(お年からして恐らく一世と二世の方でしょう)から、次々と質問およびコメントが。その中で、一番印象的だったのは、恐らく在日二世の方だと思いますが、
「自殺した国会議員の新井将敬なども、植民地時代と同様、『日本人以上の日本人』になろうとした悲劇なのではないか。我々は今も名前も自由に名乗れず、民族教育もできず、その扱いは戦前と実は大きく隔たっていない」
というご指摘でした。つまり、戦後60年経っても、朝鮮人・韓国人に対する差別の「力学」は、思いの外変化していないのではないか、という鋭い問題提起です。「ポストコロニアリズム」という言葉が思想界で流行っていますが、これは、植民地支配は終わったはずなのに、植民地の負の遺産ともいうべきものがまだそこかしこに残っている状態に苛立っている状態を指すと、僕は思っています。ややこしいですが、「ポスト」つまり「後」なのにも拘わらず、本当に「ポスト」になっていない状態を批判する立場だと思ってくだされば結構だと思いますが、上記のご指摘などは、まさに「ポストコロニアル」な問題提起なわけです。ということで、講演が終わった後、もう一度「ポストコロニアル」ということを噛み締めました。僕がお教えしたというより、幸いなことに、この在日コリアンの方など、参加してくださった方から教えられることが多かった催しでした。
Recent Comments