February 11, 2008

「ひたすら反対する」という依存

このところ、なかなかに忙しく、こちらのブログには新しいエントリを書けなかった。
書きたいことがなかったわけではないのだが、今日はこのところ気になっていたニュースを振り返りつつ、ちょっとだけ抽象的に「反省」してみたい。

さて、政治の世界では、僕の「気に入らない動き」が矢継ぎ早に起きて、脱力していた。先月の大阪府知事選、そして先日の岩国市長選は、このブログを読んでいる皆さんならお判りのように、僕の傾向からして「残念な結果」に終わってしまった。この結果については、あまり言及もしたくないところだが、次々と公約を撤回するような言葉の軽い府知事を戴いてしまったのだ、ということを大阪府民の皆さんは少しは考えておいたほうがいいだろう(たまたまだが、僕は堺市出身で、両親や兄夫婦も大阪府民である。決して他人事と思っていない)。そして岩国市の方は、あまり暗い話をしたくはないのだが、国のテコ入れが、沖縄の各市町でどれくらい有効であったか、ということを少し振り返ってみるべきだと思う(すこし聞くところによると、土建屋栄えて商店街滅びる、という例があるそうな)。

あと、気になる動きとしては、茨城県つくばみらい市で、DVに関する講演が、やたら騒ぎ立てるグループによって中止に追い込まれたこと(詳しくはこちら)と、日教組の全体集会が某ホテル側から一方的にキャンセルされた事件。これらは、まさに「テロ」の一種(成功したテロ)だと思う。何か事件が起こるかもしれないという恐怖によって、人々を支配したのだから。この二つの事件をもし「我々の正しい主張が認められた」などと誇りに思っているような人がいるなら、その思考方法は、爆弾を背負っていなくても、自爆テロ犯と選ぶところはないだろう。皮肉をこめて言うのだが、日教組の集会現場に集まって気勢を上げる皆さんは、自分たちが「政治的な主張」を堂々と行う貴重な機会を失ったということで、ホテル側に少しは文句を言ってもいい。
この二つは反対グループの思想的傾向性も似通っているので、当然僕からすれば気に食わないわけだが、ロクな代替案を提示できなかった自分も歯がゆい。一言で言うと、向こうの動きに反対するのが精いっぱいで、「ひたすら反対する」ということで、彼らに依存していたとさえいえるかもしれない。もちろん、彼らの側も「ひたすら反対」ということでぼくたちに依存しているのだが、向こうと合わせ鏡のような関係になったことが腹立たしい。
今日街中で、「建国記念の日」に反対するグループに、威圧的な恰好と街宣車で罵倒を繰り広げる連中を遠巻きに見つつ、そんなことを思った。

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October 04, 2007

「声の大きさ」ではない

僕はこのブログで、歴史教科書の検定で、沖縄戦についての記載が枉げられたことに抗議してきたわけですが、先日沖縄での大規模な抗議集会を始め、全国的に広がる動きを見た政府が、その抗議を受け入れようとしていることは報道されているとおりです。

僕も勿論、このように事態が推移したことを歓迎していますが、しっくり来ないものも感じています。それは、今回のことが「声の大きなものが勝つ」という誤った先例として後年利用されはしないか、という心配といえば判りやすいでしょうか。
そもそもこの教科書検定問題は、当の検定自体に問題があったのであって(動機も検定委員も検定意見も)、「沖縄県民の声に配慮して」という物語に還元させることができる性質のものではありません。このような物語に回収されてしまっては、却って本当のことが隠蔽されてしまいかねません。

ということで、例えばある新聞の社説

「しかし、史実に基づいて執筆されるべき歴史教科書の内容が、「気持ち」への配慮や、国会対策などによって左右されることがあってはならない。」

というのは、言葉だけ見ればその通りで正しいのです(まあ、この社説は検定そのものの問題には頬被りしていますが)。僕だって、国民の「ご機嫌取り」として、教科書や教育現場に対して不当な政治的介入が起これば当然腹も立ちます(実際、今回の検定はそのような性格が強いことも大きな問題でした。その元凶が辞任したおかげで、こんなにもドラスティックに動いているわけですが)。たとえ、僕の信条に近い方向に動いたとしても、やはりそれはある種の「政治的介入」と見なさざるを得ません。それが僕のわだかまりになっているのです。今回の政府の対応を手放しで喜べないのはそのためです。

その時々の政治的要請で教科書の記述がどうとでも動いてしまうということ。先日の検定がまさにそれだったわけです(「戦後レジーム」からの脱却を計りたかった人たちの意向を汲んでの検定だったのでしょう)。そして今回のことが「県民の声という圧力によって動いた」とされてしまい、心ならずも「先例」を踏襲してしまうと、また近い将来「やっぱりそんな事実はなかった、という声が大きくなっているのでね」とオセロのようにひっくり返されはしないか、というのが僕の心配なのです(杞憂であればいいのですが)。

ですから僕は改めて「声の大きさ」ではないのだ、と強調したいのです。

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September 13, 2007

「歴史」にどう書かれるだろうか

安倍首相が、体調も悪いとの話もあるが、ともかく「これから頑張ります」と所信表明演説をぶった舌の根も乾かないうちに辞めることとなった。
その「無責任振り」とか「タイミングの悪さ」とかは、一々あげつらうのもバカバカしいほどなので、これ以上は言わない。ただ、これほどのみっともない政権放棄は、後年歴史でどう評価されるかくらいは覚悟しておいた方がよい。日本の過去について「美しい国」という幻想を押しつけ、様々に「改竄」しようとした人が最後にこういう目に陥るのは皮肉と言うか、天網恢々疎にして漏らさずと言うか。まあ、安倍さんの「愛国心」への傾倒振りなどはまさに典型的な「Patriotism is the last refuge of a scoundrel.(しょーもない奴は最後に愛国心に逃げ込む)」の例だと思っていましたが。

この政権が一日も早く終わるのを祈っていた僕にとっては「朗報」のはずなのだが、その割には余り心が躍らない。それは何よりも、徒労感というか、既にこの政権がやってきた教育基本法「改定」、国民投票法、防衛庁の省への格上げなど、僕が一切気に入らないメチャクチャな「実績」は彼が辞めてもひっくり返らないからだ。

でも、少なくとも、こういう首相を支持していた人、応援してきた人(一般人も議員も含めて)には、ご自身の「人を見る目の無さ」を反省していただかねば、嘘である

さて、内田樹先生が、この辞任に関して、相変わらずの皮肉をおっしゃっていて爆笑。

当然私には非人情なコメントを期待して電話してくださったのであろうから、期待通りのコメントをする。
首相がこのような理由でこのような時期に辞任し、後継首相選びで与党内が大混乱しているにもかわらずまったく社会不安が起こらず(辞意表明直後に株価は急騰したのである)、日本の政治的空白が国際社会秩序にほとんどネガティヴな影響を与えないということはわが国の社会的インフラがいかに安定しており、市民がいかに政治的に成熟しているかを証し立てている。
政治家が無能で、官僚が腐敗して、メディアが痴呆化しているにもかかわらず日本社会がアナーキーへ転落するであろうと悲観している国民はほとんどいない。
これはほとんど奇跡といってよろしいであろう。
これほど安定した国民国家を世界史は知らない。
豊葦原瑞穂国の弥栄を言祝ぎたい。

でも、「日本の政治的空白が国際社会秩序にほとんどネガティヴな影響を与えない」のは、日本の国際的プレセンスのなさというか、外交ベタ(安倍さんがある意味典型的)の帰結。まあ、よそ様に迷惑掛けるよりはずっと良いけどね。

森首相の時も言われていたけど、首相がどんなポンスケだろうが揺るがない日本の社会的インフラって偉大、といいたくもなるよな。これって、「戦後レジーム」の最大の成果かも。
頭でっかちに「愛国心」とか「美しい国」とか「奉仕の精神」とか、そういうお題目を唱える政権ではなく、正しい意味で「現実的」(大体、「現実的」という言葉は、自分の日和見主義を糊塗する時に使われることが多すぎる)な舵取りをしてくれる政権を望むのみ。それしかできぬ自分の非力が悔しいが。

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May 14, 2007

自民党の「強さ」

今朝の朝日新聞を読むと、滋賀県の自民党県連はこの前の県議選で大敗したのを受け、栗東市に建設予定だった新幹線新駅について、嘉田由紀子知事と県議会の「多数派」に合わせて、知事の示す建設中止の対応を支持すると決めたそうだ。少し引用する

滋賀県栗東市の新幹線新駅建設問題をめぐり、自民党県連は13日開いた定期大会で、嘉田由紀子知事が示す解決策を支持する、との方針を正式決定した。出席 した中川秀直・同党幹事長は、4月の県議選で自民が惨敗した敗因が新駅問題だったことを認め、今後は嘉田知事に対し、「抵抗勢力ではなく、対話勢力として 臨む」と述べた。これで新駅建設の中止が確実な情勢となった。

最初これを読んで「良かったなあ」という気持ちと「ざまあみろ」という意地の悪い考えが浮かんだのだが、よくよく考えるとだんだん腹が立ってきた。

じゃあ何、今まであれだけ強硬に反対していたのに「抵抗勢力と見なされて選挙に負けるから(中川幹事長)」という理由で、これまでの意見を簡単にすっこめちゃうの?「勝てば官軍」とはいうけど負けたからって簡単に「官軍」にしっぽ振るわけ?
こういう無節操振りが、まさに「自民党」の本質であり、「強さ」でもあることにも腹が立つ。そう、弱さではなく「強さ」なのだ。このような性質だからこそ、自民党が戦後殆どの時期「与党」であったのである。実は自民党の真骨頂は、その政治信条というより、身も蓋もない「現状肯定」である。
まあ、地方と中央では自民党の性質も違うだろうし、組織が一枚岩であった試しもない(現在歴史学でもトレンドなのは、かつて一枚岩と見られていた組織の中のグラデーションの解析である)。でも、今回の事例は、自民党のいう政党のあり方を改めて僕のような愚鈍な者に示してくれたものといえるだろう。

そして、そういう「どうとでも動く見解」しか持たないような人々が、あたかも不屈の意志でもって「改憲します」なんてことを言っているから腹も立つわけである。政治家の人には、信条とか座右の銘で「天道我にあらば百万人と雖も我行かん」なんていう言葉を挙げる人も多いけど、くだらない部分にだけこの信条を貫く人が多いようだ(現首相含む)。

あと、言わずもがななんだけど、「戦後レジーム」って、90数%自民党が作ったものだと思うんだけどね、それを否定するってどういう事?残念ながら、戦後日本の屋台骨だったのは、左翼政党でも労働組合でも、ましてや日教組などではなく、自民党のはずなんだけど、それを否定するのというのは恐らく、「今の世の中はおかしい、変えなくてはならない」という世の中の雰囲気をそのまま自民党という怪物が「追認」したからであろう(改憲は結党以来の党是、などという言葉に騙されてはいけない)。

そして、その雰囲気に乗っかった改憲の行き着く先は、内田樹先生がいみじくも解説しているとおり、「改憲で日本が手に入れるのは「アメリカ以外の国と、アメリカの許可があれば、戦争をする権利」であり、それだけ」にすぎない。

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March 08, 2007

あった・無かったの話ではない

先日は、安倍首相が従軍慰安婦問題について「広義の強制」があったが「狭義の強制(軍隊や政府が自ら慰安婦徴用を行ったような)」はなかったというような歯切れの悪い、言わなくても良いようなことを口走って問題になりましたが(まあ、要するに強制といえることはやったとは首相も認めているわけですね)、本日夕刊を読むと、しょーもない記事に酔いが覚めました(折角良い気分で酔っぱらって帰ってきたのに)。
自民党有志の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」というグループが「河野談話が誤った認識の根拠になっている(だから修正すべし、と本当は言いたいんだけど、海外での評判がますます悪くなるから今回は見送り)」ということを政府に申し入れするんだそうです。ちょっと記事から引用しますと、

従軍慰安婦問題で、軍の関与と強制性を認めた93年の河野官房長官談話の見直しを論議していた自民党有志の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会 長・中山成彬元文科相)は8日、「数々の慰安婦問題に対する誤った認識は、河野談話が根拠となっている」との見解を盛り込んだ提言をまとめた。近く政府に 提出する。同会はこの見解をもとに同談話の修正を政府に求める予定だったが、安倍首相の「強制性」についての発言が内外に波紋を呼んだことに配慮し、修正 要求は見送った。

とのことだそうです。

アホ、としかいいようがない。日本の前途の前に、自分の前頭葉を心配した方が良い。

まず、従軍慰安婦の存在や、その徴用における暴力性は既に歴史学的には決着のついたところであって、今更「無かった」と覆せる類のものではありません。一次資料だって一杯出ています。軍がどこまで関与していたか、とか人数はどのくらいだったかというようなところにグラデーションがあるだけで、「関与した・しなかった」「あった・なかった」の二元論の問題では既にないのです(もしかしたら、規律正しい皇軍は、虐殺も強姦もせず、悪徳業者に騙されて軍慰安所を設置してしまったという「新事実」でもあるのでしょうか?寡聞にして、そんな純真な軍隊の存在など、聞いたこともないですが)。

ほんとうに「無かった」と言い張りたいなら、それこそ「無かったことの決定的証拠」を出さねばならないのに、そういう努力は微塵もしようとしないところもいやらしい(そういう証拠など、出てくるはずもないのですが)。

こういうどうかしている歴史修正主義者が政権の中枢にいるというだけで、日本は世界中で評判を落としまくっているのです。たとえば、「壊れる前に…」のうにさんがレポートしてくださっていますが、インドネシアやフィリピンで、今回の安倍首相の発言がどのように受け止められているか、よく判ります。ほんと、正しい意味で、国辱です。

今、北朝鮮が「血塗られた過去と決別できない国」日本の国連常任理事国入りに反対していますけど、向こうの論調に、「塩を送る」ような真似してどうするよ、と思います。
心にもないことでも、内政外交のためならいわざるを得ないのが「政治家」という職業だと僕は思っています。別に常に嘘をつけ、とかマキャベリズムを称揚するつもりはありませんが、それくらいの戦略、戦術もなく、バカ正直に(正直言って、バカなのだが)自分の言いたいことを言えば誠意が伝わる、という考えの方がどうかしています。

というわけで、このグループに入っている連中は、事実認識としても大バカだし、政治家としての戦略もないので、二重にダメな人だと僕は結論づけるしかありません。

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January 29, 2007

教育に金を掛けずにどうする

さて、安倍首相は教育問題に対して大変熱心で、教育基本法は変えちゃうし、「教育再生会議」という諮問機関を組織して色々発言させているわけですが、メンバーに居酒屋チェーン店の社長がいるからと言うわけでもないでしょうが、「そういえばあ、こういう事もあるよね」という居酒屋談義を続けているように見えるのは僕だけでしょうか。
この教育再生会議には、教育外の世界で功名を遂げた面々も大勢入っていて、それについては文句ないのですが(上記の社長についても、立志伝中の人であることを認めるのにやぶさかではありません)、教育学についての専門的な学者を一人も入れなかったというのはどういう訳でしょうか。まあ、専門家に入られると都合の悪い話をしようとしたのだろうな、という推測くらいはつきますね。そういう会議が「国家百年の計」と言われる教育行政の指針となるわけです。やれやれ。

この教育再生会議が最近出した「第一次報告書(リンク先はPDFファイルです。注意)」をざっと読んでみましたが、僕には物足りないと感じました(本当は物足りないと言うより、「いじめ問題」の対応とか「ボランティアの必修化」など、本当は色々突っ込みたくてしょうがないのですが、今回は控えます)。
何が物足りなかったかというと、「お金」のことがあまり触れられていなかったからです。要するに「教育再生」と言うからには「教育予算をうんと増やせ、教員数の大幅な増員を!」くらいのことを政府に答申するかと思っていたのに、そのような提言は(あまり)なされなかったようです。ある部門の先生の増員や、給与水準を上げてやる気のある人をスカウト、ということは書いてありましたが。その替わり「先生に対して免許更新制度を採用し、厳しく査定せよ」みたいな提言はありました(これまでの教育行政、殊に教育委員会の有り様を見ている限り、どういう基準で選ぶのか、十分に怪しいですが)。

一昔前、良く「30人学級の実現」と言うことが唱えられていました。少子化が進行しつつある現在でも、都市部においてこれはまだちゃんと達成できていないのではないでしょうか。
僕みたいな「素人」からすれば、先生の数をうんと増やしてこの30人学級(もっと少なくても良いですが)を達成できれば、教育再生会議で掛かっている懸案のほとんどは対応可能なのではないかと思うのですがねえ(習熟度別クラスとか、いじめ問題だとか、学習困難児に対するきめ細かい対応、という文言はどこかにありましたが)。予算増加といっても、基本的には先生の人件費だけなのですから、ダムとかの大がかりな公共事業やら戦闘機や戦艦をちょっと諦めれば、それくらいのお金が捻出できるように思うのですが。
保守的な人から、教育に対して「道徳心の涵養」やら「国を愛する心」だとか、そういう抽象的な要求が突きつけられている昨今ですが、「教育予算をがばっと増やします」というようなことを公約に掲げている与党の議員さんって、どんな方がいらっしゃるでしょうか。寡聞にして存じ上げませんので、ご存じの方はお教えくだされば幸いです。今後の選挙では、そういうことを公約に掲げていることを基準に投票したいな、と思っていますので。

教育に携わる者の一人として申し上げれば、予算を思いっきり増やして、現場に任せてくだされば、恐らくお正月、お彼岸、お盆とかに家族やふるさとの価値を子供に吹き込む(報告書20頁参照)よりも効果は絶大だということを請け負います。

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November 30, 2006

戦後の「貯金」を使い切るのか?

このところ、政治がらみの話題では、僕にとっては暗くなるニュースばかりが飛び込んできて、気が滅入る。
「教育基本法」改悪問題もそうだが、最近気になっているのは防衛庁の「防衛省」昇格という話題。タウンミーティングのやらせ問題や、いじめ問題をどうするか、という声に紛れて、いつの間にやら民主党まで賛成に回ったので、衆議院を通過するとのこと。暗澹たる気持ちになる。

さて、防衛庁が防衛省に昇格することで、どんなメリットがあるのだろうか。
そのメリットの数々は新聞報道でも多少解説されているのだが(自衛官の士気が上がるなんていうけど、今までの活動や災害救助では上がらなかったのかね?)、僕などは、戦後の日本が、一度も(本当に幸いなことに)海外に出向いて人を殺していないという実績が崩れるのも時間の問題だ、という気がする。要するに、この60年ほど、日本がとりあえず営々と築いてきた(はずの)信頼の「貯金」が崩される、ということだ(そんな信頼など最初からないというなら、話はそれまでだが)。

例えば、僕が日本の隣の某国の国民なら
「日本は確かに自衛隊という欺瞞的な名称の巨大な軍隊を持っているけど、それを取り扱う官庁が、第二のランクっていうことは、軍隊を中心にするような国作りはやらないという意思表示なんだろうな」
という形で、とりあえず「納得」はすると思うし、これまでもそうだったと思う。そのような外国からの視線を捨てるほどのメリットは、この「省」への昇格にあるのだろうか?僕はないと思う。「仮想敵国」の敵意を和らげることができれば、それに越したことはない。無用の火種を作ってどうするのか。
よく「日本はなめられている」という表現がされているが、日本は経済力と政治(外交)力でなめられないようにするだけの力と実績がないとでもいうのだろうか?僕はあると思う。少なくとも、それを模索するのが筋だろう。

闘わずして勝つことが最上と、戦の天才の孫子さえ言ったではないか。
凡人の僕は、この孫子の驥尾に付したいと思っている。

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November 09, 2006

教育基本法「改悪」阻止へ

今回は、何も考えず、ベタなタイトルで書きます。
先日、「パブリックコメントって、アリバイ作りだよなあ」という半ば自嘲的なことを書いてしまいましたが、やはり、目の前にある問題をただ黙ってみているのも悔しいので、とりあえず、口出しできるところにはしていこうと決心しました。
というわけで、今回は、現在の安倍政権で持ち上がっている「教育再生」(!)にたいして、パブリックコメントが求められています。少し引用しますと、

教育再生ホットライン~みんなで実現する教育再生~  

教育再生会議では、広く国民の皆様から教育の現状に対する疑問や提案を受け付けております。いただいたご意見は教育再生会議における議論や提言に活かしてまいります。
 ご意見については、様式自由としますが、300字程度以内におまとめいただきますようお願いします。
 ご意見の提出方法は、(1)電子メール、(2)FAX、(3)郵送といたします。電話による受付はいたしません。
 ご意見を提出される場合は、個人は年齢、性別、職業、住所(都道府県のみ)、団体は所在地(都道府県のみ)を明記願います。氏名(個人の場合)、団体名の記載については任意といたします。
 なお、個人や法人を特定できないように整理した上で公表する場合もありますのでご了承願います。また、いただいたご意見に個別に回答を差し上げることはいたしませんので併せてご了承願います。
 皆様からのご意見をお待ちしております。

とのことです。300字程度なので、あまりちゃんとしたことが言えませんが、何でもかんでも「教育基本法」だとか「憲法」とかのせいにして現状打破を訴えるより、30人学級ですとか、教育にお金をかける方がより有効なのは分かり切っています。
というわけで、実効性もなく、危険な部分も含んだ今回の教育基本法「改正」案には、僕個人は強く反対しています。
なお、この度の問題点については、多くの方が言及していますが、とりあえず最近のものとして、保坂展人さんが、名古屋での公聴会(高橋哲哉先生の講演)について書いているこのブログが参考になるでしょう。

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November 07, 2006

「聞く権力」か?

このところ「パブリックコメント」というものが気にかかる。
要するに行政側の「ご意見をお聞きします」というやつだが、努力しているであろう行政側のみなさんには申し訳ないけど、どうも「アリバイ作り」という気配が濃厚な制度だ。厄介なのは「聞く方もアリバイ」ならば、「言う方もアリバイ」になってしまうという点。アリバイの共同製作兼共犯関係。それで、言う方(の我々)も徒労感をつい感じてしまうのだ。

パブリックコメントは数年前から、国や自治体がちょっと大きめのことを決定・廃止・改定するときに聞くことがほぼ義務づけられているようだが、正直言ってよく判っていなかった。実は急に関心を持つようになったのは、僕の勤務する大学が法人化問題に直面しており、現在そのパブリックコメントを行政側が求めているからで、先ほど僕も個人名で意見を申し述べた(このパブリックコメントをどうしようかとこの数日悩んでいて、「パブリックコメントって一体何だろう」と思い、色んなサイトを見て回ったのだ)。

まあ、僕の意見が採用されたり、通るとは思わないが(色んなサイトを参照するに、賛成と反対の数や傾向くらいは「結果発表」として出してくれると思うけど)、どれくらい本当に反映されたり忖度されたりするのだろうか。
もちろん、パブコメによって、政策が左右されすぎるのも考え物だ。例えばあるグループの「組織票」によって、ある案件に対して「賛成」が9割を超えた、じゃあ変えちゃいましょうなんてことになると、これまた困る(パブコメではないが、「憲法九条」について問うた護憲派サイトのアンケート結果が、組織票によってねじ曲げられた事例なども僕は知っている)。
また最近だと、教育基本法をめぐる地方公聴会(タウンミーティング)での「やらせ質問(しかも行政側の改革賛成の立場からの)」疑惑もあったりするしねえ(先ほど、内閣府がその事実を認めた。やれやれだ)。というわけで、どうしても住民の声を吸い上げると称している制度自体に全幅の信頼を置けないのだ。

何かパブコメ制度って、ミシェル・フーコーの言っていた「聞く権力」の最終形態のような気がしてきたな。フーコーは、首根っこを押さえつけて言うことを聞かせたり、生殺与奪の権を持つような権力のあり方は古い形態であり、近代以降の権力は、まず様々な装置(学校とか)により「内面化」され、促さずとも向こうから言い寄ってくるような形になってきていると指摘し(それが貫徹できていれば、完璧な「権力」なわけだ)、「殺す」のではなく、「その者の話を聞いてやり」「健康状態などを気遣いつつ生かす」のが近代以降の権力なんだ、というようなことを言っていたと思う(大雑把すぎるまとめですが・・・)。パブリックコメントを書きながら、頭の片隅でグルグル回っていたことは、上記で触れたような徒労感と、フーコーの理論だった。

ちょっと愚痴っぽく書いてしまいましたが、でも数年後の自分に「あの時お前は何もしなかったじゃないか」という風に言われないために、僕も「アリバイ」と半ば開き直りつつ、手の届く範囲でパブコメを含め、コソコソやっていこうとは思っています。

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June 08, 2006

水俣からドミニカへ

Kugaijoudo 本日、ドミニカ移民政策の国の過失を問う裁判が東京地裁で開かれ、国の法的義務違反及び賠償責任は認定しましたが、時効により賠償そのものは棄却、という判決が下されました(原告側は控訴の予定)。原告代表の方は「祖国とは、国民を騙し、殺し、捨てるものなのですか」と声を絞って訴えていらっしゃいました。
このブログで以前、たまたま深夜のドキュメンタリーでこの事件を知って、書いたエントリもありましたが、非常に僕個人としても残念な気持ちになりました。

今晩テレビニュースでこの事件の映像を見ながら思い出していたのは、石牟礼道子さんの『苦海浄土』(講談社文庫)でした。この作品はご存じの方も多いでしょうが、水俣病を彼女独特の手法で扱った名作です(石牟礼さん自身も「アニミズム」と「プレアニミズム」という言葉を使っていますが、まさに石牟礼さんは患者に憑依され、患者の声を語る巫女です)。
彼女のこの作品では、国会議員や大臣が来ると「お願いします!!」とすがりつく患者達の様子が描かれています。そのような人に、いかに「国」は冷酷だったことか。

今回の裁判を見ても、「この国のかたち」はあまり変わってはいないのでは、と思ってしまいます。

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March 21, 2006

追いつめられての「自画自賛」

このところ、最寄り駅のポスターで、気になるのがあります。

それは、政府の「構造改革」称える内容のもの。テレビCFでも、竹中直人氏が、やってますよね。あれです。この二週間ほどで、僕が覚えているだけで三種類くらい張り替えられています。「コンビニでも薬が買えるようになったのは、構造改革のおかげです」とか、そういう(まあどうでも良さそうな)キャプションがついているわけですが、この宣伝って、どうでしょう。

一言で言えば、政府が自画自賛しているんですよね、「構造改革」の成果を。こういうのって「慎みがない」っていいませんかねえ。最近のベストセラーを借りていえば、「国家の品格」がないというか(笑)。
「国民の皆さんはよく判ってないようだから敢えて自分で言っちゃうけど、俺ってすごくない?」というプロパガンダを、それこそ税金で垂れ流しているわけですよね。まあ、何でも税金が税金が、というほど、僕はケチではないつもりですが、この宣伝費用で、構造改革に関する別のことができるんじゃないかなあ、とは思います。

こういう自画自賛宣伝(プロパガンダ)を打たなければならないというところに、既に現内閣の「末期症状」が現れている、というのは、穿ちすぎでしょうか。追いつめられての「自画自賛」。僕の目にはどうしてもそう映ってしまいます。僕個人としては、こんなプロパガンダ、目の前から消えて欲しいのですが、本当に現政権の「末期症状」ならば、そのことだけは言祝ぎたいと思います。

「鼓腹撃壌」というような理想郷を思うほど夢想家ではないつもりですが、そこそこちゃんと治まってれば、それほど「俺ってすごいだろ?」ということは言わなくても、国はちゃんと回っていきます。あまりに自画自賛が過ぎると、お隣の某独裁国と、似てきてしまいますよ。それは非常にみっともないです。

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March 01, 2006

捲土重来を

例の永田寿康議員が提出した「ホリエモンメール」疑惑、結局「大山鳴動して鼠一匹」という結果になりそうです。そういえば、僕の友人、昔永田議員が初当選したときのボランティア・スタッフだったんだよな・・・(彼は今回の騒動をどう思っているだろうか、今度聞いてみよう)。

もちろん、彼の詰めの甘さ、脇の甘さは批判されて然るべきだと思います。僕も正直言って、失望しました(電子メールなんて、一番偽造しやすいものなんじゃないかなあ、と素人考えながら思いましたし)。民主党の現党首の政治姿勢が気に入らない僕としては(僕は「ヘタレ左翼純情派」と自称しています)、これによって党首が退陣を迫られるというシナリオも良いかな、などと思ったりもしましたが、それもなしになりそうです。これもちょっと残念。

さて、僕は実は、永田さんのおっちょこちょい振りをあまり嗤う気にはなりません。逆に、結果的に「勇み足」であったとしても、追求をしなかったよりはまし、と思っています。同様のことは、過去の辻元清美さんにも思っています。二人とも詰めが甘く、本当に惜しまれます。
ですから、僕が野党議員に願っていることは、もっと意地悪に、ずるがしこくなってくださることです。
捲土重来をこっそり期待しています。失望するのも絶望するのも、簡単すぎて気に入りませんから、もうちょっと期待したいと思います。「アホンダラ、もっとしっかりしてくれよ」と歯がみしながら

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February 13, 2006

ドミニカ「棄民」のドキュメンタリー

深夜に何気なくテレビを付けると、なにやら深刻そうなお爺さんの顔が映っていた。僕が偶然見た番組は、日本テレビ系列の「NNNドキュメント'06」だった。話していたのは、50年前に国の斡旋で(ここ重要)中米のドミニカ共和国に移民として渡った山本さんという方。番組のホームページから、内容の要約を引用すると

神奈川の工場で働く山本ノボル(22)。ドミニカ共和国の日本人入植地で生まれた。祖父・福槌は50年前ノボルの父・新ニらを連れドミニカに渡った。当時 外務省が作った募集要項は農地18ha、東京ドーム4つ分の無償譲渡を約束。しかしドミニカに渡った1319人のうち約束の土地を手にした移民はいない。 祖父の田は未だ所有権がなくあるのは耕す権利だけだ。6年前移民たちは祖国日本に32億円の損害賠償と謝罪を求め提訴。しかし長引く裁判にノボルの祖父母 ら16人が他界した。ノボルは言う。「日本は約束を守るイメージがあったのに」移民が祖国を訴えた初の裁判にこの春、判決が下る。

というもの。ドミニカ移民が、ほとんど詐欺のような移民をさせられて、2000年に日本政府を訴えたのは聞いていた。祖国から捨てられた自分たちのことを、「棄民」と呼び、地球の裏から「祖国」を訴えた彼らの無念は、察してあまりある。
1年ちょっと前にもフジテレビ系列で放映されたドミニカ移民のドキュメンタリーを、これまた偶然に見ていたのだが(日テレもフジも、どうしてこんなに素晴らしい番組を深夜に入れるのか)、今回改めてその問題を考えさせられた。

さて、気になる裁判の行方だが、国会においては小泉首相が外務省の不手際を認める発言までしたのだが、前の判決では外務省が法律論を盾に取り「時効」を勝ち取った。要するに「棄民」側の敗訴である。原告の一人は「日本政府は人間なのか」と絞り出すような声で記者会見で答えていた。僕などは単純な人間だから、本当に腹が立った。このような判決を出した裁判所も、そのような法律論に持ち込んだ外務省も、共に「法匪」だと思う。長引く裁判で、原告のうち何名かはもう鬼籍に入っている(ときどき思うんだが、日本の裁判所って、牛歩のような裁判で、原告が死に絶えるのを待っているんじゃないか、と妄想したくなるくらい、効率が悪いよな。まあ、パッパと死刑判決が出てしまうような国も、それはそれで問題だが)。
ちなみに番組にも出ていたけど、自民党の尾辻秀久氏が、国会において外務省を追求して、良いこと言っているのだ(これとかこれ)。久々に自民党議員を見直しましたよ(笑)。尾辻さん、日本遺族会の副会長とかもしてたり、「正しい歴史」がどうたらこうたらとか言っていたり、完全に「右」の人なんだけど、ドミニカ移民の件に関して(だけ)は素晴らしいですね(他の政治的信条は全くそりが合わないけど)。あと、民主党では川内博史氏が、この問題に取り組んでいますね(これとかこれ)。
でも、外務省の役人も、可哀想だな、とも思う。これだけ責任回避の言辞を弄しなければいけないんだから。凄まじきものは宮仕えかな。

ともかく、この春の判決に注目です。

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October 29, 2005

虚心坦懐に読めば・・・?

朝から雨で、ちょっと憂鬱な土曜日。
新聞を広げると、自民党の「新憲法草案」の詳しい内容が掲載されていた。全部、目を皿にして読んだわけではないけれど、ちょっと気になることを書き留めておきたい。

まず、一番の懸案である9条は、「自衛」と書きたい書きたい、と昔から言っていたのがそのままなので、これはとりあえずスルー(「平和主義」を堅持したまま、名前を「軍」にして、何が楽しいのか僕にはよく判らないけど)。

僕が気になったのは、12条と20条。特に宗教学者としては、政教分離規定の20条や89条に目がいくのは仕方がない。
まず12条だが、草案では

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民はこれを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する義務を負う。(強調引用者)

となってるのだが、なんだかなあ、って感じである。現行憲法でも「国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」となっているのだけど、草案の方は「自由や権利には責任および義務がつきもの」というお説教部分が混入されているわけだ。はっきりいうけど、こういうお説教、よけいなお世話です。
そもそも、憲法とは国民の国家に対しての命令だと昔に習った記憶があるんですが、どうも草案を作った人の頭の中ではそうはなっていないらしい(中世の「憲法」だって、王様が無茶をしないように掣肘するためのものだったわけだし。「マグナ・カルタ」とか)。納税・教育・勤労の三大義務をこなしていたら、基本的に犯罪以外のことはしていいはずなんじゃないの、という素朴な思いがどうしても湧き起こる。
有事法案でも「人権は最大限守られなければならない」と書いてあるが、「人権を守る」とは書かず「最大限守られなければならない」との表現は、「もしもの時には人権を守らない場合がありますよ」という注意書きとして読むべきだろう。この12条案には、それと同様の臭いを感じてしまう。

次に20条に関してだが、自民党案では第3項がいわゆる「目的効果基準」(これはかみ砕いて言えば、公的な現場で、ある特定の宗教を採用したりしても社会的にそれほど影響がなかったり、特別にその宗教を布教したりというような意図がなければ、それほど目くじら立てなくてもいいんじゃないの、という考え)に沿うような形で書き換えられている。曰く

国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉になるようなものを行ってはならない。

うーん、僕なんか、これでも虚心坦懐に読めば、首相及び国会議員の靖国参拝は憲法違反なんじゃないかと思いますけどね。やっぱり特定宗教の「宗教的意義」を有する行為ですよ、参拝って。そうじゃないと、逆に靖国神社の宗教としての尊厳はどこに、という話になる(ろくに拝まず、お賽銭チャリーンでいいんですか、という話だ)。ついでに言うと、「靖国神社への崇敬は国民の自然な感情で」などというなら、「自然」に任せるべき、という至極単純な考えを僕は持っている。

よく首相及び国会議員の「信教の自由」はどうなる、という声も聞くが、一個人として、内心で何を思おうが、何を信じようがそれは自由なのは当たり前。第一それを規制することは不可能だ。ただ、公を代表する人間がそれを前面に押し立てて行う行為には最大限の注意が必要という、単純な話だと思う。下っ端の公務員でも、結構政治活動その他に関しては色々うるさく言われるのだ。「公」のトップたる議員がもっと慎重になるべきなのは当然であろう。

貶してばかりだとあれなので、最後にちょっとは褒めておきましょう。僕個人としては、「あっさりしすぎ」と評判の悪い草案の「憲法前文」、結構すっきりしていて好きですよ。ただし、本当にあの文章に盛り込まれていることが実現されるなら、という留保は必要ですが。どうもそれと真逆の法案ばかり最近目立つ気がするんですが。杞憂なら、幸い。まあ、現行憲法の前文ですらも、海外に自衛隊を飛ばす理由付けに持っていく首相を今の我々は戴いているわけですしね・・・。

追記:様々なブログを巡回して、今回の改憲案の肝の一つは、改憲のための議員数が「三分の二」ではなく「過半数」となっていることだ、というのに気付かされた(96条)。過半数だったら、今の国会とかで、ドカドカ通っちゃうものな。そんなに改憲要件を簡単にしては、やっぱまずい。「現実に合わせて」どんどん作り替えるということは、現実に振り回される事と同義だ。

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October 26, 2005

「道義国家」がまた遠のく

昨日、植民地時代の台湾と朝鮮半島において、強制収容・断種など様々な被害を受けていたハンセン病患者たちがその補償を訴えていた裁判で、同じ東京高裁でこれまた対照的な判決が出てしまった。韓国側原告は控訴したそうだ、それは当然だろう。

一応新聞記事はじっくり読んだつもりだが、裁判所的な作文(悪文の極みであろう)もあって、全く判らない。単純に「法の下の平等」ってのに反しているんじゃないの、この判決は。僕は韓国研究者でもあるので、韓国に関してのイシューについては、普通の日本人よりも韓国側に同情的になってしまうきらいがあるが、それでももし、今回の判決で韓国側が勝訴、台湾側が敗訴という結果でも、全く同じ感情が湧き起こったことであろう。それには自信がある。「そりゃないよ」と。

言うまでもなく、僕は法律に関してはド素人も良いところだから、法解釈がどーたらこーたら、という具合には、文句が付けられない(裁判員制度についても、懐疑的な僕である)。法解釈というのは、まさに裁判官によって違うものなのだなあ、ということを改めて今回確認させられた、という感慨を持つだけだ。でも、合法だけど、納得のいかないことって、結構ある気がする。合法だけど、非道。日本の植民地支配や、当時の医療システムそれ自体がまさに「合法だ(った)けど、非道」と今なら解釈できることであろう。僕はそちらを重んじたい。植民地支配にしても、非人道的なハンセン病政策にしても、当時、どの列強も行っていたわけだが、「だから仕方なかった」とか「免罪される」のではなく。

あと、法律論とは離れるが、僕はこの判決の「政治的効果」というものも考えてしまう。最初から政治的効果を狙って判決をねじ曲げる、ということはあってはならないが(政教分離関係の裁判では、実はよくある風景だが)、今回の判決によって、また日本は「戦後補償をきっちりとしている道義国家」と名乗ることが遠のいたな、ということを思った。古くさい言葉かも知れないが、僕は「道義」という言葉が好きだ。

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October 07, 2005

耳元でささやかれ続けると

夕刊の一面に「自民党憲法草案」の記事が載っていた。絶対与党となり、いよいよ牙をむき始めた感もあるが、内容は昔から自民党が言ってきたことで、ある意味一貫してはいる(感心はしないけど)。自民党内の「新憲法起草委員会」の委員長は、「神の国」森センセイ。この人選だけでも、絶望的になるのは避けられまい。
記事によると、

原案では、国の基本理念として「日本国は、民主、人権、平和を国の基本として堅持する」との表現で、現行憲法の国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3 原則を継承する考えを表明。そのうえで、特徴として(1)愛国心の明記(2)天皇制に触れつつ国の成り立ちを紹介(3)国防の意義の強調(4)「自主憲 法」との明記――などが挙げられる。

とのこと。あと、「国際平和を誠実に願う」「国際社会において圧政や人権侵害を排除するよう努力する」との表現で、積極的に国際貢献に取り組む姿勢を示しているそうですが、その前に自分の国の中で圧政を敷いてどうする、と一言言ってやりたいのも事実(笑)。
でも、こういう動きをバカにはできない。
「愛国心は押しつけるものじゃなくて、いい国作りをしていれば自然と身に付くもの」
という正論があり、もちろん僕もそれに賛成だが、耳元で四六時中「愛国」「愛国」と言われれば、嫌でも身に付くものなのは、戦前の経験と独裁国を見ていれば判る。

この記事を読んでいて、思い出したのは、丸山眞男による中野好夫評だ。二人とも戦後の言論界をリードした知識人であるが(ちなみの僕は両者のファン。両者の全集を持っています。丸山のは、妻から奪っちゃったんですけど)、尊敬すべき先輩である中野を、丸山はこう評している。

中野さんほどの知性を持った人が、国策が決まった以上それに従うのが国民の義務だ、ということを信じて違わなかったということは、中野さんが正直に書いているだけにぼくらにとってはおどろくべき問題ですね。国家を超えた価値というものにコミットしていないということです。明治生まれの日本国民が、幼児から叩き込まれた教育というものがいかに恐るべきものであったかということも示しています。(中略)国民の義務とは何なのか、本当の愛国心とはどういうものか、その時々の政府が決定したことが国策となるとき、それはほんとうに日本の国家にとっていいことかどうか-それは国家が決めることじゃなくて、国家を超える価値を基準として初めてその国家がやっていることが正しいかどうか判ることです。その自明の理を中野さんのような知性といえども戦争前まで気がつかなかった。(丸山眞男「中野好夫氏を語る」、『中野好夫集月報11(第8号)』筑摩書房、1985年、p.12。現在は『丸山眞男集』12巻、岩波書店に所収)

丸山のこの中野好夫評は、非常に印象的だった。中野ほどの超インテリでもある意味越えられなかった「愛国」という枠(中野は人並み外れて「誠実」だったから、こういう事も口にした、とも評せるのだが)。しかし、一方では、

自分の戦前・戦中の経験をバネにして、二度とその過ちを繰り返すまい、という態度を持続的に(原文傍点)貫き、その反省を通じて自分の「思想」を変えていったかどうか(中略)中野さんは戦争直後の文章で「あのあまりに大きすぎる一連の代償から学んだ最大教訓の一つというのは、近代社会の市民というのは専門、非専門にかかわらず各人の信念はもし機会があれば表明すべきであって、それが市民の最大義務の一つだ。満州事変以来、国民がこの義務を実行していたら、たとえ暴力的抵抗に訴えるというようなそんな極端なことをしなくてもあの破局は食いとめられたのではないか」という趣旨を書いています。これは何でもないことのようで、実は日本に一番根づきにくい考え方です。(中略)中野さんは書物の中からでなくて、自分自身の戦前・戦中の体験から、これを体得して実行した。(同上、pp.10-11)

と、これまた重要な指摘をしている。恐らく「愛国心」(この「愛国心」が偏狭なものであることは言わずもがなだ。僕はそういうのを本当の愛国心とは認めたくはない)を憲法や教科書に盛り込みたい人々は、「国民なんて、耳元でささやき続ければ、どうにでもなるもの」と思っているのだろう(ささやきどころか大音量の恫喝かも知れないけど)。事実、そうい う側面があるのは否めない。しかし、このまま言われっぱなしでは腹に据えかねるので、ささやかながら、抵抗したいと思っている。例えば、こういうブログという道具を手にして、言いたいことが言えるわけですし。僕も、この偉大な二つの知性の顰みに、ささやかながら習いたい。

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October 05, 2005

妄想ですよ、自民党さん

今朝の朝日新聞で「「ジェンダー」迷走中」という記事が目にとまった。要するに、この「ジェンダー」という用語に対して、自民党が「ジェンダーという言葉は使うな」「文化が破壊される」などのいちゃもんをつけ、来年度改定予定の「男女共同参画基本計画」が揺れているんだとか。どうやったら、文化が破壊されるんだか。ただ「男だから、女だからって最初から不利になるような状況は良くないから改めましょうね」って言うことの、どこが文化破壊なのか。

最初に申し上げるが、自民党のいちゃもん(いちゃもん、としか表現しようがない)は、はっきりいって、妄想ですよ。何でこんなアホなことを堂々と開陳できるのかなあ。自民党のアンチ・ジェンダーフリーのグループの代表は、例の安倍晋三氏。ああ、こういう人なら、やっぱ陰に日向にNHKのああいう番組を作ったスタッフに圧力はかけるだろうな、というのはさておき、自民党のこの「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実施調査プロジェクトチーム」というのは、どうも根本的に「ジェンダーフリー」というものを誤解しているし、そういう脳内で構築された仮想敵を現実に投影している姿は滑稽である。彼らの語る「過激で文化を破壊するようなジェンダーフリー教育」などは、はっきりいってデマゴギーだ。まあ、学者でも、西尾幹二氏や八木秀次氏のように妄想を垂れ流す輩はたくさんいるから、学問のない議員先生をばかり責められないが(丁寧につっこみを入れたchikiさんに感服。僕なら、途中で挫折する(笑)。この二人の会話、ほんとオヤジ臭がして、同性ながら嫌になる)。いや、一応学者だからこそ、彼らの方が罪は重いだろう。

自民党のみならず、ネット上でも「アンチ・ジェンダーフリー」を標榜する人が大勢いるが(「フェミナチ」などという汚らしい言葉を用いて、まるで自分が特高警察の取調官にでもなったかのような思い違いをしているらしいけど)、彼らは何を「恐れて」いるのか。一番分かり易い理解としては「既得権」が脅かされる、というものだろう。男性の既得権はもちろんのこと、最近なら女性の側からもそういう声が聞かれる。だから、その「既得権」を見直そうっていう「ジェンダーフリー」にあれほどの敵意をむき出しにするのも、まあ、判らなくもないが、端的にみっともないよね。「既得権」にしがみつく姿を良くないって叫び続けたのが、小泉改革じゃなかったんでしたっけ?違っていたら、ごめんなさい。
自民党がこの問題とリンクさせて考えているであろう「少子化問題」にしても、「環境の整備」しか、もはや道はないのも明白だと思うんだけどなあ。どうして精神論に走るのか。まあ、その方がお金がかからないし、自分の今までの考えを否定しなくてすむから精神的にも楽なんだろうけど。

自民党の女性議員も・・・まあ期待できないだろうな(野田聖子氏も、今はハブにされているし)。今回当選した片山さつき氏なんかが、ある意味典型ではないかと勝手に思っているのだが、いわゆる「できる女性」は、自分の力で今までの人生を切り開いてきた自信があるので、却ってフェミニズムやジェンダーフリーのような考え方には理解を示さない、ということがよくある気がする(私事だが、大学時代の同級生で、そういうことを公言する友人がいた)。もちろん、自分が切り開いた道を再び閉じさせるわけにはいかないと考えている人も多いとは思うが。

僕も大学でジェンダー関連の講義を受け持ったことがあるが、上記の自民党の大人の皆さんより、大学一年生の諸君の方が聞き分けが良かったですよ。やれやれ。

追記:上記で引用した西尾・八木の居酒屋談義を斬りまくった「成城トランスカレッジ!」のchikiさんが、「ジェンダーフリーとは」というナイスなページを作成なさいました。どうぞこちらもご覧ください。Q&A方式で「ジェンダーフリーとはどういうものか」と言うことが的確に分かり、大笑いしながら反ジェンダーフリーのバカバカしさが分かります。(05.10.06)

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September 12, 2005

こんなプロフィールあり?

今回の総選挙、僕個人にとっては、大変残念な結果に終わってしまいました。
昨日は、見るのも苦痛な選挙結果でしたので、夜更かしすることもなく、すぐにふて寝したのですが、今朝の朝刊で、議員になった皆さんのプロフィールなどをじっくり読んでみました。そこで思ったことを列挙すれば、

1)なんだかんだで、東大OB・OGが多いということ(恥ずべき先輩も多いけど)
2)「松下政経塾出身者、やはり一定数はいるなあ」ということ(僕が数えたところ、ざっと10人はいた)
3)弁護士・官僚・医者など、元の職業が「しっかりした」人が多い(これは友人T君の指摘で気づいた)

といったところでしょうか。

で、ご飯を食べながら読んでいて、思わず「えっ、こんな事、プロフィール欄に書いていいの?」とびっくりしたのが、福井一区で勝った稲田朋美さんという議員(プロフィール欄は、彼女には不本意でしょうが、アサヒ・コムのものです)。ちょっと引用しますね。

稲田 朋美(46) いなだ ともみ
自民 新 当(1) 弁護士・自由主義史観研究会員・日本南京学会員▽早大

皆さん、よく見てください。「弁護士」、これはいいです。でも、彼女は「百人斬り名誉毀損裁判訴訟」の原告側の弁護士だそうです。

問題は次です。

自由主義史観研究会員日本南京学会員

なぜ、こんなところに単なるサークルの会員であることをさらけ出しているのか、全く判りません。「マイケル・ジャクソン・ファンクラブ日本支部会員」と書くようなもんじゃないの?(これじゃ、マイケルに悪いか)
ちなみにこの人、そのサークルの会報にもエッセイを書いているようです。

そして次の「日本南京学会」。まあ、名前を見れば判るように、「南京虐殺は色々疑わしいから修正しようね」という有志の集まりのようです。本当に「学会」なのかは、知りません。でも、「と学会」の方が数百倍、学会と呼ぶに相応しいだろうな、ということは疑いありませんけど。まあ、たとえ学者でも、自分の所属学会を選挙用のプロフィールに載せることは、滅多にないでしょう(その学会の会長でもしていれば別ですが)。よほど、プロフィール欄に書くことがなかったんでしょうね、この人は。
こういうプロフィールが堂々と出ていたこの「刺客」候補に票を入れて当選させてしまった福井一区の皆さん(約5万人)、申し訳ありませんが、僕はあなた方に対して、大変失望してしまいました(この選挙区、まれに見る接戦だったんですけどね)。
あと、僕が文句を言いたいのは、僕の生まれ故郷の大阪17区。自民党候補が勝ったのも、あまり気分が良くありませんが、何でこんな男にも相当数の票が入っているのか・・・。僕は以前彼のインタビュー記事を見て以来、たとえ彼が車にひかれて路上に倒れていても、助けてあげないと誓いました。

2001年の9月11日は、世界にとって忘れられない日となりましたが、ここ数年で日本という国の「かたち」が変わってしまったとしたら、僕の脳裏には2005年の9月11日も、忘れられない日となるでしょう。

今回は腹立ち・個人攻撃日記となってしまいました。

追記:これも、今更言っても仕方ない愚痴ですが、やはり死票が多すぎる小選挙区制という制度の弊がもろに現れた選挙だったと思います。小選挙区での総得票数の比は、自民対民主=47・8%:36・4%なのだそうです。なのに、獲得議席数は雲泥の差・・・。ワイマール期のドイツを笑えなくなってきました。でも、あの当時のドイツより、よっぽど自由を謳歌できているはずのこの社会が、このような選択をしてしまったことに、「世に倦む日日」のthessalonikeさん同様、本当にがっくり来ていますが、「たゆたえど沈まず」のstandpoint1989さんの以下の言葉も、肝に銘じたいと思っています。

民衆への呪いの声が聞かれる。衆愚という嘲りが、日々を生きる人々に投げかけられる。しかし分かっていたはずではないか。人間はパンのみで生きるのではないということを。
人間は生きる使命によって生きるのだ。
民衆の声に耳を塞いではならない。民衆と共に歩く視線を失ってはならない。民衆を呪った時、どうしてあなたがたの言葉が彼らに届くだろうか。これは、まだ、民衆の勝利ではない。しかしあなたがたの敗北である。
民衆を侮蔑し、その心を思いやることを怠った、あなたがたの敗北である。彼らのあせりと怒りを嘲笑したあなたがたの敗北である。

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July 25, 2005

脅しと想像力

今朝の朝日新聞で、例のNHKの特番(女性国際戦犯法廷を扱った回)が、政治的圧力により改編された件についての追加調査の記事が大きく載っていた。まずは、この記事を作成した朝日新聞に敬意を表するが、ざっと読んだところ、僕としてはあまり目新しいところがなかった、というのも正直なところだ。

何故かと言えば、申し訳ないが、今回の事件の中心人物である、自民党の安倍晋三氏と、中川昭一氏が「いかにも、そういうことをやりそう」な人なので、意外性がないのだ。別に彼らが悪人顔だ、というのではない(どっちかというと今までの自民党の議員の中ではハンサムな方かもしれない。議員全体の顔面平均点の低さはさておくとして。ついでに言うと、ハンサムな学者がもてはやされるのも、同様の理由による。閑話休題)。彼らの政治的信条やこれまでの経歴を見ても、「この人は、NHKに圧力をかけるような人ではない」と、どうしても思えないのだ(例えば、中川氏には、こんな著作がある)。彼らにかけられた「疑い」は、まさに、彼ら自身の経歴によるもので、いわゆる「不徳の致すところ」として、諦めていただくしかない。

まず、一般的にいって「脅し」とは、ヤクザが「どうなるか判ってんだろうな」と凄むのを見ても判るように、「相手の想像力」を駆使させるものである。具体的に色々言う脅しもあるだろうが、言質を取られないために、向こうの想像力に依存する脅しの仕方が一般的だろう。今回の、安倍氏や中川氏ら自民党のお歴々の「脅し」