February 11, 2008

「ひたすら反対する」という依存

このところ、なかなかに忙しく、こちらのブログには新しいエントリを書けなかった。
書きたいことがなかったわけではないのだが、今日はこのところ気になっていたニュースを振り返りつつ、ちょっとだけ抽象的に「反省」してみたい。

さて、政治の世界では、僕の「気に入らない動き」が矢継ぎ早に起きて、脱力していた。先月の大阪府知事選、そして先日の岩国市長選は、このブログを読んでいる皆さんならお判りのように、僕の傾向からして「残念な結果」に終わってしまった。この結果については、あまり言及もしたくないところだが、次々と公約を撤回するような言葉の軽い府知事を戴いてしまったのだ、ということを大阪府民の皆さんは少しは考えておいたほうがいいだろう(たまたまだが、僕は堺市出身で、両親や兄夫婦も大阪府民である。決して他人事と思っていない)。そして岩国市の方は、あまり暗い話をしたくはないのだが、国のテコ入れが、沖縄の各市町でどれくらい有効であったか、ということを少し振り返ってみるべきだと思う(すこし聞くところによると、土建屋栄えて商店街滅びる、という例があるそうな)。

あと、気になる動きとしては、茨城県つくばみらい市で、DVに関する講演が、やたら騒ぎ立てるグループによって中止に追い込まれたこと(詳しくはこちら)と、日教組の全体集会が某ホテル側から一方的にキャンセルされた事件。これらは、まさに「テロ」の一種(成功したテロ)だと思う。何か事件が起こるかもしれないという恐怖によって、人々を支配したのだから。この二つの事件をもし「我々の正しい主張が認められた」などと誇りに思っているような人がいるなら、その思考方法は、爆弾を背負っていなくても、自爆テロ犯と選ぶところはないだろう。皮肉をこめて言うのだが、日教組の集会現場に集まって気勢を上げる皆さんは、自分たちが「政治的な主張」を堂々と行う貴重な機会を失ったということで、ホテル側に少しは文句を言ってもいい。
この二つは反対グループの思想的傾向性も似通っているので、当然僕からすれば気に食わないわけだが、ロクな代替案を提示できなかった自分も歯がゆい。一言で言うと、向こうの動きに反対するのが精いっぱいで、「ひたすら反対する」ということで、彼らに依存していたとさえいえるかもしれない。もちろん、彼らの側も「ひたすら反対」ということでぼくたちに依存しているのだが、向こうと合わせ鏡のような関係になったことが腹立たしい。
今日街中で、「建国記念の日」に反対するグループに、威圧的な恰好と街宣車で罵倒を繰り広げる連中を遠巻きに見つつ、そんなことを思った。

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October 04, 2007

「声の大きさ」ではない

僕はこのブログで、歴史教科書の検定で、沖縄戦についての記載が枉げられたことに抗議してきたわけですが、先日沖縄での大規模な抗議集会を始め、全国的に広がる動きを見た政府が、その抗議を受け入れようとしていることは報道されているとおりです。

僕も勿論、このように事態が推移したことを歓迎していますが、しっくり来ないものも感じています。それは、今回のことが「声の大きなものが勝つ」という誤った先例として後年利用されはしないか、という心配といえば判りやすいでしょうか。
そもそもこの教科書検定問題は、当の検定自体に問題があったのであって(動機も検定委員も検定意見も)、「沖縄県民の声に配慮して」という物語に還元させることができる性質のものではありません。このような物語に回収されてしまっては、却って本当のことが隠蔽されてしまいかねません。

ということで、例えばある新聞の社説

「しかし、史実に基づいて執筆されるべき歴史教科書の内容が、「気持ち」への配慮や、国会対策などによって左右されることがあってはならない。」

というのは、言葉だけ見ればその通りで正しいのです(まあ、この社説は検定そのものの問題には頬被りしていますが)。僕だって、国民の「ご機嫌取り」として、教科書や教育現場に対して不当な政治的介入が起これば当然腹も立ちます(実際、今回の検定はそのような性格が強いことも大きな問題でした。その元凶が辞任したおかげで、こんなにもドラスティックに動いているわけですが)。たとえ、僕の信条に近い方向に動いたとしても、やはりそれはある種の「政治的介入」と見なさざるを得ません。それが僕のわだかまりになっているのです。今回の政府の対応を手放しで喜べないのはそのためです。

その時々の政治的要請で教科書の記述がどうとでも動いてしまうということ。先日の検定がまさにそれだったわけです(「戦後レジーム」からの脱却を計りたかった人たちの意向を汲んでの検定だったのでしょう)。そして今回のことが「県民の声という圧力によって動いた」とされてしまい、心ならずも「先例」を踏襲してしまうと、また近い将来「やっぱりそんな事実はなかった、という声が大きくなっているのでね」とオセロのようにひっくり返されはしないか、というのが僕の心配なのです(杞憂であればいいのですが)。

ですから僕は改めて「声の大きさ」ではないのだ、と強調したいのです。

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September 13, 2007

「歴史」にどう書かれるだろうか

安倍首相が、体調も悪いとの話もあるが、ともかく「これから頑張ります」と所信表明演説をぶった舌の根も乾かないうちに辞めることとなった。
その「無責任振り」とか「タイミングの悪さ」とかは、一々あげつらうのもバカバカしいほどなので、これ以上は言わない。ただ、これほどのみっともない政権放棄は、後年歴史でどう評価されるかくらいは覚悟しておいた方がよい。日本の過去について「美しい国」という幻想を押しつけ、様々に「改竄」しようとした人が最後にこういう目に陥るのは皮肉と言うか、天網恢々疎にして漏らさずと言うか。まあ、安倍さんの「愛国心」への傾倒振りなどはまさに典型的な「Patriotism is the last refuge of a scoundrel.(しょーもない奴は最後に愛国心に逃げ込む)」の例だと思っていましたが。

この政権が一日も早く終わるのを祈っていた僕にとっては「朗報」のはずなのだが、その割には余り心が躍らない。それは何よりも、徒労感というか、既にこの政権がやってきた教育基本法「改定」、国民投票法、防衛庁の省への格上げなど、僕が一切気に入らないメチャクチャな「実績」は彼が辞めてもひっくり返らないからだ。

でも、少なくとも、こういう首相を支持していた人、応援してきた人(一般人も議員も含めて)には、ご自身の「人を見る目の無さ」を反省していただかねば、嘘である

さて、内田樹先生が、この辞任に関して、相変わらずの皮肉をおっしゃっていて爆笑。

当然私には非人情なコメントを期待して電話してくださったのであろうから、期待通りのコメントをする。
首相がこのような理由でこのような時期に辞任し、後継首相選びで与党内が大混乱しているにもかわらずまったく社会不安が起こらず(辞意表明直後に株価は急騰したのである)、日本の政治的空白が国際社会秩序にほとんどネガティヴな影響を与えないということはわが国の社会的インフラがいかに安定しており、市民がいかに政治的に成熟しているかを証し立てている。
政治家が無能で、官僚が腐敗して、メディアが痴呆化しているにもかかわらず日本社会がアナーキーへ転落するであろうと悲観している国民はほとんどいない。
これはほとんど奇跡といってよろしいであろう。
これほど安定した国民国家を世界史は知らない。
豊葦原瑞穂国の弥栄を言祝ぎたい。

でも、「日本の政治的空白が国際社会秩序にほとんどネガティヴな影響を与えない」のは、日本の国際的プレセンスのなさというか、外交ベタ(安倍さんがある意味典型的)の帰結。まあ、よそ様に迷惑掛けるよりはずっと良いけどね。

森首相の時も言われていたけど、首相がどんなポンスケだろうが揺るがない日本の社会的インフラって偉大、といいたくもなるよな。これって、「戦後レジーム」の最大の成果かも。
頭でっかちに「愛国心」とか「美しい国」とか「奉仕の精神」とか、そういうお題目を唱える政権ではなく、正しい意味で「現実的」(大体、「現実的」という言葉は、自分の日和見主義を糊塗する時に使われることが多すぎる)な舵取りをしてくれる政権を望むのみ。それしかできぬ自分の非力が悔しいが。

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May 14, 2007

自民党の「強さ」

今朝の朝日新聞を読むと、滋賀県の自民党県連はこの前の県議選で大敗したのを受け、栗東市に建設予定だった新幹線新駅について、嘉田由紀子知事と県議会の「多数派」に合わせて、知事の示す建設中止の対応を支持すると決めたそうだ。少し引用する

滋賀県栗東市の新幹線新駅建設問題をめぐり、自民党県連は13日開いた定期大会で、嘉田由紀子知事が示す解決策を支持する、との方針を正式決定した。出席 した中川秀直・同党幹事長は、4月の県議選で自民が惨敗した敗因が新駅問題だったことを認め、今後は嘉田知事に対し、「抵抗勢力ではなく、対話勢力として 臨む」と述べた。これで新駅建設の中止が確実な情勢となった。

最初これを読んで「良かったなあ」という気持ちと「ざまあみろ」という意地の悪い考えが浮かんだのだが、よくよく考えるとだんだん腹が立ってきた。

じゃあ何、今まであれだけ強硬に反対していたのに「抵抗勢力と見なされて選挙に負けるから(中川幹事長)」という理由で、これまでの意見を簡単にすっこめちゃうの?「勝てば官軍」とはいうけど負けたからって簡単に「官軍」にしっぽ振るわけ?
こういう無節操振りが、まさに「自民党」の本質であり、「強さ」でもあることにも腹が立つ。そう、弱さではなく「強さ」なのだ。このような性質だからこそ、自民党が戦後殆どの時期「与党」であったのである。実は自民党の真骨頂は、その政治信条というより、身も蓋もない「現状肯定」である。
まあ、地方と中央では自民党の性質も違うだろうし、組織が一枚岩であった試しもない(現在歴史学でもトレンドなのは、かつて一枚岩と見られていた組織の中のグラデーションの解析である)。でも、今回の事例は、自民党のいう政党のあり方を改めて僕のような愚鈍な者に示してくれたものといえるだろう。

そして、そういう「どうとでも動く見解」しか持たないような人々が、あたかも不屈の意志でもって「改憲します」なんてことを言っているから腹も立つわけである。政治家の人には、信条とか座右の銘で「天道我にあらば百万人と雖も我行かん」なんていう言葉を挙げる人も多いけど、くだらない部分にだけこの信条を貫く人が多いようだ(現首相含む)。

あと、言わずもがななんだけど、「戦後レジーム」って、90数%自民党が作ったものだと思うんだけどね、それを否定するってどういう事?残念ながら、戦後日本の屋台骨だったのは、左翼政党でも労働組合でも、ましてや日教組などではなく、自民党のはずなんだけど、それを否定するのというのは恐らく、「今の世の中はおかしい、変えなくてはならない」という世の中の雰囲気をそのまま自民党という怪物が「追認」したからであろう(改憲は結党以来の党是、などという言葉に騙されてはいけない)。

そして、その雰囲気に乗っかった改憲の行き着く先は、内田樹先生がいみじくも解説しているとおり、「改憲で日本が手に入れるのは「アメリカ以外の国と、アメリカの許可があれば、戦争をする権利」であり、それだけ」にすぎない。

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March 08, 2007

あった・無かったの話ではない

先日は、安倍首相が従軍慰安婦問題について「広義の強制」があったが「狭義の強制(軍隊や政府が自ら慰安婦徴用を行ったような)」はなかったというような歯切れの悪い、言わなくても良いようなことを口走って問題になりましたが(まあ、要するに強制といえることはやったとは首相も認めているわけですね)、本日夕刊を読むと、しょーもない記事に酔いが覚めました(折角良い気分で酔っぱらって帰ってきたのに)。
自民党有志の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」というグループが「河野談話が誤った認識の根拠になっている(だから修正すべし、と本当は言いたいんだけど、海外での評判がますます悪くなるから今回は見送り)」ということを政府に申し入れするんだそうです。ちょっと記事から引用しますと、

従軍慰安婦問題で、軍の関与と強制性を認めた93年の河野官房長官談話の見直しを論議していた自民党有志の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会 長・中山成彬元文科相)は8日、「数々の慰安婦問題に対する誤った認識は、河野談話が根拠となっている」との見解を盛り込んだ提言をまとめた。近く政府に 提出する。同会はこの見解をもとに同談話の修正を政府に求める予定だったが、安倍首相の「強制性」についての発言が内外に波紋を呼んだことに配慮し、修正 要求は見送った。

とのことだそうです。

アホ、としかいいようがない。日本の前途の前に、自分の前頭葉を心配した方が良い。

まず、従軍慰安婦の存在や、その徴用における暴力性は既に歴史学的には決着のついたところであって、今更「無かった」と覆せる類のものではありません。一次資料だって一杯出ています。軍がどこまで関与していたか、とか人数はどのくらいだったかというようなところにグラデーションがあるだけで、「関与した・しなかった」「あった・なかった」の二元論の問題では既にないのです(もしかしたら、規律正しい皇軍は、虐殺も強姦もせず、悪徳業者に騙されて軍慰安所を設置してしまったという「新事実」でもあるのでしょうか?寡聞にして、そんな純真な軍隊の存在など、聞いたこともないですが)。

ほんとうに「無かった」と言い張りたいなら、それこそ「無かったことの決定的証拠」を出さねばならないのに、そういう努力は微塵もしようとしないところもいやらしい(そういう証拠など、出てくるはずもないのですが)。

こういうどうかしている歴史修正主義者が政権の中枢にいるというだけで、日本は世界中で評判を落としまくっているのです。たとえば、「壊れる前に…」のうにさんがレポートしてくださっていますが、インドネシアやフィリピンで、今回の安倍首相の発言がどのように受け止められているか、よく判ります。ほんと、正しい意味で、国辱です。

今、北朝鮮が「血塗られた過去と決別できない国」日本の国連常任理事国入りに反対していますけど、向こうの論調に、「塩を送る」ような真似してどうするよ、と思います。
心にもないことでも、内政外交のためならいわざるを得ないのが「政治家」という職業だと僕は思っています。別に常に嘘をつけ、とかマキャベリズムを称揚するつもりはありませんが、それくらいの戦略、戦術もなく、バカ正直に(正直言って、バカなのだが)自分の言いたいことを言えば誠意が伝わる、という考えの方がどうかしています。

というわけで、このグループに入っている連中は、事実認識としても大バカだし、政治家としての戦略もないので、二重にダメな人だと僕は結論づけるしかありません。

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January 29, 2007

教育に金を掛けずにどうする

さて、安倍首相は教育問題に対して大変熱心で、教育基本法は変えちゃうし、「教育再生会議」という諮問機関を組織して色々発言させているわけですが、メンバーに居酒屋チェーン店の社長がいるからと言うわけでもないでしょうが、「そういえばあ、こういう事もあるよね」という居酒屋談義を続けているように見えるのは僕だけでしょうか。
この教育再生会議には、教育外の世界で功名を遂げた面々も大勢入っていて、それについては文句ないのですが(上記の社長についても、立志伝中の人であることを認めるのにやぶさかではありません)、教育学についての専門的な学者を一人も入れなかったというのはどういう訳でしょうか。まあ、専門家に入られると都合の悪い話をしようとしたのだろうな、という推測くらいはつきますね。そういう会議が「国家百年の計」と言われる教育行政の指針となるわけです。やれやれ。

この教育再生会議が最近出した「第一次報告書(リンク先はPDFファイルです。注意)」をざっと読んでみましたが、僕には物足りないと感じました(本当は物足りないと言うより、「いじめ問題」の対応とか「ボランティアの必修化」など、本当は色々突っ込みたくてしょうがないのですが、今回は控えます)。
何が物足りなかったかというと、「お金」のことがあまり触れられていなかったからです。要するに「教育再生」と言うからには「教育予算をうんと増やせ、教員数の大幅な増員を!」くらいのことを政府に答申するかと思っていたのに、そのような提言は(あまり)なされなかったようです。ある部門の先生の増員や、給与水準を上げてやる気のある人をスカウト、ということは書いてありましたが。その替わり「先生に対して免許更新制度を採用し、厳しく査定せよ」みたいな提言はありました(これまでの教育行政、殊に教育委員会の有り様を見ている限り、どういう基準で選ぶのか、十分に怪しいですが)。

一昔前、良く「30人学級の実現」と言うことが唱えられていました。少子化が進行しつつある現在でも、都市部においてこれはまだちゃんと達成できていないのではないでしょうか。
僕みたいな「素人」からすれば、先生の数をうんと増やしてこの30人学級(もっと少なくても良いですが)を達成できれば、教育再生会議で掛かっている懸案のほとんどは対応可能なのではないかと思うのですがねえ(習熟度別クラスとか、いじめ問題だとか、学習困難児に対するきめ細かい対応、という文言はどこかにありましたが)。予算増加といっても、基本的には先生の人件費だけなのですから、ダムとかの大がかりな公共事業やら戦闘機や戦艦をちょっと諦めれば、それくらいのお金が捻出できるように思うのですが。
保守的な人から、教育に対して「道徳心の涵養」やら「国を愛する心」だとか、そういう抽象的な要求が突きつけられている昨今ですが、「教育予算をがばっと増やします」というようなことを公約に掲げている与党の議員さんって、どんな方がいらっしゃるでしょうか。寡聞にして存じ上げませんので、ご存じの方はお教えくだされば幸いです。今後の選挙では、そういうことを公約に掲げていることを基準に投票したいな、と思っていますので。

教育に携わる者の一人として申し上げれば、予算を思いっきり増やして、現場に任せてくだされば、恐らくお正月、お彼岸、お盆とかに家族やふるさとの価値を子供に吹き込む(報告書20頁参照)よりも効果は絶大だということを請け負います。

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November 30, 2006

戦後の「貯金」を使い切るのか?

このところ、政治がらみの話題では、僕にとっては暗くなるニュースばかりが飛び込んできて、気が滅入る。
「教育基本法」改悪問題もそうだが、最近気になっているのは防衛庁の「防衛省」昇格という話題。タウンミーティングのやらせ問題や、いじめ問題をどうするか、という声に紛れて、いつの間にやら民主党まで賛成に回ったので、衆議院を通過するとのこと。暗澹たる気持ちになる。

さて、防衛庁が防衛省に昇格することで、どんなメリットがあるのだろうか。
そのメリットの数々は新聞報道でも多少解説されているのだが(自衛官の士気が上がるなんていうけど、今までの活動や災害救助では上がらなかったのかね?)、僕などは、戦後の日本が、一度も(本当に幸いなことに)海外に出向いて人を殺していないという実績が崩れるのも時間の問題だ、という気がする。要するに、この60年ほど、日本がとりあえず営々と築いてきた(はずの)信頼の「貯金」が崩される、ということだ(そんな信頼など最初からないというなら、話はそれまでだが)。

例えば、僕が日本の隣の某国の国民なら
「日本は確かに自衛隊という欺瞞的な名称の巨大な軍隊を持っているけど、それを取り扱う官庁が、第二のランクっていうことは、軍隊を中心にするような国作りはやらないという意思表示なんだろうな」
という形で、とりあえず「納得」はすると思うし、これまでもそうだったと思う。そのような外国からの視線を捨てるほどのメリットは、この「省」への昇格にあるのだろうか?僕はないと思う。「仮想敵国」の敵意を和らげることができれば、それに越したことはない。無用の火種を作ってどうするのか。
よく「日本はなめられている」という表現がされているが、日本は経済力と政治(外交)力でなめられないようにするだけの力と実績がないとでもいうのだろうか?僕はあると思う。少なくとも、それを模索するのが筋だろう。

闘わずして勝つことが最上と、戦の天才の孫子さえ言ったではないか。
凡人の僕は、この孫子の驥尾に付したいと思っている。

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November 09, 2006

教育基本法「改悪」阻止へ

今回は、何も考えず、ベタなタイトルで書きます。
先日、「パブリックコメントって、アリバイ作りだよなあ」という半ば自嘲的なことを書いてしまいましたが、やはり、目の前にある問題をただ黙ってみているのも悔しいので、とりあえず、口出しできるところにはしていこうと決心しました。
というわけで、今回は、現在の安倍政権で持ち上がっている「教育再生」(!)にたいして、パブリックコメントが求められています。少し引用しますと、

教育再生ホットライン~みんなで実現する教育再生~  

教育再生会議では、広く国民の皆様から教育の現状に対する疑問や提案を受け付けております。いただいたご意見は教育再生会議における議論や提言に活かしてまいります。
 ご意見については、様式自由としますが、300字程度以内におまとめいただきますようお願いします。
 ご意見の提出方法は、(1)電子メール、(2)FAX、(3)郵送といたします。電話による受付はいたしません。
 ご意見を提出される場合は、個人は年齢、性別、職業、住所(都道府県のみ)、団体は所在地(都道府県のみ)を明記願います。氏名(個人の場合)、団体名の記載については任意といたします。
 なお、個人や法人を特定できないように整理した上で公表する場合もありますのでご了承願います。また、いただいたご意見に個別に回答を差し上げることはいたしませんので併せてご了承願います。
 皆様からのご意見をお待ちしております。

とのことです。300字程度なので、あまりちゃんとしたことが言えませんが、何でもかんでも「教育基本法」だとか「憲法」とかのせいにして現状打破を訴えるより、30人学級ですとか、教育にお金をかける方がより有効なのは分かり切っています。
というわけで、実効性もなく、危険な部分も含んだ今回の教育基本法「改正」案には、僕個人は強く反対しています。
なお、この度の問題点については、多くの方が言及していますが、とりあえず最近のものとして、保坂展人さんが、名古屋での公聴会(高橋哲哉先生の講演)について書いているこのブログが参考になるでしょう。

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November 07, 2006

「聞く権力」か?

このところ「パブリックコメント」というものが気にかかる。
要するに行政側の「ご意見をお聞きします」というやつだが、努力しているであろう行政側のみなさんには申し訳ないけど、どうも「アリバイ作り」という気配が濃厚な制度だ。厄介なのは「聞く方もアリバイ」ならば、「言う方もアリバイ」になってしまうという点。アリバイの共同製作兼共犯関係。それで、言う方(の我々)も徒労感をつい感じてしまうのだ。

パブリックコメントは数年前から、国や自治体がちょっと大きめのことを決定・廃止・改定するときに聞くことがほぼ義務づけられているようだが、正直言ってよく判っていなかった。実は急に関心を持つようになったのは、僕の勤務する大学が法人化問題に直面しており、現在そのパブリックコメントを行政側が求めているからで、先ほど僕も個人名で意見を申し述べた(このパブリックコメントをどうしようかとこの数日悩んでいて、「パブリックコメントって一体何だろう」と思い、色んなサイトを見て回ったのだ)。

まあ、僕の意見が採用されたり、通るとは思わないが(色んなサイトを参照するに、賛成と反対の数や傾向くらいは「結果発表」として出してくれると思うけど)、どれくらい本当に反映されたり忖度されたりするのだろうか。
もちろん、パブコメによって、政策が左右されすぎるのも考え物だ。例えばあるグループの「組織票」によって、ある案件に対して「賛成」が9割を超えた、じゃあ変えちゃいましょうなんてことになると、これまた困る(パブコメではないが、「憲法九条」について問うた護憲派サイトのアンケート結果が、組織票によってねじ曲げられた事例なども僕は知っている)。
また最近だと、教育基本法をめぐる地方公聴会(タウンミーティング)での「やらせ質問(しかも行政側の改革賛成の立場からの)」疑惑もあったりするしねえ(先ほど、内閣府がその事実を認めた。やれやれだ)。というわけで、どうしても住民の声を吸い上げると称している制度自体に全幅の信頼を置けないのだ。

何かパブコメ制度って、ミシェル・フーコーの言っていた「聞く権力」の最終形態のような気がしてきたな。フーコーは、首根っこを押さえつけて言うことを聞かせたり、生殺与奪の権を持つような権力のあり方は古い形態であり、近代以降の権力は、まず様々な装置(学校とか)により「内面化」され、促さずとも向こうから言い寄ってくるような形になってきていると指摘し(それが貫徹できていれば、完璧な「権力」なわけだ)、「殺す」のではなく、「その者の話を聞いてやり」「健康状態などを気遣いつつ生かす」のが近代以降の権力なんだ、というようなことを言っていたと思う(大雑把すぎるまとめですが・・・)。パブリックコメントを書きながら、頭の片隅でグルグル回っていたことは、上記で触れたような徒労感と、フーコーの理論だった。

ちょっと愚痴っぽく書いてしまいましたが、でも数年後の自分に「あの時お前は何もしなかったじゃないか」という風に言われないために、僕も「アリバイ」と半ば開き直りつつ、手の届く範囲でパブコメを含め、コソコソやっていこうとは思っています。

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June 08, 2006

水俣からドミニカへ

Kugaijoudo 本日、ドミニカ移民政策の国の過失を問う裁判が東京地裁で開かれ、国の法的義務違反及び賠償責任は認定しましたが、時効により賠償そのものは棄却、という判決が下されました(原告側は控訴の予定)。原告代表の方は「祖国とは、国民を騙し、殺し、捨てるものなのですか」と声を絞って訴えていらっしゃいました。
このブログで以前、たまたま深夜のドキュメンタリーでこの事件を知って、書いたエントリもありましたが、非常に僕個人としても残念な気持ちになりました。

今晩テレビニュースでこの事件の映像を見ながら思い出していたのは、石牟礼道子さんの『苦海浄土』(講談社文庫)でした。この作品はご存じの方も多いでしょうが、水俣病を彼女独特の手法で扱った名作です(石牟礼さん自身も「アニミズム」と「プレアニミズム」という言葉を使っていますが、まさに石牟礼さんは患者に憑依され、患者の声を語る巫女です)。
彼女のこの作品では、国会議員や大臣が来ると「お願いします!!」とすがりつく患者達の様子が描かれています。そのような人に、いかに「国」は冷酷だったことか。

今回の裁判を見ても、「この国のかたち」はあまり変わってはいないのでは、と思ってしまいます。

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