April 26, 2008

『思想地図』vol.1発売!!

Shisochizu_001_2 こちらのブログはご無沙汰になってしまいましたが、今回は「営業モード」で書かせていただきます。
編者の東浩紀さんも、執筆者の増田聡さん高原基彰さんも既にブログでお書きですが、NHK出版から、思想雑誌『思想地図』の第1号が出ましたので、お知らせいたします(出版社の予定としては、もうちょっと先なのですが、もう色んなところで流通し始めているらしいので、フライング気味に宣伝いたします)。僕も縁あって、一本論文を書かせてもらいました。本は写真をご覧ください(amazonbk1)。

全体がオレンジの、非常に特徴のある本です。多分、書店で平積みされていたら、結構目立つと思います(人文系の新刊コーナーやNHKブックスの並びに置いてあると思います)。
僕は数日前、執筆者として見本をいただいたのですが、思った以上にボリュームがあり、実はまだ全部ちゃんと読み切れていないのですが、僕以外の執筆者の皆さん方は、非常に面白い論考をお書きになっていることは保証しますので、どうぞ本屋で見かけたら、この「オレンジ色の憎いヤツ」(このキャッチコピーを知っている人は、相当年を食っていることでしょう)をお手に取ってください(できればそのままレジに行って、1575円ほどを差し出してくださると、なお嬉しいです)。
では、この号の目次を以下に示します(副題やページ数は省略)。

・創刊に寄せて          東浩紀+北田暁大
・国家・暴力・ナショナリズム      東浩紀+萱野稔人+北田暁大+白井聡+中島岳志
・日本右翼再考     中島岳志
・日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯     高原基彰
・マンガのグローバリゼーション     伊藤剛
・データベース、パクリ、初音ミク     増田聡
・物語の見る夢     福嶋亮大
・中国における日本のサブカルチャーとジェンダー     呉咏梅
・日本論とナショナリズム     東浩紀+萱野稔人+北田暁大
・ブックガイド「日本論」     斎藤哲也
・「まつろわぬもの」としての宗教     川瀬貴也
・〈生への配慮〉が枯渇した社会     芹沢一也
・社会的関係と身体的コミュニケーション     韓東賢
・共和制は可能か?     白田秀彰
・死者への気づき     黒宮一太
・キャラクターが、見ている。     黒瀬陽平

執筆者の一人として言うのも何ですが、素材的にも硬軟が上手い具合に混じっていると思います(これは編集の東・北田両氏のお力によると思いますが)。
あと、特筆すべきは、表紙及び各チャプターの扉のイラストが、僕の尊敬する榎本俊二先生であること。榎本先生と一緒の本に載れただなんて、本当に嬉しいサプライズ。NHK出版編集のOさんも、このことは教えてくださってなかったから、驚きもひとしおです。思わずこの表紙を見た時、「ロールミー、ロールミー」と叫びそうになりました
あと、何と言っても、僕は恥ずかしながら、一般書店でも売っているような本に書かせていただくのって、実は初めてなんですよね(学術雑誌、報告書、学会誌、事典、出版社のPR誌とかにはこれまでも書いてきましたけど)。
もし拙稿のご感想などをコメント及びメールなどでいただければ、幸いです(友人のK池くんからは「やっぱり君のは、S薗(僕の指導教官)チックな論文だねえ」と苦笑されると思いますが・・・)。

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December 04, 2007

『宗教学文献事典』発売!

Syukyougaku_bunkenjiten 今回のエントリは、完全な「宣伝活動」です。
弘文堂より、『宗教学文献事典』という事典が刊行されましたので、このブログをご覧になっている奇特な方にお勧め(というか押し売り?)させていただく次第です。
この事典は、その名の通り、宗教学、宗教研究に関する古典、良書を幅広く集め、それぞれの簡便な要約・紹介をしたもので、「読む事典」の一つだといえるでしょう。その数、実に849冊!!僕自身は、四つの項目を書きました。
「あの有名な研究書、どんなことが書いてあるのかなあ、いきなり読むのは骨だしなあ」ということは、我々学者でもよくある話で、そんなとき、このような事典が非常に有用です。どんどん読んでいくと、知らず知らず「物知り」(ただし宗教学方面に限定されますが)になれます。大学院試験対策として利用するのも手かも知れません。なお、原著者や訳者自身による要約が多いのもこの事典の特徴です。
内容の詳細は、弘文堂のホームページ内のここや、アマゾンの紹介をご覧ください。

というわけで、このブログをご覧の―特に研究者の―皆さま、一家に一冊と推薦できない学術書ですが、自分用に一冊、職場(大学・研究機関)に一冊お買い求めくださいますよう、お願い申し上げます。

ただ心配なのは、このブログを読んでくださっている奇特な研究者の方って、大体僕の知り合いで、この事典の執筆者だったりするので、宣伝効果がほとんど無いことなのですが(笑)。

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May 20, 2006

「韓流」は何をもたらしたか?

5月20日に大阪市立大学で行われた国際高麗学会のシンポジウムに参加してきました。僕はこの学会、参加するのは初めてでした。
シンポのテーマは「どうなる日韓関係:韓流と嫌韓流、二つの潮流を読む」というもの。パネラーとして、以前からの知り合いの先生方が参加していたので、そのお顔を拝見しに行ったのでした。

シンポジウム「どうなる日韓関係:韓流と嫌韓流、二つの潮流を読む」
コーディネーター 朴 一(大阪市立大学)
第1報告 姜誠(ノンフィクションライター)
第2報告 綛谷智雄(第一福祉大学)
コメンテーター:藤永壯(大阪産業大学)、高吉美(兵庫部落解放人権研究所)

コメンテーターを務められた藤永先生とはもともとの知り合い(僕から見れば、朝鮮近代史研究のの先達です)、綛谷先生とは、ネット上でやりとりをしていたのですが、実際にお会いするのは初めてでした。実は、このシンポは、『まじめな反論 『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ』(コモンズ)という本の出版に合わせたもので、パネラー、コメンテーターの先生方は、この本の執筆者でした。
シンポジウムでは、様々な問題提起がなされましたが、印象深かったのは、以下に挙げる点でした(以下のまとめの文責は僕に帰します)。

Antikenkan まず、姜誠さんの発表とコメントですが、「嫌韓」は、様々な要因が組み合わさっているとの指摘が印象的でした。まず、「嫌韓」と対をなす「韓流」ブームですが、その担い手となった「冬ソナ」支持者の実年女性に対するバッシングというのも、ちょっと前の男性向け雑誌には顕著だったそうです。これなど、racismとsexismの組み合わせといえるでしょう(この話を聞いて、僕は大袈裟かも知れませんが、例えば金子文子や、「日本人妻」の問題を思い出しました)。「嫌韓」の発露は韓国と日本の外交問題(戦後補償問題、靖国問題、従軍慰安婦問題など)や、北朝鮮の拉致問題などが勿論引き金になっていますが、国内的な要因も大きいのでは、という指摘もありました。よく言われることですが、「勝ち組」「負け組」という残忍な二分法で人々を分ける発想など、新自由主義的な社会でのストレスを、叩きやすい「敵」を見つけて晴らす、という一つの運動が「嫌韓流」ではないか、ということです。そして、国外を見ると、911テロやイラク侵攻などへのアメリカの対応を見て、「力が全て」「対話は不可能」という一種のシニシズムが蔓延し、それも「嫌韓」の流れに棹さしているのではないか、という指摘は興味深いものでした。このシニシズムは「営業右翼」と呼ばれる「強い言説(実際きつい調子での論説を載せると、雑誌は売れるそうです)」への傾斜を促していると、僕も思います。
綛谷さんは、「嫌韓」というのは急に湧きあがったものではなく、戦後日本にずっと伏流していた「本音」が形をかえて現れたものではないか、と指摘していました。簡単に言えば「戦前の日本はそれほど悪くなかった」「植民地では良いこともした」というような「本音」です。これは別に新しい考えでもなんでもなく、戦後から一貫して、ある層が保持してきた考えだと僕も思います。そして、良く「嫌韓」的な人が指摘するように、いわゆる「反日」的な作品(小説・ドラマ・マンガ)が韓国で製作されているのは残念ながら事実ですが、それには「反省しない日本」という像(イメージ)が反映しているのではないか、とも指摘されていました。そして、これまた重要なのですが、そのような「頭でっかちのイメージ」で造られた日本像はおかしい、といっている「知日派」の知識人も、韓国にはどんどん出てきているのです。要するに、向こうを一枚岩と捉えて十把一絡げに批判しても、意味がないということです。
あと、司会者を務めていた朴一先生がおっしゃっていたのですが、「韓流」は在日コリアンの上を素通りしていったが、「嫌韓」には巻き込まれてしまったという感が強い、とのコメントも、僕には印象深かったです。確かに、「韓流」は韓国への興味を増大させた(特に今まで韓国に無関心か、漠然と悪感情を持っていた層の興味をかき立てた)という功績は否定できませんが、それが自分の「隣人」たる在日コリアンへの興味などへ向かったか、といえば、やはり疑問とせざるを得ません。でも、「近所づきあい」のレベルでは確実に前進した面も存在することも指摘されましたし、「韓流」のドラマを輸入するときにその「仲立ち」をしたのは在日コリアンの人々でもありました。そういう「プラス」の面も評価するべきだとの声もあり、これにも僕は大きく頷きました。「嫌韓流」という潮流も、無視できないとは思いますが、実際は「韓流」もしくは「知韓」「好韓」(裏返せば韓国側の「知日」「好日」)の傾向が着実に根を張っているのだから、そちらに希望を託したいとのまとめで、今回のシンポは幕を閉じました。

さて、休憩時間や懇親会で、色んな先生と雑談したのですが、実際若い世代は、果たしてどれだけ『マンガ嫌韓流』を読んだり知ったりしているのか、という話題で、ある先生曰く「僕の教えている1年生では、98%は知らなかった」とのこと。僕も、大体そんなものかな、という気がします。ただ、ネットにどっぷり浸かっている層では、その比率が上がるかも、という気はします。ネット上は、自分と意見を同じくする(もしくは敵対する)言説を一気にまとめ読みできるメディアですからね(mixiのレビューでも、噴飯もののがたくさんありました)。
あと、ちょっと気になる傾向として、けっこう「勉強熱心」な学生が、「歴史の真実」というようなあおり文句に惹かれて、『マンガ嫌韓流』のような本を読むのではないか、という指摘がありました(でも「勉強熱心」と言ったって、あのマンガとかを読んで「目が開いた」と言っているレベルですから「もうちょっとお勉強してきてね」としか言えないのですが)。僕自身は、まともに僕に例の本のような意見をぶつけてくる学生には(幸い)当たったことがないのですが、民主党前代表の前原さんの選挙事務所でバイトしていた学生が僕に「(民主党右派的な)改憲論」をぶってきたのには微苦笑させられた、という経験はあります。ともかく、「嫌韓」的な物言いをする学生に「とにかくこれを読んでご覧。読んでから韓国のことを語ってご覧」と手渡せる本が出版されたことは嬉しいことです。
この本がネットにうごめく嫌韓厨の「心」に届くとは、残念ながら考えにくいですが(でも、100人中数名は「転向」してくれないかな、と期待していますが)、この本の執筆者は「俺がやらねば誰がやる」との義侠心で執筆なさったと思います。僕ももちろん、その心意気を支持します。

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April 30, 2006

「顕彰」はする、でも「慰め」にはしない

Shimamori 昨日、もと読売新聞記者の田村洋三さんの著書『沖縄の島守―内務官僚かく戦えり』(中央公論新社、2003年)を読みました。これは、戦争末期、沖縄で最後まで奮闘した島田叡(あきら)沖縄県知事と、荒井退造県警部長という二人の「文官」の足跡を、生き残った周りの人々の証言から再構成したもので、非常に感銘を受けました。ちなみに田村さんは、同じく沖縄戦で自決した海軍司令官大田實の伝記も書いています(『沖縄県民斯ク戦ヘリ』講談社)。なお、島田知事に関して一番有名な評論は、島田知事の第三高等学校の後輩であった英文学者で評論家だった中野好夫の「最後の沖縄県知事」でしょう(中野好夫集8『忘れえぬ日本人/人間の死に方』、筑摩書房、1985年)。僕も島田知事についてはこの評伝で知りました。

戦況は絶望的になり、沖縄は本土の「捨て石」とされ、多大な被害と悲惨な記憶を持たされることとなったわけですが、何と言っても聞くのが辛い証言は、戦争末期の日本軍の県民に対する「暴力」です。食料を奪う、住民が避難していたガマ(洞窟)から追い立てる、鳴き声が聞こえるとまずいからと赤ん坊を殺す、というような酸鼻きわまる事件はこれまでも繰り返し語り継がれてきました。
そしてこの書では、そのような「この世の地獄」の中で最後まで冷静さと優しさを失わず、今も沖縄県民に慕われている島田知事と荒井部長が「顕彰」されているわけです。もちろん、僕もこのお二人の人柄に感銘を受け(まさに「noblesse oblige」を地でいくような人たちです)、思わず涙ぐんでしまった口ですが、気をつけなければならないのは、「こういう希有の存在」を内地(ヤマト)の「免罪符」にしてはならない、ということです。内地から派遣された官僚や軍人にも素晴らしい人材がいた、という事実を持ち出して、安易に慰めにはしてはいけないのではないか、と思いました。もっと言えば、こういう素晴らしい人材を犬死にさせた大きな時代状況をやはり「憎む」必要がある、ということです。この書を読んで思ったのは、以上のようなことです。

追記:現在、沖縄戦の生き残りの元軍人が「私は住民に集団自決を命じてなどいない」と、『沖縄ノート』を書いた大江健三郎氏と出版元の岩波書店を名誉毀損で訴えるという裁判を起こしているそうです(この裁判の原告を支援する人びとの顔ぶれを見ると、なるほど、こういう運動か、というのが判りますが・・・)。「命令などしてない」という一点突破を計りたいようですね。ここに書かれているように、「命令」があったかどうかは、問題ではありません。そのような時代背景のもと、どのような「力学」が働いていたかどうかが問題なのです。これは、例えば従軍慰安婦に軍が関与しているかどうか、というのを命令書の有無だけで片付けようとする流れと軌を一にするものといえるでしょう。

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February 02, 2006

今は既にない「懐かしい」場所へ―『博士の愛した数式』

のっけからお恥ずかしい話ですが、久しぶりに、小説を読んで(その後映画を見て)、涙を落としてしまいました。それは小川洋子さんの『博士の愛した数式』です。

僕は感激屋のつもりですが、「泣く」ことは滅多にないです。一番びっくりしたのは、自分自身です。何が僕の「泣きツボ」だったのか、それを考えつつ、この文章を書いています(最初に申し上げますが、「すごく泣けます」と皆さんにこの作品を推薦するつもりはありません。僕がたまたま泣けただけで、他の方がどう感じるかは判りません。ただの自己分析です)。

これ以降は、ネタバレを含みますので、小説及び映画を白紙で見たい方は読まないでください。

さて実は、僕、昔けっこう小川洋子さんの熱心な読者だったんですが(芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』のサイン本を買ったほどです。あれは神田の三省堂だったな。端正な字でした)、その「甘い」世界からわざと距離をおくべく、この10年ほどは読んでいませんでした。

しかし、映画化もされたということだし(僕の好きな深津絵里が主演だし)、まあたまにはと思って手に取ってみたら、ぐいぐい読んでしまって、今日のテスト監督中(自分が担当している「宗教学」という講義のテストでした)に読み終えて、そのまま夕方に映画まで見に行ってしまいました。実は、テスト監督中読んでいるとき、目頭が熱くなり、焦りました。学生は気付いていなかったでしょうけど、鼻をすする音くらいは気付いたかな。

小川洋子さんの世界って、いつも何らかの濃密で、内閉的な(でも居心地は良い)一種の「共同体」が崩れた後、「私」がそれを一人称で回顧する、というモチーフが多いと思うのですが、この本も、その例に漏れませんでした。特に今回は数学者という設定が奏功しています。物語の端々で出てくる数式の完全な「美しさ(友愛数や完全数の美しさといったら!!)」は、家政婦である「私」と息子の「ルート」と「博士」の3人で形成される「共同体」をより美しくする効果があったと思います。

ストーリーは他のところでも色々書かれているので、簡単に説明すると、天才的数学者だった「博士」は交通事故の後遺症により、80分しか記憶が保てません。そこに、身の回りの世話をする家政婦として「私」が派遣されます。「私」は幼い息子「ルート(この呼び名は、後に博士が付けた)」と二人暮らし。何故か数学と子供を愛する「博士」は、「ルート」をまっすぐに愛し、3人の奇妙で暖かな生活がぎこちなく始まるが・・・というのが骨子です。

で、何で僕はこの作品に涙したのか、とずっと考えていました。
まずは、博士の「記憶」のはかなさという「道具立て」に参った、というのはあるでしょう。若年性アルツハイマーを扱った『私の頭の中の消しゴム』はヒットしましたし、長期連載のマンガには記憶喪失がつきものです(笑)。普段の生活でも、こっちは覚えているけど、向こうは覚えていない、という体験だって、けっこう哀しいものがあります。しかもこの博士の場合は、同じところをグルグル回るだけです(原作の小説では、その「80分のテープ」すら、最後に壊れていきます)。その博士の苦悩(目の前の事態が飲み込めないこと)が伝わってくるシーンがあり、小説でも映画でも、それは白眉のシーンでした。

もう一つは、先日のエントリで早世した同世代の研究者について触れましたが、この博士も、人生の途中で、志半ばで諦めざるを得なかった境遇です。そこにも、僕なども研究者の端くれですし、ついつい感情移入してしまった可能性があります。

そして最後に考えついたのは、この小説(映画もほぼ原作を忠実になぞっているので同じです)、この物語の登場人物が、全て互いをいたわり合っていることを、そしてその関係がいずれ失われていくことも含めて、とても切なく感じたのだと思います(一人称の回顧は、回顧すべきものが既に失われていることを最初から示唆しています)。3人の世界は、あまりにも美しいから。

映画では、深津ちゃんが良いのは当然として(ファンの贔屓目)、やはり博士役の寺尾聰さんが素晴らしいですね。

人によっては物足りない、という人もいるでしょうが、僕はこの小説の終わり方が好きです(映画の方が少しドラマティックに作っています)。

というわけで、久々に読んだ小川洋子さんですが、やっぱうまいです。帰り道で、その書店にある彼女の文庫を全部買ってしまいました・・・(昔読んだものは買いませんでしたが)。この『博士の愛した数式』は、恐らく読み返すこととなるでしょう。

追記:映画の中で「あれ、あれは小川先生では?」と思ったら、やはりそうでした。ある場面でカメオ出演なさっています。僕は小川先生の目の前にいた高村薫似の女性に気を取られていて、思わず見落とすところでした。

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October 21, 2005

歴史(学)と想像力

america先日購入した、内田樹先生の『街場のアメリカ論』を、あっという間に読了。いやあ、面白かった。このごろは対談本も多い内田先生だが、やはり僕などは、対談より「内田節」(独演会)を楽しみたいところだったので、この出版は嬉しかった。
内容は、既に先生のブログで拝読している部分も多いので、サクッと読めてしまったわけだが(あまりに周りから「サクッと読めてしまう」と言われたことに、内田先生が「 もう少し読者のみなさんにも苦吟するなり輾転反側するなり歯がみするなりして頂かないと、憎々しげなことを書き連ねた甲斐がない」とおっしゃっているけど)、相変わらず刺激的だった。僕も一応「歴史(学)」に関わる者なわけだが、この本を読んで真っ先に考えさせられたのは、「想像力」と「歴史(学)」の関係についてだった。それは、この書の冒頭の第一章に縷々述べられている。
一般に、「歴史(学)」とは、物事の「流れ」を再構成(もしくは、「創造」と言った方が良いときもある)する営み、と考えられている。それはもちろん間違いではないが、どのような「流れ」を作るかが問題となり、「歴史論争」やら「●●史観」の相剋とか、そういう問題を引き起こすこともある。その際問題になるのは「想像力」である。「何故それが起こったのだろう」と考えをめぐらすのは普通の歴史的想像力だが、もう一歩進んで「何故こっちは起こらなかったのだろう」と考えることも、時には必要だ(内田先生に従えば、このような考え方は、フーコーが行った「系譜学的思考」である)。この系譜学的思考様式は、僕などには、ある意味なじみ深い。というのも、僕は宗教や思想を対象に研究している人間だが、思想史を例に取ると、その学的営みは、過去の思想・思想家の言葉を拾い、その未だ発揮されていない可能性を探る、という方向に行くことが多い。既に、その思想や思想家が同時代的には活躍できなかったとしても、「全く無価値である」と断定するわけにはいかないのは、この想像力が生産的だからである。複眼視的な思考に資するところがある、と言い換えてもよかろう。内田先生の言葉を借りれば、

歴史には無数の分岐があり、そこで違う道を選んでいれば、今は今とは違ったものになっていたということ、これは歴史を考えるときにとても大切なことです。それは歴史を「一本の道」としてではなく、いわば無数の結節で編み上げられた「巨大な広がり」として思い描くことです。そんなふうに無数の「存在しなかった現在」とのかかわりの中において、はじめて「今ここ」であることの意味も、「今ここ」であることのかけがえのなさや取り返しのつかなさも判ってくるのです。(p.39)

ということである。これは、別の言葉で言えば「マイナスの想像力(p.54)」とも言えるだろう。「既に起きたこと」をかっこに入れて、遡行して当時のリアリズムを内在的に理解しようとすることは、内田先生もおっしゃるように、非常に困難なことだと思うが、そこにこそ、広い意味での「歴史家」の力量が試されるのだと思う。もっと言えば、僕がいつも批判している自由主義史観などは、この手の「想像力」が欠けているのだと思う(一番欠けているのは、「相手の立場になって考えてみる」という想像力だと思うけど)。

あと、この本を読んで、本当に驚いたのは、内田先生がこのアメリカ論を書くとき、まさに座右に置いていたであろうトクヴィルの洞察力である。本当にすごい。内田先生経由で、トクヴィルの偉大さを見せつけられた、というのが、実はこの書の第一印象であった。これに触発されて、暇になったら(なかなかならないんですけど)、積ん読状態であるリチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(みすず書房、2003)を読むことを固く決意。無理矢理読むために、来年のゼミの課題図書にしてやろうか、とも画策中だが、何せ高いので、学生たちが嫌がるな・・・。

個々の内田的アメリカ論は、僕なんかが紹介するより、皆さんに読んでいただきたいので、要約は差し控えます(僕として面白かったのは、「シリアル・キラー」論とアメリカのキリスト教についての論でした)。
アメリカが好きな人にも、嫌いな人にも(まあ、内田先生に言わせれば、日本人はアメリカに対してアンビヴァレントな感情を持つように「呪われている」わけですが)おすすめです。

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April 02, 2005

わがこころのよくてころさぬにはあらず

jibutsu_1さて、タイトルの言葉は、『歎異抄』13条の有名な一節ですが、昨日と今日で、内田樹先生の新刊『いきなりはじめる浄土真宗』と『はじめたばかりの浄土真宗』の上下巻本(本願寺出版社、2005)を立て続けに読みました。これは、浄土真宗の僧侶で宗教学者でもある釈徹宗先生との往復書簡からなっている本で、ネット上ですでに公開されていましたから、ご存じの方も多いと思います。相変わらず、読みやすく深いところを突くなあ、と感心し、釈先生の解説も的確だなあと思いました。

タイトルに偽りなし、といいたいところですが、プラスの意味で裏切られます。それは、内田先生がレヴィナス経由のユダヤ教(旧約聖書)の深い読み込みを提示し、釈先生がそこからインスパイアされた浄土真宗の解説を語ることによって、単なる「浄土真宗」の概説本になることを防いでいるからです(後書きで、釈先生も同様のことを言っていました)。

個人的なことを言えば、僕の家は大谷派(東本願寺)の家で、親鸞とか浄土真宗とか、他力とかに関しては、大学で受けた講義もあって(三年生の時に受けた、親鸞とルターを比較宗教学の視点から捉えた加藤智見先生の授業がきっかけでした)、結構自分で読んだり調べたりしたことがあります。倉田百三の『出家とその弟子』も読んだりして(福永武彦とかも読んで、頭でっかちになっていた頃ですね)。その結果、僕は親鸞のお師匠様である法然に傾倒しているのですが(法然の大らかさと高潔さの共存に頭を垂れざるを得ません)、まあ、それは別の話。

この本で印象深かった部分を指摘したいと思いますが、前述のように、内田先生が、浄土真宗に別の角度から光を当てその理解を深めるために持ってきたユダヤ教の話が印象的でした(例えば、1巻の「その3」)。これは僕が以前このブログで言及した前著『他者と死者』にも同じことが書いているのですが、「全知全能の神の存在は、人間を倫理的な方向に導かない」、ということの指摘は、繰り返さなければならない重要な「神義論」の構成要素だと思います。もっというと、勧善懲悪・因果応報は人間を倫理的にはしないということ(浄土真宗も、このエントリのタイトルのように「自分が偉いから悪いことをしないのではない。それはたまたまそういうラッキーな状態にいるだけだ」と教えているわけです)。そういうことを改めて教えられたような気がします。

jibutsu_2このあたりを敷衍して、内田先生は「常識」と「非常識」の往還(こういう言葉は使っていませんが、僕なりにまとめるとこういうことです)にこそ、宗教の「核」があるのではないか、ということを、有名なアブラハムのイサク殺害未遂を元に考察しています(2巻の「その15」)。旧約聖書の「創世記」において、アブラハムは息子のイサクを「山の上に行って、生け贄とせよ」という、神の無文脈かつ超非常識な命令を受けて、泣く泣く息子を山に連れて行って、殺そうとします。しかし、神の命令にそこまで従ったアブラハムを見て、神様は天使を遣わし、寸前で止めてめでたしめでたし、という有名な挿話ですが、内田先生は、以下のように解説しています。

このストーリーラインでなければ、「あなたの常識には外側がある」という被造物としての宗教的覚知と、「あなたはあなたの『常識』を守って、あなたに与えられたスキームの中で、『正しく』生きなさい」という倫理的命令を同時にアブラハムに理解させることはできないからです。(2巻、p.125)

おおざっぱに言って、「宗教」とは、この世界の外側(あの世とか他界とか、天国とか地獄とか、何でもいいですが)の存在への志向性がなければ成立しません。要するに「常識では推し量れない世界」が実在して、それが自分とは無関係なものではなく、それどころか自分を成立させているもっとも根源的なもの、という思いがなければならないでしょう。でも、その「非常識」な世界にばかりかまけることは、普通の人には許されません(許されるのは、一部の「聖者」だけでしょう)。ですから、その「非常識」さを、「常識」に還元できるか否かが、その人の「宗教性」の質を問うことになる、と、内田先生は考えているようです。例えば、オウム真理教の麻原やその弟子たちが見せた「奇跡」について、

 けれども、そのあとに、その霊的な覚醒をどうやって「市民としての適切なふるまい」にリンクさせるか、ということにはたぶん一秒も頭を使っていません。逆に、「市民としての適切なふるまい」を自分たちの教理に合致するように変更しようとしました。自分たちに反対する人間はみんな殺してもいい、それが真の正義の実現であるという「非倫理的」結論は、あらゆるファナティズム(狂信主義)に共通するものですが、その発想がどれほど「凡庸」なものであるかに彼らはたぶん気がついていません。私はこれを「頭が悪い」と思ったのです。(2巻、p.64)

と、「常識」に帰ってこれなかった彼らを批判していますが、僕もその通りだと思います。釈先生が言及されていますが(1巻、p.99)、仏教がそもそも抱える矛盾、すべてを捨て去らねばならないのに、「解脱」とか「救い」という目的に執着せざるを得ないという矛盾に、オウムは無自覚であるか、それを深層心理に押し込んでしまった嫌いがあると僕個人は思っています(実際、事件後の彼らのアジトに行ったときに、その疑問をぶつけてみましたが、はかばかしい回答は得られませんでした)。

この本は、往復書簡ですから読みやすいし、浄土真宗とユダヤ教のエッセンスが少なくとも分かったつもりになれる、お得な本だと思いました。釈先生の、所々に挿入される宗教学的な解説も有用です。

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March 19, 2005

『恋愛の昭和史』読了

このところ衝動買いすることが多く、散財していたので、今日は「緊縮財政」ということで自宅でひねもす読書。まあ、昨晩も「大人買い」した岡田あーみんの『お父さんは心配性』『こいつら100%伝説』を読みふけっていましたが・・・(改めて読むと、よくこんなものを『りぼん』が許していたなあ、と驚愕)。

今日は「活字を読もう」と、一昨日買った小谷野敦さんの新刊『恋愛の昭和史』(文芸春秋、2005、\1800)を早速読了。結構分厚く、昼過ぎから読み始めて、しっかり夜までかかってしまいました。相変わらず面白い。
僕はやはり小谷野さんの文章と、その「情報量」が好きなんだなあと再確認。いつも読み終わった直後は「物知り博士」になった気になれます。今回もほとんど読んだこともない戦前の通俗小説についての知識が得られて、僕は満足(特に、石坂洋次郎や平林たい子については、人間的な面も含めて興味が出てきました)。小谷野さんは本文中で

恋愛小説や恋愛論の秀作は、恋愛の下手な者たちによってこそ書かれうることを、この事実(「醜男」であった菊池寛がそういう人だったこと―引用者註)は示しているように思われる。それはやはり醜男でもてない男だったスタンダールがそうであったように、あるいは現代日本の美男作家の恋愛小説がちっとも面白くないように。(p.51)

といっていますが、この本も上記のような「心意気」で書かれたものなのでしょう、恐らく。
タイトルの通り、「恋愛」というのを中心にすえた昭和文壇史といった趣のこの本、相変わらずの法界悋気の炎が上記のようにボボボと所々で燃えさかっているのはご愛敬ですが(笑)、僕が特に「おおっ」と思ったのは、

「第九章 ジッド『狭き門』の深く広い影響について―芹沢光治良、福永武彦」

「第十六章 学歴と恋愛―学校の恋愛文化」

の2章です。まず、前者については、僕が福永武彦の大ファンである、ということが大きいのですが、小谷野さんは福永の『草の花』に見られるような不健全なほどの精神性優位の恋愛観(プラトニックラブ至上主義ですね)に対してはっきり「否」を突きつけ『草の花』を「有害な図書」とまで言い切っています(pp.182-5)。まあ、そうかも知れないなあ(僕もその思想に洗脳されて、不毛な学部生時代を過ごしてしまったかも・・・)と思いつつ、一つだけ反論するなら、『草の花』の最後の章で、主人公が愛した女性の口を借りて、そのような「精神主義的な恋愛」について、福永はちゃんと批判しているのではないかと思います。詳しいことは、どうぞ『草の花』をお読みください(と薦めちゃいます)。

後者については、「大学における恋愛」という、ちょっと(?)前まで僕が悩まされていたテーマでもあるからです。本筋とは関係なのですが、都立高校など、公立高校が凋落し、その代わりに中高一貫の男子校が東大合格者を量産するようになって、ますます異性に不慣れな男子が東大に集まることとなってしまったというくだり(p.299)には、思い当たる節がありすぎて爆笑。え、僕ですか。僕も、六年一貫の男子校出身でした・・・(あの六年間はなかったことにしてください、と思っています)。でも、中高一貫の女子校だって、学内のギクシャクした雰囲気作りに一役買っていた気がしますが、まあ、これは程度の問題でしょう。もともと東大は男子が圧倒的に多い大学でしたし。

この浩瀚な書でも、「誰でも恋愛はできる」というイデオロギーに対する批判のトーンは一貫しています。ですから、氏の愛読者である僕としては、新しい提言というのはなかなか見出し難かったのですが、戦前から、意外と問題は進歩していないんだなあ(逆にいえば、戦前も結構進んでいたんだよなあ)という感慨を新たにしました。こういう感慨って、妻経由ですが、平塚らいてう、与謝野晶子、伊藤野枝、山川菊栄らの論争を知ったときにも思いましたが。

近代日本文学に(ゴシップ的にも)興味のある方に、おすすめです。

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March 05, 2005

サブカルからナショナリズムへ

今日は久々にだらだら過ごせる休日。てなわけで、テレビと読書三昧。

今日読んだのは、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版、2005)と、荷宮和子『バリバリのハト派』(晶文社、2004、こっちは拾い読み)。この2冊、同時に読んだら北田君のほうはもしかしたら嫌がるかもしれないけど(確か彼、ブログで荷宮さんをちょっぴり批判していた記憶が…。僕も彼女の「くびれの世代」という世代論は却下だが)。まあ、ともに、サブカルチャーとナショナリズムの関係に着目した論考である(僕は、ナショナリズムが「サブカルチャー」化しているのが昨今だと思う)。そして、教えられること、考えさせられることが多かった。以下はその備忘録。

まず、北田君の本は、前に読んだ大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』、大澤真幸の一連のオウム論(「第三の審級」云々というやつです。『虚構の時代の果て』ちくま新書、とか)の系譜に位置付けられるであろう野心作、だと思う。彼はもともと社会システム論とかに造詣が深いから、大澤氏のシステム論的な視座と、大塚氏の世代論的社会批評をかなりうまくミックスしていて、「ああ、こういう方法があったんだ」と思わせてくれた。ついでに言うと、どうして僕は2ちゃんねる(的なもの)が嫌いなのかを、すっきり教えてもらったような気がした。よーするに、僕は、2ちゃんねるに横溢する際限のない「アイロニズム(隘路ニズム、と最初誤変換されたけど、そういう感じだよな)」「シニシズム」についついベタに反応してしまう感性の古いタイプの人間だからだろう。北田君の指摘によると、2ちゃんねるという空間は、徹底してアイロニカルに振舞うことを要求する「形式主義」の空間だそうだ。

「内容」「理念」を付随化するその形式主義ゆえに、アイロニカルにみること自体が自己目的化してしまうことに注意しなければならない。(中略)純化された形式主義者たるかれらにとって、『朝日』が「何を」書いているか・意図しているかはじつはそれほど重要なことではない。もし仮に『朝日』が「らしくない」ことを書いていれば、「それも『朝日』の狙い」「『朝日』必死だな」といった具合に、陰謀論的に処理してしまえばよい。いかなる内容を持った記事であっても、それが『朝日』に掲載されている限り、いわば文法的に『朝日』を嗤うコミュニケーションのネタとして機能してしまうのだ(p.209)

なるほど、そこでは「ネタ」にマジ(もしくはベタ)に反応することが最も忌避される。話の「内容」も全く無視される。話に真剣に耳を傾け、その真意(裏)まで読み取ろうとすることのほうを重んじるような感性は最初から「拒絶」されるしかない運命にある。つまり、僕は「2ちゃんねる」という空間にそもそも召喚されないタイプ、という事だろう。ちっとも惜しいとは思わないけど。
あと、北田君は僕と同い年なので、彼が体験したサブカルチャーは、首都圏と関西圏の違いはあるけど、共通項があって(あり過ぎて?)、くすぐったいような気持ちになってしまったのも確か(後書きで「ローディスト」だった過去をカミングアウトするとは…。ぼくはアウシタンでしたが)。

荷宮さんのは第1部しか読んでいないけど(第2部は、僕の知らない宝塚が中心のようなので、パス)、彼女も2ちゃんねるのようなシニシズム(彼女はもっと退嬰的なものとして扱おうとしているが)をそれこそ「マジ」で批判している(その言葉は「正論」であるがゆえに2ちゃんねらーには届かないような気もするが)。僕も、彼女の論はちょっと乱暴な部分が多くて全面的に首肯することは出来ないのだが、いくつか納得、と思う言葉もあった。以下はその1つ。

自身が「無知」であるということを恥じるどころか、「無知」であることを盾にとって「自身の知らない感情を発露する他者達」を過剰に糾弾するのが今の若者なのだ。(p.42)

僕も、このことは良く感じる。特にネット上で論戦(と呼べるのかどうか)があると、自分の無知に開き直って「じゃあ、噛んで含めて教えてくださいよ」と見ず知らずの人に要求する、というシーンはよくあるし、僕も経験したことがある。でも、問題は、教養主義の崩壊という話ともつながると思うのだが、「ここまでは知っておかねば」という基準が無くなってしまっており、共通基盤のないもの同士がいきなりネットで衝突することになることが常態化しており、その知識の水位差を無化する方向で、形式主義的にアイロニカルに振舞う2ちゃんねる的コミュニケーションが出てきたのではないか、ということである。で、「ベタ」にそれに立ち向かうと、必ず「負けてしまう」。向こうは「ベタ」をバカにして(本当は相手の言葉に依存しているのだが、その構造は隠蔽される)「そんなこと言っているから(w」と身をかわしていくだけでいいので楽なポジションだ。そして「ベタ」側がそのトートロジカルな構造の前に「失語症」になるとそれを「勝利」と受け取れる美味しいポジションである。
いわゆる「歴史修正主義者」や「ジェンダーフリー」バッシング論者に対する時も、似たような消耗戦を強いられてしまう。それは、彼らも自動的に相手を貶める「文法」を操っているだけだから。僕個人としては、そろそろそういう「ためにする」議論に付き合う必要も感じなくなっているけど。

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January 26, 2005

岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』を読んだ

皆さん、今晩は。
今週で講義が終わりだ、と思った途端、身体が勝手にフライングをして風邪を引いてしまった川瀬です。ちょっと気を抜くとこれです・・・。自分の虚弱さに嫌になりますが、今日は通勤電車で読み終えた

岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書、2003年

のご紹介。

まず、こんな濃密な内容の入門書がジュニア新書に入っていることが驚き。内容は全然「ジュニア向け」じゃないですよ。ハードです。でも、分かり易く解説してくれています。

岩田先生は元々ギリシャ哲学がご専門だそうですが、最近ではレヴィナスやロールズにもその視野を広げていらっしゃいます。長年の哲学研究の精髄を集めた感じのこの本、特徴としてはヨーロッパ思想を貫く二本の太い柱である「ギリシャの思想」と「ヘブライの信仰」を中心に解説していることでしょう。もちろん、限られた紙幅でヨーロッパ哲学を全て解説するのは不可能なので、このような限定をしているわけですが、却ってすっきりとヨーロッパ思想の見取り図が頭に入る仕掛けになっていると思います。中世以降の哲学者個々人の解説が食い足りない、というのは仕方ないでしょうが、それは無い物ねだりと言うことで。

特に僕がお薦めしたいのは「第2部 ヘブライの信仰」です。ヘブライの信仰、といってもいわゆるユダヤ教だけでなく、イエスの思想を分かり易く解説しており、しかもレヴィナス的な見地からそれを行っているので、内田樹先生の本で多少は「予習」した感のある僕にとっては、非常に判りやすかったです。岩田先生の描くイエス像に思わず入れ込んでしまい、「回心」しそうになったほどです(笑)。

というわけで、お薦めです。

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January 17, 2005

『現代宗教事典』刊行!

今日は卒論締め切り日。今のところ大きな混乱もなさそうだが、本当の「ドタバタ」は〆切10分前ぐらいに起こるので、油断は禁物(笑)。今年の学生は、要領が良いのか、それともあきらめが良いのか(恐らく両方だろう)、あまり目に見えて混乱はしていないようだ。去年はテンパった目で「先生っ!パソコン貸してくださいっ!」と息を切らせて駆け込んできて、僕のパソコンで卒論及び要旨を書いていたHさんとか(その横で僕は、彼女のプリントアウトされた卒論にパンチで穴明けをしていた)、色々いたがなあ。

さて、今日はとりあえず事典の宣伝です。
僕もちょっぴりだけ項目を書いた

井上順孝編『現代宗教事典』(弘文堂)

が、刊行されました。僕は韓国関係の「円仏教」「純福音教会」「曹渓宗」「東学」の4項目しか書いていないのですが、、今日届いたのをパラパラ見ると、学者やその主要著作についての解説などもあって、「読める事典」になっていると思います。

このブログをご覧の研究者、大学関係者の皆さま、公費で一冊、私費で一冊(できれば)お買い求めくだされば幸いです。僕の研究者仲間の大谷さんも、この事典の宣伝をしていましたので、便乗しました(笑)。

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December 25, 2004

赤川学『子どもが減って何が悪いか!』を読む

世間はクリスマスで浮かれているこの二日間、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか?昨日なんか、京都駅の伊勢丹横の階段(カスケード)はすごかったですよ。どこからこんなに湧くんだ、と思うほど、雲霞のようにカップルの皆さんが鈴なり。その人混みをかき分けるように家路につく僕。いつもと変わらない生活のはずなのに、昨日今日だけは周りにあおられて何となく寂しい気持ちがします。恐らくクリスマスソングばかり流しているFM局のせいだと思います(読書中のBGMにはFMかジャズが多いです)。

さて、僕は非モテ、もとい学者らしく、昨日も今日も読書とネットサーフィンで時間を潰していました。誰もいない大学の研究室に篭もって、クリスマスらしく(?)読んでいるのは、韓国キリスト教に関する論文や資料です(近々論文を書こうと思っているので)。

でも自分の研究に直接関係のある本ばかりでは飽きてきますので、通勤電車の中では最近はなるべく本業とはあまり関係のない新書などを読むことが多いです。で、今読み終わったのが、タイトルにあるように社会学者赤川学さんの『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)です。今日は、この本について簡単に感想を書きたいと思います。赤川さんはセクシュアリティ研究で有名な方で、僕のような門外漢もお名前は存じ上げていたのですが、勢いのあるタイトルと、後書きにあった小谷野敦氏への謝辞につられて購入したのです(このブログでもたびたび言及しているように、僕はなんだかんだ言って氏のファンである)。もちろん、扱っている内容が、ちょうど僕たちのような世代に大いに関係のある事柄だからでもあるわけですが。

まず赤川さんはわれわれが漠然と常識だと思っていることに疑問符を突きつける。その「常識」とは、「女性の就業率が高ければ高いほど、出生率は上がる」とか、「男女共同参画社会が進展すれば、出生率は回復する」という言説である(逆に保守派の側からは「女性の社会進出が少子化の根本原因」と言われてきたわけだ。この言説も滅びずにしぶとく残っているが。ブログを少し徘徊すると、この手の言葉が予想以上にあふれていてびっくりする)。
当然、一応インテリ(笑)の僕なども、これらの言葉に与するスタンスで今まで生きてきた(これからも恐らくそうだろう)。しかし赤川氏は、虚心坦懐にデータを分析すれば、そうは言えないということを、リサーチ・リテラシーの観点から明らかにしている(データ分析の当否については、僕などど素人なので、判断する術もない。であるから、この書に対する以下の感想は、まさに僕の印象論でしかないことをお断りしておく。この書のデータ分析に関する書評としてこのページを参照のこと)。
例えば、出生率の高い県と低い県を比較すれば一目瞭然だが、前者はいわゆる「田舎」、後者はいわゆる「都会」である。そして出生率の高い地域に、その出生率を高める要因を求めるような政策提言は、畢竟「日本全体を田舎のような構造にしちゃいましょう」ということとあまり変わらないという、笑えない事態になる。赤川氏の恐れるのは、極端に単純化すればこのような事態である。それは時計を逆回しにするようなものだし、女性は家にいろ、だなんて強制する根拠はもはやどこにもないことも明白である。であるから、我々に求められるべき事は、「これとそれは別」と割り切る気持ち、つまり「少子化対策」と「男女共同参画社会の実現」と「子育て支援」などをとりあえず別個の問題として考えることなのである。そして赤川氏は

著者は「少子化対策として無効だから、男女共同参画社会の実現は必要ない」と主張しているのではない。その逆である。「男女共同参画社会の実現が本当に必要ならば、それが出生率を上げようと上げまいと、もっと極端にいえば、さらに少子化を進めることになろうとも、必要と主張すべきだ」といいたいのである。(p.92)

とある意味「真っ当すぎる」意見を述べる。「出生率を回復するために、男女共同参画が必要なのではない(p.102)」のである。
彼の「男女共同参画は少子化対策にならない」という言葉尻だけを捉えて、彼をバックラッシュの一翼を担う人物と思うのは完全な早とちりだ(赤川氏自身、学会や研究会でそれに類した体験をされているようだ。まあ、バックラッシュ派から下手な引用をされれば、意図せざる利敵行為になるやも知れぬが、それは赤川氏の責任では無かろう)。
この書で彼が何度も強調するように、男女共同参画社会は、少子化対策とは独立しておこなわれなければならない課題なのである。続けて求められるのは、もはや少子化という流れは簡単に止めようがないのであるから、それを織り込み済みにした社会プラン(具体的には年金制度などの見直し)を図るべきということだ。つまり

少子化がもたらす弊害を子ども数を増やすことによって解消するのではなく、子ども数が増えないことを前提としながら、あらゆる制度を、選択の自由に対して中立的に設計していく必要があると考える。子供を産まないことを、わがままとか、ただ乗り(フリーライダー)とか批判するのではなく(それをいうなら、子供を産むことだって「わがまま」であり、支援を受ければ「ただ乗り」だ)、子供を産む/産まないという選択に対して完全に中立的な制度を設計した上で生じる負担に対しては、社会全体で公平に共有することを考えたらよいのではないか。(pp.136-7)

ということである。「まだ充分に男女共同参画社会が実現していないから効果が目に見えて現れないのだ」という言い訳もあるだろうが、これは反証不可能な物言いで、フェアではない(p.101)。「そういうことを言っている内はまだまだ」という台詞は、どんなときにも使える(昔友人に酒の席でこう言われてキレてしまったことがあったなあ。閑話休題)。ゆえに、使うべきではないのだ。

さて、実はここでやっかいな問題がある。赤川氏も述べるように、

厄介なのは、自らが援用しているデータが怪しげな根拠に基づくことを知りながら、男女共同参画という目的のために、あえて戦略的に使い続けている場合(p.95)

があるのだ。これは前述の「意図せざる利敵行為」と関係がある問題だ。要するに、その言説の社会的・政治的な機能の、メタな次元の問題設定である。
実は、僕がこの書に対して持っていた一種の違和感、もっと正確に言語化すれば「赤川さん、ここまでいわなくても良いのに」という気持ちは、まさに上記のようなことを僕が考えていたからである。僕などは、多少の誇張やはったりは、事態を改善するためには手段としてやっちゃっても良いと考えているものだから(「マキャベリズム」や「責任倫理」というほど大げさに考えてはいないが、それに近い)、今まで主にフェミニズムにおいて語られてきた戦略的な言動を一概に批判する気にはなれない。そういう物言いは、言わないより言った方が良いに決まっているのだから。しかし、自らの「正しさ」を過度に強調する言動は、一度綻びが見えると、途端につけ込まれる危険性があるのも確かだ(辻元清美氏の事件はその典型例だと思う)。赤川氏も実はその辺りを心配しているのではないだろうかと思った。僕はそこに氏の誠実さを見る。
さて、続けて「正しさ」の危険性をもう一つ思いついたので、書き留めておきたい。
「男女共同参画のプランは、少子化対策に役立つ」という言われ方が今までになされ、この言説が支配的なわけだが、このように「役に立つ」ことを強調して存在理由を語るというのは、実は危ない。単純な話だが、役に立たない、ということがばれれば、その正当性・存在理由をあっという間に失ってしまうからだ。
僕が思いつく例では、例えば大学、特に僕も属する文学部などは、最近だと世間様や設置者に対して如何に役に立つかというのを主張しないといけない羽目に陥っているが(そして「文学部は決して無用の長物ではありませんよ」というような適当な作文を作製することを強いられている)、その論拠が崩れたら「じゃあいりませんよね」と手のひらを返される危険もあるのだから、少子化論議同様慎重に事は運ばねばならない(もちろん僕は、文学部、もっと言えば人文学がムダだなんて思ってはいません。当たり前ですが)。
話が少しそれてしまったが、僕がこの書から得た「教訓(敢えて言えば、である)」は、ありきたりながら、「正しさを押し出すことの危険性」である。個人的には「是は是、非は非」と一貫性のあるようなことを言いつつ、時には「嘘も方便」なんていうずるいバランスが取れれば、と思うのだが、僕では無理だろうな。人間が単純にできているから。無理だと思うから、こうしてこの場で書いてしまうわけですが。

さて、繰り返すが、氏の主張はひどく真っ当である(少なくとも僕にとっては)。特に、結婚する、子供を作るというような、人生における個々人の選択に対して、国や制度が介入することができないであろうし、するべきではない、という氏の言葉は玩味せねばならない。

「してもいいし、しなくてもよい。してもしなくても、何の利益も不利益も受けない。何のサンクション(懲罰・報奨)も被らない」という原則である。これが「選択の自由を保障する」という言葉の意味である。(p.111)

ともかくこの書は「少子化」問題を考える際には必読であろう。学生にも薦めようかな。

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December 23, 2004

また町山さんの本を

kanibaketu今日から本格的に冬休み。
思ったより疲れが溜まっていたのか、しっかり昼過ぎまで寝てしまい、休み早々ダメ人間としてスタートしてしまう。

とりあえずブランチを食べながら洗濯機を回し、その後外出。海外の知り合いへの年賀状(クリスマスカードを出すつもりだったが、すでに時遅し)を買いに出掛けたのだ。韓国へ2通、アメリカへ2通、いかにも「ゲイシャ・フジヤマ・ワンダホー」な絵柄のものをチョイスして、送る(向こうで受ければいいのだが・・・)。
国内向けの年賀状もほぼ書き終わり(正確には、プリンター君のおかげだが)、最近買っておいた町山智浩さんの新刊『USAカニバケツ-超大国の三面記事的真実』(太田出版、2004)を、あまりの面白さのためドドドと読了。ふーっ。

この本は、タイトルの通りまさに「外人が知らないタブロイド紙的なネタ」からアメリカの一面を鋭く剔った本。前作の『底抜け合衆国』とコンセプトはほぼ同じだが、よりアメリカの「トホホ」な実態が知れて、大爆笑必至。といっても「アメリカ人て馬鹿でー」と日本人が振る舞えるかどうかは、全く別だ。アメリカも日本も、馬鹿さ加減ではどっこいどっこいかも知れないのだ(少なくとも、僕はそう思っている)。人間の本性なんて、意外とどこでも変わらないと思う。

でも、この本を読んでいて、ある意味羨ましくもあったのは、一言で言えばアメリカの「豪快さ」。国土の広さにものをいわせて、という面があるのかも知れないが、人間のスケール(特にはみ出し方)が日本のようにせせこましくなく、豪快(例えば、マイケル・ジャクソンの「人間としての壊れっぷり」を見よ!)。
「アメリカ奇人変人伝」という趣もあるこの本、「人間」の業の深さというものを考えさせてくれる教材だと思いました。おすすめ。

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December 17, 2004

読書マラソン

昨日、一年生のK君が一枚の紙を持ってきてくれた。それは、生協が主催している「読書マラソン」という企画の紙で、要するにお薦めの本の「ポップカード」(店頭で飾られるキャッチコピーが書いてあるカード)を自分で書いて生協に持っていって、どんどん読書をしていくと割引券や景品が進呈されるというもの。K君はサークルの関係上、この企画に関わっているらしく、学生のみならず教員の意見も聞きたい、とのことで、学年担任の僕のところにその紙を持ってきたわけだ。
僕としては、『東大教師が新入生にすすめる本』(文春新書)がすぐに思い浮かんだが、まずは、大学1、2年生が読んで損はない本、そして廉価な文庫本か新書に限定して推薦しようと思い、本棚を物色して、以下の4冊をとりあえずエントリー。
結構ポップカードを書くのは骨が折れる。小さな紙に、いかにして興味を引く言葉を入れるか、というのは難しいものだ。「コピーライター」というのは大変な職業だと思い、改めて博○堂で働く大学の同級生川○君や、ヴィレッジ・ヴァンガードの店員さん達に頭が下がる思いだ。

読書マラソン推薦図書

川瀬貴也(文学部教員)

kukai石牟礼道子『苦海浄土』講談社文庫
水俣病という恐ろしい「犯罪」を独特の手法で告発した名著。被害者の声にならない声、低い呟き、ささやきを石牟礼氏という「巫女」が倍音と化して伝えてくれている。恐らく読者は、今までに聞いたことのない「声」に戦慄することだろう。


kusanohana福永武彦『草の花』新潮文庫
人を愛する、ということはどういう事か。これは文学の決して終わりのないテーマの一つでしょう。時には「愛する」ということ自体のエゴイズムにも目を向けねばならないときがあると思います。その格好のテキストがこの本です。


musyukyo阿満利麿『日本人はなぜ無宗教か』ちくま新書
日本人は無宗教といわれますが、それは本当でしょうか。我々はいつの間にか「痩せた宗教観」でもって〈宗教〉を見てはいないでしょうか。自らに内在する「宗教観」の見直しをこの書を通して考えてみて欲しいと思います。


nenagara内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書
大学に入ったら、色々難しい外国の思想家のことを勉強しなければならなくなります。「構造主義?それ、食べられるの?」と思っている皆さんに、「名シェフ」内田先生の料理をお勧めします。この本で基礎を養って、難しい原典に当たってみてください。



こんなものを推薦してみました。

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December 13, 2004

野望のために・・・

今朝、新幹線に乗って京都へ戻る。ちょうど着いたらお昼時だったので、そのまま最近お気に入りの伊勢丹の上にある「京都拉麺小路」へ行って、妻に(コレステロールの件で)叱られそうな昼食。

matsushitaseikeijuku新幹線の中では、大概は眠っているのだが、今日はなんだか目が冴えてしまったので、新書を一冊読破。
読んだのは出井康博『松下政経塾とは何か』(新潮新書、2004)。このブログでも前に買ったことはメモしておいたのだが、その「野望の王国」ぶり(笑)を拝見しようと思って、リュックに入れておいたのだ。

最初、この本は細川元首相への直撃インタビューから始まっている。最近細川氏は「陶芸家」として生きているらしいが、その展覧会に著者は出向き、日本新党と松下幸之助の構想の関係を問いただすが、細川氏が言下に否定するシーンがこの本のマクラ(実際は大ありらしいのだが・・・)。その辺りの描写や、展覧会に対して「隠遁生活を気取りながら、社会との関わりを完全に断ちきる勇気はないのである」(p.8)なんて書く当たり、どうもこの著者のストレートすぎる好悪の感情が表に出ている嫌いがあるが、これ以降の現在国会議員や地方議員、地方首長などになっている松下政経塾の面々の描写は生き生きとしており、一気にに読めてしまった。特に、この本の中で大きく取り上げられている山田宏杉並区長や(思い出話になるが、この区長が「つくる会」の教科書に肩入れするような態度をとったので、数年前杉並区役所を囲むデモがあり、僕もそれに参加した。あの時は山住正己先生も先頭にいらした。今の都立大の惨状をご覧になって、先生も草葉の陰でどう思われているか・・・)、中田宏横浜市長の人間的な「えぐみ」の描写は面白かった。
ノンフィクションの通弊かも知れないが、一部「講談師、見てきたような・・・」という気がしないでもなかったが、最初に細川氏に毒づいた著者派の反骨ぶりは、最後まで貫かれており、「松下政経塾は、すでにその役目を果たし終えたのではなかろうか」(p.203)という結論に至る。簡単に言うと、国家百年の計を考える「志士」たちを養成する現在の「松下村塾」たらんとした松下政経塾が、単なる政治家養成機関(政治家になるノウハウを教えるだけ)に成り下がったと著者は見ているわけだ。

本書の内容は、担当編集者の紹介記事(上記のリンク先)に書いてあるのでここでは繰り返さないが、この本を読んで、僕は前々からこの「松下政経塾」に感じていた一種の「違和感」が多少氷解するのを感じた。
まず、第一は、この塾に入って来るような政治家志望の青年は、僕なんかよりもよっぽど「保守的」な人が多い、ということ。当たり前といえば当たり前なのだが、ついぞこの塾に入る人のメンタリティに思いを馳せたことがなかったので、その点「目から鱗」だった(これは僕の愚鈍さの証明だが)。僕が彼らに感じていたのは、この「保守性」への違和感だったのだろう。もう少し詳しく言うと、生まれたときから豊かな「日本」そのものを享受していて、それに対する疑問が最初からぬけおちている、という類の「保守性」だ。例えば、旧聞に属するが、この塾出身の高市早苗氏の「私は戦争に行っていないから、戦前の日本の責任をとることはぴんと来ないし、そう振る舞うつもりもない」、と明言したことなどへの違和感だ。

そして、その「保守性」が、悔しいことに(笑)、僕の内部にも確実に存在する「保守性」だと言うこと。思いっきり最初から自民党、というよりは、民主党的、もっといえば一昔前の「新党さきがけ」的なメンタリティだと言うこと(僕が過去に政権与党に票を投じたのは、確か「さきがけ」だけだったと記憶している)。ドラスティックな改革は避けつつ、でもちょっぴり反体制でいたい、という、まあ虫の良い考えですね。確か宮台真司さんの本にも「東大生はさきがけ支持者が他の社会集団に比べて有意に多い。まさに東大生らしい現象だ」と皮肉を言っていた記憶がある。下世話な言い方をすれば、僕から書生臭さを多少抜いて、「人間、とにかく上に立たなきゃ話にならないでしょ」という感じの脂っこさを加えれば、恐らく政経塾の皆さんに大分近づく気がする。

将来政治へ「野望」を秘めた人も、それをシニカルに見る人にもお薦めだ。

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December 09, 2004

カリーマ先生のエッセイ集

年をとってからの語学は難しいと言われますが、NHKアラビア語講座を見ている僕には、本当に実感できます。講師の師岡カリーマ・エルサムニー先生に釣られて見始めたのは良いが、文字もろくに憶えられず毎回絶賛挫折中であることは前にも書きましたが、その罪滅ぼし、というのは嘘ですが、本屋さんでカリーマ先生のエッセイ集を見つけて、「マー・ハーザー?(「これはなんですか?」という意味のアラビア語)」とばかりに、ついつい買ってしまいました。

その本のタイトルは『恋するアラブ人』(白水社、2004、\1800)
これはカリーマ先生が『季刊アラブ』という雑誌に長期連載していたものを集めたものだそう。電車の行き帰りの中で読んでいるのですが、面白くてぐいぐい読んでしまいました。

まず特筆すべきは、その文章の巧さ。押さえた感じの表現が僕好みです。
今回のカリーマ先生のエッセイは、すっきりとした端正な文章だし、ちゃんと「アラブ」というのがどのような文化風土にあるのか、ということも自然に理解させてくれる好エッセイだと思った。ご自身のエピソードと、歴史的な知識がうまく解け合っています。
それに、ところどころで、カリーマ先生の「硬派」な部分もわかり、ますます好感を持ちました。というわけで、お薦めです。

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December 02, 2004