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February 11, 2008

「ひたすら反対する」という依存

このところ、なかなかに忙しく、こちらのブログには新しいエントリを書けなかった。
書きたいことがなかったわけではないのだが、今日はこのところ気になっていたニュースを振り返りつつ、ちょっとだけ抽象的に「反省」してみたい。

さて、政治の世界では、僕の「気に入らない動き」が矢継ぎ早に起きて、脱力していた。先月の大阪府知事選、そして先日の岩国市長選は、このブログを読んでいる皆さんならお判りのように、僕の傾向からして「残念な結果」に終わってしまった。この結果については、あまり言及もしたくないところだが、次々と公約を撤回するような言葉の軽い府知事を戴いてしまったのだ、ということを大阪府民の皆さんは少しは考えておいたほうがいいだろう(たまたまだが、僕は堺市出身で、両親や兄夫婦も大阪府民である。決して他人事と思っていない)。そして岩国市の方は、あまり暗い話をしたくはないのだが、国のテコ入れが、沖縄の各市町でどれくらい有効であったか、ということを少し振り返ってみるべきだと思う(すこし聞くところによると、土建屋栄えて商店街滅びる、という例があるそうな)。

あと、気になる動きとしては、茨城県つくばみらい市で、DVに関する講演が、やたら騒ぎ立てるグループによって中止に追い込まれたこと(詳しくはこちら)と、日教組の全体集会が某ホテル側から一方的にキャンセルされた事件。これらは、まさに「テロ」の一種(成功したテロ)だと思う。何か事件が起こるかもしれないという恐怖によって、人々を支配したのだから。この二つの事件をもし「我々の正しい主張が認められた」などと誇りに思っているような人がいるなら、その思考方法は、爆弾を背負っていなくても、自爆テロ犯と選ぶところはないだろう。皮肉をこめて言うのだが、日教組の集会現場に集まって気勢を上げる皆さんは、自分たちが「政治的な主張」を堂々と行う貴重な機会を失ったということで、ホテル側に少しは文句を言ってもいい。
この二つは反対グループの思想的傾向性も似通っているので、当然僕からすれば気に食わないわけだが、ロクな代替案を提示できなかった自分も歯がゆい。一言で言うと、向こうの動きに反対するのが精いっぱいで、「ひたすら反対する」ということで、彼らに依存していたとさえいえるかもしれない。もちろん、彼らの側も「ひたすら反対」ということでぼくたちに依存しているのだが、向こうと合わせ鏡のような関係になったことが腹立たしい。
今日街中で、「建国記念の日」に反対するグループに、威圧的な恰好と街宣車で罵倒を繰り広げる連中を遠巻きに見つつ、そんなことを思った。

October 04, 2007

「声の大きさ」ではない

僕はこのブログで、歴史教科書の検定で、沖縄戦についての記載が枉げられたことに抗議してきたわけですが、先日沖縄での大規模な抗議集会を始め、全国的に広がる動きを見た政府が、その抗議を受け入れようとしていることは報道されているとおりです。

僕も勿論、このように事態が推移したことを歓迎していますが、しっくり来ないものも感じています。それは、今回のことが「声の大きなものが勝つ」という誤った先例として後年利用されはしないか、という心配といえば判りやすいでしょうか。
そもそもこの教科書検定問題は、当の検定自体に問題があったのであって(動機も検定委員も検定意見も)、「沖縄県民の声に配慮して」という物語に還元させることができる性質のものではありません。このような物語に回収されてしまっては、却って本当のことが隠蔽されてしまいかねません。

ということで、例えばある新聞の社説

「しかし、史実に基づいて執筆されるべき歴史教科書の内容が、「気持ち」への配慮や、国会対策などによって左右されることがあってはならない。」

というのは、言葉だけ見ればその通りで正しいのです(まあ、この社説は検定そのものの問題には頬被りしていますが)。僕だって、国民の「ご機嫌取り」として、教科書や教育現場に対して不当な政治的介入が起これば当然腹も立ちます(実際、今回の検定はそのような性格が強いことも大きな問題でした。その元凶が辞任したおかげで、こんなにもドラスティックに動いているわけですが)。たとえ、僕の信条に近い方向に動いたとしても、やはりそれはある種の「政治的介入」と見なさざるを得ません。それが僕のわだかまりになっているのです。今回の政府の対応を手放しで喜べないのはそのためです。

その時々の政治的要請で教科書の記述がどうとでも動いてしまうということ。先日の検定がまさにそれだったわけです(「戦後レジーム」からの脱却を計りたかった人たちの意向を汲んでの検定だったのでしょう)。そして今回のことが「県民の声という圧力によって動いた」とされてしまい、心ならずも「先例」を踏襲してしまうと、また近い将来「やっぱりそんな事実はなかった、という声が大きくなっているのでね」とオセロのようにひっくり返されはしないか、というのが僕の心配なのです(杞憂であればいいのですが)。

ですから僕は改めて「声の大きさ」ではないのだ、と強調したいのです。

August 03, 2007

学歴ではなく「批判する友人」の有無

何か、安倍政権がダッチロール中である(もちろん、同情などしないが)。特に先日の赤城農水相の辞任はタイミングといい態度といい、政権与党にとっては考えられる最悪の「置きみやげ」だったといえるだろう。赤城さん、ニュースで知ったけど、東大法学部出て、官僚も経験した人だったんですね。やれやれ。

さて、安倍氏が首相になってから、ネットのあちこちで彼の「学歴」を云々する声を聞いた(というか、読んだ)。まあ、僕も彼のやり方や答弁があまりに稚拙なので、「安倍は所詮成蹊で(しかもエスカレーター)」というネット上の揶揄もそれほど気にとがめず聞き流して、時には「あの我妻栄と東大法学部の首席を争ったお祖父ちゃん(岸信介)を尊敬するのは良いけど、もうちょっとお祖父ちゃんを見習って(もしくはお父さんでも良いけど)お勉強しなかったのかね」と冷笑していたのも事実(念のため付け加えておきますが、僕は成蹊大学に対して含むところは全くありません。優れた卒業生は山ほどいるし、優れた先生もたくさんいらっしゃいます。僕の親戚もいたし)。

だが、そういう問題じゃないということが、この数ヶ月で明らかになったと思う。

そもそも学歴なんていうのは、十代の終わりに、ある「クイズ解答能力」の出来不出来を競っているだけの話であって、それだけで全てを語ろうとするのは勿論できない。日本人が過剰に学歴にこだわるのは、血筋や家柄を否定した近代国家の宿命だとは思うが、僕は学歴、というより大学というのはどのような場所かというのを考えて、一つ思い至った。
それは「自分を批判してくれるような友人に出会う場所」ということである(高校とかで出会う可能性もあるけど、やはり大学の方がそういう友人には出会いやすいだろう)。田舎で一番だった秀才が大学に入ってみたら、それこそ大学内偏差値が50くらいである自分に気付き落ち込む、というパターンは良くあることだが(実は、僕もそうだった)、そこで腐るか、めげずに友人から何かを吸収するかということで、その後の人生は大きく変わると思う。そういう友人(時には教員の場合もあるかも知れぬ)、自分をある意味知的に叩きのめしてくれる人に出会わなければ、大学に入った値打ちは半減すると僕は思っている。そういう人に出会えなかった人、そういうのはどんないい大学出ていようが実は「使えない人」であるとさえ僕は思う。

「僕は、あの人に、勝ちたい」とアムロ・レイのようにメラメラと闘争心を燃やすもよし、もうちょっと消極的に「あの人には、バカにされたくない」と見栄を張って難しい本にチャレンジするもよし、それが大学生活ってものです。この「見栄」っていうのは自分を高めるときに不可欠なもの。僕もそうしてサークルの先輩に「なかなかやるじゃない」といわれることを目標に成長したと自分で思っています。そういう意味で、「壁」になってくれた先輩や友人に感謝です。

で、安倍首相の話に戻るが、彼のあの「頑迷さ」は、それこそ大学で傾聴すべき意見を言う友人、現在なら自分の至らなさを批判してくれる人に、これまでの人生で恵まれなかったからではないか、と想像する。勿論、彼にも友人はいくらでもいるだろう。ただし、古諺にいうように「忠言、耳に逆らう」を体するような友人か否か、ということだ。安倍さんのこのところの言動を見るに、人から意見を聞き、自分を省みて自分を変えていくという「身構え」が、彼には欠落しているのではないかと疑いたくもなる。
恐らく赤城さんもそうではないか?つまり「人から見て自分はどのように見えているか」という視点を得る機会を逃し続けたなれの果てが、ああいうみっともない姿ではないのか、と失礼な推定をしたくもなるのだ。そういうのに、学歴もへったくれもない。

July 19, 2007

クーラーは我慢してでも・・・

新潟柏崎周辺を襲った地震、大変でしたね。被災者の方にはお見舞い申し上げます。

この地震で注目されたのは、やはり柏崎原発でした。実は、放射能漏れなどの色々な情報を隠蔽していたなどという、芳しくない話も聞こえてきていますが、やはりこれだけの地震多発地帯にこれだけの原子炉を集中させているというのは単純に危険きわまりない話ですので、できることなら数年間は柏崎の諸原子炉を停止するくらいの処置を執って欲しいところです。この原発が停止するせいで、8月は電力不足が予想されるという報道がなされていますが、電気は貯蓄できないものなのですから、その供給量に合わせた消費の仕方を、関東地方は模索すべきだと思います。少なくとも、冷房の設定温度を上げるとか、自宅では極力控えるとかくらいはできるはずです。それがどれだけの節約効果になるかは知りませんが、ちりも積もれば何とやら、でしょう。

かくいう僕も、原発の恩恵に与っていることは自覚しています。このパソコンの電源も、福井県のどこかの原発から送られてきたものかも知れません。一気になくせ、というのも無理とは承知していますが、それへの依存レベルをゆっくり下げる、というのは全くの不可能事とも思えません(ついでに言うと、原発問題は安全面が最大の問題であることはもちろんですが、それを設置した自治体がそれ無しではやっていけなくなる体質に変わる、という麻薬性も実は大きな問題だと思います)。
去年の今頃も、「弱冷房がcool」という記事を書きましたが、もう一度、「小さなことからコツコツと」を、この原発事故をきっかけに確認したいと思っています。安易なシニシズムよりも、ポジティヴな自己満足で生きていきたいだけですけどね。

May 02, 2007

新聞掲載エッセイ

このところ忙しくて、こちらのブログはご無沙汰しておりました。
さて、4月30日の『京都新聞』の「フォーラム京」というコーナーにエッセイを掲載してもらいましたので、こちらにも転載したいと思います。これは京都の大学教員が、自分の専門に絡めて色々語る、という趣旨のコーナーで、僕もひょんな事から紹介していただき、書かせていただきました。新聞ということで、ちょっと大きく一般的な話題にしましたが、改めて読んでみると「僕はどうして宗教学なんかやっているのか」という告白に近いものがありますね、こりゃ。

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「心の時代」にみえる宗教性

川瀬 貴也

「衣食足りて礼節を知る」というが、ある程度の豊かさを達成した日本社会で「これからは心の時代である」と唱えられてから久しい。これは単なるスローガンや世間の雰囲気の問題ではない。例えば教育現場では小・中学生に対して『心のノート』が配布され(この副読本の課題として、お子さんに突然深遠な質問を受けて、戸惑った方も多いのでは?)、教育行政上も、昨年末改訂された教育基本法の条文を改めて読むと、「豊かな情操」「道徳心」「我が国と郷土を愛する」「人格を磨き」「自立心」など、「心」に焦点が当たっている部分が多いことが判る。「教育再生会議」という首相の諮問機関においてもボランティア精神などが説かれている。その他には、ニートやいわゆる「引きこもり」の問題についても、「コミュニケーション能力」など当人の「心」のありようが問題視され(筆者はそういう側面ばかりが喧伝されることに違和感を持っているが)、そしてテレビをつければ、「スピリチュアル」と銘打った番組や、占い師に芸能人が説教されている番組も見ることができる。そして大学においても「臨床心理学」という科目は非常に人気のある科目であり、カウンセラーを目指す者も多い。医療現場においても「スピリチュアルなケア」の必要性が説かれている。比喩ではなく、現在の我々の社会はまさに「心のありよう」が日常生活において大きな比重を占める「心の時代」となっているのだ。

さて、宗教社会学においては、科学の進展や、かつての共同体の絆が弱まることによって「宗教」の力は衰えると考えられていた。これを「世俗化」と呼ぶが、現実の世界を見ると、それに反するような動き、例えば新宗教の発展や「原理主義」の台頭、いわゆるオカルトの流行などが目白押しで、世俗化理論は何度も修正を迫られてきた。その有力な修正案の一つが「宗教とは呼ばない(呼べない)宗教性」を人々は様々なルートから補給しているのではないか、というものである。つまり、かつての教団中心の「宗教」ではなく、個人的な霊性を高めようとする活動(これが昨今話題となる「スピリチュアリティ」である)や、臨床心理学のように「心」を扱う学術的言説、カウンセリング、そして占いなども、現代社会において失われた「宗教性」の補給源なのではないか、ということである。このような視点から見ると、現代社会は実は「心」や「スピリチュアル」という表現を取る「宗教の代替物」で溢れている時代と診断することも可能である。

また、思わぬ方向から「宗教性」が要請されることもある。例えば生命科学の発達によって、従来想像もできなかった技術が可能になったが、その倫理的な線引きをどうするかということも重要な現代的課題である。とりわけ先端医療の現場における脳死臓器移植、安楽死、遺伝子治療や余剰胚、ES細胞などをめぐる議論に、科学者のみならず宗教家も多数発言をしており、その是非に関して理由付けがなされている。特定宗教の立場からでなくとも、これらの問題に我々が感じているかすかな違和感、これこそが「現代人の宗教的感覚」と言って良いかもしれない。

いわゆる「宗教」離れは、1995年のオウム真理教の事件が非常に大きな影を落としている。既成宗教に対する不信感も、あの事件をきっかけに顕在化したと言ってよいだろう。しかし、ここまで述べてきたように、我々は実に「宗教的」なものに囲まれて日常生活を送っている。単に「宗教」を嫌うのではなく、言葉は悪いが宗教性を「飼い慣らす」方向を模索するときに来ているのではないだろうか。その「飼い慣らし方」によってはいわゆるカルトの「ワクチン」になるかも知れないし、「心の時代」と言いつつ人間性が疎外されていく情勢へのワクチンにもなるのではと、かすかにだが期待したい。

January 28, 2007

「麻痺」しつつある自分

このところ忙しくて、なかなかまとまった文章を書く気が起こらず、このブログもご無沙汰していました。済みません。

本当は現在の安倍政権に対して、言いたいことが山ほどあったはずなのに、言いたいことが多すぎて全部を憶えきれず、いつの間にやら忘れてしまいました。
記憶力がなくなりつつあるのは加齢のせいで、ある程度仕方ないですが、もう一つ減退しつつあるのが、「怒る気持ち」だと思います。ちょっとやそっとのことでは動揺しない、というと聞こえが良いのですが、「麻痺している」と言っても良いかもしれません。年を取るとは、「世間とはこういうもの」という形で自分を言いくるめることも含まれているのでしょう。

このところ、安倍政権の閣僚やらブレインの人に、様々なスキャンダルやら、問題発言やらがあったというのに「あー、はいはい、またですね」という感じでスルーしてしまっている自分に気付きます(一番最近のだと、柳沢厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言ですね。男性は精子を作る機械でしょうか?)。対する民主党も角田参議院副議長の辞任で味噌をつけていますけど、まあ、あまりに矢継ぎ早にスキャンダルやら問題発言が起きるので、どれが誰のスキャンダルだったかさえいつの間にか忘れちゃうんですよね(愛人だとかえらく安い宿舎だとか家賃をろくに払っていない事務所だとか、他にもありましたっけ?)。それであきらめの境地になっている。

教育基本法改悪にしても、ホワイトカラー・エグゼンプション政策(これはお流れになりそうですが)にしても、今度は参議院選挙の争点にすると公言している 「改憲問題」にしても、「腹のふくれない」ネタでごにょごにょしているこの内閣に、もうちょっと怒らなくちゃまずい、と最近は素朴に思いつつあります。

December 15, 2006

「杞憂」になることを祈る

前々回のエントリと少し関わるが、この15日に、教育基本法の「改正」案が参議院本会議で、そして同様に防衛「省」への昇格も決まってしまった。この二つが同時に決まってしまったことは、後から見ると、もしかしたら「象徴的」な事件として取り扱われるかも知れない。

ということで、数年後、もしくは数十年後に「あの時が時代の転機だったよなあ」と振り返ることがないようにと祈っている最中だ。僕がこのブログでグチャグチャ言っていることは、基本的に杞憂であればこれ以上ない幸せ、という類のものだ。数年後、もしくは数十年後、まだ僕がブログをやっていたとして「あの時は過剰に心配したけど、杞憂でしたね、心配性で済みませんでした、ワハハ」という謝罪日記が書ければ、何も言うことはない。

でも、もし、僕が心配していたようなことが次々と起こってしまったら、僕にこの件で色々反対意見をくれた方々、忘れていなければで良いので、僕宛の謝罪メールか、そのニュアンスのブログでも書いてTB送ってください(慌てなくて良いです。最低数年以上お互い待ちましょう)。
とりあえず、自分に対する備忘録として、二つのことが決まってしまった今日を書き残しておきます。

November 15, 2006

失ったもの

松坂投手のレッドソックス入団やら、択捉島沖で大きな地震だ、というニュースと共に、教育基本法改正案が、衆議院特別委員会で与党によって、野党欠席のまま強行採決された。与党はこのまま衆議院本会議に持っていって、そのまま通したいようだ。まあ、それは判っているけど、タウンミーティングのサクラ(しかも謝礼まで渡していた)の事実がボロボロ発覚している最中に、こういう強行採決ができるという神経に、素で驚く。このようなことで驚いている僕がもしかしたら純情すぎるか、それとも与党議員の皆さんを買いかぶりすぎていたのか、どちらかか、もしくはどちらもだと思うが、与党議員各位の神経の組成は、僕の想像を超えていらっしゃるようだ(恐らくワイヤーロープ製の神経だと推測される)。「美しい国、日本」を作るためには、何らかの犠牲(例えば廉恥心)も必要という訳か。

さて、話は急にパソコンゲームに飛ぶが、僕もご多分に漏れず、歴史シミュレーションゲームの「三國志」シリーズ(光栄)が大好きで、何作かをやり込んでいる。大体このゲームでは、君主は自分の領民達の忠誠度を上げるべく、時には食料を振る舞ったり、治安を維持したり、商業を発展させて国を富ませる政策を行わねばならないシステムになっているのだが(そうしないと徴税できなくなったり、時には反乱を起こされる)、僕が今回この強行採決(本会議ではどうなるか知らぬが)を見て思いついたのは「この人達、「民忠(民の忠誠度のこと)」を上げる努力を放棄したな。ゲームの三國志なら農民反乱が起きるぞ(笑)」ということであった(本当は笑っている場合ではないのだが、もうこうなったら、笑いたくもなる。本当に嗤いたいのは、無力な自分だが)。

上記の与党の皆さんは、自分を支持している人以外は、全く視野に入っていないのだろうか。支持者以外の国民が少しでも自分たちに味方してくれるように何らかの手を打ったり、彼らの怒りを回避するべく、偽善でも良いから「(こんな時期に強行採決だなんていう)みっともない真似」はしないでおこう、という気は起こらなかったのであろうか(これは「ええカッコしい」の僕だからこその発想か?)。

この強行採決によって、これから失われるであろう事は多いと思う。僕はそれを心から惜しむ。だが、彼らの失ったものも、また多いのだと思うし、多くなければ(多くしなければ)嘘だろうと思う。

September 21, 2006

「踏み絵」としての日の丸・君が代

入学式や卒業式で、日の丸・君が代を強要し、従わなかったことにより処分されたのは不当として東京都立の高校の教職員が起こした訴えは、とりあえず東京地裁では勝訴を勝ち取った。「左」側の人間として(笑)、まずは嬉しいと思うが、実は僕はこの判決にちょっとだけ違和感を持っている。

判決理由は、「日の丸・君が代はかつて皇国思想、軍国主義の精神的支柱とされてきた歴史があるから」その強要はよくない、という論理構成になっている。確かにそれはそうだろうが、僕はもっと身近というか、「俗っぽいもの」としてこの裁判を捉えている。

このブログでも何度か言及したかも知れないが、この「日の丸・君が代」問題は、基本的に「踏み絵」の構造を持っている。日の丸・君が代そのものを尊重するかどうかが問われているというよりは、そのような命令を出す人間、すなわち校長などの管理職や自治体の教育委員会などの「お上」に従順か否かということを確認する「踏み絵」として使われているだけだと思う。そこが非常にいやらしい。国のシンボルという、なかなか否定しがたいものを正面に据えて、国のシンボルに従わないというのは、私にも従わないことと同じだと言い募るその心根が、腹立たしいし、いやらしい。

であるから、僕などは都の教育委員会の言い分などは、「俺の酒が呑めねえっていうのか」と宴席で絡んで、後日、酒を拒んだ部下をいじめたり、降格させるようなものと同質のものに見える。つまり、強要する側に、思想的な深みが全然感じられないのだ。
今回の判決は、訴える側も訴えられる側も、それなりに思想的なバックボーンがあるものとの仮定で進められていると思う。確かに訴えた側はそうだが、訴えられた側はそんな上等なものはなかった、というのが僕の見立てである。だから「負けるだなんて1%も考えていなかった」などという愚かな発言が出てくるのだ。

July 31, 2006

弱冷房がcool

皆さん、ほぼ梅雨明けの今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?こちらのブログはご無沙汰しました。

毎日暑いですね。昼間カンカン照りで、夕方にスコールのような夕立、というのがもはや日本の定番になっているような気がするのは僕だけでしょうか。なんか、これも地球温暖化なのでは、と疑ってしまいます。「日本印度化計画」、というのが筋肉少女帯の歌でありましたが(笑)、日本はそんなことしなくても、亜熱帯化していますね。

でも、僕は昨日あたりから夏風邪、というか、「クーラー風邪」を引いてしまい、調子が悪いです。熱がないのは幸いですけど。

実は土曜日、大学の行事で「オープンキャンパス」というのがあって、そのために一日中クーラーのガンガンに効いた部屋に居続けなくてはいけませんでしたから(オープンキャンパスの後の会議で、クーラーの部屋に閉じこめられたのが致命的)、半袖の「クールビズ」だった僕は、覿面に喉をやられてしまいました。ゲホゲホ。
でも、こういうのは、僕だけではなく、何でも片山善博鳥取県知事も「クールビズのせいで風邪を引いた」と言っているそうです。実際、日本はどこも冷房を効かせすぎですよ。特にレストランとか(環境管理型権力、という話は一旦脇に置くとして)、新幹線の中とか。僕は新幹線で移動することも多いのですが、あの寒い中に、2、3時間閉じこめられることを考えて、この季節に乗るときは、いつもジャケットは用意してしまいます。でも、鬱陶しいですよね。

さて、現在ニューヨークにお住まいの、僕の大学の先輩のお話でも、とにかくニューヨークも冷房を効かせすぎだそうです(地下鉄とかお店とか、まるで冷蔵庫みたいだとか)。先輩は、今セーターを持ち歩いているとのこと。この季節に防寒服なんて、ホント、ばかばかしい話だと僕も思います。

その先輩のうまい言い回しを勝手にお借りしますが、「だから、冷房をガンガンかけるのはダサイ、弱冷房がクール(笑)」とみんなが思わないことには、省エネとかはダメですね(Sさん、勝手に引用させていただきました。済みません)。

というわけで、僕は今のところクソ蒸し暑い京都でずっとエアコン無しで暮らしており(今住んでいるアパートにエアコンがない、ということです)、それをちょっぴり自慢してきたのですが、この生活を今後も続けることを誓っちゃいます。ついでに、職場の設定温度も当然高めに設定します(あまりつけないけど)。なんか、『よつばと!』(あずまきよひこ作)の恵那ちゃんみたいになってきたな(笑)。

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