国と国民、双方が選び取る
昨日は補講2時間、卒論指導2人、夕方には大学院生とのおしゃべりでエネルギーを使い果たし、自分のお勉強をするはずだった夜は使い物にならず。というわけで、今日目覚めたのもお昼前。新学期が始まった途端この体たらくだ。
もそもそとブランチを食べながら、高校サッカーの準決勝を横目で見つつ、今朝の朝日新聞を読んでいて、興味深いインタビューを発見。「新年 日本の皆さま」というインタビュー記事で、今日のインタビュイーは作家の矢作俊彦氏。いくつか思わず頷いてしまう言葉があったので、メモとして書き写してみたい。
まず冒頭で矢作氏は、去年のイラク人質事件についてこう述べる。
僕は信号を積極的に守らないんですよ。横断歩道で信号は見ていない。車を視認しなければ赤信号でも渡ってしまう。すると、周囲の人が一斉に歩き出すんです。そういう人たちが、イラクであの3人が人質になると「自己責任だ」「自己責任だ」って騒いだでしょう。すごい違和感を覚えました。 費用を払わせろといった政治家などは論外、この国は自立した国民国家ではないと言っているようなものです。国民国家という仕組みのキモは、「税金を払いなさい。その代わり国が生命財産を守ってやる」ってところにある。人質を、たとえ格好だけでも助けなかったら、そうした国の成り立ちがほごになってしまう。そんなことも分からない政治家が、改憲論議をしているんだから、お笑いだね。
ほとんど付け足すこともなく、納得。特に「たとえ格好だけでも助けなかったら」という部分、ここがまさしく「キモ」だと思う。誠意や結果ももちろん大事なことだが、何よりも最初、僕たちが見たいのは「誠意を持っている」と思わせてくれる身振りなのだから。そうした「身振り」さえあれば、たとえ結果的に失敗しても「失敗したけど、誠意を込めて頑張ったんだよね」と寛大な心になれるというもの(政治的案件が全部こんな風に心情倫理だけで動くのは大問題なのは言うまでもないが)。その「身振り」というか、「素振り」さえしないのは大失点だったと僕も思う。
そして、インタビューの後半で、その人質バッシングについて矢作氏はこう語っている。
自己責任なんて言葉もそうですが、あれは「非国民」や「売国奴」のような、今使うに使えない禁句の代用として国と国民、双方から選びとられたんですね。
「国と国民、双方から選び取られたんですね」、これは衝撃的な言葉だ。なぜなら、その通りだからだ。あの事件の際は、政府が人質に対してネガティヴな姿勢を見せて、それが国民に感染してしまったという側面があるように思われているが(それは確かに事実の一側面であろう)、それよりも重要なことは、易々と(と敢えて言うが)感染してしまった我々の側にある。
我々は単なる被動者ではない。積極的に「私は思う」と主語でもって語ってしまった主体なのだ。
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