語るほどの「内面」はありや?
今日は久々の大学院ゼミの日。
今読んでいるのは、今更といわれそうだが、柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)。これは僕が指定したのではなく、学生たちが「読んでみたい」というので、僕としても「以前読んだことがあるから予習が楽そうだし、再読するのも良いかなあ」と思って承知して読み進めているわけだが、今日は第2章の「内面の発見」。僕の院ゼミは、僕の性格を表してか、学生たちも暖かい僕の研究室(暖房の利きが良いのだ)で頭のねじが緩むせいか(笑)、自由闊達すぎる雑談になりがちなのだが、今日も僕も学生も全員ちと暴走気味。思いつきを喋りまくってしまった(歌舞伎と宝塚とネズミーランドの共通点は、とか)。
今回読んだ「内面の発見」は、その後筍のように出る「●●の発見」的な研究のはしりとなったものだが(フーコー・ホブズボウム的な仕事の先駆として、この論文はやはり意味があると再確認した)、ついつい考えてしまったのは、「語るほどの内面を最近の我々は持っているのか?」という疑問だった。僕もインテリ(笑)の端くれとして、昨今の内容の薄いベストセラー(『せかちゅー』とか『Deep Love』とか)を小馬鹿にしてきたのだが、よく考えると、ベストセラーになるにも理由があって、その程度の「内面」が今の我々の「身の丈」にあっているからではないか、ということを考えてしまったのだ。どんなことがあっても「むかつく」とか「だるい」という簡単な言葉でほとんどの感情の揺れを表現できる(もう、これは能力だと思う)人には、他人に語るほどの「内面」はすでに消失しているのではないだろうか?
近代になって、「内面」を語る作法を我々は身につけた、と柄谷氏は言っていると思うが、もう早くも我々は「内面を語るべき」という重圧に疲れ始めているのではないだろうか。一方ではもちろん今も「自分語り(もしくは自分探し)」という衝動も抜きがたく(まさに)「内面化」しているわけだが。
ゼミでは僕が突然、マンガ家の故横山光輝氏の話を思いつくままでたらめに喋る。
横山氏は名作『三国志』をはじめとして、特に晩年は歴史マンガを倦みもせず延々と書き続けた人だが、何故あれだけの仕事をこなせるか、というのは僕の長年の疑問であった。もちろん、横山氏の力量が人並み外れて優れているのは承知しているが、それだけでは理由にならない仕事量だと思う。そこで僕が今回、柄谷さんの論文を読みつつ思いついたのは、「横山氏の歴史マンガには、内面を持った人物がいない(人物の内面描写がない)から、作者は消耗しなくて済むのではないか」という理由だった。彼の歴史マンガを読めば判るが、風景も、人物描写も、ほとんど「お決まり」のパターンが見て取れる。月はあくまでもまん丸だったりするし、三国志だと食べるときは「むしゃむしゃ」、酔っぱらうと「うーい」、慌てると「あわわ」、逃げるときは「ひーっ」、襲うときは「ジャーンジャーン」である(この法則は、三国志のパロディを書いている佐藤製薬さんに教わった。)。
念のため言うが、僕は横山氏の歴史マンガを腐そうとしているのではない。僕は彼の歴史マンガのファンである(『三国志』のみならず『項羽と劉邦』とかもすきだし)。ただ彼の「お定まりのパターン」は、歴史物を扱うときは非常に有利な描き方だったのではないだろうか、というのを言いたかっただけである。
我々に語るほどの「内面」はありやなしや。
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>横山氏の歴史マンガには、内面を持った人物がいない(人物の内面描写がない)から、作者は消耗しなくて済むのではないか
なるほど~!と思いました。
>三国志だと食べるときは「むしゃむしゃ」・・
笑った!
Posted by: ずれちゃん | January 14, 2005 12:15 PM
ずれちゃんさま、コメントありがとうございます。
三国志の法則については、mixiのコミュ「横山光輝三国志」で教わったのですよ。
「ジャーンジャーン」って、実際どんな音なんでしょうね(笑)。
Posted by: 川瀬 of Joytoy | January 14, 2005 01:53 PM
川瀬さま
こんにちは。
私のところにもコメントをくださいましてありがとうございます。
あちらの方に、とも思ったのですが
こちらも興味深いエントリだと思い、
無知を承知でコメントしたい衝動に駆られてしまいました。
「自分語り」という衝動は抜きがたいものでしょうし
そのためのツールも提供されています。
(ブログなどもそのひとつでしょう)
しかし一方で人が傍観者であったのが、
自分の身体を記号化し、
自らの身体を使ったパフォーマンスによる表現手段を選んでいると思います。
そこでは人はロゴスを用いることなくとも
自己を表現する方法を取得したような気がしました。
そのような方法で自己表現ができているとすれば、
内面を形成し、それを語る、というプロセスを選ばないのではないか、と思ったりしました。
(的外れならばごめんなさい)
mixiのコミュ「横山光輝三国志」は面白そうですね。見てみたいです(笑)
Posted by: のんちゃん | February 01, 2005 12:10 PM
のんちゃんさま
「ブログ」で自分語り(友人には「カミングアウト」と言われています)をしている川瀬です(笑)。偉そうなこと言って、自分が一番自分語りしているんですよね、内実なんかを顧みず・・・。
>そのような方法で自己表現ができているとすれば、内面を形成し、それを語る、というプロセスを選ばないのではないか、と思ったりしました。
これは、例えば分かり易い例だと「ダンス」とかを想定しているのでしょうか?今書きながら思いつきましたけど、一時のダンスブーム(今もそうですか)って、新たな言葉以外の表現方法の獲得だったのかも・・・。
Posted by: 川瀬 of Joytoy | February 01, 2005 02:21 PM