今少し躊躇うこと、立ち止まること
昨日新聞広告を見ていたら、『週刊文春』の広告に、気になるフレーズがあった。
それは、例の尼崎での列車脱線事故についてであるが、その運転手の家族(母親らしい)に早速インタビューしたというもの。見出しも「JR脱線事故死者70人超 暴走運転手の素顔 小誌直撃に母は…」となっている。それを見た途端、いやーな感じがした。僕は元々、『週刊文春』とかは、敬愛する土屋賢二先生のエッセイを立ち読みするだけなのだが(いわゆる週刊誌は買う習慣がない。記事の90%は僕から見てあまりにくだらない且つ下品だから)、それにしても、まだ原因もよく判っていない段階で、運転手(とその家族)をあげつらう行為としか見えないようなことを、こんな拙速におこなって良いのだろうか、という疑問がわき上がる。この段階(まだ救助作業が続いているというのに)で「あの運転手が「犯人」に決まっているじゃないか(故に好き放題書いても構わない)」という断定は、慎む、というか躊躇してしかるべきなのではないか?一方的に叩くことのできる(であろう)対象をとことんしゃぶり尽くすかのように攻撃を加えるマスコミ(とそれに追随する「普通の人々」)という図は、醜悪さを通り越して、空恐ろしさを感じる。もう出てしまった週刊誌に対して言っても仕方ないが、もう少し躊躇ったり、立ち止まるということはできないものか。一番世間に対して申し訳ないと思っているのは、JR西日本の関係者や、もっと言えばあの運転手の家族に決まっているのだから、既に土下座している人に対して「頭の下げ方がなってないんだよ」と嗜虐性をむき出しにするような取材は、いかがなものか。
と思っていたら、ジャーナリストの綿井健陽氏(高校時代の旧友)が、僕の言いたかったことを代弁してくれていた(このエントリは、綿井君の文章を読んで、ようやく形になったものです)。綿井君の言葉を引用すると
この事故の責任や原因と、運転手の家族や母は関係あるのかなあ。何でも「家族」「生い立ち」「性格」に結びつけて、そして「犯人」を設定して、その周囲もまとめて吊るし上げる。だいたいいつもこのパターンだ。
決してJR西日本の免責をしたいのではない(あえて書くまでもないことだが、一応念押しで言っておく)。
だが、「過密ダイヤ」のことが言われているが、その過密ダイヤに追い込んでいるのはいったい誰なんだろうか。
普段、東京で山手線やほかの電車にも良く乗るが、人身事故で「ダイヤが乱れた」とき、いちばんイライラ、何度も舌打ちしているのは誰なんだろう。僕も恐らくしている。
駅員や車掌に「いつ動くんだ!」「運転再開の見通しを言えよ」などと怒っている光景もよく見るが、それは間違いなく普通の乗客だ。
つまり、遅れを取り戻すことを無意識に要求・圧迫しているのは、普段電車を使って乗っている僕らの側、こちらの側なんじゃないのか。少しの遅れも許さない社会で生きているのは、何も電車の運転士だけではない。
運転士の家や家族に取材する前に、そんなことを考えたり、想像したりすることはしないのだろうか。それは必要ないことなんだろうか。取材には余計なことなのだろうか。
今すぐ「家族のコメント」を取ることは、何のためだ。誰のためだ?
これもまた、ある意味で「遅れを許さない」雑誌の締め切り、OA時間に間に合わせるためなんだろうか?
そうやって、また「誰か」を追い込んで、自分もまた同じことをしている。そしてまた同じことが起きる。
この国でよく使われる言葉「事件の教訓」なるものを、次に生かせないのも無理もない。
日本とはそんな国だ。(2005年4月28日=「集団的正義感」と命名する)
余りにもそのとおり過ぎて、却って言葉をなくす。救いは、そのような「躊躇い」や「想像力」を保とうとしている綿井君のようなジャーナリストがまだ存在してくれている、ということだけだ。
自分の正しさに躊躇いを感じない行為は、すぐに暴力に転化する。


インタビューが所々挟まれているんですが、祥子さんの業の深さ(この「業」というのは、何か作品を作るアーティストには不可欠なものです。「業」の深くないアーティストなんて、語義矛盾だと思います。「業」のない人間は作品を作って人に差し出して、感動させるなんて芸当はできません)がうかがい知れて、興味深かったです。封入されていた自伝(年表)も、結構ヘヴィな事をさらりと書いていたりしましたが、それが却って「凄み」を感じさせます。
そして次に思い出したのは、異能ギャグマンガ家岡田あーみん先生の『こいつら100%伝説』のワンシーンでした(図版参照。3巻p.98)。こんなやばいネタを料理していた岡田さんを改めてリスペクトします(笑)。確か、岡田あーみん先生は、お母さんがクリスチャンで、結構そっち方面に造詣が深そうでしたが・・・。ちなみに、昨日の日記で書いた岡田史子先生は紆余曲折の後、キリスト教に入信しています。
さきほど、僕が入っているSNSのmixiで知ったのですが、マンガ家の岡田史子先生が、今月三日に心不全でお亡くなりになったそうです。享年55歳。mixiでこの訃報を知らせてくれた方は、岡田先生の息子さんとお友達なのだそうです。
さて、タイトルの言葉は、『歎異抄』13条の有名な一節ですが、昨日と今日で、
このあたりを敷衍して、内田先生は「常識」と「非常識」の往還(こういう言葉は使っていませんが、僕なりにまとめるとこういうことです)にこそ、宗教の「核」があるのではないか、ということを、有名なアブラハムのイサク殺害未遂を元に考察しています(2巻の「その15」)。旧約聖書の「創世記」において、アブラハムは息子のイサクを「山の上に行って、生け贄とせよ」という、神の無文脈かつ超非常識な命令を受けて、泣く泣く息子を山に連れて行って、殺そうとします。しかし、神の命令にそこまで従ったアブラハムを見て、神様は天使を遣わし、寸前で止めてめでたしめでたし、という有名な挿話ですが、内田先生は、以下のように解説しています。
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