「素人の集まり」としてのゼミ
先ほど、内田樹先生のブログを見ていたら、またまた考えさせられるエントリが。実は、僕もゼミや講義のやり方に対して常々考えることが多いのだが、今回の内田先生のエントリは、耳が痛いというか、身につまされる内容だった。
現在内田先生は、中国研究者が一人もいない環境で中国を語る、というゼミを大学院でなさっている。ところが、これが先生が言うには、非常に「生産的」なのだという。何故か。教師と学生の知識に水位差がないと、教師も泰然と構えてはおられず、きわめてスリリングな展開が待ちかまえており、その緊張感がゼミを活性化させるからだということだろう。
しかし、この「全員シロート」体制というのは教育的にはきわめて効果的なものであることが三ヶ月やってきてよくわかった。
教師がその主題についての専門的知識を独占的に所有しているということになると、聴講生たちは教師が誘導しようとする結論に誰も的確には反論することができない。
「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」ということになってしまう。
しかるに、教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると話がまるで変わってくる。
発表者によってその日にあらたに与えられた情報を、これまでのゼミ発表で仕込んだ情報と組み合わせて、「ということは…こういうことじゃないの?」という仮説を立てる権利は全員にほぼ平等に分かち与えられている。
つまり、ここから先は「知識量」の勝負ではなくて、断片的知見をどのような整合的な文脈のうちに落とし込むかを競う「文脈構成力」の勝負になる。
誰も正解を知らないクイズ番組みたいなものである。
僕などはまだまだ「若く」「未熟」な教師ゆえに、学生に対して知識量の差を何とか作り出し(もちろん、長年研鑽を積まれた先生に比べれば、鼻くそみたいなものだが)、その水位差から生じる「勢い」で、講義やゼミをおこなっている傾向があると思う(このやり方は、自己弁護になるが、きわめて「普通」の大学教育である。僕が受けてきたゼミも、そもそも僕とは比較にならない知の巨人の後塵を拝して「自分でつかみ取る」という類の、修行めいたゼミがほとんどだった)。
内田先生がよく使う表現に則れば、僕はまだ「劫を経たおじさん」ではないので、却ってその「水位差」に頼ろうとしてあがいているのだと思う。昨日初めて読んで知った知識を、あたかも数年前から知っていて自家薬籠中のものにしている振りをする事だけは、まあまあ上手くなりつつある今日この頃だ。
そして、「なに、君たち、こんなことも知らんのかね。まあ、知識がないところからは、何も始まらないわな」とばかりに、ゼミで僕が学生を睥睨するものだから、学生は益々発言しなくなり、僕はといえば「これだけヒントを教えてやっているのに、発言する奴がどうしてこうも少ないのか」と不満に思う、という悪循環をいつのまにやら、やってしまっていたようだ。
内田先生のゼミは、言うまでもなく内田先生ご自身の博覧強記ぶり、「オールマイティ」さ加減と、やる気のある社会人も一緒にゼミに参加しているというモチヴェーションの高さが際だっており、「川瀬先生のゼミは、他の先生より楽そうだから」という理由で学生が集まることも多い僕のゼミとでは、そもそも比べるのが間違いなのだが、先生の「シロートの集まり」という部分には、僕も思い当たる節があるので、ちょっと思い出話をしてみたい。
僕は学部生時代、あるサークルに参加していた。それは「KAOS」という名前のサークルで、残念ながら、今はもう消滅してしまった。これは「Komaba Academic Optimist Society」という名称の省略だが、もちろん先に「カオス」という言葉があって、語呂合わせで考えた英語名称だったわけだが、このサークルは一種の茶話会で、様々な分野の人間が集い(大学も色々)、大体毎月一回会合を開いていた。そしてその会合では、一人が自分の「専門」に関する発表を行い、それに対して、基本的にその分野に素人の連中がつっこみ議論する、というのが活動内容だった。例えば僕が宗教学に関する議論をみんなの前で発表すれば、法学、生物学、化学、医学、物理学etc.の分野の連中がそれを聞いて、つっこんでくれた。これは今から思えば、自分の専門を他分野にも通じる話に鍛え上げようとするものだった、と格好良く回想できるかもしれない(実態はどうだったかは保証の限りではないが)。ちなみにこのサークルは、一度『AERA』に取り上げられたことがあります。1992年8月18日号で、ジャック・デリダが表紙のやつです。この号は「哲学」が特集されており、大学のある先生が、僕たちを朝日新聞社に紹介してくださったのです。お暇な方はバックナンバーを探してください。「宗教学 川瀬貴也」という文字が初めて全国紙に載ったのが、これです(笑)。まあそれはさておき、僕はこのサークルで、他分野の人に揉まれること、もっと言えば「素人目の生産性」、というのを身にしみて感じたのだ。でも、これにも条件があって、ある分野に関してはちゃんとした「専門」を持っていることが、生産性につながるのだと思う。この時に得たものは大きく、物理的な交流の広がりも、知識の幅も、自分の卑小さの自覚も、全てこのサークルで与えられたと思っている。
あと、大学院に入ってから、朝鮮・台湾・「満州」など、日本の旧植民地を様々な分野で研究する若手が集まった自主ゼミ「植民地勉強会」(そのまんまの名前ですな)というのに僕も参加して、その仲間たち個々人の能力の高さもさることながら(僕を除く)、やはりここでも、「KAOS」で感じたようなもの-特にこれは学際的な広がりを最初からある程度狙った集まりだったので-を感じた。身内褒めをしてしまうが、本当にこの自主ゼミでは様々な意見や知識が得られて、吸収する一方の僕には、大変有意義なものだった。この自主ゼミは素人と言うよりは「セミプロ」の集まりだったわけだが、他分野の話を聞くことの生産性は、やはり味わわせてもらったと思う。
僕が考えている「素人の生産性」は、正確に言うと、上記で述べたように、何か一つ、ある専門(得意分野)を持った上で、他の分野の専門的な話に「つっこみ」を入れること、ということだ。
さて、内田先生はこう締めくくる。
ふつう私たちは「専門的知識を備えた人間が指導しなければ教育は成立しない」と考えがちだが、そういうものではない。
仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリーさえいれば、どのような分野の主題についても学生たちは実に多くのことを学ぶことができる。
逆に、知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている限り、学生はたぶん何も身に付けることができない。
いやはや、耳の痛い言葉だ。まるで僕のことを言われているような気さえする(学生から「先生は物知りだけど、時々その話は何のために話しているのかが、わからなくなるときがあります」とやんわり批判されたこともあります。彼女は鋭い。その通りだ)。
ゼミで取り扱うテーマに関して全く知識がない、というのは論外としても(それじゃ、あまりに学生に失礼だし、内田先生ほどの広がりがない僕が下手に真似したら、独りで撃沈だ)、あまり知らないことを一緒に考えたり読んでいくようなゼミは、もう少し「劫を経たら」やってみたいと思った。


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