「飽きさせない」言い方を模索する
先日、某高校が「ひめゆり学徒の体験談は退屈」、という意味を盛り込んだ英文を入試問題にして、問題化したことがあった。今朝の朝日新聞に、その後日談が書かれた記事が載っていた。それに触発されたことをメモしておきたい。
確かに、「戦争体験談」を退屈、といってしまうことは、倫理的にも良くないように思われる。折角語ってくださっている方に、失礼であるのは間違いなかろう。しかし、その「決まり切った口調」に退屈を感じてしまうことはないだろうか。内容には関係なく、その「話形」がこの場合重要になる。「はじめ」を聞けば、最後まで聞かなくとも、その結論が分かってしまうような話。落としどころが、既に決定されているような語り。そのような話は、端的に「飽きられて」しまう(残念だけれども)。話の内容が正しければ正しいほど、もしかしたら「飽きられる」スピードも速いのかもしれない。
例えば、内田樹先生は、上記のような意味で「フェミニズム(の話形)は、その歴史的役目を終えた」とおっしゃっている。僕は、この内田先生の意見にそのまま同意することはできないが(まだ、ファミニズムの話形を「飽きる」資格は、僕らにはないと思っているので)、学問において、フェミニズム以外にも、昨今の例えば「ポストコロニアル」や「カルチュラル・スタディーズ」は、その一端を担っているつもりの僕から言うのも何だが、例外を除き、ほとんど「落としどころ」が判る話形になっているのは、否めない事実だと思う。つまり、自動化された「同じ話」をしてしまっているのだ。
生の声ならば、思わず体験を思い出して、声を詰まらせて嗚咽してしまう、なんていう「現場」を目の当たりにして、思いがけない感動をするということもあろうが、文字となってしまったものは、型にはまってしまい、勢い「飽きられてしまう」確率が高い。
だからこそ、自戒を込めていうが(そう、これは告発ではなく、自戒である)、僕たちは様々な話形を模索せねばならない。それは、僕たちの声を聞いてもらう努力であると同時に、少しでも共通項がありそうな人を巻き込む、という戦略的な意味もある。白か黒か、ではなく、灰色、しかも濃淡の違う灰色を様々に提示して、様々な人とつながる「回路」を確保していく努力を、惜しんではならないと思う。「平和」「フェミニズム」「ポストコロニアル」「カルチュラル・スタディーズ」「(アンチ)グローバリゼーション」etc.にまつわる複数の「話形」・・・。
昨今、ネット上に広がる「リベラル派批判」は、その内容のほとんどは僕には論評にも値しない噴飯ものに見えるが、そのようなシニカルな人々(彼らは「決まり文句」に飽き飽きしている人たちだろう)のメンタリティについては、どうしても考えざるを得ない。彼らに届く(もしくは、彼らを「ギャフン」といわせる)「ことば」は、一体どのようなものなのか。
同じような話を、様々に言い換えつつ、その幅を広げていくこと。これはある意味、僕にとっての「一生」の宿題となるだろう。
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こんにちは。
「戦争体験の語り」自身がある種パターン化し
たり、固定化されたイメージとして定着してしまっている。
そんな現状もあると思います。
または「平和学習」などで「知識」や「情報」として
処理され、自分に引き付けられてこないところも
あるかもしれません。
ただ、最近盛んになりつつある「絵で書き残す戦争体験」
であったり、たとえば語っている人ないし死者の写真を
一枚提示するだけでも想像力をかきたてる効果はある
と思います。
また、「夕凪の街 桜の国」のこうの史代さんも、ご指摘
のような問題を念頭におきながら方法を考えていた、
のでしょうね。
Posted by: 虎哲 | September 03, 2005 11:49 AM
虎哲さん
僕自身、虎哲さんが提示したような試みにタッチしていないので、えらそうなことは言えないのですが、
>また、「夕凪の街 桜の国」のこうの史代さんも、ご指摘のような問題を念頭におきながら方法を考えていた、のでしょうね。
というのは、その通りだと思います。そしてあの作品が広範な人に受け入れられたのは、その切り口の「斬新さ」も大きかったと思います。具体的には、「生き残ってしまった自分」、「自分は体験していないが家族にトラウマとして痕跡を残している原爆」という、それまでの「現場」からの声とは違った位相が新しかったと思います。
Posted by: 川瀬 | September 04, 2005 01:32 AM
僕はこの問題、結構日頃から考えております。と言っても、本業と副業が忙しくて、最近はなおざりにしておりますが。
大学生協で平和活動に参加していた折り、自然科学系の(特にシステム論と、科学技術社会論の)立場から平和とは云々みたいなことを大上段から語ろうと色々と苦労したものです。結構、未消化のネタも今なお多いのですが。
今回のブログ記事の主意は、「まずもって新ネタの出てこないながらも、世代を超えて共有すべき話題を、共有できるようにしていくにはどうすれば良いか」と言うことですよね。
関連すると思われる内容の文章(エッセイから毛の抜けたやつ)を、以前、東大生協の平和活動報告集に書いたことがあります。いつか Web にアップしようと思いつつ、早いもので幾年月...。実は今 Web の開設準備中なので、今年度中には何とかしたい思っております。まぁ、読み返すのも恥ずかしい内容ではありますが。
とりあえずは、何らかの形で話の聞き手のこころ(具体的には、以前川瀬さんが話題になさっていた『想像力』)を大きく“かき乱す(情に訴えるのとは同義でなく、どちらかといえば知性と常識に訴えるという感じで)”ような物言いをすることが大事で、それを何らかの形で社会運動にして、運動を(継続そのものが目的にならないように)継続させていくことが第1歩かなと思っています。とはいえ、その第1歩を実現する方法と、その次の2歩目をどうするかが見つけられないのですがね。個人の Web でどこまで出来るかとなると、やはり心もとないですから。
学問としての平和学には、結構期待しているんですけどね。
P.S. 大学で研究者をやっているうちに(自分の中で平和活動をやった証として足跡を残しに)行っておきたい場所が、4ヶ所あります。立命館大学の平和ミュージアム、沖縄・平和の礎(と沖縄国際大学)、新宿の平和祈念展示資料館、長野県の松代大本営跡です。でも、時間を作るのがねぇ...。広島と長崎の被爆遺跡及び原爆資料館、沖縄の南部戦跡やひめゆりの塔、東大・麻布の旧先端研(米軍施設に隣接)などは既に見に行ったので。
P.P.S. 平和のための戦争展、東京開催の分はしばらくご無沙汰ですが、何年か前までしばしば足を運んだものでした。渋谷の大学生協会館をよく会場にしていたので。
無内容の長文、失礼しました。
Posted by: 横山 雅俊 | September 05, 2005 09:51 PM
横山さん
> 今回のブログ記事の主意は、「まずもって新ネタの出てこないながらも、世代を超えて共有すべき話題を、共有できるようにしていくにはどうすれば良いか」と言うことですよね。
まあ、そういうことですが、もうちょっと正確に言うと、「新ネタは出てきても、結論がみんな同じで、せっかくの新しさが無視されちゃう」状況を憂えている、といったところでしょうか。
ですから、おっしゃるように、
>何らかの形で話の聞き手のこころ(具体的には、以前川瀬さんが話題になさっていた『想像力』)を大きく“かき乱す(情に訴えるのとは同義でなく、どちらかといえば知性と常識に訴えるという感じで)”ような物言いをすることが大事
なのだと僕も思います。
Posted by: 川瀬 | September 06, 2005 02:37 AM