虚心坦懐に読めば・・・?
朝から雨で、ちょっと憂鬱な土曜日。
新聞を広げると、自民党の「新憲法草案」の詳しい内容が掲載されていた。全部、目を皿にして読んだわけではないけれど、ちょっと気になることを書き留めておきたい。
まず、一番の懸案である9条は、「自衛軍」と書きたい書きたい、と昔から言っていたのがそのままなので、これはとりあえずスルー(「平和主義」を堅持したまま、名前を「軍」にして、何が楽しいのか僕にはよく判らないけど)。
僕が気になったのは、12条と20条。特に宗教学者としては、政教分離規定の20条や89条に目がいくのは仕方がない。
まず12条だが、草案では
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民はこれを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する義務を負う。(強調引用者)
となってるのだが、なんだかなあ、って感じである。現行憲法でも「国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」となっているのだけど、草案の方は「自由や権利には責任および義務がつきもの」というお説教部分が混入されているわけだ。はっきりいうけど、こういうお説教、よけいなお世話です。
そもそも、憲法とは国民の国家に対しての命令だと昔に習った記憶があるんですが、どうも草案を作った人の頭の中ではそうはなっていないらしい(中世の「憲法」だって、王様が無茶をしないように掣肘するためのものだったわけだし。「マグナ・カルタ」とか)。納税・教育・勤労の三大義務をこなしていたら、基本的に犯罪以外のことはしていいはずなんじゃないの、という素朴な思いがどうしても湧き起こる。
有事法案でも「人権は最大限守られなければならない」と書いてあるが、「人権を守る」とは書かず「最大限守られなければならない」との表現は、「もしもの時には人権を守らない場合がありますよ」という注意書きとして読むべきだろう。この12条案には、それと同様の臭いを感じてしまう。
次に20条に関してだが、自民党案では第3項がいわゆる「目的効果基準」(これはかみ砕いて言えば、公的な現場で、ある特定の宗教を採用したりしても社会的にそれほど影響がなかったり、特別にその宗教を布教したりというような意図がなければ、それほど目くじら立てなくてもいいんじゃないの、という考え)に沿うような形で書き換えられている。曰く
国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉になるようなものを行ってはならない。
うーん、僕なんか、これでも虚心坦懐に読めば、首相及び国会議員の靖国参拝は憲法違反なんじゃないかと思いますけどね。やっぱり特定宗教の「宗教的意義」を有する行為ですよ、参拝って。そうじゃないと、逆に靖国神社の宗教としての尊厳はどこに、という話になる(ろくに拝まず、お賽銭チャリーンでいいんですか、という話だ)。ついでに言うと、「靖国神社への崇敬は国民の自然な感情で」などというなら、「自然」に任せるべき、という至極単純な考えを僕は持っている。
よく首相及び国会議員の「信教の自由」はどうなる、という声も聞くが、一個人として、内心で何を思おうが、何を信じようがそれは自由なのは当たり前。第一それを規制することは不可能だ。ただ、公を代表する人間がそれを前面に押し立てて行う行為には最大限の注意が必要という、単純な話だと思う。下っ端の公務員でも、結構政治活動その他に関しては色々うるさく言われるのだ。「公」のトップたる議員がもっと慎重になるべきなのは当然であろう。
貶してばかりだとあれなので、最後にちょっとは褒めておきましょう。僕個人としては、「あっさりしすぎ」と評判の悪い草案の「憲法前文」、結構すっきりしていて好きですよ。ただし、本当にあの文章に盛り込まれていることが実現されるなら、という留保は必要ですが。どうもそれと真逆の法案ばかり最近目立つ気がするんですが。杞憂なら、幸い。まあ、現行憲法の前文ですらも、海外に自衛隊を飛ばす理由付けに持っていく首相を今の我々は戴いているわけですしね・・・。
追記:様々なブログを巡回して、今回の改憲案の肝の一つは、改憲のための議員数が「三分の二」ではなく「過半数」となっていることだ、というのに気付かされた(96条)。過半数だったら、今の国会とかで、ドカドカ通っちゃうものな。そんなに改憲要件を簡単にしては、やっぱまずい。「現実に合わせて」どんどん作り替えるということは、現実に振り回される事と同義だ。


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