のっけからお恥ずかしい話ですが、久しぶりに、小説を読んで(その後映画を見て)、涙を落としてしまいました。それは小川洋子さんの『博士の愛した数式』です。
僕は感激屋のつもりですが、「泣く」ことは滅多にないです。一番びっくりしたのは、自分自身です。何が僕の「泣きツボ」だったのか、それを考えつつ、この文章を書いています(最初に申し上げますが、「すごく泣けます」と皆さんにこの作品を推薦するつもりはありません。僕がたまたま泣けただけで、他の方がどう感じるかは判りません。ただの自己分析です)。
これ以降は、ネタバレを含みますので、小説及び映画を白紙で見たい方は読まないでください。
さて実は、僕、昔けっこう小川洋子さんの熱心な読者だったんですが(芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』のサイン本を買ったほどです。あれは神田の三省堂だったな。端正な字でした)、その「甘い」世界からわざと距離をおくべく、この10年ほどは読んでいませんでした。
しかし、映画化もされたということだし(僕の好きな深津絵里が主演だし)、まあたまにはと思って手に取ってみたら、ぐいぐい読んでしまって、今日のテスト監督中(自分が担当している「宗教学」という講義のテストでした)に読み終えて、そのまま夕方に映画まで見に行ってしまいました。実は、テスト監督中読んでいるとき、目頭が熱くなり、焦りました。学生は気付いていなかったでしょうけど、鼻をすする音くらいは気付いたかな。
小川洋子さんの世界って、いつも何らかの濃密で、内閉的な(でも居心地は良い)一種の「共同体」が崩れた後、「私」がそれを一人称で回顧する、というモチーフが多いと思うのですが、この本も、その例に漏れませんでした。特に今回は数学者という設定が奏功しています。物語の端々で出てくる数式の完全な「美しさ(友愛数や完全数の美しさといったら!!)」は、家政婦である「私」と息子の「ルート」と「博士」の3人で形成される「共同体」をより美しくする効果があったと思います。
ストーリーは他のところでも色々書かれているので、簡単に説明すると、天才的数学者だった「博士」は交通事故の後遺症により、80分しか記憶が保てません。そこに、身の回りの世話をする家政婦として「私」が派遣されます。「私」は幼い息子「ルート(この呼び名は、後に博士が付けた)」と二人暮らし。何故か数学と子供を愛する「博士」は、「ルート」をまっすぐに愛し、3人の奇妙で暖かな生活がぎこちなく始まるが・・・というのが骨子です。
で、何で僕はこの作品に涙したのか、とずっと考えていました。
まずは、博士の「記憶」のはかなさという「道具立て」に参った、というのはあるでしょう。若年性アルツハイマーを扱った『私の頭の中の消しゴム』はヒットしましたし、長期連載のマンガには記憶喪失がつきものです(笑)。普段の生活でも、こっちは覚えているけど、向こうは覚えていない、という体験だって、けっこう哀しいものがあります。しかもこの博士の場合は、同じところをグルグル回るだけです(原作の小説では、その「80分のテープ」すら、最後に壊れていきます)。その博士の苦悩(目の前の事態が飲み込めないこと)が伝わってくるシーンがあり、小説でも映画でも、それは白眉のシーンでした。
もう一つは、先日のエントリで早世した同世代の研究者について触れましたが、この博士も、人生の途中で、志半ばで諦めざるを得なかった境遇です。そこにも、僕なども研究者の端くれですし、ついつい感情移入してしまった可能性があります。
そして最後に考えついたのは、この小説(映画もほぼ原作を忠実になぞっているので同じです)、この物語の登場人物が、全て互いをいたわり合っていることを、そしてその関係がいずれ失われていくことも含めて、とても切なく感じたのだと思います(一人称の回顧は、回顧すべきものが既に失われていることを最初から示唆しています)。3人の世界は、あまりにも美しいから。
映画では、深津ちゃんが良いのは当然として(ファンの贔屓目)、やはり博士役の寺尾聰さんが素晴らしいですね。
人によっては物足りない、という人もいるでしょうが、僕はこの小説の終わり方が好きです(映画の方が少しドラマティックに作っています)。
というわけで、久々に読んだ小川洋子さんですが、やっぱうまいです。帰り道で、その書店にある彼女の文庫を全部買ってしまいました・・・(昔読んだものは買いませんでしたが)。この『博士の愛した数式』は、恐らく読み返すこととなるでしょう。
追記:映画の中で「あれ、あれは小川先生では?」と思ったら、やはりそうでした。ある場面でカメオ出演なさっています。僕は小川先生の目の前にいた高村薫似の女性に気を取られていて、思わず見落とすところでした。
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