「武士道」に悖る
今回の教科書検定において、沖縄戦における住民の「集団自決」について「軍が強制したとは必ずしも言えない」などと物言いが付き、修正させられた。修正された字句を見ると「追いつめられた」という表現は残っているが、住民を追いつめた「主語」から日本軍を外したりぼやかしたりしていることが判る。従軍慰安婦の次はとうとうここまで来たか、という思いをぬぐいきれない。でも「追いつめた」という言葉が残っているということは、さすがに検定側も、今流行の言葉を使えば、「広義の強制性はあった」とは認めているわけだ。
まずはっきりさせておきたいのは、無数の証言によって日本軍が沖縄住民に「いざという時には」と手榴弾を渡したり、軍が隠れるために洞窟から住民を追い払ったりしたということは否定しようがない事実ということだ。こんな事はこんな場末のブログで力説することでもない(以前、沖縄に関する本を読んだときも、この問題について語っていますが)。実際は軍による「狭義の強制性」もありまくりだったのだ。
最近ヘタレ気味で腹の立っていた朝日新聞の社説だが、今日(3月31日付)の社説は全面的に賛成。その通り。
このところ、日本の過去の「悪行」について、なるべく低めに査定したい勢力が力を持ちつつある。「新しい教科書をつくる会」、すなわち自由主義史観と名乗る人々もそのような傾向がある(色々内紛もあるようだが、最近の動向は知らぬ)。時には開き直って「自国の都合の悪いことを子供に教えないというのが普通。アメリカだって原住民の虐殺には触れていないし、韓国や中国も同様」などと言っていたのが思い出される。なるほど、確かにそうかも知れない。でも、僕みたいな単純な人間からすると「それって武士道に悖るんじゃないの?」と思う。他人が悪いことをしていても、自分は正しいことをするのだ。こういうやせ我慢を僕は「武士道」と呼んでいる。「向こうが自国の子供に都合の悪いことを教えない、という卑怯なことをしているなら、こっちはそうしない」ということにならないのか、と素朴に思う。
向こうがやるならこっちもやってやれ、という理屈は、確かに「相互的」ではあるが、自分を一切高めない論理である。「不均衡こそが倫理の源」と思う僕は、そういう相互性には与しない。


Recent Comments