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August 15, 2020

信仰と愛国の間―イエスはナショナリズムの夢を見るか(書評 松谷基和『民族を超える教会―植民地朝鮮におけるキリスト教とナショナリズム』明石書店、2020年)

松谷基和『民族を超える教会―植民地朝鮮におけるキリスト教とナショナリズム』本体3800円、明石書店、2020年

川瀬 貴也

 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(「ガラテヤの信徒への手紙3:28」)

 

 よく知られているように、現在の韓国はキリスト教人口が多く(カトリック・プロテスタントを合わせて人口の約30%)、キリスト教国の植民地になったことのない地域としては例外的な広がりを持っている(長老派とメソジストが二大教派)。その淵源を辿れば、朝鮮王朝末期及び日本の植民地支配の時代に行き着くのだが、ここで一つの大きな「物語」が語られる。すなわち、朝鮮におけるキリスト教は、抗日ナショナリズム(愛国・独立運動)や近代化(教育や医療)と結びつき、宣教師の下でその培養器となったという物語(通説)である。宗主国(日本)と宣教国(主にアメリカ)のズレがこの朝鮮半島におけるキリスト教に民族主義的な色彩を加え、信仰と愛国が合致するその伝統は今も生き続けている、という通説はこの半島の特異性を説明してくれるような気がするが、果たしてそれはどこまで実証されているものなのか。本書は一言でまとめると、上記のような朝鮮近代を貫く「語り」に対するアンチテーゼを、数々の当事者の証言や、アメリカに残る宣教団史料を博捜して提出したものである。

 著者はまず、植民地期にも一貫していた西洋人宣教師たちの存在の大きさを指摘する。教会運営はもちろんのこと、医療、教育など全ての活動の中心は宣教師であり、朝鮮人信徒ではなかった、という冷徹な事実を突きつける。つまり宣教師と朝鮮人の間には極めて垂直的かつ非対称的な権力関係が存在していたのである。例えば長い間、朝鮮人の牧師は認められず、西洋人宣教師は、朝鮮教会に対する決定権を保持しながら、朝鮮教会に所属せず(本国の母教会の所属を維持)、朝鮮教会自身の決定には何ら拘束されないという「治外法権」的な地位を得ていた。これまで朝鮮では宣教団に頼らず現地人主体で教会を運営する「ネビウス方式」という宣教が奏功した、という「伝説」があったが、実際には朝鮮人信徒が自主性を発揮する機会は限られていたのである。また、朝鮮半島は「宣教地の分割」が行われていた。これは各宣教団が競合しないように、あらかじめ各教派で宣教領域を分割した一種の「紳士協定」だが、これは朝鮮人信徒に教派替えを強いることにもなり、朝鮮人の権利や意思は尊重されなかったのである。これは朝鮮人信徒が教派の壁を越えて交流したり全国的な教会組織を作ったりすることを不可能にした。

教育に関していえば、長老派はキリスト教に導くための教育、という考えを否定していた。あくまでキリスト教への「改宗」が先であり、教育は後、という方針だった。これは西洋的な近代教育機関を作ることでキリスト教信仰に導こうとした日本でのキリスト教宣教のあり方とは大きく異なっていた(現在も信徒の数に比して日本ではミッションスクールが多く存続している)。要するに長老派ミッションは自分たちを西洋近代文明に接近する窓口として提供する考えも、朝鮮人信徒に近代的教育を施して朝鮮の近代化のリーダーを育成する、という考えもなかったのである。長老派が教育に力を入れるのは、植民地朝鮮において日本の学校との競争にさらされるようになってからであった。一方メソジスト派ミッションは最初から朝鮮人に対して近代的教育を施すという方針を持ち、彼らの設立した「培材学堂」では官吏候補生も近代的教育を施された。しかしこれもソウルのごく限られた階層にのみ享受できた教育であり、朝鮮の開国から植民地化されるまでの約30年間、プロテスタントミッションは知的に優れた朝鮮民族の指導者を養成することには限られた実績しか残せなかったのである。

 次に政治との関わりを見ると、宣教師は政治との関わりに一線を画すことを基本原則としており、信徒にも政治活動を抑えるように説いていた。近代的知識を身につけ、「独立協会」になどに関与していた朝鮮人クリスチャンは一般国民からは浮いた存在であり、宣教師からも快く思われていなかった。また、日韓保護条約以降の抗日武装闘争(義兵運動)にもキリスト教会は冷淡な態度を取り、霊的な救済を重視する傾向を示し、その結果熱狂的な集団改宗である「大復興運動」が起きたが、日本の侵略、日韓併合には沈黙したのである。

 もちろん、朝鮮人信者が既存教会に対して批判的な声を上げるときもあった。その中で実は、日本人と連携して宣教師に抵抗するという動きもあったのである(この動きは後に日本の組合教会に合流するという帰結を招く)。本書は既存研究で等閑視されていたこのような動きにも注目している。民族意識の高い朝鮮人知識人も、反知性主義的で朝鮮人をまともに扱わない教会に対して批判を強めいていた。つまり「ナショナリズム」と「キリスト教」が手を携えていたというのはごく少数なのである。このことが明白に現れたのは「三・一独立運動」においてであった。この運動の中心にはクリスチャンがいたが、彼らの行動は多くの宣教師にとっては教会に害をなすものとされ、肯定はされなかったのであり、「ナショナリズム」と「信仰」が単純に結ばれた、ということはなかったのだとこの書は示唆する。

「キリスト教信仰とナショナリズム」の関係は、日本においても、例えば内村鑑三の「二つのJ(イエスと日本)」に現れているように、東アジア共通の問題であろう。韓国における両者の親密さ、という通説に見直しを迫る本書を、東アジア近代宗教史にご興味のある方にお勧めする。(京都府立大学文学部教授)

(『図書新聞』2020年8月15日、第3460号掲載)

February 10, 2018

近代天皇制国家の壮大な「パロディ」―二人の「進撃する巨人」(書評 川村邦光著『出口なお・王仁三郎――世界を水晶の世に致すぞよ』2017年、ミネルヴァ書房)

川村邦光 著『出口なお・王仁三郎――世界を水晶の世に致すぞよ』2017910日刊 四六判520頁 本体3800円 ミネルヴァ書房

 川瀬 貴也

  戦前、最大の弾圧をこうむった教団として知られる大本(教)は、これまでも多くの研究者や小説家の関心を引きつけてきた。例えば、高橋和巳の『邪宗門』は大本をモデルとし、高橋の母の天理教信仰をも加えた思考実験の小説として名高い。研究者も「地上から大本を抹殺する」とまで言われた大弾圧を受けた大本を、いわば天皇制国家の「犠牲者」としてシンボリックに、あるいは幾分ロマンティックに解釈してきた。丹波の地で、文字通り地の底で貧苦に喘ぐ生活をしながら、強靱な精神力で生き抜き、遂には神の言葉を筆先で表し、一大教団の基礎を築いた出口なお。そして彼女としばしば対立しつつも支え続け、教義を確立し、教団を拡大し、当時から「大化物」と呼ばれた王仁三郎。本書は日本近代宗教史に屹立するこの二人の巨人の生涯を余すところなく活写した浩瀚な書である。かつて歴史家の安丸良夫は、大本、特に王仁三郎の志向性について、当時の「国体イデオロギー」にすり寄りながらも(それが広汎な人々をひきつけた要因でもある)、それをいわば換骨奪胎して「内側から食い破る」可能性を常に秘めていた「正統のなかに生まれた異端(安丸の用語ではオーソドキシー異端、O異端)」であったがゆえに弾圧をこうむったと説いたが(安丸『近代天皇像の形成』岩波書店)、本書はその大本および王仁三郎の「O異端」ぶりを徹底的に浮き彫りにしている。事実、大本は天皇制国家に真正面から対抗したのではなく、極端なまでの「皇道主義」を唱え、いわばその壮大な「パロディ」を演じたのである。

 著者の川村はこれまでも大本、新宗教教祖の「カリスマ」、近代の巫者(シャーマン)、近代化によって抑圧された民間信仰に関する研究に多大な貢献をしてきたが、本書は彼のこれまでの研究を全て投入し、なおかつ出口なおと王仁三郎の声をできるだけ拾い(「筆先」や著作、機関紙からの膨大な引用は本書の特徴の一つである)、大本が近代日本および世界にどのような「声」を発したかを跡づけている。大本は一八九二年旧正月になおが神がかりして書いた「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世に成りたぞよ」という「初発の神諭」から出発した。なおの描く当時の日本および世界は「外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ」と、まさに近代国家および文明を呪詛せんばかりの内容だったことはつとに知られているが、このような「筆先」は、なおのテクストに王仁三郎が漢字を宛て、いわば「編集」したものであり、いわば大本の経典は二人の共同作業によって形成されたものであった。そのような現世否定の教義は、その反対のもの、すなわちユートピア(水晶の世)および「終末論」を招来せずにはいられまい。事実、大本では「人民、三分の所まで行くぞよ」とほとんどが滅亡するヴィジョンを持っていた。そして、単なる現世否定ではなく、改革(立替え立直し)を熱烈に説いたのが大本の特徴であり、これも弾圧を招く原因となった。大本も他の新宗教同様「病気治し」により信者を増やした側面はあるが、なお自身が「綾部の大本は、病気直しの神ではないぞよ」と述べるように、主眼は飽くまでも「立替え」の方であった。そして、よく大本は軍人やインテリの信者が取りざたされるが、実際の信者の大多数は農民であり、彼らは大本の「立替え」および農本主義的な教え(実際に陸稲普及の活動もしている)にひかれたことも本書では詳述されている。

 なおの死後、王仁三郎は国体のディスクールを駆使しつつ、そこから「はみ出る」ような言説を重ねていき、「大正維新」「昭和維新」の大号令を掛けていく。二度の大弾圧に先行するこれらの言説を、著者は淡々と引用していく。特に二度目の大弾圧を引き寄せた昭和初期の言動に対しては、例えば昭和神聖会(黒龍会の内田良平と組織した国粋主義団体)の結成時の宣言文や「ユダヤ陰謀論」など、後の目から見ても弁護しようもないものも俎上に載せている。これまで王仁三郎に関しては、例えばバハイ教や中国の道院、世界紅卍字会との連携やエスペラント語の学習(これは現在の大本でも継続中)という「国際性」が取り上げられることが多く、それと日本中心主義の奇妙な同居がこれまでも研究者の耳目を集めてきたわけだが(同時代の平塚らいてうも王仁三郎をその両者の混淆として評価していた)、著者はその「一貫性」を取り敢えず棚上げして、王仁三郎の融通無碍さ(大化物性)を描写している。

 著者は昭和初期の大本の教義を比喩的に「天皇親政の翼賛たる顕教」「天皇親政の補弼の密教」「王仁三郎をミロク菩薩・統治者とした秘教」という三つの性格に分類しているが(三七二頁)、実は最後の「秘教」の内実は、政治的な色合いを除けば極めて素朴なもので、なおが述べた「水晶の世」に近いとも指摘する。恐らくこの本質こそ、当時の人々を魅了した教えであったであろうが、それに政治的な色彩がつき「化物の持つリアリティ(戸坂潤)」を惹起してしまったところに大本の悲劇と、今の我々がその歴史をもう一度ひもとく意味があるのであろう。(京都府立大学文学部准教授)

(『図書新聞』2018年2月10日、第3338号掲載)

November 19, 2009

初の単著、刊行

 こちらのブログはご無沙汰しております。久々だというのに、自分の業績の宣伝のようになって恐縮ですが、僕の初の単著が刊行されましたので(奇しくも、今日は僕の誕生日です)、このブログでお知らせいたします。
Syukyo_to_gakuchi  少し大きめの画像を入れ込みましたが、これが表紙です。『植民地朝鮮の宗教と学知―帝国日本の眼差しの構築(リンク先は出版社の紹介ページ)』というタイトルでして、これは僕が4年前に出した博士論文を圧縮して(約三分の二にしました)、単行本化したものです。
 前々から「いずれ出ます」と言ってなかなか出ないので、周りの皆様を多少やきもきさせ、僕自身の評判も「狼少年」として、ちょっぴり下がってしまったかも知れませんが(笑)、とにかく、肩の荷が下りました。
 「一生で一冊くらいは本を出してから死にたい」と高校生の時に思ってからずいぶん経ってしまいましたが、ようやくその願望を叶えることができました。

 多少値の張る物ですし、専門性が高いので、どなた様もどうぞ、とは申し上げられませんが、ご興味のある方は大きな書店でお手にとって頂ければ幸いです。
 以下にいくつかのネット書店にリンクを張っておきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

1)Amazon
2)ジュンク堂
3)紀伊國屋書店Book Web
4)bk1
5)楽天ブックス
6)Livedoor BOOKS

追記:2009年12月13日の読売新聞書評欄にて、拙著が書評されました。評者は京都大学の小倉紀蔵先生。大変好意的な書評をしていただき、恐縮しております。ここに記して感謝申し上げます。ありがとうございました。

Yomiuri_syohyo091213

May 14, 2009

『映画で学ぶ現代宗教』発売!

こちらのブログはご無沙汰しております。
今日は完全に「宣伝(営業)」モードのエントリです。

Eiga_syukyo 今月に、弘文堂から『映画で学ぶ現代宗教』という本が刊行されました。これは國學院大學の井上順孝先生を編者として、僕を含めた宗教研究者が、宗教をモチーフとした映画、宗教の知識があるとより一層鑑賞の際に深みが出るであろう映画を82本選び、ネタバレにならない程度に(といっても、多少のネタバレは仕方ないのですが)解説した、映画ガイドブックです。なお、個々の映画紹介の他に、数本概括的なエッセイも収録されています。

僕自身は、韓国関係の映画を5本紹介しています。アイウエオ順に紹介しますと、(1)親分はイエス様(ヤクザがキリスト教信仰に目覚め、改心していった実話をもとにしたもの)、(2)開闢(韓国の新宗教、東学2代目教主崔時亨を主人公とした映画。林権澤監督)、(3)祝祭(老母の葬式に集う人々の群衆劇。これも林権澤監督)、(4)達磨はなぜ東へ行ったのか(仏教を静謐な映像で切り取った「公案」のような映画。昔、岩波ホールで上映されました)、(5)ハラギャテイ(運命に翻弄される尼僧を主人公とした映画。これまた林権澤監督)、を解説しております。

僕の他の先生方が様々な地域の映画を紹介されているので、映画そのものがお好きな方はもちろん、「映画を講義で活用してやろう」とお考えの大学関係者の皆さんにもお勧めできるものだと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

September 04, 2008

『国家と宗教―宗教から見る近現代日本(上・下)』発売中!

Kokka_syukyo01 皆様、お久しぶりです。

実は、ほぼ一ヶ月前に出た本の宣伝をさせていただきます。法蔵館から『国家と宗教―宗教から見る近現代日本()』という本が現在発売中です。これは、京都仏教会が12回にわたって行った研究会の成果として編まれたもので、不肖僕も論文一本載せております。僕は先輩、後輩、知り合いの中からこのテーマで何か書いていただけそうな方々をお呼びするという、いわばブローカーネゴシエーターのようなことも多少やったこともあり、編集作業も多少お手伝いしました。
既にもう一つのブログでは「出ましたよ」と宣伝していたのですが、先日京都仏教会の方々とお話しした際「やはりもっと宣伝しなければ」という声があがりましたので、及ばずながら、僕のこのブログでもご紹介することにしました。目次は以下の通りです。

目 次
上  巻
発刊のことば     京都仏教会
理事長 有馬 頼底
はじめに 洗 建 田中 滋
総論:法律と宗教     洗 建

第一部.     「国家神道」形成期の葛藤
1.     国家神道の形成     洗 建
2.     近代国家と仏教     末木文美士
3.     神仏分離と文化破壊―修験宗の現代的悲喜     井戸 聡
4.     国家の憲法と宗教団体の憲法―本願寺派寺法・宗制を素材に     平野 武
5.     井上円了と哲学宗―近代日本のユートピア的愛国主義     岡田 正彦
6.     近代日本における政教分離の解釈と受容     小原 克博
7.     国家神道はどのようにして国民生活を形づくつたのか?
    ―明治後期の天皇崇敬・国体思想・神社神道     島薗 進

☆インタビュー:聖護院門跡門主宮城泰年
「国家神道体制下の本山修験宗」

第二部.     国家総動員体制下の宗教
8.     国家総動員体制下の宗教弾圧―第二次大本事件     津城 寛文
9.     植民地期朝鮮における宗教政策―各法令の性格をめぐって     川瀬 貴也
10.    近代日本仏教と中国仏教の間で―「布教使」水野梅暁を中心に     辻村志のぶ
11.    戦時下における仏教者の反戦の不可視性
    ―創価教育学会の事例を通じて     松岡 幹夫
12.     反戦・反ファシズムの仏教社会運動
     ―妹尾義郎と新興仏教青年同盟     大谷 栄一

下  巻
第三部.     戦後新憲法と宗教
13.     戦後新憲法体制と政教分離     洗 建
14.     遺骨収集・戦没地慰霊と仏教者たち
    ―昭和二七、八年の『中外日報』から     西村 明
15.     アメリカ合衆国における信教の自由をめぐる諸問題
    ―日米比校の一助として     藤田 尚則
16.     靖国問題     平野 武

☆インタビュー:日本基督教団牧師千葉宣義
「日本基督教団の戦後の歩みの中で 一人の牧師として」

第四部.     宗教の存在理由への問い―新自由主義経済体制下の「国家と宗教」
17.     宗教法人法改正問題     洗 建
18.     オウム反対の世俗的原理主義―転入届不受理の論拠と感情     芦田 徹郎
19.     地域の安心・国家の治安
    ―オウム問題から見た日本の「コミュニティ・ポリシング」     野中 亮
20.     宗教法人法の改正問題と情報公開
    ―広島高裁判決をめぐって     小池 健治
21.     「宗教関連判例の動向」について     橋口 玲
22.     国家が宗教的情操を語り始めるとき     野田 正彰
23.     憲法第九粂改正論と絶対平和主義     藤田 尚則
24.     意法改正論と政教分班論―憲法二〇条をめぐって     桐ケ谷 章
25.     観光立国「日本」と「宗教」
    ―世界遺産熊野古道の柔らかなナショナリズム     湯川 宗紀
26.     国会において「宗教」はいかに語られてきたか
    ―宗教間題の脱宗教化?     寺田 憲弘
27.     公益法人制度改革と宗教法人     田中 治

☆インタビュー:京都仏教会理事安井攸爾
  「反古都税運動と京都仏教会」

総括:宗教への交錯するまなざし―新自由主義経済体制下の宗教     田中 滋
あとがき     田中 滋

Kokka_syukyo02 非常に多くの方のご協力の下、浩瀚な本ができてしまいました(僕もまだ全部読み切れていません)。宗教学、法学、神学、仏教学、社会学など、様々な分野の論考が一緒になっている、という点でも「お買い得」だと思います。共に\3,675(税込み)です。
日本近現代にご興味のある方や、特に僕と似た分野を研究されている大学関係者の皆さまは、どうぞお買い求め(もしくは大学図書館に入れて)くださいますようお願いいたします。

April 26, 2008

『思想地図』vol.1発売!!

Shisochizu_001_2 こちらのブログはご無沙汰になってしまいましたが、今回は「営業モード」で書かせていただきます。
編者の東浩紀さんも、執筆者の増田聡さん高原基彰さんも既にブログでお書きですが、NHK出版から、思想雑誌『思想地図』の第1号が出ましたので、お知らせいたします(出版社の予定としては、もうちょっと先なのですが、もう色んなところで流通し始めているらしいので、フライング気味に宣伝いたします)。僕も縁あって、一本論文を書かせてもらいました。本は写真をご覧ください(amazonbk1)。

全体がオレンジの、非常に特徴のある本です。多分、書店で平積みされていたら、結構目立つと思います(人文系の新刊コーナーやNHKブックスの並びに置いてあると思います)。
僕は数日前、執筆者として見本をいただいたのですが、思った以上にボリュームがあり、実はまだ全部ちゃんと読み切れていないのですが、僕以外の執筆者の皆さん方は、非常に面白い論考をお書きになっていることは保証しますので、どうぞ本屋で見かけたら、この「オレンジ色の憎いヤツ」(このキャッチコピーを知っている人は、相当年を食っていることでしょう)をお手に取ってください(できればそのままレジに行って、1575円ほどを差し出してくださると、なお嬉しいです)。
では、この号の目次を以下に示します(副題やページ数は省略)。

・創刊に寄せて          東浩紀+北田暁大
・国家・暴力・ナショナリズム      東浩紀+萱野稔人+北田暁大+白井聡+中島岳志
・日本右翼再考     中島岳志
・日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯     高原基彰
・マンガのグローバリゼーション     伊藤剛
・データベース、パクリ、初音ミク     増田聡
・物語の見る夢     福嶋亮大
・中国における日本のサブカルチャーとジェンダー     呉咏梅
・日本論とナショナリズム     東浩紀+萱野稔人+北田暁大
・ブックガイド「日本論」     斎藤哲也
・「まつろわぬもの」としての宗教     川瀬貴也
・〈生への配慮〉が枯渇した社会     芹沢一也
・社会的関係と身体的コミュニケーション     韓東賢
・共和制は可能か?     白田秀彰
・死者への気づき     黒宮一太
・キャラクターが、見ている。     黒瀬陽平

執筆者の一人として言うのも何ですが、素材的にも硬軟が上手い具合に混じっていると思います(これは編集の東・北田両氏のお力によると思いますが)。
あと、特筆すべきは、表紙及び各チャプターの扉のイラストが、僕の尊敬する榎本俊二先生であること。榎本先生と一緒の本に載れただなんて、本当に嬉しいサプライズ。NHK出版編集のOさんも、このことは教えてくださってなかったから、驚きもひとしおです。思わずこの表紙を見た時、「ロールミー、ロールミー」と叫びそうになりました
あと、何と言っても、僕は恥ずかしながら、一般書店でも売っているような本に書かせていただくのって、実は初めてなんですよね(学術雑誌、報告書、学会誌、事典、出版社のPR誌とかにはこれまでも書いてきましたけど)。
もし拙稿のご感想などをコメント及びメールなどでいただければ、幸いです(友人のK池くんからは「やっぱり君のは、S薗(僕の指導教官)チックな論文だねえ」と苦笑されると思いますが・・・)。

December 04, 2007

『宗教学文献事典』発売!

Syukyougaku_bunkenjiten 今回のエントリは、完全な「宣伝活動」です。
弘文堂より、『宗教学文献事典』という事典が刊行されましたので、このブログをご覧になっている奇特な方にお勧め(というか押し売り?)させていただく次第です。
この事典は、その名の通り、宗教学、宗教研究に関する古典、良書を幅広く集め、それぞれの簡便な要約・紹介をしたもので、「読む事典」の一つだといえるでしょう。その数、実に849冊!!僕自身は、四つの項目を書きました。
「あの有名な研究書、どんなことが書いてあるのかなあ、いきなり読むのは骨だしなあ」ということは、我々学者でもよくある話で、そんなとき、このような事典が非常に有用です。どんどん読んでいくと、知らず知らず「物知り」(ただし宗教学方面に限定されますが)になれます。大学院試験対策として利用するのも手かも知れません。なお、原著者や訳者自身による要約が多いのもこの事典の特徴です。
内容の詳細は、弘文堂のホームページ内のここや、アマゾンの紹介をご覧ください。

というわけで、このブログをご覧の―特に研究者の―皆さま、一家に一冊と推薦できない学術書ですが、自分用に一冊、職場(大学・研究機関)に一冊お買い求めくださいますよう、お願い申し上げます。

ただ心配なのは、このブログを読んでくださっている奇特な研究者の方って、大体僕の知り合いで、この事典の執筆者だったりするので、宣伝効果がほとんど無いことなのですが(笑)。

May 20, 2006

「韓流」は何をもたらしたか?

5月20日に大阪市立大学で行われた国際高麗学会のシンポジウムに参加してきました。僕はこの学会、参加するのは初めてでした。
シンポのテーマは「どうなる日韓関係:韓流と嫌韓流、二つの潮流を読む」というもの。パネラーとして、以前からの知り合いの先生方が参加していたので、そのお顔を拝見しに行ったのでした。

シンポジウム「どうなる日韓関係:韓流と嫌韓流、二つの潮流を読む」
コーディネーター 朴 一(大阪市立大学)
第1報告 姜誠(ノンフィクションライター)
第2報告 綛谷智雄(第一福祉大学)
コメンテーター:藤永壯(大阪産業大学)、高吉美(兵庫部落解放人権研究所)

コメンテーターを務められた藤永先生とはもともとの知り合い(僕から見れば、朝鮮近代史研究のの先達です)、綛谷先生とは、ネット上でやりとりをしていたのですが、実際にお会いするのは初めてでした。実は、このシンポは、『まじめな反論 『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ』(コモンズ)という本の出版に合わせたもので、パネラー、コメンテーターの先生方は、この本の執筆者でした。
シンポジウムでは、様々な問題提起がなされましたが、印象深かったのは、以下に挙げる点でした(以下のまとめの文責は僕に帰します)。

Antikenkan まず、姜誠さんの発表とコメントですが、「嫌韓」は、様々な要因が組み合わさっているとの指摘が印象的でした。まず、「嫌韓」と対をなす「韓流」ブームですが、その担い手となった「冬ソナ」支持者の実年女性に対するバッシングというのも、ちょっと前の男性向け雑誌には顕著だったそうです。これなど、racismとsexismの組み合わせといえるでしょう(この話を聞いて、僕は大袈裟かも知れませんが、例えば金子文子や、「日本人妻」の問題を思い出しました)。「嫌韓」の発露は韓国と日本の外交問題(戦後補償問題、靖国問題、従軍慰安婦問題など)や、北朝鮮の拉致問題などが勿論引き金になっていますが、国内的な要因も大きいのでは、という指摘もありました。よく言われることですが、「勝ち組」「負け組」という残忍な二分法で人々を分ける発想など、新自由主義的な社会でのストレスを、叩きやすい「敵」を見つけて晴らす、という一つの運動が「嫌韓流」ではないか、ということです。そして、国外を見ると、911テロやイラク侵攻などへのアメリカの対応を見て、「力が全て」「対話は不可能」という一種のシニシズムが蔓延し、それも「嫌韓」の流れに棹さしているのではないか、という指摘は興味深いものでした。このシニシズムは「営業右翼」と呼ばれる「強い言説(実際きつい調子での論説を載せると、雑誌は売れるそうです)」への傾斜を促していると、僕も思います。
綛谷さんは、「嫌韓」というのは急に湧きあがったものではなく、戦後日本にずっと伏流していた「本音」が形をかえて現れたものではないか、と指摘していました。簡単に言えば「戦前の日本はそれほど悪くなかった」「植民地では良いこともした」というような「本音」です。これは別に新しい考えでもなんでもなく、戦後から一貫して、ある層が保持してきた考えだと僕も思います。そして、良く「嫌韓」的な人が指摘するように、いわゆる「反日」的な作品(小説・ドラマ・マンガ)が韓国で製作されているのは残念ながら事実ですが、それには「反省しない日本」という像(イメージ)が反映しているのではないか、とも指摘されていました。そして、これまた重要なのですが、そのような「頭でっかちのイメージ」で造られた日本像はおかしい、といっている「知日派」の知識人も、韓国にはどんどん出てきているのです。要するに、向こうを一枚岩と捉えて十把一絡げに批判しても、意味がないということです。
あと、司会者を務めていた朴一先生がおっしゃっていたのですが、「韓流」は在日コリアンの上を素通りしていったが、「嫌韓」には巻き込まれてしまったという感が強い、とのコメントも、僕には印象深かったです。確かに、「韓流」は韓国への興味を増大させた(特に今まで韓国に無関心か、漠然と悪感情を持っていた層の興味をかき立てた)という功績は否定できませんが、それが自分の「隣人」たる在日コリアンへの興味などへ向かったか、といえば、やはり疑問とせざるを得ません。でも、「近所づきあい」のレベルでは確実に前進した面も存在することも指摘されましたし、「韓流」のドラマを輸入するときにその「仲立ち」をしたのは在日コリアンの人々でもありました。そういう「プラス」の面も評価するべきだとの声もあり、これにも僕は大きく頷きました。「嫌韓流」という潮流も、無視できないとは思いますが、実際は「韓流」もしくは「知韓」「好韓」(裏返せば韓国側の「知日」「好日」)の傾向が着実に根を張っているのだから、そちらに希望を託したいとのまとめで、今回のシンポは幕を閉じました。

さて、休憩時間や懇親会で、色んな先生と雑談したのですが、実際若い世代は、果たしてどれだけ『マンガ嫌韓流』を読んだり知ったりしているのか、という話題で、ある先生曰く「僕の教えている1年生では、98%は知らなかった」とのこと。僕も、大体そんなものかな、という気がします。ただ、ネットにどっぷり浸かっている層では、その比率が上がるかも、という気はします。ネット上は、自分と意見を同じくする(もしくは敵対する)言説を一気にまとめ読みできるメディアですからね(mixiのレビューでも、噴飯もののがたくさんありました)。
あと、ちょっと気になる傾向として、けっこう「勉強熱心」な学生が、「歴史の真実」というようなあおり文句に惹かれて、『マンガ嫌韓流』のような本を読むのではないか、という指摘がありました(でも「勉強熱心」と言ったって、あのマンガとかを読んで「目が開いた」と言っているレベルですから「もうちょっとお勉強してきてね」としか言えないのですが)。僕自身は、まともに僕に例の本のような意見をぶつけてくる学生には(幸い)当たったことがないのですが、民主党前代表の前原さんの選挙事務所でバイトしていた学生が僕に「(民主党右派的な)改憲論」をぶってきたのには微苦笑させられた、という経験はあります。ともかく、「嫌韓」的な物言いをする学生に「とにかくこれを読んでご覧。読んでから韓国のことを語ってご覧」と手渡せる本が出版されたことは嬉しいことです。
この本がネットにうごめく嫌韓厨の「心」に届くとは、残念ながら考えにくいですが(でも、100人中数名は「転向」してくれないかな、と期待していますが)、この本の執筆者は「俺がやらねば誰がやる」との義侠心で執筆なさったと思います。僕ももちろん、その心意気を支持します。

April 30, 2006

「顕彰」はする、でも「慰め」にはしない

Shimamori 昨日、もと読売新聞記者の田村洋三さんの著書『沖縄の島守―内務官僚かく戦えり』(中央公論新社、2003年)を読みました。これは、戦争末期、沖縄で最後まで奮闘した島田叡(あきら)沖縄県知事と、荒井退造県警部長という二人の「文官」の足跡を、生き残った周りの人々の証言から再構成したもので、非常に感銘を受けました。ちなみに田村さんは、同じく沖縄戦で自決した海軍司令官大田實の伝記も書いています(『沖縄県民斯ク戦ヘリ』講談社)。なお、島田知事に関して一番有名な評論は、島田知事の第三高等学校の後輩であった英文学者で評論家だった中野好夫の「最後の沖縄県知事」でしょう(中野好夫集8『忘れえぬ日本人/人間の死に方』、筑摩書房、1985年)。僕も島田知事についてはこの評伝で知りました。

戦況は絶望的になり、沖縄は本土の「捨て石」とされ、多大な被害と悲惨な記憶を持たされることとなったわけですが、何と言っても聞くのが辛い証言は、戦争末期の日本軍の県民に対する「暴力」です。食料を奪う、住民が避難していたガマ(洞窟)から追い立てる、鳴き声が聞こえるとまずいからと赤ん坊を殺す、というような酸鼻きわまる事件はこれまでも繰り返し語り継がれてきました。
そしてこの書では、そのような「この世の地獄」の中で最後まで冷静さと優しさを失わず、今も沖縄県民に慕われている島田知事と荒井部長が「顕彰」されているわけです。もちろん、僕もこのお二人の人柄に感銘を受け(まさに「noblesse oblige」を地でいくような人たちです)、思わず涙ぐんでしまった口ですが、気をつけなければならないのは、「こういう希有の存在」を内地(ヤマト)の「免罪符」にしてはならない、ということです。内地から派遣された官僚や軍人にも素晴らしい人材がいた、という事実を持ち出して、安易に慰めにはしてはいけないのではないか、と思いました。もっと言えば、こういう素晴らしい人材を犬死にさせた大きな時代状況をやはり「憎む」必要がある、ということです。この書を読んで思ったのは、以上のようなことです。

追記:現在、沖縄戦の生き残りの元軍人が「私は住民に集団自決を命じてなどいない」と、『沖縄ノート』を書いた大江健三郎氏と出版元の岩波書店を名誉毀損で訴えるという裁判を起こしているそうです(この裁判の原告を支援する人びとの顔ぶれを見ると、なるほど、こういう運動か、というのが判りますが・・・)。「命令などしてない」という一点突破を計りたいようですね。ここに書かれているように、「命令」があったかどうかは、問題ではありません。そのような時代背景のもと、どのような「力学」が働いていたかどうかが問題なのです。これは、例えば従軍慰安婦に軍が関与しているかどうか、というのを命令書の有無だけで片付けようとする流れと軌を一にするものといえるでしょう。

February 02, 2006

今は既にない「懐かしい」場所へ―『博士の愛した数式』

のっけからお恥ずかしい話ですが、久しぶりに、小説を読んで(その後映画を見て)、涙を落としてしまいました。それは小川洋子さんの『博士の愛した数式』です。

僕は感激屋のつもりですが、「泣く」ことは滅多にないです。一番びっくりしたのは、自分自身です。何が僕の「泣きツボ」だったのか、それを考えつつ、この文章を書いています(最初に申し上げますが、「すごく泣けます」と皆さんにこの作品を推薦するつもりはありません。僕がたまたま泣けただけで、他の方がどう感じるかは判りません。ただの自己分析です)。

これ以降は、ネタバレを含みますので、小説及び映画を白紙で見たい方は読まないでください。

さて実は、僕、昔けっこう小川洋子さんの熱心な読者だったんですが(芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』のサイン本を買ったほどです。あれは神田の三省堂だったな。端正な字でした)、その「甘い」世界からわざと距離をおくべく、この10年ほどは読んでいませんでした。

しかし、映画化もされたということだし(僕の好きな深津絵里が主演だし)、まあたまにはと思って手に取ってみたら、ぐいぐい読んでしまって、今日のテスト監督中(自分が担当している「宗教学」という講義のテストでした)に読み終えて、そのまま夕方に映画まで見に行ってしまいました。実は、テスト監督中読んでいるとき、目頭が熱くなり、焦りました。学生は気付いていなかったでしょうけど、鼻をすする音くらいは気付いたかな。

小川洋子さんの世界って、いつも何らかの濃密で、内閉的な(でも居心地は良い)一種の「共同体」が崩れた後、「私」がそれを一人称で回顧する、というモチーフが多いと思うのですが、この本も、その例に漏れませんでした。特に今回は数学者という設定が奏功しています。物語の端々で出てくる数式の完全な「美しさ(友愛数や完全数の美しさといったら!!)」は、家政婦である「私」と息子の「ルート」と「博士」の3人で形成される「共同体」をより美しくする効果があったと思います。

ストーリーは他のところでも色々書かれているので、簡単に説明すると、天才的数学者だった「博士」は交通事故の後遺症により、80分しか記憶が保てません。そこに、身の回りの世話をする家政婦として「私」が派遣されます。「私」は幼い息子「ルート(この呼び名は、後に博士が付けた)」と二人暮らし。何故か数学と子供を愛する「博士」は、「ルート」をまっすぐに愛し、3人の奇妙で暖かな生活がぎこちなく始まるが・・・というのが骨子です。

で、何で僕はこの作品に涙したのか、とずっと考えていました。
まずは、博士の「記憶」のはかなさという「道具立て」に参った、というのはあるでしょう。若年性アルツハイマーを扱った『私の頭の中の消しゴム』はヒットしましたし、長期連載のマンガには記憶喪失がつきものです(笑)。普段の生活でも、こっちは覚えているけど、向こうは覚えていない、という体験だって、けっこう哀しいものがあります。しかもこの博士の場合は、同じところをグルグル回るだけです(原作の小説では、その「80分のテープ」すら、最後に壊れていきます)。その博士の苦悩(目の前の事態が飲み込めないこと)が伝わってくるシーンがあり、小説でも映画でも、それは白眉のシーンでした。

もう一つは、先日のエントリで早世した同世代の研究者について触れましたが、この博士も、人生の途中で、志半ばで諦めざるを得なかった境遇です。そこにも、僕なども研究者の端くれですし、ついつい感情移入してしまった可能性があります。

そして最後に考えついたのは、この小説(映画もほぼ原作を忠実になぞっているので同じです)、この物語の登場人物が、全て互いをいたわり合っていることを、そしてその関係がいずれ失われていくことも含めて、とても切なく感じたのだと思います(一人称の回顧は、回顧すべきものが既に失われていることを最初から示唆しています)。3人の世界は、あまりにも美しいから。

映画では、深津ちゃんが良いのは当然として(ファンの贔屓目)、やはり博士役の寺尾聰さんが素晴らしいですね。

人によっては物足りない、という人もいるでしょうが、僕はこの小説の終わり方が好きです(映画の方が少しドラマティックに作っています)。

というわけで、久々に読んだ小川洋子さんですが、やっぱうまいです。帰り道で、その書店にある彼女の文庫を全部買ってしまいました・・・(昔読んだものは買いませんでしたが)。この『博士の愛した数式』は、恐らく読み返すこととなるでしょう。

追記:映画の中で「あれ、あれは小川先生では?」と思ったら、やはりそうでした。ある場面でカメオ出演なさっています。僕は小川先生の目の前にいた高村薫似の女性に気を取られていて、思わず見落とすところでした。